老婆:市井正子の死
私の近所に住む、市井正子という名前の女性が死んだのは、私が、人よりも遅い十六歳の誕生日を迎えて一月が経った頃だった。彼女の年齢が八十歳丁度であったことを、共済のセレモニーホールで行われた葬式で、初めて知った。木の札に、法名(よく聞く『戒名』ではなく、そう書かれていた)や本名と同じように毛筆で書かれた享年を見たとき、その数字が私が思っていたのよりもずっと老いたものであったので、それを驚かずにはいられなかったし、或いはその年齢であれば突然の死も(不謹慎ではあるが)納得であるとも思わされた。
市井さんは、私の住む町の名物おばさんであり、そしてその言葉には、その言葉が別の局面では時折秘めるような侮蔑的な意味合いが一切含まれていなかったように思うし、私の周り、つまり私が知る範囲に限って言えば、ほぼ間違いなくそうであった。
彼女は自分の行く先に居る誰にでも陽気に話しかけた。顔馴染みの主婦であったり、出勤時の忙しそうなサラリーマンであったり、集団登校の小学生達であったり、その話しかける相手は全てと表現しても差し支えなかっただろう。事実、私も保育園にすら通わないような幼少の頃から彼女の記憶があるし、高校の制服を着るようになった今でさえも――というか、死のほんの二日前にも――彼女は、市井さんは私に話しかけていた。
一般に、誰に対してもフレンドリーな人間という存在は、それ自体を嫌う人間からは疎まれがちである。しかし、市井さんを嫌う町の住民は、そういった人種も含め、誰一人として思い浮かばない。何故なら市井さんは、そういった人種に対しては、そういった人種が嫌わないような、ごく当たり障りのない態度であったからだ。決して話しかけないというのではなく(恐らくそうであったとしたら、やはり多少は嫌う人間が現れていただろう)、あくまでも『大丈夫な』態度を取っていた。そういう、態度の使い分けが上手いということもあったし、また彼女は決して長話をしなかったことも、彼女を好かれ者たらしめる要因であったのだろう。
私自身、もし彼女と出会うことがあって、互いに興が乗ったとしてもそれぞれが二言か三言(それも英文であれば中学生がやるような)で終わることばかりだったと思う。
そして更に言えば、その話の内容は、今となっては殆ど思い出せるものがない。一つだけあるとすれば、中学校を卒業した後の春休みに、「どこの高校へ行くの」と聞かれ、合格が決まったばかりの公立高校の名前を答えると、市井さんがまるで旬を迎えたその日の柿の一口目を頬張った瞬間のように笑って、「昔から、頭がよかったものねぇ」と言ってくれたことだ。
それ以外の会話は、全くと言っていい程に思い出せない。逆に言えば、何かを思い出そうとしても、その一つの思い出ばかりが先行してしまい、記憶の逆行の妨げとなってしまうのだ。ある種、そのたった一つの、時間にすれば一分にも満たないその会話が、私と市井さんにとって、最も重要な『具体的な思い出』であるのだろう。私の今現在通う高校の名前と、それに対する市井さんの笑み。ただそれだけのことが。
――いや、もう一つだけ、あると言えばある。私が小学四年生だったとき、小学校からの帰り道で、市井さんの歩いていく先に(丁度話しかけるには遠すぎる程度の距離であった)私が走って飛び出したときに、市井さんにしては珍しい大声で「危ないよ」といつものしゃがれた響きを更に震わせ、それを耳にした私が慌てて立ち止まり、声の方向――つまりは市井さんの方に向くと、彼女がまたも笑って手を振ってくれた、というワンシーン。言葉にしてみれば、何故貴重な『もう一つ』がこれなのかと思うようなことではあるけれど、実際に思い出せてしまうのだから、仕方がない。きっとこれもまた、高校の名前のくだりと同じように、私の奥底の何かにとって、たまらなく忘れがたいものだったのだろう。或いは、一切そういう事情がなく、記憶の不確実性が生み出した偶然の産物なのかもしれない。
つまり、敢えて冷徹に言ってしまえば、私にとっての市井正子という愛嬌のいい女性との『具体的な思い出』というのは、ほんの三つの言葉と二つの笑顔と、そして一つの仕草だけで表現できてしまうものなのだ。
私はここまで記憶力の乏しい人間であったか、と葬式の最中、坊主頭ではない坊主が挙げるおかしな節のお経を聞きながらに思った。しかしどうにも、そういうことでもないだろう、という確信が、私の中にはあった。それが何処から来るものなのかなど、分かる筈もない。しかし、私自身の確信であるからには、私がそれを疑うことなど、できなかった。
きっと今は説明できないだけで、やがて大人になるにつれて、今という瞬間の私について、まるで工学の博士号を持つ教授がエックスとワイと係数だけで構成される連立一次方程式を解くように分析できるようになるのだろうと、私は自然に思えた。今度は確信でこそなかったけれど、代わりに自然であった。
そう思うようになった頃に、私は私の流す涙に気付いた。涙袋が、頬骨が熱くなり、その代替のように、頬や顎が冷たくなっていることに、気付いた。右目からも左目からも、傾いたコップのように、副交感神経の働きによって生み出される粒が零れている。
思わず鼻を啜る私に、隣に座っていた母が純白のハンカチを差し出した。それはまるで、元から準備していたかのような、或いはこの瞬間のことを今日の天気予報で聞いていたかのような、そういう手際の良さだった。私はそれを受け取ると、映画の中の貞淑なレディがそうするように、飽くまでも美しく、それが葬儀のプログラムの一部となるように努めて、片方ずつ涙を拭き取った。
純白の、よく見ればエレガントなレースが控えめに入ったハンカチを母に返そうとすると、母は、まるで私の存在を他人に思っているかのように、真っすぐと、ただ前の祭壇を見つめていた。
私は、母が預けたそのハンカチを、膝の上で重ねた手でぎゅっと強く握りしめた。綺麗でしわ一つなかった、高級そうなそのハンカチに、何かを刻みたかったのかもしれない。
涙は、拭いた後からはもう、溢れてくることがなかった。しかし、涙が止まったからこそなのだろうか、その瞬間から急に、ただ悲しいと表現する他ない感情が、後頭部から頭頂部辺りにかけて、押し寄せてきた。頭全体が、震えているようだった。
隣の、私など見えていなかった筈の母が、私の重ねた両手の上に――或いはハンカチの上に、母の片手をそっと載せてきた。母の手は、いつもよりかは幾分冷たいようだった。しかし、その冷たさに、私はようやく、私自身の感情を見つめることができるようになった。
『ああ、私のこの悲しみは、市井さんともう二度と会えないし、話せないし、思い出を増やすことができないことに対する悲しみなのだ』、と。私は、『具体的な思い出』が二つしかない、自分の人生の五倍の長さを歩み、戦争さえ経験したであろう女性の死に対して、涙が溢れるほどの激情を、今この瞬間に覚えているのだ、と。
焼香の順が、父に回ってきた。その次が母で、そのまた次が、私だ。母は、私の両手やハンカチの上に自分の片手を預けたまま、私に囁いた。「よく見て真似しなさいね」、と。
それは単なる、世間を知らない歳の娘を持つ母親として、明文化されてはいないものの確かに存在する世間のマニュアルに従って、その瞬間に必要な言葉を言った、というだけのことなのであろう。私は、やはりマニュアルに従って、頷くことも、応えることもしないままに、やがて立ち上がった母の直ぐ後ろについて、焼香台の元へ行き、母が焼香を行った後、その動作を『何か、祈るような気持ち』で真似をして、また席へ戻った。
席へ戻った後のことは、覚えていない。覚えていない、というのは、市井さんとの数多い筈の記憶の殆どを思い出せない、とは違った意味で、簡潔に言ってしまえば、何もなかったから思い出すことがない、ということでしかない。
私は、ただ葬儀の時間を『何か、祈るような気持ち』で過ごして、そして家へ帰った。家へ帰った後、また悲しみがぶり返してきた。今度は、涙の押し寄せる感覚が把握できていた。部屋で一人、枕に顔を押し付けて、私は、市井さんとのたった二つの思い出、特に市井正子という人間の佇まい、表情、そして声をゆっくりと順番に思い出しながら、泣いた。無意識の内にスイッチをオンしたラジオから流れていたのは、勉強時のバッグ・グラウンド・ミュージック用に周波数を合わせていたクラシック・チャンネルが選曲したらしい、シューマン作曲の『子供の情景第七曲 トロイメライ』だった。母から借りたハンカチは、返すことを忘れたまま、私の左手に握りこまれていた。
私が、市井正子の死に対して涙を流したのは、それから十年が経った今の時点では、二度きりのままだ。
二度目の涙からまた少し経って(『トロイメライ』は既に終わっていた)、枕から顔を離し、酷い顔になっていることを自覚しつつも、涙と感情が既に抑えられていることを理解してから、また時間を置いて、その死の事実やその影響について涙を流し、或いは溢れさせることは、間違いなくなかった。それは、曇りなく確信できる。私が市井さんの死について涙を流した回数は、そして、市井正子という『生きていた』人間について思い出せる『具体的な思い出』の数は、共に二回である。
そこに、運命性や必然性、若しくは関連性というものを感じることは、ない。しかし、もしも万が一、どちらかが――恐らくは想起が可能な『具体的な思い出』の数が――変わってしまうことはあるのだろうか、と考えることなら、ある。実際にそうなることは、少なくともこの十年はなかったが。
そもそも何故、十年が経った今、只の近所の住人でしかなかった筈の市井正子の死を思い出したかと言えば、帰省の折、良い酒を貰ったからという父の提案で、親子三人で酒を酌み交わしているそのときに、母がふと虫の知らせでも聞いたように立ち上がり、あの葬式のとき、私に貸した純白のハンカチを持ってきたからだ。
実のところ、この十年間で、葬式の直後――いや、死そのものの直後と言った方がいいだろうか――を除いて、市井正子という人間の存在を思い出すこと自体、薄情なことに殆どなかった。しかし、その純白のハンカチを見た瞬間に、まるで、人生で最高に面白かった二時間映画のダイジェストを見たときのように、市井正子の葬儀やその直後のことが、鮮明に思い出された。それこそ、私の記憶の一部を、強く握りしめることで、ハンカチの糸の一本一本に移していたのではないかというくらいに。
父が、「俺はもう寝る」と、お見合いの仲介人が気を利かせるかのようにその場を離れた。それを、母は見送りもせず、片肘をついて、食卓の何もない部分に向かって俯いていた。
「覚えてるかしら、市井さんっていう、おばさん」
「うん。小さい頃、よく話しかけてきた人だよね」
市井さんが私に話しかけてきたのは、小さい頃に限らないことを私は理解しているのだが、何故か、私はこういう、分別のつかない子供のような表現をしなくてはいけない気がしていた。
「あの方のお葬式に貴方も出たのよ。覚えてる?」
「初めての葬式だったのよ。勿論」
「そうよね。貴方、泣いていたんだったわ。忘れている訳がないわよね」
母の声は、何やら疲れているようだった。否、疲れているというよりも、これから疲れるつもり、というようだった、という方が正しいのだろうか。
「市井さんが亡くなったこと、悲しかった? それこそ、泣いていたのだから、悲しかったのでしょうけど」
「うん。家に帰った後も、実は泣いていたのよ。親戚でもないのに、不思議」
「私はね――いえ貴方にこう言うのは失礼になるのかもしれないけど――」
こう前置きした後、母は、暴かれきった殺人事件の自白をさせられるときのように、深く深く、息を吐いた。それから、こう続ける。
「私は、ちっとも悲しい気分になれなかったの」
母の表情は、全くと言っていい程、暗さというものを感じさせなかった。それは寧ろ、スーパーの中で、じゃがいもか何かを前にして今日の夕飯に悩んでいるような、そういう表情だったのかもしれない。
母は続ける。
「いいえ、悲しいとは思ったのかもしれない。何しろ十年前のことだもの。ただ、貴方のように、涙を流す程までには、悲しくなれなかった――ちっとも、悲しくなかったのかしらね」
私は、何か言うべきだとは思ったが、口を開くべきではないという直感の方に従った。
「ええ。悲しい気持ちには、なれなかった。貴方よりも長い間、あの方に話しかけてもらったのだもの」
それは、当然のようでいて、少し意外でもあった。市井さんのあの性格が、私の記憶できる範囲から始まっていたとは考える筈もない。しかしもう一方で、そもそも私が産まれる前、という時間のことを、私は今まで実感できていなかったからだ。
「私とお父さんがこの家に住み始めてすぐ、あの人は、私たちに話しかけてきた。それは、当時の私たちにとって、救いのようでもあったわ。百人並みに、知らない土地で不安な気持ちだったもの」
「その後も、ずっと?」
「そうよ。あの方は、私が子供を――つまり貴方を――連れていたら、私と貴方、両方に必ず声を掛けてくださったわ」
「例えば、どんな風に?」
私は、何気ないつもりで、実のところ私にとってたまらなく重要な質問を母に投げかけてしまったと、言い終わってから気付いた。母は、私の心を全て解っているかのように、答えた。
「貴方が覚えているのと、同じようによ」
ポーカーで勝ち役であると確信しながらカードを出すギャンブラーのように、母は言った。
「――あの方が具体的に、何を言ったか。それを、全然思い出せないの。一つとして。一言として、ね」
直後、母は腕を枕にすることなく、食卓に突っ伏して眠ってしまった。
そういえば、母の飲んだと思われる酒の量は、いつになく多かった。母が急に眠りに落ちてしまったのは、それが原因なのかもしれない。しかし、そうでもないようにも――否、その逆のようにも思われる。つまり、母は既に眠っていたのだ、と。夢の中の母は、酒による眠りの浅さのために、まるで起きているかの如く振る舞い、そして実際に目を開けていた。その酒が晴れたが為に、漸く眠ることができた。そういうこともあるのかもしれない、と思いながら、私は父と母の共用である寝室に、父を呼びに行った。父は、今目覚まし時計のアラームを聞いて起きたかのように、ベッドから身を起こしていた。
「お母さん、寝ちゃった。運んであげてくれる?」
「あぁ、最近よくあるんだよなぁ」
とぼけるような父は、後頭部を搔きながら、のそのそと起き上がった。
「お父さんが運んでおくから、お前も寝なさい。片付けもやっておく」
私は、その言葉に甘えることにして、学生時代のままの見た目である部屋に戻った。私が、市井正子の葬式の後に涙を預けた枕も、未だに使っている。
なんとなく、そのときのことを思い出すように、私はラジオのスイッチをオンにした。(高校三年生のときに、新しいものを父が与えてくれた)
聞こえてきたのはクラシックチャンネルではなく、少し雑音が多い深夜ラジオ番組だった。中年のパーソナリティが読み上げるはがきの内容もラジオネームも、とても聞き取れたものではなかったけれど、私は音量だけを調節して、受信周波数を弄らないままにした。
雑音だらけの、知らない人の声を聞きながら、私は母と市井正子の関係について、思いを巡らせた。きっと内に秘めているであろう思い(勿論、私が当てずっぽうに推測しているだけだ)とは裏腹に、一度も泣くことのなかった母のことを。そして、誰彼構わずに好意的な関心を示す態度を貫き続けた、自分よりも六十四も年齢が上の女性のことを。
私は、余りにも浅い夢から覚めるように、眠りに就いた。