六話:まだ星を知らない僕
『わたしね、お星さまのことはよくわからないけど、オリオン座だけは知ってるの。だってね、ほかの星座とはちがって見つけやすいの。それにとってもきれい!』
自分の人生の転機は一体いつなのか。
もしもそのように問われる機会があるとしたら、『小学二年生』の時だと達也は間違いなく答えるであろう。
達也は元来臆病な人間であった。
現在も積極的に人前に出るような性格ではなかったが、まだ子供だったあの頃とは比べものにならないくらい成長した。それは未来のおかげだ。そう彼は思っている。
小学二年生の五月、父親に突然転勤で引っ越さなければならないということを伝えられた。達也はせっかく友達ができてこれからもっと楽しくなるぞ、というときだったので引っ越したくはなかった。
がんばってようやく得られた友人から離れてまた一から始める。しかも、五月だ。もうすでに普段一緒になって遊ぶようなグループは形成されている。達也はその中にうまく入りこめる自信などなかった。
だから引っ越したくない。
けれど子供の彼にはどうすることもできなかった。
別の学校へ通わねばならないということを告げられてから住み慣れた家を出て新居へ移るまでの一週間、達也はそのほとんどを誰とも話さずに過ごした。友人や家族から話かけられたが空返事しか返すことができなかった。日中のほとんどを感情を表に出さずに過ごした代わりに、夜は自分の部屋で布団に顔を押し付けて、誰にも気づかれないよう声を押し殺して泣いた。
時はあっという間に過ぎて、やがてその時がやって来た。
引っ越し当日は車での長距離移動が長く続いた。夜遅くに新居に到着して疲れ果てていたせいか、翌日の緊張にも関わらず容易に眠りにつくことができた。
よって問題は翌日の転校初日まで繰り越された。
そして朝のホームルームの時間となった。
その日、達也は新しいクラスメイトたちとは一拍遅れて教室に入った。これからよろしくお願いしますと自己紹介をするためだ。
担任の先生と並び誰もいない廊下を歩くと、やがてある一つの教室の前に立ち止まった。両隣にある教室と変わらない至って普通の教室だ。
ただ前の学校とは違い、ここは四階なので窓からの眺めは良さそうだ。
どうやらここが新しい僕の教室らしい、と達也は思った。
「緊張してる?」
達也の新しい担任が穏やかな笑みをたたえて話しかけた。
「はい、少し」
「先生は先に教室へ行ってるからね。準備ができたら呼ぶから待っててね」
そう言って、若くて優しそうな女の先生は彼を一人廊下に残し教室の中へ消えて行った。
あと数分のうちにクラスみんなの視線が自分に刺さる。
そのようなことを想像するだけで達也の心臓はどきどきを通り越してどうにかなってしまいそうであった。
そしてドアの向こうから担任の呼ぶ声が聞こえた。
達也は震えた手で教室のドアを開け、その中へと一歩踏み出した。
幸い転校したクラスは良い人が多く、引っ込み思案の達也でもうまく溶け込むことができそうだという予感を彼にもたらした。その放課後、達也は鼻歌交じりで帰宅した。
やがてまだ見慣れぬ我が家にたどり着いたかと思うと、ランドセルをリビングに置いて早々に両親に外へと連れられた。
訳を聞いてみると、昨日新居に着いたのが夜であったためできなかった隣人への挨拶を今日しようということであった。
達也は再び胸の鼓動が早くなるのを感じた。
やっと転校初日を乗り越えたというのに、一難去ってまた一難と彼は部屋に帰りたいという気持ちになった。しかしこの儀式を終えるまではそうすることもできないだろうと察し、決意を固めて両親の間に立って挨拶へと向かった。
正面の三軒と左隣の家の住人への挨拶が済むと、達也ははあと息をついた。
ちらりと上を見上げると、両親も同じことを何回も繰り返していたせいか、心なしか少し疲れているようであった。
達也は両親の陰に隠れて「よろしくお願いします」と一言だけ告げて会釈をするだけであったがそれだけでも彼には大仕事であった。
あと一件だ。
彼はそう自分を奮い立たせて最後の一軒、彼らの新居の右隣の家へと向かった。