それぞれの思い
次の日の朝早くに、イリスはユキヤの部屋を訪れていた。
三回扉を叩いて声をかける。
「ユキちゃん、イリスよ。……入っていい?」
「ああ、どうぞ」
部屋の中から、快活そうな声が聞こえた。
イリスはそっと扉を開け、そして驚愕する。
部屋には鎧衣ーー彼らが狩りや戦の時に着る軽く丈夫な鎧ーーを身につけ、銀糸のように美しく長い髪を器用に結い上げ纏めているユキヤが立っていた。
「ユキちゃん……何してるの?」
「何って……戦支度だが」
当たり前のように言うユキヤに、慌ててイリスが駆け寄る。
「だっ……駄目よっ!!昨日、出産したばかりなのよ? まだ身体も万全じゃないのにっ」
「イリス……落ち着け。子供が起きる」
ユキヤは、彼女自身の唇に人差し指を近づける仕草をした。
ユキヤの寝台の隣には、小さな寝台がニつ並び、そこに一人ずつ昨夜誕生したばかりの双子の兄弟がすやすやと気持ち良さそうに眠りについていた。
「……あ。ごめんなさい」
落ち着きを取り戻したイリスを見て、ユキヤは微笑む。
赤ん坊を起こさぬように、声の音量を落としながら二人は話した。
「ユキちゃん。お願いだから、もう少し休んで。疲れていては、いくらユキちゃんの影が強くても危ないわ」
そう懇願するイリスを尻目に、ユキヤは首を左右にゆっくりと揺らす。
「……もう、此処に戻ってきてから二月も経っている。それなのに、任務が完了したとの報告はない。……私が行かなくては」
彼ら一族は、一族の集落に留まり、緋眼と一族の生活を護る者、そして、外界へ出てその能力――影と呼ばれる妖を使役する事ーーを使い…人々へ害をなす妖魔を退治したり、戦の傭兵として働く者達に分かれている。
イリスは前者、ユキヤは後者であった。
「依頼のあったカムリの街は、数多くの妖魔が跋扈していた。中には強い妖魔もいる。……早く、人々が安心して暮らせるようにしてやりたいんだ」
ユキヤは、強い決意を秘めた瞳をしている。
そんな彼女を見て、イリスは諦めたようにゆっくりと息をついた。
「止めても、もう、駄目なのね」
俯き、口を真一文字に結ぶイリス。
そんな彼女の様子を見て、ユキヤは慰めを含んだ声で言う。
「すまない、イリス。……私の居場所は此処では無いんだ」
「………わかって、いるわ」
理解している。
人にはそれぞれの役目がある。
彼女はそれを全うするために行くのだということを、頭ではわかっていた。
だが、感情が追いついてこない。
彼女の瞳は、うっすらと雫が光っていた。
「イリス……お前がいるから、私は行けるんだ」
イリスはその声に俯いていた顔を少し上げる。
そこには、優しく微笑むユキヤの顔があった。
「お前が待っていてくれる。その思いで、私は頑張れる。私の帰る場所は、お前の所だ。……いつも、心配かけてすまない」
「ユキちゃん……」
イリスは驚き呟く。
それはユキヤが初めての告げた言葉だった。
「昨夜、紫陽が来たよ。すまなかったと言ってきた」
昨晩、長老達の話し合いで紫陽が子供たちを葬るべきだ、と言っていたことをイリスも昇星から聞いて知っていたのだった。
「ユキちゃん、しーちゃんは……」
言いかけたイリスを、ユキヤは少し微笑んで制する。
「わかっているさ。紫陽は人一倍、一族を大切に思っている奴だ……そして、昇星兄が、それを止めてくれたことも聞いた…本当に、感謝する」
そう言って、ユキヤは少し目を伏せる。
「……………」
イリスはユキヤの言葉を、一つ一つ噛み締めるように聞いていた。
「長老達の話し合いで、双子を葬ると決まってしまったら……二人を連れて、此処を出るつもりだったんだ。……此処には二度と戻らず、自分の役目を全うするつもりだった。だが、昇星兄に助けられた……」
再び、ユキヤは顔を上げ言葉を紡ぐ。
「二人になら、この子らをきっと良い方向へ導いてくれると思う……子どもの成長を見られないのは残念だが……今回の戦は、この子らの父親の弔いでもあるから……」
そう言って、ユキヤは首から下げていた同じ石のついた首飾りを二つ取り出し、それをイリスに見せた。
「これは……?」
「 金緑石の首飾りらしい。……この子らの父親に貰ったものだ。お互いに、一つずつ身に付けていたんだがな……。あいつは先に、逝ってしまったから……」
ユキヤはその首飾りを、まるで祈るように優しく握りしめた。
「この子らに、一つずつ渡してほしい。そして、私たちの事は何も言わず、お前たちがこの子らの親になってもらいたい……」
「ユキちゃん……!!それは……っ」
思わず発してしまったイリスの言葉に、ユキヤは再び頭を振った。
「こうするのが、きっと一番いい……」
そう言い、ユキヤはイリスに二つの首飾りを渡す。
「黎明」
ユキヤがそう言うと彼女自身の影が揺らめき、そこから黒い霧が現れ、黒い霧はやがて、長身で黒髪の男に変わった。
「黎明、カムリの街へ戻る。一刻も早く……行けるか?」
「勿論です。主」
ユキヤの影、黎明は、そう言うと黒い鬣をした大きな有翼の一角獣へと姿を変える。
「イリス……子どもらを、頼む」
ユキヤは、イリスに深く頭を下げた。
「ユキちゃん……!大丈夫よ!安心して、行ってらっしゃい!」
イリスは悲しさを振り払うように、明るく告げる。
ユキヤは、彼女のその言葉に嬉しそうに微笑むと、黎明の背にまたがった。
「行こう、黎明」
その言葉を合図に、ユキヤを乗せた黎明は黒い霧になる。
「どうか、無事で……!」
その言葉に……霧になり、消えるユキヤが笑ったように見えた。