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僕の婚約者として紹介されたセシリア・エトフォーフト侯爵令嬢は、今年十九歳の長い金髪で可愛らしい顔立ちの女性で、社交界でも「月の天使」と言われていた娘だった。常に微笑みを絶やさずに上品な振る舞い、なるほど「天使」と称されてもおかしくはない。
反して僕は同じ侯爵家出身でも末子、不愛想だし比較的無口でつまらない男だ。学問はよくできたので王立の研究所に所属しているが、研究内容が毒物やら病気に関することばかり。
それに加え僕の髪と目は闇のように真っ黒だったので、ついた通り名が「堕天使ミハエル」。僕の名前が大天使ミハエルと同じものだから、「堕天使」とは分かりやすい皮肉と言うべきか、安直すぎると笑うべきか迷うが。
いや、「堕天使」はある意味僕にぴったりだ。僕は表の仕事は研究者となっているが、裏の顔は暗殺者…とまでは言い過ぎかもしれないが、なかなか悪いことをしてのけている。
僕の事をボンクラとか昼行燈だとか言っている人たちは、僕が裏でそのような事に手を染めているなんて微塵も思わないだろう。殺せと命令されれば毒で殺すし、死体を処理しろと言われたら、実験体が手に入ったと喜んで死体を解体し利用する。こんな僕と結婚をしなくてはならない令嬢には同情するが、これも命令されれば仕方ない。
実のところ、僕は「裏」の仕事が嫌いではない。悪い事をしていると分かっていても、危険が伴う仕事はワクワクしてしまうのだ。いつから僕はこんな人間になってしまったのか…それは覚えていないが、気づけばこれが僕という人間だから仕方がないだろう。
ただ一つだけ強く言わせてもらうならば、僕が手を下すように命令された奴らは、スパイ・横領・人身売買・麻薬密売など必ず悪の所業に手を染めていた者たちだ。間違っても、善良な民を殺す狂った殺人鬼ではないと強調させて頂く。
さてさて話を戻して。
僕とセシリアの初対面は彼女の屋敷にて行われた。僕がいずれ婿としてエトフォーフト侯爵家に入るからだ。
セシリアは上品にドレスを持ち上げ、優雅に腰を落として僕を見た。
「ミハエル・ベーレンズ様、セシリア・エフォーフトです。どうぞよろしくお願いいたします」
穏やかに微笑んだセシリアの第一印象は「噂通り」だった。天使のように可愛いというのも、愛らしい笑顔も、誰しも憧れる令嬢という点も。どれも噂通りの人だなと思ったものだった。
だからと言って特別興味を抱いたかと言われたらそうでもない。そりゃあ結婚相手となれば可愛い女性の方がいいという男が大多数だろうが、生憎、僕は女性の容姿にはさほど興味を持たないし、むしろ普通の令嬢と話をしていると退屈だとか思ってしまう奴だ。ま…危険なことに喜んで足を突っ込む僕だから仕方がないことだ。
「ミハエル様はいずれエトフォーフト侯爵家にいらっしゃるのですから!いつでも遊びにいらして下さいね。お待ちしております」
セシリアは可愛らしい顔で僕にそう言ったが、僕にとってはセシリアの相手をするより研究所で毒物や病気の研究をするほうが有意義で楽しい時間だった。いずれエトフォーフト侯爵家に婿として入るが、それまでは自分の好きなことに思いきり没頭したいという願望があった。
あまり大切にしていなかった自覚はある。セシリアは僕の言うことに従順すぎて、「月の天使」と呼ばれる故の美しい振る舞いや微笑みを絶やすことはない。世間的にはそれは素晴らしいことなのだろうが、いかんせん僕には退屈すぎた。そう、最初の頃はセシリアと一緒にいても面白くなかった。
そしてそのせいでセシリアを寂しがらせているのも分かっていた。
「ミハエル様は…、私のことがお嫌いですか?私は…ミハエル様を想っていますのに…」
ある日のこと、セシリアが悲しそうにそう言ってきた時は流石に返す言葉に詰まる。
彼女のことを別に嫌いではないが、家同士が決めた結婚相手にそこまで興味を抱けなかったというだけだ。セシリアも僕のことを好いているわけではないだろうし、侯爵夫妻として必要最低限の関係を築き上げていくだろうと思っていたが、セシリアの今の発言はまるで僕のことを本当に好きだと言わんばかりのものだった。
「ご縁があって私たちは婚約致しました。だから…私はミハエル様の事を理解したいですし、好きにもなりたいと思っております。そして良い夫婦になり、よい家族になりたいと願っております。それはいけませんか…?」
「いや…いけない…と言うことはないが…」
不安そうに顔を伏せたセシリアに、僕は少しだけ慌てた。
そこで思い出したことがあった。セシリアは随分前にクリス・ボーヌセマ公爵と婚約をしていたことを。
クリス・ボーヌセマ公爵はセシリアが十六歳の時の婚約者だ。当時二十歳のクリスは社交界で一番人気の男性で、とても綺麗な顔立ちと優雅な物腰で多くの女性を虜にしていたと聞いている。セシリアとクリスは美男美女カップルとして有名だった。
しかしクリスはある日その姿を消した。セシリアの屋敷の、クリスが使用していた部屋には血だらけの服があり、そして普段は閉ざされた窓が全開されていたことから、セシリアの家か、それともクリスの方の家に恨みのある者が何かしたのではないかとされた。結局、クリスはとうとう帰って来ることはなく、セシリアと婚約の話もなかったことになったのだ。
クリスは今生きているのか、それともどこかで死んでしまったのか。未だに社交界の話題であり、元婚約者だったセシリアも噂のネタにされていたのを記憶している。
そんな中で決まった僕との婚約話だ。セシリアが色々と不安に思うのは当たり前だろう。
「にわかには信じがたいのですが、あなたは僕に恋をしていると言うのですか?」
「……いけませんか…?婚約者に好意を抱くのはそれほどまでにおかしいことでしょうか?」
「…僕とあなたは出会って間もないと思うのですが…」
「…恋に落ちるのに、時間は必要ありませんわ」
どうも面食らってしまう。きっとこの人は寂しいのだろうと思う。心から好いていた婚約者が何か事件に巻き込まれ、そして帰ってこないという現状に。僕という婚約者をその寂しさを埋める代用にしているのではないかという考えを持ってしまう。
「…ミハエル様、私を…私とのことを、どうか真剣に考えて下さいませんか?お願いいたします」
一つ予想外だったのは、セシリアは意外にも恋に積極的な女性だったということだ。気安く僕の体に触れてくるし、近くで話をすることも厭わない。確かにその仕草も表情も声色も男心をくすぐるには十分のものだろうが、僕は少し胡散臭さを感じていたわけで。
「…セシリア、僕たちはまだ知り合ったばかりです。ですから、もう少しゆっくり歩みませんか?」
苦笑しつつ伝えると、セシリアはハッとして顔を伏せた。どこか無理でもしていたのか、顔を赤くしてこくりと頷く。その姿は幼さを感じるも、普段の姿よりもこっちの方が可愛いじゃないかなんて思ったりした。
「ミハエル様もご存じだと思いますが…。私と、前の婚約者の…」
「……クリス・ボーヌセマ様のことですね」
「……はい」
セシリアは暗い顔で頷いた。その話を彼女から出されるとは思っていなかったので内心驚いたのだがね。
「私は…クリスの事を…愛していました」
僕は無言で先を促す。
「クリス様がいなくなってしまってから、私は本当に悲しくて寂しくて…耐えられなかった。帰ってこないと分かっていても、心が苦しくて…。だから…」
「……だから、僕を好きになればその寂しさを埋められると思ったということですか?」
申し訳なさそうな顔をしたが、大方予想通りだ。その位分かっていた。第一「堕天使ミハエル」と呼ばれる僕には女性から好意を寄せられるところは存在しない。ましてや毒物や病気の事を研究している男など、女性からしたら気味悪いに違いない。
セシリアは困り顔で私を見ていて、ごめんなさいと小さく呟いた。やはり普段の姿よりもどこか幼く感じ、僕としてはこちらのセシリアの方が魅力的に思えてしまった。
末子とは言え、貴族に生まれたからにはある程度用意された人生を歩んでいくということは理解していた。が、それだとあまりに退屈すぎる。
家を継ぐ兄以外の兄弟たちは皆独立をしている。騎士団に入って一騎士として生活をしている兄もいれば、平民の娘と結婚をして貴族から離れた兄もいる。僕の場合、幸いにもエフォーフト侯爵家の令嬢ーつまりセシリアーと歳も近いということで、ぜひ婿にと話があったからセシリアと婚約をした。
他の兄弟と比べたら、なんて贅沢で楽な道を用意してくれたんだろうと思う。その点は感謝しておくべきだが、非の打ちどころのない綺麗なご令嬢と結婚をして、貴族として生きていくことになることを考えると少し憂鬱になる。
いや、憂鬱とは違う。普通すぎてつまらないという感情だ。こういうところが僕の駄目なところであり、わがままな点なのだろうなあ。何か、非日常のことが起こればいいのになんていつも考えている。「裏」の仕事を請け負う人間は僕くらい変人で、変なところが前向きではないと務まらない。
そう感じながらセシリアと接していたわけであるが、彼女は僕が想像するよりも大きな闇を抱えていそうだと感じたのはつい先日の会話の時からだ。クリス・ボーヌセマの事を未だに愛していて、しかし帰ってこない彼を待っているなんて健気と言うかなんというか。
しかしその話をするとき、僕が多少胡散臭いと感じていた表情もなく、また普段は冷静で優雅な物腰のくせに、そわそわと落ち着きがない動きをしていたセシリアの方が人間味溢れていてとてもいいと感じた。
(‘月の天使’だなんて言われているけれど、天使なんてつまらない人形も同然だし。くるくる表情を変えて感情を露にするセシリアの方が可愛いや)
「夫の言うことに何でも従います」という妻より、夫の予想していないことをやらかす妻の方がスリルあっていいだろう。きっとそっちの方が面白いに違いない。セシリアにそれを求めるのは酷だということは分かっているけれど、僕と一緒にいるときは、「月の天使」などと言われている振る舞いは止めてほしい。
しかしそういった会話をしたのが良かったのか、セシリアと僕は以前よりも気楽に接することができるようになった。
自分でも思うが、僕は研究第一で女性に気遣いができるような奴ではない。無口だし不愛想だし、セシリアと会っても、セシリアがほとんどしゃべっているという状態だ。しかし彼女に不安定さは感じられないから、良い関係性を築いていけているのだろうと思っていた。
「ミハエル様は、気取った関係がお嫌いということですね?」
「…………そうなのかな?」
「はい、お話を聞いているとそういうことかと思いましたけれど」
「……まあそうかもしれない。僕は綺麗に着飾って社交界に出ることはあまり好きじゃないからな…。人間なんて皆もっと腹黒いものだ。それを隠してヘラヘラ笑うから」
「…でもそれが貴族として必要なことなのでは」
「もちろん、エフォーフト侯爵家に婿入りしたらちゃんと貴族としての仕事はする。けれど退屈なだけだ」
「…困った人ですね」
苦笑しながら僕の横に座ったセシリアは静かに口を開いた。
「でも…確かにそうですわね。人は、表と裏では考えている事が違いますもの。表ばかりの世界で生きていると、裏があることを忘れてしまいますわ。そして裏を知った時に絶望してしまいますね…」
「…僕は裏ばかり足を突っ込んでいるから、絶望とかその感情は分からないけれど」
ぽつりと呟いた僕の台詞をセシリアは聞き取れなかったようできょとんとしていた。聞かせるつもりもなかったので笑って誤魔化しておいたが。
「裏も表もあるから人間は面白いんだよ。どちらか一方だけなんてものは存在しないし、片方だけなんてつまらない。ま…これは僕の自論だけれど」
「……はい」
「君は社交界で‘月の天使’なんて呼ばれているけれど、僕にとっては取り乱したセシリアの方が魅力的に感じたよ。君はそっちの方がいいよ」
「……っ!そ、そんなことを言われたのは初めてですわ…!」
「まあ僕が変わっているってことは知っている」
「…変わっていると言いますか…。ミハエル様は何というか、深いですよね。私に見せていない事とかまだまだありそうだと感じています」
「…まあ否定はしない」
「…いずれ見せてくれる時を、楽しみにしています」
それはどうだか。そんな時が来るとは思わず、その時は何も言わずに笑っておくだけにしておいた。
ある日、セシリアと彼女の領地にある別荘に行ったときのことだ。
太陽の日差しが眩しい季節になり、遠出をするには絶好の日だったが、僕は元々外に出ることが好きではなく、屋敷で本でも読んでいようと計画していた。が、あっさりとセシリアに言われ外に連れ出されたのだ。
馬を二頭用意され、僕たちは丘を駆けていく。すると途中で見事な花畑が広がっていた。
辺り一面を黄色で染め上げた花は本当に見事で圧巻だった。思わず馬を止めて花を眺めていたら、馬を走らせていたセシリアが戻ってくる。
「……すごいでしょう?この場所が気に入りました…?」
「……はい。これは見事だ」
その黄色い花は使いようによっては薬にも毒にもなる植物で、研究者たちの間では有名だ。けれども大きな花と長い茎を持つせいで、自宅での栽培が非常に手間のかかるものとなっている。だというのに、この辺りにある花はどれも大きくて綺麗だった。自然の力とは本当に恐れ入る。
しばらくぼうっと眺めていたが、セシリアはあまりこの場所が好きではないのか、早く行こうと急かしてきた。僕たちの目的はこのずっと先にある丘の頂上からの眺めだったから、確かにこの場所に留まることはない。それでもしばしその場から動けなかった。
(……あれ…?あそこは……)
ふと、花畑の一部におかしな点を見つけてしまった。黄色の花の中に存在する、その一点の違和感。
しかしセシリアは少し先に進んで行ってしまっているし、声をかけそびれてしまった。まあ、後で確認すればいいやと、その時は無視をしたのだ。
僕は研究所で毒物と病気を研究する者だ。だからこそ気になったらとことん、解決するまで突き詰める奴だった。
セシリアに内緒で数日後、再び僕はその花畑を訪れて、自分の疑問を解消すべく行動を起こしたのだが……。さすがに「それ」を見つけたときは、頭の中が一瞬だけ真っ白になるくらいには驚いたさ。