07
唯加に話しかけられた先週の木曜日から、弾は前から三両目に乗るのをやめて、電車を一本ずらした。
しかし、席を確保しておいて、大変そうな人に譲ってあげることはやめなかった。
弾は大好きだった父親に、
「優先席じゃなくても大変そうな人がいたら代わってあげなさい」
という教えを今も守っていた。
杖をついている老人に代わることもあれば、妊婦に代わることもある。
他にも、松葉杖をついた青年や大きな荷物を持った人など、様々であった。
もちろん色々なトラブルだってある。
年寄り扱いするなといって怒り出す老人やもっと大変そうな人がいるのに自分に席を譲れと言う人、席を譲るために立ったら、別の人に座られたことなど様々なことがあったが、それでも日課としてやっていた席を譲るということをやめなかった。
時々、その行為を毎日見ていた人が弾の事を褒めたりすることもあった。
この日も弾は席を譲り、読書をしながら、降りる駅を待った。
学校の最寄駅に着いた弾は他の乗客をかき分けるように電車を降りる。
そのまま、改札の方へと歩き、改札でスマートフォンをかざす。
軽い音とともに改札を通り抜け、学校の方へと進む。
十分ほど歩き続け、校門を通り抜けると、校庭では朝練を始めようとしている生徒がそれぞれ器具の準備などをしていた。
しずかな朝の校庭には、かすかに地面を蹴る音や、器具の金属音などが聞こえる。
弾は校舎に向かうために、朝練の邪魔にならないよう、端を通り抜ける。
校庭の端の方にある花壇で作業をしている髪を一つにまとめたジャージ姿の女の子を見た弾は少し歩くのを早め、心なしか急ぐように校舎に入った。
「失礼します」
と言って、職員室に図書室の鍵を取りに行き、そのまま図書室へと向かう。
図書室に着いた弾はすぐに机にカバンを置き、隣の棚に置かれた大量の本を元々、本が配置されていたであろう場所へと戻す。
三十分ほど元の場所へと戻す作業をし続けた弾は図書室にある本を適当にとって、中をパラパラとめくり、また棚に戻す。
それを何回か繰り返し、一冊だけをカウンターに置いてあるパソコンのバーコードリーダーに本をかざした。
その後、少しだけパソコンを操作して、近くの椅子に腰掛け、その本を読み始める。
誰もいない静かな図書室で本をめくる音だけが聞こえ、しばらく本を読み進めたところで予鈴がなった。
予鈴の音とともに、弾は本を閉じ、立ち上がる。
読んでいた本をカバンにしまうと、図書室をでて、鍵をかけ、職員室に寄ったあと、教室へと向かった。
教室につくと誰とも挨拶をすることなく、自分の席に座り、カバンをかける。
そして、机の中にいれていた小説を取り出そうとした時、一枚のメモが入っていたことに気づいた。
弾は一枚のメモに視線を落とす。
『今日の昼休み、屋上で待ってます。 庭崎 唯加』
と書かれてあった。
弾はそのメモから視線を外し、席に座って会話を楽しんでいる唯加に視線を向けたが、すぐに戻し、
「別にいいか」
とつぶやいて、持っていた紙をぐちゃぐちゃに丸めて、教室の前に設置されていたゴミ箱に捨てた。
自分の席へと戻って来た弾はいつもと同じように机にひれ伏した。
昼休み、チャイムと同時に駆け出す生徒や、会話をし始める生徒がいる中で、
「昼休みだぞ」
と言う文一の声で弾は目を覚ます。
「もう昼か・・・」
と言って、弾は席を立ち上がり、二人は食堂へと向かった。
学校の食堂は二百人ほどが入れる規模でおしゃれなカフェのような雰囲気がある。
全面ガラス張りの室内には直射日光を避けるため大きなブラインドカーテンが下げられていた。
賑わっている食堂で二人は列に並び自分の順番を待つ。
弾は唐揚げ定食、文一はカツ丼を頼んだ。
二人は食事が乗ったトレーを持ちながら、空いている席に移動して席に座る。
お互い、食べ始めたところで、弾は文一に話を切り出す。
「あのさ、庭崎 唯加って知ってる?」
文一は弾の口からクラスの人の名前が出ると思っていなかったのか少し驚いた顔をして答えた。
「・・・ん? あぁ、同じクラスの天使だろ?」
「天使・・・?」
「うん。誰にでも優しいから天使だってさ」
「そんな。安直な・・・」
弾はあきれるように言った。
「だいたい誰でも優しいと思うけどな・・・」
「そうか? 少なくとも告白された時にめんどくさいからって、ごめんの一言で済ませるやつは優しくないと思うぞ」
文一は少し得意げな顔で弾の顔を見る。
「おい。遠回しに俺の事、侮辱するな・・・」
文一からの視線を外して言う。
「あっ。さすがにバレたか?」
文一は少し仰け反って、微笑んだ。
「いや、普通にバレるって」
「まぁ、大変なのはわかるけど、たまには学校の人にも優しくしてやれよ」
「別に、好きでやってるわけじゃない・・・ただ、なんとなく馴れ合うと、いろいろめんどくさそうだからさ。そんな暇じゃないし」
少し濁らせるように言って、弾は唐揚げを一つ食べる。
「ふーん。まぁ、いいけど。で、その天使がなんだって?」
文一は脱線した話を戻して、本題を聞いた。
「ん? ああ、実はこの前喋りかけられたんだよ」
「へぇー。また、なんで喋りかけられたんだ?」
文一が不思議そうにしながら弾に聞いた。
「俺が一度遅刻して来たこと覚えてる?」
「確か、先週だったけ?」
文一は少し上の方を見る。
「そう。その日、帰ろうとしたら、その天使におじいさんを送り届けたから遅刻したんじゃないのか? って聞かれて・・・」
「おじいさん?」
相変わらず、文一は不思議そうに聞いた。
「ちょっと、電車で目の不自由なおじいさんがいたから、席を譲って目的の場所まで送ったんだけど、どうやら席を譲るところを見ていたらしくて・・・」
「なるほど・・・」
「で、そのあとにまた二人で喋りたいって言われたから次の週の木曜日ならいいって言ったんだ」
文一は少し考えながら、
「へぇ〜。じゃあ、昨日また喋ったのか?」
と言った。
「・・・忘れてた」
「え?」
文一は目を丸くした。
「完全に約束したこと忘れてた」
苦笑いで答える弾。
「・・・それってすっぽかしたってことか?」
文一は手を止め、ほんの少しだけ身を乗り出した。
「まぁ、そうなるかな〜」
「おいおい・・・」
「おそらく、嫌われてるか呆れられてるかのどっちかだと思うからこれでいいんだよ・・・」
自分自身で無理やり納得させるように弾は言った。
呆れ笑いをしながら文一は言う。
「天使にまで嫌われるやつなんて多分、学校中見渡しても弾だけだろうな」
「いいさ。医者になるにはこれぐらい犠牲になっても」
それを聞いた文一は思いついた口調で弾に訊ねた。
「そういえば、医者で思い出したけど、どうなんだ? やっぱり、レベル高いのか?」
「レベル? あぁ。実は父親の知り合いに大学の教授がいて、その人がいうにはやっぱりこの高校だと厳しいらしい。だから、今は塾で勉強して、家で勉強してって感じかな」
「そっか。でも、そんなんで体の方は持つのか?」
「さぁ・・・どうだろう」
と弾は首をかしげたがすぐに、ほんの少しだけ自信に満ち溢れた目をして、言った。
「でも、なんとしてでもやらないと! 父親と約束したからな」
それを聞いた文一はうんうんとうなづいた。
「そうか。俺もできる限り協力するから。なんかあったらいつでも言ってくれ! 」
「ありがとう! 親友! とりあえず、次の授業の宿題を見せてくれ!」
「・・・・・・。おまえってやつは・・・」
昼ごはんを食べて、生徒会室に寄っていくと言った文一と別れて、弾は教室へと戻った。
提出用の宿題を文一に借りて、宿題をやり始める。
次の授業は家庭科だった。
弾は家庭科だけは本当に苦手でさらに実技の方が重視されるため、こうやって宿題でポイント稼ぎをしないといけない状況であった。
宿題を写し終わると、ちょうど予鈴がなった。
借りていたノートを文一の机の上に置いて、自分の席へと戻った。
弾はそのまま寝ようと思ったのか、机にひれ伏そうとしたところ、何かに気づいたのか、ふと顔をあげる。
すると、弾の目の前には唯加の姿があった。
「なんで、来てくれないの?」
今にも泣き出しそうな声で聞く。
「えっと・・・。いつの話のことかな・・・?」
少し、上ずった声で弾は訊ねる。
「昨日と今日の話。昨日、わたし、三時間も待ってたんだよ・・・。今日だって、お昼ご飯食べずにずっと屋上で待ってたのに・・・」
「・・・・・・」
いきなり話しかけられたせいなのか、それとも問い詰められたせいなのかはわからないが弾は驚いた顔をして何も答えなかった。
「ねぇ、なんで来てくれなかったの?」
唯加の声がそこそこ大きいせいで、一部の生徒が二人に気づき、珍しい二人の組み合わせにちらちらと視線を向け始めた。
「ごめん・・・。忘れてた・・・」
「両方とも?」
「え? あぁ、うん。両方とも」
明後日の方を向きながら答える弾。
「そうなんだ」
唯加は少しだけ笑顔になり、続けて、
「じゃあ、はーくんのスマートフォン貸して」
と言って手を差し出した。
弾は
「えっと? はーくん?」
と不思議そうな顔で訊ねるが、
「うん。早く貸して」
とうまく会話が成立していなことに、面倒と感じたのか、ポケットから自分のスマートフォンを取り出し、唯加に渡す。
唯加は右手で自分のスマートフォンを操作しながら、左手で弾のスマートフォンを操作した。
しばらくすると、できたと言って、唯加は弾にスマートフォンを返す。
唯加は弾に聞いた。
「ねぇねぇ、今日は放課後、時間ある?」
「えっと、まぁ二時間くらいなら・・・」
弾は戸惑った顔で答える。
「じゃあ、放課後あの公園で待ってるから〜」
そう言って、唯加はにこやかな顔で自分の席へと戻って行った。
弾は唯加が自分の席へ戻って行くのを確認したあと、
ひどく疲れた顔をして、机にひれ伏した。
自分の席に戻った唯加はスマートフォンを嬉しそうに見ていた。
すると、その一連の様子を見ていた佐知が唯加に訊ねる。
「ねぇ、はーくんって何?」
スマートフォンを操作していた唯加の手が止まる。
「え?」
唯加はすぐに顔をあげて、佐知を見る。
「津滝と喋ってたのも意外だったけど、それよりもはーくんって何?もしかして、弾だから、はーくん? ていうか、二人はどういう関係なの?」
にやにやした顔で佐知は言う。
「え?わたし、そんなこと言ってた? というより、聞こえてたの?」
「うん。結構大きな声だったから、クラスのみんなに聞こえてると思うよ」
それをきいた唯加の顔はみるみる赤くなり、熱でもあるんじゃないかと心配してしまうぐらいの真っ赤だった。
昼休みが終わり、五時間目の授業が始まる。
いつも授業の最初から机にひれ伏しているのは弾だけだが、この時はもう一人真っ赤になった顔を隠すため、机にひれ伏している唯加の姿があった。