第10話:イスラエル・ボイコット
第10話
俺たち三人は、美味過ぎるテスティケバブというトルコ料理を貪るように食い続け、そして平らげてしまった。
驚いたことに、身長が150センチほどしかないと思われるミランダも俺たち男二人に少し遅れただけで皿の上のものを全部食べ終えてしまった。
そして、俺たちは、砂糖が過飽和状態みたいな印象の中東特有の甘過ぎる紅茶をすすり始めたのだが、デブで汗かきのサブラが、
「ふうっ、この店は満席で混んでいるし、暖房が効いているし、温かい料理を食べたしで、紅茶では汗をかいちゃうよ、何か冷たいものを飲みたいな」
そして、それには、この俺も同感だった。
「サブラは既に汗をかいているよね。確かに暑いね、何かスカッとするものが飲みたいな」
ミランダも同じことを思っていて、
「私、コーラが飲みたい、ほんとよね身体が火照ってきたわね」
だから、サブラが、
「ああ、そうだね、コーラがいいね」
そう言うとサブラはウェイターを大声で呼び、席のところに来たウェイターにコーラ3本を注文した。
そのウェイターは、すぐに、瓶詰めの3本のコーラと氷を入れたガラスのコップを3個持ってきた。
しかし、俺は少しだけ不満で、
「なんだ、コーラはいいけど、この店もペプシコーラか」
すると、サブラが、
「ペプシコーラだといけないのか?」
「いや、別にいいけど、たまにはコカコーラも飲みたいね。この国では、どこに行ってもペプシなのだもの」
「あー、そういうことか。それだったら仕方がないよ」
「どうして?」
「イスラエル・ボイコットだよ」
「え、イスラエル・ボイコット?」
「そうなんだ、コカコーラはイスラエルに正規輸入代理店を置いているから、この国では正規には販売できないのだよ。並行輸入品ならどこかにあるかもしれないけど、ここは首都だからコカコーラはどこにもないだろうね」
「なんだよそれ?」
「だから、アラブのイスラム教国は、ほとんどがイスラエルのことをボイコットしているのだよ。ほら、これまでイスラエルとは何度か中東戦争をしただろ。だから、この国にとってもイスラエルは敵国そのものなのさ。なので、イスラエルと商売をする企業は、この国にはまず進出できないだろうね」
「へーえ、知らなかったなあ」
「おいおい、呆れたな、こんなの常識だぞ。ところで、畑中さんはイスラエルに入国したことがあるか?」
「ないよ」
「そうか、そうだろうね」
「どうして?」
「イスラエルに入国したことがある人なら知っているのだけど、イスラエルに入国しても、入国管理官は入国スタンプをパスポートに押さないのだよ」
「それはなんで?」
「イスラエルの入国スタンプがあると、ほとんどのアラブ諸国に入国できないからだよ」
「ふーん、そうだったのか、イスラエル・ボイコットとは、それほどに徹底しているのだね」
「ああ、現時点ではね。だからさ、この国のアメ車はGMの車ばかりでフォードの車をほとんど見ないだろ」
「そう言われるとそのような」
「実際そうなのさ。ということは、イスラエルではフォードの車がたくさん走っているということさ。ベンツだってそうだよ。この国ではメルセデスベンツをよく見かけるだろ」
「確かにベンツは多いけど、それはこの国が金持ちの国でベンツが高級車だからでは?」
「それもあるけど、イスラエルとメルセデスベンツの関係を考えてみれば分かるよ。ベンツを生産しているのはどこの国だ?」
「それはドイツだろ ・・・ あ、アウシュビッツか、ホロコーストだね!」
「そう、それさ。ユダヤ人のほとんどがベンツなんか買わないのだよ。今でもドイツのことを恨んでいるからね」
「そらそうだよね」
「だから、メルセデスベンツは、イスラエルに売り込むことなど考えずに、中東ではアラブ諸国の市場に力を入れているわけさ」
「なるほど!」
この当時、つまり、1983年当時は、イスラエルでは当たり前のコカコーラがこの国ではほとんど飲めなかった。ただし、現在は、アラブ諸国でもコカコーラが飲める。とは言え、アラブ諸国では今でもコカコーラの方がマイナーだ。
「納得がいったなら、贅沢を言わずに有難くペプシを飲むことだね」
それから、俺たちは、夕食をペプシコーラで仕上げ、俺はサブラに社宅まで送ってもらい、そして、翌日を迎えた。
翌日。
つまり、日曜日だ。
日本では当然休日でも、この国では1週間の始まりの日の翌日だ。
だから、この国では普通に営業日だ。
サブラは、朝一番で農工省に行った。
スジャーに働きかけをするためだ。
サブラは、スジャーのことを「実は冷酷で残酷で悪趣味な王子」と評価するわけだが、そのサブラはそんなスジャーに毎日のように熱心に働きかけている。
それは、不思議なようで実は当然のことだ。
スジャーは商工省のエンジニアなのだ。
省内ではまだ課長なので決定権はないが、技術面では発言力がある。
だから、スジャーに働きかければ我が社に有利なスペックを採用してもらえるし、商工省のエンジニアはプロジェクトの予算見積もするので、事前に働きかけておけば、落札予定価格を入札前に仄めかしてもくれる。
そのような恩恵に浴すことが出来るので、サブラがスジャーに働きかけるのは営業マンとして当然の活動なのだ。
もちろん、スジャーはそのような恩恵をタダでは与えてくれない。
当然、裏金がモノを言うわけだ。
そのように、サブラは、受注に向けた活動を担当している。
レバノン人であるサブラは交渉が得意だからだ。
日本の商社マンの世界には「レバシリ」という言葉がある。
「レバノン人」+「シリア人」で「レバシリ」というわけだ。
日本の商社マンをして、そのように言わせるほど、レバノン人とシリア人は優秀であり、交渉と商売が上手だ。
だから、こと仕事をもらう活動となれば、日本の商社マンよりも上手だ。
ならば、メーカーの若い営業マンである俺よりも格段に上手であることは言うまでもない。
だから、受注に関してのことはサブラに任せている。
それは、俺の前任者にしても、その前の駐在員にしても同じことだった。
それでは、俺は何をするのか?
俺は、受注してからの業務を担当している。
特に、請求をして実際に入金するまでの業務の促進が俺の主な仕事だ。
そのようなわけで、俺は、これからカルハという地方の町に行く。
この首都から200キロも離れた田舎町に砂漠の道を行くのだ。
そこでは我が社が、とあるゼネコンと組んで、工事をしていたのだが、その工事が完了した。
だから、俺は、作成した工事完了証明書という書類にエンジニアリングコンサルタントの署名をもらいに行くというわけだ。
その工事完了証明書に署名をもらわないと、工事が完了したことにならず、農工省に対して請求をすることが出来ない。
だから、地味な仕事でも必要不可欠な業務というわけだ。
そのようなわけで、俺は、サイードが運転する車に乗り、故障に備えた予備車であるアタの車を従えて、俺の勤務するオフィスから出発した。
ところが、2時間ほど走ると、
「おい、サイード、なんだよ、あの前方の巨大な壁は?」
そう、俺たちの車の前方に、まるで山のように巨大な壁が忽然と現れたのだった。
その高さは、大阪市内から生駒山を見るような感じだから、高さが600メートルとかありそうに見える。
しかし、そんなに巨大な壁がこの世に存在するのか?
すると、サイードが俺の疑問に答えてくれた。
「畑中さん、よく見ろよ。あんなに巨大な壁などあるわけがないだろ。色はベージュだけど、あれは雲さ。上昇気流によって砂漠の細かい砂が巻き上げられて雲に混ざっているのだよ。だから、雲があのような色になっているのだよ」
「そうなのか、だから、雲が壁のように見えるのか」
「さて、だったら、引き返すしかないな」
「どうして?」
「あれは砂嵐の雲だからだよ」
「じゃあ、カルハ行きはどうなるのだよ?」
「おいおい、あれに突っ込むなんて冗談じゃないよ、引き返すぞ!」
「そんなにヤバいのか?」
「ああ、マゴマゴしていると、引き返しても、あの雲に追いつかれるぞ」
「そんなに早くこっちに来るのか?」
「ああ、見る見るうちさ。さあ、Uターンするよ!」
=続く=