第9話:トルコ料理の平穏
第9話
首都一番の繁華街であるブトヘを後にした俺たちだったが、電器街のキーファには10分ほどで到着した。同じ首都の市内のことなので車ならどこに行くにもせいぜい30分ほどだ。
この首都はエリアで言えば東京や大阪よりもうんと小さいのだ。首都ではあるが人口は100万もない。国全体の人口が1000万とかなのだから当然そうなる。
小さな首都ながらも金持ちの国なので高層ビルの数は多い。とは言っても、30階建以上の高層ビルはない。ただし、首都の中心に位置する電波塔だけは200メートルほどの高さがある。だから、市内なら、どこからでも目印になる。
砂漠のど真ん中にある首都なので昼間は砂埃で街路樹の葉の色が冴えない。しかし、夜の帳が下りると、精彩さを欠く色たちが夜の暗さでマスクされて、代わりにイルミネーションがきらめくので昼間とは印象が一変する。
夜の印象は一言で言えば、むしろ楽しげでありソーシャルと言える。なにせ金持ちの国なので建物も豪華な造りだし飾り付けもリッチだ。
この国の市民は日光の強い昼間に行動する事を嫌うので宵っ張りだ。だから、もう夜の8時なのに「夜はこれから」という雰囲気だ。ただし、現地人にとっての冬はその夜が冷えるので夏ほど遅くまでは街にいない。
昼は宗教警察のパトカーが目立つのに何故だか夜はあまり見かけない。ちなみに、日没のサラーが終わると、5回あるその日のサラーは全て終わりで、祈りの時間は翌日の夜明け前までない。だから、宗教警察の警官たちは夕食でもとっているのだろうか?
昼には、サラーの時間に突っ立っていたからと「ひでえ目」に遭った俺だが、今は、サブラたちと一緒にいることもあり、ややくつろいだ気分だ。
しかし、7時を回ってから辺りが急に冷えてきた。
とは言え、亜熱帯の国のこと、日本人の俺にとっては晩秋の夜くらいにしか寒さを感じない。
しかし、
「おー寒っ! ミランダ、大丈夫か?」
サブラにとっては十分に寒いらしい。まあ、サブラはレバノン人なので日本人が感じるよりも低い気温に思えるのだろう。だから、サブラは、常夏の国から出稼ぎに来ているフィリピン人看護師のミランダのことを気遣った。
「確かに寒いわね。ねえ、カリール、私たちサトウキビジュースしか飲んでいないし、寒いし、お腹が減ったから、何か温かいものを食べたいわ」
このキーファという街は、いわゆる電器街だ。しかし、東京の秋葉原や大阪の日本橋のように量販店がわんさかとあるわけではなく、個人商店の電器屋が同じ通りに数十軒とかあるだけだ。
むしろ、電器屋以外の店屋が多く、だから、レストランもカフェも洋品店も化粧品販売店も十分にある。他にも、レッサーパンダというローカルチェーン店のスーパーマーケットやフランスのユーロマルシェというハイパーマーケットもある。
そのように、一番の繁華街ではないが、キーファという街もなかなかに賑やかだ。
ただし、もちろん、酒を売っている店など1軒もない。禁酒の国にあるわけがない。
さて、ミランダに「何か温かいものを食べたい」と言われたサブラだが予め考えておいたことがあるのだった。
「そうだね、寒いから温かいものがいいね。そこでだけど、トルコ料理なんかどうだい? なあ、畑中さんも食べてみたいだろ。昨日、スジャーに騙されて食べ損なっただろ」
そう、昨日、俺は農工省のスジャーに「トルコ料理を食べようよ」と誘われたのにまんまと騙され、代わりに残酷な公開処刑を見せられて、トルコ料理を食べ損なっていたのだった。
だから、
「うん、確かに食べ損なったから食べてみたいね。トルコ料理って美味いのか?」
「ああ、ダイエット中でも止まらないくらいに美味いよ。俺が保証するから大丈夫さ。な、だから、ミランダもそれでいいだろ?」
「うん、私もトルコ料理は食べたことがないから一度食べてみたいわね、だからOKよ」
「じゃあ、決まりだね。すぐそこさ、ほら、あの店だよ」
サブラが指差す先を見ると、そこには間口が4メートルほどのあまり大きくはないが客で混み合うレストランがあった。店に入りきらないのか、冷えてきたというのに外の席で食べる客もいる。
どうやら、人気店のようだ。
だから、俺は、すぐさま賛成した。
「お、いいね、あの店、満席だものね。あれならきっと美味いだろうね」
「そうれはそうさ。何度も来ているから知っているのだよ。じゃあ、さっさと行こうぜ、もうすぐ食べ終わりそうな客もいるしさ、今なら、なんとか入れそうだよ」
その店のドアのところまで来てみると、サブラが言った通り、四人組の客が席を立つところだった。だから、サブラは、ミランダと俺にウィンクを送ってきた。
「な、席が空きそうだろ」
やはり、その客たちはすぐに席を立ち、俺たち3人は、少し待って、店員がテーブルの上を片付けたところで、そのテーブルの席に着いた。
ほどなくして店員が注文を取りに来てくれたので、サブラが要領よく注文を通してくれた。
ただし、俺とミランダの好みを聞くこともなく。
「あ、俺ったら、勝手に頼んじゃったよ、良かったのかな?」
そんなもの、もう頼んでしまったのだから是非もない。だから、俺は、
「どうせトルコ料理のことなんて何も知らないのだから、俺はそれでいいよ。それで、ミランダは?」
「私も同じよ。トルコ料理は初めてなのだから注文しようがないもの。それで、どのような料理を注文したの?」
「羊肉と野菜をしっかりと煮込んだ料理だよ。その料理のスープがとんでもなく美味くてね。ライスも付くから、お腹いっぱいになるよ」
「腹いっぱいになる」と言われて、やや肉付きの良い若い娘であるミランダは、難色を示した。
「え、今、私、ダイエット中なのよ、大丈夫かな?」
実は、この俺も、身長が172センチなのに体重が76キロもある。つまり、俺はちょっとしたポッチャリ君なのだ。だから、砂漠の国に駐在するついでに痩せようと思っているわけだが、
「あ、俺もダイエット中なのだよ。その腹なら、カリールもだろ」
そうなのだ、サブラの身長は俺とほぼ同じなのだが、その腹はと言えば立派な太鼓腹だ。むしろ、俺とミランダよりもダイエットが必要なはずだ。
しかし、
「俺は大丈夫だよ。時間があるときには、いつも仲間とテニスをたっぷりとしているからね」
「それで、その腹かよ」
「これから引き締まるのさ、テニスを始めてまだ1ヶ月だからね」
「どうだか」
「けど、どの道、今日は、食べる量を控えることなど諦めることだね。美味すぎて絶対に止まらないからさ」
サブラは見るからに自信満々だ。
とにかく、俺たち3人は、料理を待つ間、四方山話の続きをした。
そのうちに、サブラとミランダの今後の話になった。
実は、この俺が口火を切ったのだった。
「なあ、カリール、ミランダのことだけど、彼女だと言ったよね」
「そうだよ、ミランダは俺の彼女さ」
「だったら、言いにくいのだけど、これからどうするのさ?」
「つまり、ベイルートにいる俺の家族のことだね」
「まあ、それしかないよね」
「ベイルートの妻とは離婚することで話はついているのだよ」
サブラは、俺に、「話はついている」と言う。しかし、その割にサブラは、ベイルートに電話するとき、いつも真っ赤な顔で何かを喚く。その形相を見るにつけ、とてもじゃないが話がついているようには見えない。
「その割には、ベイルートの誰かに電話で喚くよね、大きな声でさ」
「あーあ、あれは違うのだよ。内戦のせいでベイルートに繋がる回線がいつも混み合っていて、一方的に切ろうとする交換手に文句を言っているのさ、妻に喚いているわけではないよ。妻との間で残っているのは金額のことだけさ」
「あ、あれは、そういうことだったの。で、金額のことって、養育費の金額とかのこと?」
「そう。それとスウェーデンまでの旅費ね」
「スウェーデンまでの旅費? どうして、いきなりスウェーデンなの?」
「あ、畑中さんには話したことがなかったっけ?」
「何を?」
「俺の妻はスウェーデン人なのさ。レバノンの内戦がまだそれほど激しくない頃に、ベイルートの旅行代理店に勤めていた妻と知り合ったのさ」
「ああ、そういうことだったのか。と言うことは、カリールが金を出したら、奥さんは、お子さんを連れてスウェーデンに帰るというわけ?」
「そういうこと、今のレバノンは内戦中だから、どの道、危険だしね」
「それで、お子さんは何人なの?」
「10歳の娘と8歳の息子の2人だよ」
「じゃあ、2人のお子さんと奥さんの3人の旅費と生活費、それと養育費か」
「そうだね」
「それは随分と物入りだね」
「うん、だから金が要るのだよ」
「で、もうその金の目処はついているの?」
「もう少しだよ」
さて、サブラは、この時、金のことについて「もう少しだよ」と言ったわけだが、実は芳しくはなかった。そして、それが、後日、金策のことで無理をしてしまうサブラの命取りになるのだが、この時には、もちろん、3人の誰もそのことを知らない。
とにかく、そうこうするうちに、サブラが言っていた料理が運ばれてきた。
そして、それを見た俺は、
「うわー、凄いボリューム!」
「うん、この店は大盛りなのさ。さあ、畑中さん、ミランダ、美味いから早速食べてみてよ」
大きな皿の上には羊肉と野菜をじっくりと煮込んだ料理、それとライスが、日本のカレーライスの様に盛り合わせられていた。
そして、まずは俺がその料理を食べてみたのだが、
「んんんんんんー」
「畑中さん、ねえ、どうだい?」
「うまああああーい! カリール、これ、美味過ぎるよ」
「だろ! だから保証すると言っただろ」
「ああ、これは間違いない。もう今日はダイエットなんか諦めるよ、これだと全部食べてしまうしかないもの、止まらないよ」
「はっは、そうさ、止まらないのさ。で、ミランダはどう?」
「私も止まりそうにないわ。この料理はなんて言うの?」
「俺は単に『マトン&ライスを頂戴』とウェイターに注文するのだけど、これは正式には『テスティケバブ』という料理だそうだよ」
で、俺は、とにかく美味くて仕方がないわけで、
「テスティケバブ? シシケバブなら聞いたことがあるけどさ ・・・ まあ、なんでもいいや、とにかく美味い!」
「ほんと、これは美味しいわね」
俺もミランダも大満足だった。そして、ダイエットのために食べるのを途中でやめることなど無理な話だった。
ちなみに、テスティケバブとは、トルコのカッパドキア地方を代表する料理であり、羊肉、トマト、唐辛子、そして玉葱を壺に入れ、その壺に小麦の生地で蓋をして、壺ごと「かまど」に入れ、長時間焼いて壺の中に火を通す料理なのだが、実のところ、そんなことはどうでもいい。
俺たち3人は、当然この時点では何も知らなかったわけだが、
この後、1年ほどは平穏な月日を過ごしたものの、俺たちは、農工省のスジャーをはじめとする不良王子たちが仕掛ける罠にはまっていくのだった。
=続く=




