第2話:宗教警察
俺に近付いてきた宗教警察の二人組の警察官の1人は「サッラー!」と俺に向かって再び叫んだ。
すると、ドギマギする俺のカッターシャツの袖を俺のドライバーのサイード(Said)が引っ張った。
「おい、畑中さん、お祈りだよ」
「え、お祈り? でも、俺はイスラム教徒では ・・・ 」
「そんなこと、どうでもいいから!」
俺は、サイードから小声で注意をされたのだが、それでもアクションを起こさなかった。
すると、
ビジッ
警察官の左腕が素早く動いたかと思うと乾いた音が聴こえ、俺は、その右の二の腕に強めの痛みを感じた。
その警察官の左手を見ると鞭が握られていた。
つまり、俺はその警察官に鞭で打たれたのだった。
サイードが俺の腕を下へと強く引いた。
俺はサイードの腕の力でよろけて尻餅をついた。
尻餅をつくほとの力で引かれたわけではなかったが、鞭で打たれたことの動揺で足の力が抜けていたのだった。
尻餅をついた俺は、恐怖と驚愕を感じながら、鞭で打った警察官の顔を見上げた。
「サッラー!」
俺を鞭で打った警察官がまた同じ言葉を叫んだ。
もとより逆らう気などない俺は、次にすべきことを求めて周りを見渡した。
すると、ひれ伏して祈りを捧げる人々が目に入った。
だから、俺は、周りの人々と同じように、ひれ伏すというか土下座の姿勢になった。
顔を下に向けた。
その姿勢になったので、警察官の足下しか見えなくなった。
すると、二人の警察官の4つの靴が俺から遠ざかるのが見えた。
俺はホッとした。
警察官の4つの靴が更に遠ざかるのを確認した俺は顔を上げた。
二人の警察官が緑のストライプの入ったパトカーに乗り込むのが見えた。
そして、そのパトカーが走り去った。
だから、俺は、土下座の姿勢からアグラをかく姿勢に切り替えた。
下はコンクリートのプレートが敷かれた歩道なので土下座では足のスネが痛かった。
ほどなくして人々の祈りの時間が終わった。
だから、俺は、立ち上がり、同じく立ち上がったサイードに話しかけた。
「どうして鞭で打たれたのだよ!」
「当たり前だろ。一人だけ突っ立っていたのだからさ」
「けど、俺は、イスラム教徒ではないし外国人だよ、日本人だよ」
「それでも風紀を乱しただろ」
「風紀を乱したってさ、立っていただけだろ」
「それだけでも風紀を十分に乱していたのだよ。ここはそういう国だし、宗教警察というのはそういう奴らなのだよ」
「ところで、あの警察官、『サッラー』とか叫んでいたよね」
「畑中さんはサラーも知らないのか?」
「うん」
「東京で何も教わらなかったのか?」
「前任者から仕事の引き継ぎを受けただけさ」
「それは呆れた話だな。それで、アラビア語は?」
「シュクラン(ありがとう)とケイファ(元気か?)とマッサラーマ(さようなら)しか知らない」
「それは絶望的だな」
「で、『サラー』ってどういう意味なのさ?」
「だから、流れからいって『サラー」は『お祈り』のことに決まっているだろ」
「なんだよ、そのまんまかよ」
「だから、それくらいは気付けよ」
「なんか、テンパっちゃったみたいでね」
「あーあ」
「でも、サイードもサイードだよ、サラーの時間に差し掛かりそうなら、そう言ってくれれば良かったのに」
「だから、知っているのに敢えて電気屋に行くと思ったのだよ。この国の事情にそこまで疎いとは思わないもの」
「それが疎いのだよね。だって、ここに来てまだ1週間だよ」
「1週間もあれば十分そうなものだけどね。ところで、腕、大丈夫か?」
「え、腕?」
「鞭で打たれたところだよ」
「あ、そうだった。それがさ、手の平で強く叩かれた程度の痛さでね。鞭ってたいしたことないのだね」
「そりゃあそうさ。あれは刑罰用の鞭ではなくて警告用の鞭だからね。何本かの柔らかい皮を編んだやつさ」
「え、そうなの? じゃあ、刑罰用ならどうなっていたの?」
「その腕の皮膚が裂けて血がドバッと出ていただろうよ。知っているか、刑罰用の鞭で10発も打たれたら死ぬことだってあるのだぞ」
「へーえ、そうなんだ。俺、鞭打ちの刑は、まだ見たことがないからさ」
「そんなの見ることないよ。さあ、店の中に戻って釣り銭を受け取りなよ。尻餅をついたときに落としたそのアンプ、壊れてなければいいけどね」
「ほんとだ、落としちゃったよ、壊れてなければいいけどね。あ、そうだ、釣り銭を待っていたのだった。まったく、いくらサラーだからって、釣り銭を渡してから追い出せばいいのにさ」
「サラーが最優先なのさ。釣り銭なんか二の次、三の次だよ。さ、釣り銭を受け取って社宅に帰ろうよ」
「あ、そうだね、今日は取引先のアテンドで休日出勤しただけだからね、オフィスに戻っても金曜日では仕方がないよね、うん、帰ろう、社宅まで送ってよ」
ちなみに、イスラム圏の諸国では、普通、金曜日は休日でありモスクで礼拝をする日であり、その前日の木曜日は半ドンだ。そして、公開処刑は、たいてい、休日である金曜日の昼下がりに、人だかりの最も多い広場で行われる。
それはさておき、そのようなわけで、電気屋の店員のところに戻り、釣り銭をちゃんと受け取った俺は、サイードが運転する社用車で社宅への帰路に就いた。
そして、社宅へと至る経路の最後の曲がり角を右折した時、
ギャアアアアアーッ!
とんでもない大絶叫が窓を閉め切った車室の中にまで届いた。
「おい、サイード、車を止めてよ」
サイードは、とりあえず車を止めて、俺に理由を聞いた。
「どうしてだよ?」
「今のとんでもない悲鳴を聴いただろ」
「ああ、あれか、初めて聴いたのだね」
「うん」
「とにかく気にするな。これから週に何度か聴くことになるから慣れるよ」
「いいから、このまま車を止めていてよ」
「ふうっ、わかったよ、畑中さんも物好きだね」
俺のドライバーのサイードは、面倒臭がりながらも、そのままでいてくれた。
すると、
ギャアアアアアーッ!
「おい、サイード、まただよ、あれ何だよ?」
窓のない二階建ての石造りの建屋からまた悲鳴が聴こえたのだった。
「取り調べだよ」
「取り調べって、何の取り調べだよ?」
「何のって、畑中さんは、この建物のことを知らないみたいだね」
「知らない」
「社宅からこんなに近いのに」
「とにかく知らないよ、この建物は何だよ?」
「アルコール麻薬取調室だよ」
「アルコール麻薬取調室?」
「ああ、酒や麻薬の密売人とかの取り調べをする建物だよ」
「取り調べをするって、どうして取り調べで、あんな悲鳴が聴こえるのだよ? どんな取り調べをしているのだよ?」
「だから、取り調べというか、拷問だね」
「拷問!?」
「ああ、たぶんだけど、爪を剥がされているのだろうね」
「爪を ・・・ 」
=続く=