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王太子の婚約者であった巫女、侯爵家の長女メディが追放されて一ヶ月が経った。
国境の森で悪霊か獣に食い殺されてしまったのだと、だれもが思っていた。
彼女がいなくなってから、スィンヴォレオ王国では王都を中心に奇妙な現象が起こっていた。
人間が突然に亡くなるのだ。急激に霊力を失い、倒れて死ぬ。
人々はそれを追放された侯爵令嬢の呪いだと噂した。
「ディアヴォロス様、落ち着いてください」
「うるさい、これが落ち着いていられるかっ!」
「あっ……」
「……すまない」
王太子ディアヴォロスは新しい婚約者、かつての婚約者の妹である侯爵家の次女ポルニに手を差し伸べた。
神殿の中を走っていた自分を止めてくれたのに、その手を振りほどいて転ばせてしまったからだ。
彼の手を取って立ち上がり、新しい婚約者は微笑んだ。
「お心が騒ぐのも無理はありませんわ。多くの民が亡くなっているのに、原因もわからないのですもの。ご安心くださいませ。私が神様にお聞きいたします」
本来神を呼び出す日は決まっている。
神ともあろうものが暇なわけはないし、人間の都合で呼び出すのも不敬だからだ。
しかし今回はどうしようもない。死んでいく人間は日に日に増えていっている。渋っていた神殿も、王家の請願を受け入れざるを得なかった。
「それにしても……お姉様の呪いだとしたら、なんと恐ろしい。あんな方が私の姉だなんてゾッとしますわ」
ポルニは眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。
それから小動物のように体を縮めて、上目遣いで婚約者を見上げる。
彼女が望んでいる言葉をディアヴォロスは口にした。
「気に病むな。そなたのせいではない」
「ありがとうございます、ディアヴォロス様」
ディアヴォロスは、抱き着いてきた婚約者の柔らかな肢体を抱き締めた。
前の婚約者、彼女の姉メディの体は骨と皮しかなかった。
そんな骸骨のような体で、彼女は苦しい修行を続けていた。五歳のときから神殿に閉じ込められて、婚約者である王太子の見舞い以外で外に出ることはなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
神殿の最奥部に着いたふたりは、神官達を部屋から出して扉を閉めた。
普段の儀式なら神官も同席するが、今回は約束された日ではない。
国民に対して責任を持つ王太子ディアヴォロスと神に愛された巫女であるその婚約者以外の人間は、神の怒りを恐れて立ち合いを拒んだのだ。国王夫妻もだ。もしディアヴォロスが神の怒りを受けて亡くなったときは、第二王子が跡を継ぐ予定になっている。
聖なる香を焚き、巫女ポルニが祈りを捧げる。
彼女の姉メディが祈ったときよりも、遥かに鮮明ではっきりした姿の神が現れた。
ディアヴォロスが神に言う。
「なにをしている。この国を守護する代償は巫女の霊力だろう。どうして民から霊力を食らう。食うならこの女の霊力だろう?」
「……ディアヴォロス様……?」
彼の隣に立つポルニの顔が青ざめた。
彼女はそれを知らなかったのだ。
この国の巫女が神と呼ばれる悪霊への生贄だということは、侯爵家の姉妹以外のすべての国民が知っていた。スィンヴォレオ王国は、悪霊に巫女を捧げることで繁栄していたのだ。
口角を上げて悪霊が笑う。
『その子には食らうほどの霊力はないよ。市井の民と同じ、ひと口食らえば死んでしまう。……ああ、いなくなった前の巫女ならば、後十年は私を賄えただろうけどねえ』
ディアヴォロスは口元を歪めた。
眉を吊り上げて、悪霊に問う。
「ならば、なぜ追放しろなどと言ったのだ」
『私が望んだことではないよ』
「どういうことだ」
悪霊の口角がさらに上がった。
普通の生き物なら、口が裂けている状態だ。
『前の巫女を追放しろと言ったのは、その子。私の愛しいポルニだよ。ポルニは姉を追い出して、自分が巫女になりたかったのさ。だから私は、前の悪霊を倒して成り代わってやったんだ。私はサタナス。お前らの新しい神だよ』
「なに……?」
王太子ディアヴォロスは、婚約者である新しい巫女ポルニを見た。
彼女は真っ青になって脂汗を流し、ぶるぶると震えている。
ディアヴォロスは視線を戻し、悪霊サタナスに尋ねた。
「前の神以外の悪霊はこの国に入れないはずだ」
『その子の両親は、前の巫女に会うため神殿に入る特別な護符を持っていただろう? 同じ悪霊が張った結界なんだから、神殿の結界も国の結界も基本は同じさ。その子は両親の護符を持ち出して、国境近くで私を引き入れてくれたんだよ』
「あ、あなたは神だって言ったわ。この国の神よりも強い神だって」
『嘘じゃないさ。私はもう神で、前の悪霊よりも強いよ』
ディアヴォロスは、自分の婚約者を睨みつけた。
「悪霊は嘘をつき、人を惑わし食らうんだ」
悪霊だけではない。人間も嘘をつく。
スィンヴォレオ王国の国民は、一丸となって巫女を騙してきた。
王太子の婚約者と言うのは形だけ、歴代の巫女達は神殿に閉じ込められて悪霊に霊力を食われ続けて死んでいった。王太子達は巫女の死を見届けてから即位して、別の女と結ばれるのだ。建国王以外の王妃が巫女だったことはない。巫女以外の人間は、みんなそれを知っている。
「新しい悪霊ならそれでもいい。強い霊力を持つ新しい巫女を連れてきてやる。民を食らうな!……いや、民であっても犯罪者なら捧げてやってもいいぞ?」
『嫌だね。私は好きなときに好きな人間を食らうよ。だって私は神なんだもの。それに、私はその子の霊力は食らわないんだ。約束したからね。王太子だったっけ? お前の霊力も食らわないと約束したよ』
「ほう……」
この女なりに自分を愛しているのかとディアヴォロスが思ったとき、サタナスは言った。
『王太子が健康な体で寿命を全うできるようにと願ったのは、前の巫女だよ。なんとも健気な娘じゃないか。あの子は霊力が強かったからねえ。願いを受け入れなければ霊力を食えなかったのさ。あの子の霊力を食らえなかったら、さすがの私も前の悪霊を倒せなかったなあ』