第3話:アルコール麻薬取調室
俺は絶句してしまった。
なんだと、公開で斬首だと、お祈りしなければ鞭で打つだと、酒を売ったら爪を剥がすだと!
怖すぎるやろ!
それもそうだけど、頭おかしすぎるやろ!
のっけからウンザリだよ。
しかも、この国に来てからまだ1週間しか経っていない。
それなのに、こういう世界でこれから3年とか生活する。
ならば、絶句するしかない。
暗澹たる気分になるしかない。
あーあ。
そんなことを思いながら俺が押し黙っていると、
「畑中さん、いつまでここにいるのさ。たぶん、怖いとかウンザリしたとか思っているのだろうけど、ここにいたって仕方がないだろ」
サイードに声をかけられた俺は、「確かに、ここにいても仕方がない」と思い、
「ごめん、もういいよ、行こう」
その恐怖のアルコール麻薬取調室から社宅までは僅か500メートルほどしかない。
だから、サイードの運転する社用車は俺が入居する社宅にすぐに到着した。
ところで、その社宅は、俺の勤務する会社が出資して彼の国の政府と共同で営むビニールパイプのメーカーの職員団地の一画にある。
そのメーカーの従業員は、全員がイスラム教徒だ。
だから、異教徒は、日本から来た俺と俺の身の回りの世話をしてくれるパテールというインド人しかいない。
俺は、そのような心細いセッティングの社宅に住んでいる。
「じゃあ、俺、明日は代休にさせてもらうから、明日の朝の迎えはアタになるけど、いいね」
サイードは俺にそのように言ったわけだが、俺が駐在員として勤務するオフィスには社用車が2台ある。
そして、ドライバーも2人いるわけだが、アタとはもう1人のドライバーだ。
サイードは、休日の金曜日に出勤したから代休を取るというわけだ。
もちろん、それに問題はない。
俺1人にドライバー2人も要らない。
それなのに、社用車が2台あって、ドライバーが2人いるわけ。
それは、この国が日本人の想像が及ばないほどにクソ暑いからだ。
だから、アメ車であろうが日本車であろうが、かなりの頻度で故障する。
エンジンが灼熱の砂漠の高温に耐えかねるからだ。
社用車が故障しても街中ならタクシーが拾えるので、さほどの問題にはならないが、交通量の極端に少ない砂漠の道を行くときなどは車の故障が命取りになることもある。
車が故障で立ち往生して、結局、他の車が通り掛からなければ、砂漠のど真ん中で遭難してしまうからだ。
だから、砂漠の道を数百キロとか行くときには予備の車が必要になる。なので、遠方までドライブするときには車2台で行く。
そのようなわけで、俺のオフィスには社用車が2台あってドライバーが2人いる。
そういうことだ。
さて、サイードが代休を取ることに問題はないのだが、俺は、アルコール麻薬取調室のことで不安になってサイードに尋ねた。
「なあ、サイード、昨日のことだけど、俺、五菱商事の有馬さんのお宅でワインをご馳走になったよね」
「うん、畑中さんは随分と飲んだみたいだね。ご機嫌だったよ」
「ご機嫌だったって、酔っていたってこと?」
「ああ、誰が見てもね」
「俺の顔、赤かったか?」
「真っ赤だったよ」
「つまり、俺は、酔って真っ赤な顔をして、サイードの車で帰宅したってこと?」
「そうそう、酒臭かったよ」
「そうか、やはりね。でさ、もしもだけど、道中で警察に捕まっていたら、俺はどうなっていたのだろうね? 俺もやはり爪を剥がされたのかな?」
「アメリカとかイギリスとか日本とかの一等国の国民は大丈夫なのじゃないかな。せいぜい国外退去とかで済むと思うよ」
「国外退去で済むか。サイードはそういう話を聞いたことがあるの?」
「そういう話って、アメリカ人や日本人が酔っているのを咎められて警察に逮捕されたって話か?」
「そうそう、そういう話」
「そういう話なら聞いたがことないね」
「だったら、どうして、国外退去で済むと言ったのさ?」
「だから、それくらいじゃないかなぁって話さ」
「じゃあ、実際のところは分からないのだね」
「そうだね、なんなら、いっぺん捕まってみたら」
「嫌だよ! もういいよ。とにかく、明日はアタが迎えに来るのだね?」
「うん、ちゃんとアタに電話しておくからさ」
「わかった。じゃあ、ご苦労様、帰り、気をつけてね」
「ああ、じゃあまた明後日な」
ここまでの話を聞けば、いくら勘の鈍い人でも、この国が禁酒の国であることに気が付いたことだろう。
そう、この国では飲酒が法律で禁止されている。
それは、イスラム教の教義に忠実に従っているからだが、この国では禁酒が呆れるくらい厳格に守られている。
だから、もちろん、街で酒を売っていたりはしない。
自国民だけでなく外国人も禁酒だ。
それでも敢えて酒を飲もうと思えば、自分でワインなどをこっそりと造るしかない。
俺は、木曜日の昨日、五菱商事の有馬という商社マンの自宅で赤ワインをご馳走になったわけだが、その赤ワインは、その商社マンが自宅で自分で造ったものだ。もちろん、それは密造だ。
葡萄ジュースにイースト菌をふりかけ、発酵させてワインにするのだが、発酵するときには強い香りが辺りに漂う。
そんなの、ばれないのか?
周りをイスラム教徒に囲まれた俺の社宅でワインを造れば、当然ばれる。
しかし、五菱商事の有馬は、この王国に駐留する米軍の幹部の多くが住むヴィラ(一戸建てが集まる団地のようなもの)に住んでいる。つまりは、半ば治外法権の環境の中で暮らしている。だから、宗教警察も普通の警察も立ち入らないので、ワインの密造がばれることはない。そういうことだ。
けれども、俺は、一介の日本人に過ぎない。しかも、自宅の周りをイスラム教徒たちに囲まれている。ならば、用心するに越したことはない。
指の爪は、爪切りで切るものではあっても、剥がされるものではない。
ともあれ、俺の社宅がある団地の正門の前でサイードと別れた俺は、30メートルほど歩いて、自宅に着き、ドアのブザーを押した。
「おーかーえりなさーい」
すると、ドアが開き、間延びした日本語で、俺と同い年のインド人が迎えてくれた。
俺のために炊事、洗濯、掃除をしてくれる男だ。
実家の農園で使用する大型トラクターを買うために、この国に出稼ぎに来た26歳の青年だ。
彼とのコミュニケーションは、「おーかーえりなさーい」と「いーてーらしゃーい」以外は英語だ。
同い年だし、親切で優しい男なので、俺は彼とすぐに打ち解けた。
俺は、そんなパテールの出迎えに応えた。
「ただいま。あー、お腹減った。晩御飯は何かな?」
「ステーキだよ」
「ああそう」
俺は気の無い返事をした。
パテールの料理のバリエーションは少ない。
しかも、ステーキはパテールの十八番なので、この1週間で4回も食べた。
で、今週5枚目のステーキを食べ終えた俺は、食後にくつろぐわけだが、テレビをつけてもアラビア語かフランス語のチャンネルしかなく、チントンカンプンで面白いわけがない。
だから、宗教警察の警官に鞭で打たれた挙句に、やっと持ち帰ったアンプのセッティングを済ませて、日本の歌謡曲を聴いて過ごした。
さいわい、落としたアンプは、頑丈な梱包のお陰で壊れていなかった。
そして、就寝し、翌朝を迎え、サイードの代わりのアタというエチオピア人のドライバーが迎えに来て、俺は出勤した。
今日は土曜日で日本は休日だが、この国では1週間の始まりだ。
今日やるべきことは決まっている。
それはジャーナル(journal)の帳簿合わせだ。
普通、ジャーナルと言えば雑誌などのことだが、会計の世界では違う。
ジャーナルとは、Cash receipt journal、つまり現金出納帳のことだ。
今日は、現金出納帳を参照しながら、金庫にある現金の棚卸をするのだ。
そして、俺は、その作業を終えたわけだが、何をどうしても金庫の現金が日本円で約1000万円分も多い。
そのことがどうしても解せず、気になって仕方がない俺は、日本が深夜の時間帯にならないうちに前任者の自宅に電話をした。
宇田という名前の10歳上の先輩だ。
「あ、宇田さん、畑中です。お休みの日の夜分にどうもすみません。実はですね、ジャーナルの帳簿合わせをしていたのですがね ・・・ というわけで、金庫の現金が1000万ほど多いのですけど」
「ああ、それ。畑中は聞かされていなかったみたいだね。ま、気にするな」
「いや、気にしますよ、1000万ですよ」
「それ、どうしても知りたい?」
「知りたいと言うか、知るべきでしょ」
「だよね」
「ですよ」
「うーん、じゃあ言っちまうか。ただし、他の誰にも言うなよ」
「ええ、納得できる話ならね」
=続く=