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五話:ココアとオリオン座と『未来』

 思ったよりも準備には時間がかからなかった。あらかじめ必要な機材を屋上の扉の踊り場に移動しておいたことが功を奏した。なので達也と未来は予定よりも早く天体観測を始めることにした。

 まずは望遠鏡などの機材を一切使わないでそのまま空を眺めた。

「……うわぁ」

 未来は目の前に広がる光景に息を飲んだ。

「今日は完全に新月ってわけではないけど星が良く見えるね」

「こんな綺麗な星を見たの久しぶりかも」

 すでに星々は流れていた。冬特有の澄んだ空気がいくつもの輝きを鮮やかに映し出していた。一つ、また一つと次々星の光が刹那の煌めきと共にうつろう。その情景は強く二人の心を刺激していた。

 二人はしばらく無言で夜空を眺め続けた。今この瞬間に言葉は不要だと感じられたから。彼らが次に声を発したのは、天体観測を開始してから半時間が経った頃であった。

「少し冷えてきたね。いったん中に入る?」

「ううん、まだ大丈夫。……あっ、そうだ。いいものがあるの」

 突然名案を閃いたような顔をした未来は、望遠鏡の側に置いていた黒いリュックを開いて中にある『いいもの』を探し始めた。それを発見するやいなや、手を動かして何か作業をし始めた。

 真っ暗なこの状況では、少し離れるだけで未来が何をしているかが全くわからない。だが、しばらくすると作業が終わったようで、『いいもの』を手にした未来が達也の方へ向かってきた。

「はい、達也くん」

 未来はそれを達也に差し出した。

 受け取ると、どうやら丸い器に液体が入っているようだ。目を凝らすとどうやら湯気が立ち上っている。そして何よりこの甘くて濃厚な香りはあれに違いない。ついに達也は『いいもの』の正体を探し当てた。

「これは……ココア?」

「正解」

 未来は満足そうにぴんぽーんと言った。

「達也くん好きでしょ、ココア」

「好きだね」

「でしょ。さあさあ、冷めないうちに飲んで」

 達也は急かされて水筒のコップをぐいっと(あお)った。そのせいで熱い液体が一気に身体に入ってきてむせてしまった。それを見た未来はあははと曇りなく笑った。達也は恥ずかしさでそっぽを向いた。味なんてわからなかった。

 少し落ち着くと、二度目の愚は犯すまいと今度は慎重にココアを(すす)った。

 口に含むと、心地良い甘みと温かさがじわじわ広がっていく。ゆっくりと味わった後に飲み込むと、その温かみが喉を通して段々と全身に拡散していった。充足感が自身を満たしていくのを感じた。

「ありがとう。おいしかったよ」

 お礼を言って空になったコップを未来に返した。彼女はそれを受け取ると、ココアを再び注ぎだした。すると今度は自分で飲み始めた。


 コップに髪が入らないように耳をかきあげる仕草。

 熱い液体を冷ますため慎重に息を吹きかけようと軽くすぼめられた唇。

 一定のリズムを刻むように波打つ白い喉元。


 それを見た達也の鼓動は早くなった。

 そして、我ながら単純だな、と彼女に悟られないようにそっとため息をついた。


「そういえば、こうして二人で星を眺めてると昔を思い出すよな」

「そうだね、昔はよく私の家族と達也くんの家族でキャンプに行って、その夜に綺麗だなーって星を見ていたよね。今みたいにココアを飲みながら」

「お互いに忙しくなってからはそうした機会も減ったけどな」

「でもたまにはまたやりたいよね」

「……そうだな」

 再び未来とキャンプに行く……、星を一緒に見る……。

 そのとき二人の関係は完全に幼馴染のそれであろう。少なくとも達也はそうあるつもりだ。

 でも、


 そのときの俺はうまく未来に笑いかけることができるだろうか。

 ならいっそ、そんな思い出などなかった方が良かったんじゃないか。


 大切だったはずの思い出を自ら穢してしまったようで達也は辟易した。

「あっ、オリオン座!」

 突然未来が興奮気味に声をあげた。

 陰鬱な気分のまま俯いていた彼はそんな彼女の驚きに驚いてしまった。

「びっくりした……というかオリオン座ってそんなに珍しくもないよね。あれくらいの星座なら子供でも見つけられると思うけど……」

「だってオリオン座だよ! 私、しばらく夜空を見上げていなかったから忘れてた。オリオン座ってこんなに素敵な星座だったんだね」

 未来はそう言って東の空に浮かぶ星々の連なりを指差していた。その指先に従うと、まずオリオン座を構成する星の中で最も明るいリゲルが視界に入った。その対角線上には二番目に明るい恒星のベテルギウス。そしてそれらの一等星を目で追っていると、次第に全体の輪郭がはっきりして、やがて見慣れたオリオン座の形をとった。

「ありふれた星座だけど、だからこそよく見てみるってことはしてなかったかもしれない。確かに改めて見ると綺麗だ」

 まるで俺はオリオンみたいだな、と達也は思った。

 彼はアルテミスに『私ね、好きな人がいるの』という言葉の矢に撃ち殺されてしまうのだ。ギリシャ神話と同じように。でもそうした場合、アルテミスを(そそのか)したアポロンは誰にあたるのだろうか。しかしそれは達也にとってさほど重要なことではない。アポロンが誰であろうと、結局、オリオンはアルテミスに撃ち殺される。

 達也にはその事実だけで十分過ぎた。

 物思いに耽る彼を横目で見た未来は、まるで何も見ていなかったかのようにして彼の言葉に返答した。

「でしょ? 正直、星のことはよくわからないけれどオリオン座だけは特別なの」

 そう言って彼女は空に手のひらをかざした。

 満点の星々を慈しむように、それでいて少しだけ寂しそうに眺めていた。

「オリオン座が特別……」

 けれど達也は未来の変化にうまく気付くことができなかった。

 自身に突きつけれらた悲劇を処理しきれていない。『ココア』『オリオン座』『未来』、それら三つの単語だけが曖昧になった達也の思考の中に漂っていた。


 そもそもどうして俺は星を見るのが好きになったのだろうか。


 天体観測を好きにならなければ、今こうして嫌な気持ちになることもなかったのではないか。もしかしたらオリオンの悲劇を回避することもできたかもしれない。けれどもう後には戻れない。


 もう達也は星に魅了されてしまったのだから。


 その刹那、脳裏に様々な映像が駆け巡った。それぞれの映像はせいぜい数秒程度。しかしそのどれもが宝物であった。

 そう、これは最初の物語。

「思い出した……」

 その言葉を聞いた未来が彼の方を向いた。

「俺さ、思い出したんだよ。ココア、オリオン座、未来。そしてどうして俺が星を好きになったのか」

 未来は何も言わなかった。ただじっと達也を見つめて次の言葉を待っていた。

「未来」

「うん」

「聞いてくれないか。伝えたいことがあるんだ」

 達也は『未来』へと一歩踏み出した。

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