第12話:終わりの始まり
第12話
その後も雷は、まるで和太鼓の乱打のように、そこかしこに落ち続け、オフィスの入るビルのすぐ近くに落ちるものもいくつかあった。
それが30分ほど続き、雷が止むと、今度は天の底が抜けたような豪雨が始まった。
その豪雨は雨なんてものではなく、滝が落ちるようで、雷が止んでから2時間ほど降り続けた。
滝のような雨の勢いが弱まることは一切なかった。
そして、雨が止むと、窓の外に抜けるような青空があっという間に広がった。
だから、俺たちは、昼であることを思い出した。
時刻を見た。
まだ午後の4時だった。
だから、太陽の光が燦々と降り注いだ。
さっきまで真夜中のようだったのに今はまさに真昼間の明るさだ。
俺は、日の光を見て、ほっとし、誰に聞かせるでもなく言った。
「ふう、終わりか。やはりこのビルは頑丈だね。賃料が高いだけのことはあるよ。さてと、砂嵐のせいでカルハには行きそこなったけど、ゼネコン周りでもするかな」
すると、俺の独り言を聞いたサブラがほくそ笑みながら俺に言った。
「畑中さん、それは甘いよ。たぶん、しばらく、どこにも行けないだろうね」
「どうしてだよ? あの青空と日の光を見ろよ。砂嵐なんか、どこかに行っちゃっただろ」
「砂嵐なら、確かにどこかに行っちゃったよね。けれども、置き土産を残して行ったのさ。窓から下を見てみろよ」
「下を?」
俺は、怪訝には思ったが、言われた通りに下を見た。
「あ!」
下を見ると、地面が見えなかった。
そこは海になっていた。
冠水だ。
というか、ダムでも決壊したかのような洪水で街が水に浸かってしまっていた。
自動車などは屋根が見えるのみだ。
もちろん、誰一人として歩道を歩いていない。
ま、歩けるわけもないが。
その光景を見て、俺は、サイードがいつもの月極駐車場ではなくパーキングビルに駐車したことに納得した。
「そうか、サイードは、こうなることを見越していたのだね」
すると、サイードが本当に得意げなドヤ顔で俺に言葉を返した。
「ああ、こうなると思っていたよ。砂嵐の雲が特大だったからね」
そして、俺は、サブラが食べ物を買っておいたことにも納得した。
「で、カリールもこうなると思っていたから食べ物を買ったのだね」
「そうだよ。先週の木曜日に雨が降った時と違って、今回は、夜遅くまで水が引かないだろうからね。日が暮れたら、みんなで食べようね」
そして、日が暮れて、皆が空腹を訴えたので、サブラが買ってきたものをオフィスのデスクの上に広げて食べることにした。
しかし、
「おい、なんだよ、カリール、ケーキばかりじゃないかよ!」
「だって、俺、スイーツが好きなのだもの。心配するな、ケーキ以外のものもちゃんとあるからさ。ほら、この白い箱だよ、開けてみな」
俺は、サブラに言われた通りに、その白い箱の紙の蓋を取ってみた。
「げっ、エジプトの菓子!」
俺は、エジプトのゼネコンのオフィスによく出入りする。
エジプト人のエンジニアが非常に親切で情報をたくさんくれるからだ。
しかし、彼らは親切すぎる。
エジプトの菓子をしきりに勧めてくれるのだ。
だから、俺は、甘いものがあまり好きではないのに、断れなくて、いつも2、3個食べる。
しかし、これが世界一レベルで甘いのだ。
溶けて滲み出た砂糖で表面がベタベタだったりする。
だから、2、3個も食べると、手を丁寧に洗わないと砂糖のベタベタが取れない。
サブラは、ケーキの他に、そのように甘いエジプトの菓子をわんさかと買ってきたのだった。
なんてことだ!
だから、俺は、エジプトの菓子と比べたら、ちっとも甘くないケーキを食べた。
それでも、やはり甘く、食べるしりから胸焼けした。
ところが、ドライバーのサイードもアタも、オフィスボーイのヤッシンも、そしてもちろんサブラも極甘のエジプト菓子を美味そうに食べている。
だから、俺は、心配になって聞いてみた。
「なあ、みんな、そんな死ぬほど甘いものを、そんなに次から次へと食べて大丈夫なのか?」
「こんなの普通だろ」
「大丈夫かって、どういう意味さ?」
「これのどこが甘いのだよ?」
「こんなに美味しい菓子を食べないとは、畑中さんも変わっているよね」
俺は口を閉じることにした。
イスラム教徒には晩酌の習慣などないのだから、きっと、ほとんどの人が甘党なのだろう。
結局、その日は、夜の10時頃になってようやく水が引き、俺はサイードの車で帰宅したのだった。
それからは、1年ほどの月日があっという間に流れた。
その間、比較的に平穏な暮らしを送った。
ただし、平穏と言っても、それは「この国基準」の平穏であり、「日本基準」で言えば、俺は、トラブルに見舞われ続けた。
例えばだが、
真夏、就寝中に砂嵐に見舞われ、ウィンドウ型のエアコンから微小な砂が俺の寝室に進入し、俺は一過性の肺炎を患い、40度に近い熱を出して2日も寝込んだ。カリール・サブラとその愛人のミランダ・フェが我が家に見舞いに来てくれて、献身的に看病してくれた。
砂漠のど真ん中で車が故障して、しかも、間が悪く予備の車を従えていなかったため、炎天下で10時間も立ち往生した。たまたま通りかかった知らない人の車に乗せてもらい、なんとか帰宅したが、うたた寝した後に起きてみると目が見えなくなっていた。厳密に言えば、シルエットだけは見えたのだが、目の前がほとんど真夜中の暗さだった。社宅のキッチンに2台ある冷蔵庫のフリーザーの氷をバスタブに全部入れて、そこに水を張って入った。そうしたら、見えるようになった。
五菱商事の有馬氏の自宅に呼ばれた時にしか酒が、つまりは密造ワインが飲めないことを寂しく思った俺は、サイードに頼んで、フィリピン人が密造して販売する闇酒を買ってもらった。一口飲んだだけで、足腰が半日も立たなくなった。なんとか回復したが、その後、「メチルアルコールでも混ざっていたのでは?」という話になった。
俺は、そのような、「この国基準」では平穏なトラブルに度々見舞われた。
それでも、それらのトラブルは、これから起きることと比べれば、まさに平穏なトラブルと言えた。
そして、俺がこの国に赴任しておよそ1年が過ぎたある日、朝、いつものようにオフィスに出てみると、
「畑中さん、大変だよ!」
オフィスボーイのヤッシンが切迫した表情で俺に異変を告げた。
もちろん、俺は「大変だよ!」のわけを聞いた。
「血相を変えて、いったいどうしたのだよ?」
「サブラが警察に捕まったのだよ」
「あーあ、カリールは、たまに交通違反で捕まるのだよね。すぐに罰金を払ったら逮捕されずに済むのに、あいつ、また、持ち合わせがなかったのかな?」
「そんな悠長な話ではないのだよ!」
いつもは物静かなヤッシンが大声を出すので、何やら胸騒ぎがして、サブラのことが急に心配になった。
だから、俺も真顔でヤッシンに尋ねた。
「サブラは、いったい、なにをやらかしたのだよ!」
「王家を侮辱した罪で捕まったのだよ!」
「えっ、まさか!」
「本当だよ、今、五菱商事の有馬さんが詳しい事情を調べてくれているんだ」
「なあ、王家を侮辱すると、どうなるのさ?」
「ほとんどが死刑だね」
「ええっ!!!」
=続く=