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俺の婚約者はとんでもなく厄介な女だった。
幼少期に、城で偶然鉢合わせた外交官が連れていた少女は俺の外見にひと目惚れし、強引に婚約を結んだ。
父である国王がその外交官と親しかったこと、少女の母の祖父が元宰相であったこともあり、政略結婚でもあった。
成長した少女はそれに比例して厄介さも成長し、勝手に俺を愛称で呼び、俺にも愛称で呼ぶことを強要した。仕方なく応じてやれば今度は贈り物。高価な物を強請り、それを叶えなければ酷い癇癪を起こした。
一瞬でも他の女といれば醜い嫉妬を露わにしてすぐさま排除し俺を責める。
全くもって厄介で面倒な女だ。
それでも王子という仮面を被って文句も言わず付き合っていた。
ある舞踏会でパートナーとして参加した際、女に強請られて疲れているのに3曲目まで踊った。
うっとりとした恍惚の表情で見つめてくる女に吐き気を我慢しながら踊っていたとき、
ーー異変は起こった。
「……?」
突然、女が動きを止めたのだ。
また何か気に入らないことでもあったのかと内心げんなりしながらも思い、見下ろして、固まった。
さっきまであれほど熱視線を送っていた翡翠の瞳が一瞬、空虚な色を見せたからだ。
それはこの上なく無機質な光だった。
「……ロッティ?」
強要されていた愛称で呼び掛ける。
我に返ったのか、視線がかち合ったその瞳はすぐに困惑したものになり、握り合った手に視線をやると、
ーーその手を振り払った。
よろよろと後退る女に当惑し、振り払われた手が行き場を失う。
明らかな拒絶だった。
今まで苛烈に求められることばかりで拒まれたことはなかった所為か、信じられなかった。
女は毒々しい真っ赤なドレスの裾を持ち上げたりして、何かを確認していた。
「どうされたんです?ロッティ」
普段なら極力呼ばないようにしている愛称で再び呼び掛けるが、女は茫然とした表情で周囲を見渡し、静かに青ざめた。
「ーーここ、どこなん…?」
それは初めて耳にした、クラウディア・コーラルの頼りなげな声だった。
ーークラウディアが可笑しくなったのはそれからだ。
彼女の父である外交官から聞いた話では、あれから別人になったかのように礼儀正しく大人しい性格になったという。
あれほど我儘ばかりだったクラウディアが何も言わなくなり、心配になって「何か欲しいものはあるか」と聞けば「とんでもない」と遠慮するようになったらしい。
しかも、派手で美しいものが大好きな彼女が大層気に入っていたドレスや靴、アクセサリー、そして部屋の家具を躊躇なく売り払い、今はシンプルなものしかないのだとか。
クラウディアがそうまで変わったのはたまたま出会った旅人が原因らしいが俺には信じ難かった。
まず俺の知るクラウディアは自分より地位の低い者を嫌う。軽蔑の目を隠そうともしなかった彼女が、旅人に興味を示し、ましてや言葉を交わすとは思えなかった。
それに、クラウディアに変化があったのはあの舞踏会の真っ最中だ。旅人と出会って心を入れ替えたなら、少なくとも舞踏会の前には変わっていたはずだ。
しかしあの時、彼女は自分のいる場所に困惑していたようだった。
ーークラウディアは嘘をついている。
真実を突き止める為に俺は行動を起こすことにした。
「ロッティ、君の好きな赤い薔薇を用意しました。受け取っていただけますか?」
クラウディアの部屋で、いつもの甘ったるい笑みで、ぎこちない表情の彼女に薔薇の花束を差し出す。
クラウディアは赤い薔薇を好いている。だが、つい最近に薔薇を贈ったばかりで、そのときのクラウディアは嬉々として花瓶に挿していた。
その花瓶は今、この部屋にはない。
「…ありがとうございます」
引き攣った顔でそう言ったクラウディアに俺はそっと目を細めた。
以前のクラウディアならこんな反応はしない。しかもクラウディアに強請られて用意していた今回の贈り物は薔薇の花束ではないし、自分の希望とは違う贈り物を受け取ったりしない。
やはり彼女は何かを隠している。
そう思った矢先に、彼女の口から飛び出した言葉に愕然とした。
贈り物と愛称で呼ぶことをやめてほしい。
自分が強請ってきたくせに何を言ってるんだと思ったが、前まで部屋に飾られていたはずの俺が贈った絵画がなくなっていることに気づいた。
必要ないと思ったから、と。
胸の中に、得体の知れない感情が巣くい始めた。
今まで、クラウディアにも誰にも抱いたことのないもので、自分でも分からなかった。
ーー転機が訪れたのはすぐだった。
子爵家の令嬢アリア・フォスフォールがクラウディアから陰湿な嫌がらせを受けている。
そんな噂が王室の耳に入ったのだ。それを裏付ける証拠は大量に見つかった。
それを受けて、国王はクラウディアは次期国王の妻に相応しくないと判断し、婚約破棄するように言った。
「クラウディア・コーラル、あなたとの婚約を破棄する」
そう告げられたクラウディアは達観しているように見えた。横にいる彼女の父は倒れそうだったが。
だからかもしれない。
「私はこのアリア・フォスフォールと新たに婚約します」
え、とアリアの口から溢れたのが分かった。国王や側近たちが驚いているのも感じた。
俺も予定していなかったことを口走ったと後悔した。
ただ、試したかった。
クラウディアがどんな表情をするか。
〝正体〟を見せるのではないか、と。
だが、あっさりと婚約破棄を受け入れたクラウディアは父に促され王室を去った。
彼女は何も明かさなかった。
ーー2年ほど経って、俺と子爵家の令嬢は結婚した。
妻になった令嬢に関心は無く、女もそれを感じているのか夫婦仲は早くも冷え切っていた。
そんなある日、とんでもない噂を耳にした。
「クラウディア・コーラルが修道院にいる」
クラウディアは1年の謹慎処分を食らっただけのはずだった。
その噂が信じられず、すぐさま彼女の父を問い詰めると気まずそうに真実を打ち明けた。
曰く、彼女はあの舞踏会の日から俺との婚約を破棄し、修道女になりたいと訴えていたらしい。外交官は可愛い娘の頼みでも修道女は…と渋っていたが、あの日に婚約破棄が決まったことで決断したという。
ーー目の前にあるのは国の辺境の地にある小さな修道院。
ここにクラウディアがいる。
音もなく開いた扉の先、人気の消えた冷たいその空間に、彼女はいた。
目を閉じて祈りを捧げていた彼女が気配に気づき、振り返る。上品なブリュネットの髪はウィンプルに隠されている。
かつて厄介でしかなかったクラウディアが俺を見つめた。
綺麗な翡翠の瞳で。
あの、無機質な色で。
「ロッティ」
懐かしい愛称を口にした瞬間、彼女の身体が白く光り出した。
異変に声を上げる間もなく、彼女は白い光の粒となっていく。
唖然と立ち尽くしていた身体がやっと動いたとき、無機質な彼女は消えた。
伸ばした手の向こうで、ただ俺を見上げる顔が見えていたはずなのに。
ーークラウディア・コーラルはこの世界から消えた。




