表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

にぎりだこ

作者: 景雪

 東京に近いこの町も、一月の深夜にもなると氷点下近くまで冷え込む。紗季子はコートの袖の中に丸めた掌を潜り込ませ、首から頭全体を引っ込ませて少しでも寒さを和らげる努力をした。駅前のタクシー乗り場に並ぶ人の列にうんざりし、徒歩十二分の選択肢を選んだが、果たして正解だったかどうか危うくさえなっていた。

 「ほんと、最悪だったな」

 タクシーもほとんど通らない駅前通りは、独り言を聞かれてしまう相手さえいない。うっかり今日の新年会を思い出してしまい、紗季子は冬の凍った空気に乱暴に言葉を放った。課長の発案で、新年の抱負を一人一人発表したのだ。何も話すことがないので、酔っぱらっての帰り道、横浜の職場から終点の埼玉県某市まで行ってしまったことを話した。抱負は、寝過ごさないこと。そんなどうでもいい発表に対しても、やけにその場が盛り上がってしまったのが何故だか憎らしかった。

 ――そういえば、あいつと初めて二人で帰ったのも、新年会の帰りだったっけ。

 頬に触れる空気は、肌を削るような痛みを伴う。紗季子は、ちょうど一年前にあの男と二人で帰った記憶をふっと思い出した。

 ――やだ。まだ未練あるの、あたし。

 笑うと、皺の寄った部分に冷気が滑り込んで余計に体温が下がる。けれど紗季子は構わず、自分自身に飽きれるように笑った。

 ――あいつ、元気にしてるかな。あたしのこと、覚えてるかな。

 そこまで考えて、急に身体の奥から逆流してくる熱い塊を感じた。こらえようとしたが、その塊の勢いには抵抗できなかった。紗季子の右の瞳の端から、一筋のしずくが流れた。冷気にさらされ続けている顔の表面を、紗季子の体温とちょうど同じ温度のしずくは、溶け落ちるように流れた。紗季子は自分の左の掌を右手で、さするようになぞった。何度も何度もなぞったが、ただの掌があるだけだった。

 ――覚えてるよ。絶対。だって、あいつは――

 左の瞳からもしずくは流れ、また右の瞳からも流れ、紗季子はその流れに反抗するように顔を真上に上げた。雲のない、深さのある冬の空が、つぶつぶの星を全面にたたえていた。紗季子はそのまま目を閉じ、途中まで思い出してしまった一年前の記憶を、しまい込んでいた場所からそっと引っ張り出した。


   * * *


 一年前、課の新年会の帰り、紗季子は最寄駅から同僚の男と一緒に歩いて自宅に向かっていた。男は黒川といって、紗季子より一つ年上だった。紗季子が課に異動してきた最初の年なので、ちょうど十か月目、黒川は課では一番の古株で五年目だった。何故駅から一緒に帰ることになったかというと、最寄駅が同じで、黒川の自宅のちょうど中間点に、紗季子の自宅があったからだ。黒川は紗季子の自宅そばに引っ越してきたばかりだった。

 異動して九か月以上一緒に仕事をしていたが、紗季子にとって黒川はどうでもいい男の一人だった。成人男性の平均身長近くある長身の紗季子にとって、自分と同じくらいしか背丈がない男はそもそも男というかただの「男性」だ。事実、紗季子の夫も身長一八〇センチ以上だったし、結婚するまで付き合ってきた男たちも全員それくらいの身長があった。黒川は無口で面白味がない男だった。顔は悪くはないが良くもない。口調も態度も丁寧だが、丁寧過ぎて面白味がなさすぎる。余りに特徴がないので、紗季子は自分の席からちょうど見えてしまう彼の背中を、壁か何かの一種だと認識していたほどだ。

 けれど、せっかく二人きりになってしまった事実と、翌日から控える三連休の安心もあって、紗季子は黒川を誘ってみることにした。たまにはつまらない男と飲んでやるのも悪くないかもしれない。

 「黒川さん。まだそんな遅くないですし、もう一軒行きませんか」

 黒川は、斜め後ろを振り返って、ほんの少しだけ笑いながらうなずいた。

 「ええ。いいですよ」

 二人は朝まで営業しているチェーン店の居酒屋に入った。時間は一二時を回っていたが、少し飲むくらいなら可能な時間帯だ。

 「ごめんなさい。奥様に怒られませんか?」

 「いや、大丈夫。妻には歩いて帰るとメールしましたから、少しなら」

 年下の自分に対して、敬語を崩さないこの男が紗季子は憎らしくも思えた。化けの皮をはがしてやろう、そんな風にさえ思った。

 「お酒、強いですよね。黒川さん」

 「そんなことはないですよ。石田さんだってかなり飲めるでしょう?」

 確かに黒川は酒が強かった。ウイスキーでも焼酎でも日本酒でも、何をどんなに飲んでも顔色を変えないし、酔っているようには見えない。女にしては酒が強いと自覚している紗季子でさえも、黒川ほどには酒の席で平静を保っていられる自信がない。

 「黒川さん、お酒に詳しそうだから選んでくださいよ。強いお酒がいいな。強いお酒を少しだけ飲んで、帰りましょう」

 紗季子はアルコールのメニューを黒川に差し出した。黒川が何を頼んだのか紗季子は覚えていない。覚えていないほど、急激に酔いが回ってきてしまったのだ。同時に、紗季子の記憶も途切れてしまった。

 記憶が戻った時、紗季子は黒川に腕を抱えられながら国道を歩いていた。タクシーの一台さえ通らない国道は、冷たい空気の流れが音を出すかと思うほど、無音だった。

 「ごめんなさい、酔っちゃって」

 「いえ、すみません。もう結構飲んでるのに、あんな強いのを頼んだのは僕のミスでした」

 黒川は進行方向を見つめながら、左手を紗季子の左腕に、右手を紗季子の腰の右側に添えていた。大柄ではないのに、意外と腕の力はある。引かれているその腕に身を任せても十分安心できた。

 「タクシー呼びましょう。家はどこですか?」

 「もうすぐそこなんで、平気です」

 予想外に居心地がいいので、紗季子はそのまま黒川の腕に身を任せていたかった。分厚いコートや冬服ごしではあるが、彼の体温を感じていたかった。わざと歩幅を小さくし、足取りを重くさせた。すぐに自宅まで着いてしまうのが、どうしようもなく嫌だった。

 紗季子は、背が高く目鼻立ちがはっきりし、手足が長く顔が小さい、いわゆる美人と言われる容貌なので、男に困ったことはなかった。見てくれだけはいい男がいくらでも寄ってきた。そういった男の中で一番稼ぎがいい男と結婚した。二十五の時だ。夫は確かに稼ぎは良かったが、勤務時間が不規則な仕事をしており、休みも全く合わなかった。結婚当初のダブルベッドはしばらくして捨てられ、どちらからともなく寝室は別になった。夫婦一緒の外出も、会話も、顔を合わせることもなくなっていった。勿論夜の営みもここ何年もなかった。紗季子は見てくれのいい男友達から適当なのを選んでは、知らない町のホテルで密会する日々を送っていた。

 「黒川さん」

 大通りからちょうど路地に入ったあたりで、紗季子は黒川の胸に抱きついた。どんなに飲んでも変わらないこの男の鉄面皮を、はがしてやりたいと思った。

 けれど、黒川は何も言わずに紗季子の背中に腕をまわした。掌と腕を全体に使って、紗季子を自分の胸に抱き寄せる。背がほとんど同じではあるのだが、黒川の胸の中が予想外に温かかく、違和感がなかった。紗季子は自分の胸の鼓動が聞かれるのではないかと焦りさえした。

 ――やめてくださいとか、酔いすぎですよとか、絶対言って拒否すると思ったのに。

 胸の鼓動を一層高鳴らせながら、紗季子は黒川の胸の中にとどまった。時折、黒川の掌が、紗季子の背中を這った。その度に紗季子は、恥ずかしくなるくらい小刻みな痙攣をしてしまった。少し声も漏れていたかもしれない。黒川の腰にまわした腕に、紗季子も目一杯の力を入れた。どちらかというと細身の彼の胴回りは、冬服を着ていても筋肉の張りが確かに分かった。筋肉の凹凸を確認するように、紗季子はコートごしの腕を黒川の胴に押し当てた。


 それから、課内の飲み会がある際は、いつも駅から二人で歩いて帰るようになった。二人だけで一杯だけ飲んでいくこともあったし、ただ歩いて帰るだけのこともあった。いつも変わらなかったのは、黒川の胸に紗季子が抱かれていたことだけだ。細い路地や、居酒屋の個室などで、紗季子は毎回必ず黒川の胸に身を投げ出した。彼の腕に背中を撫でられていると、夫婦生活や仕事など、嫌なことを忘れられるから不思議だった。彼の掌の一部に、何故だか知らないが何か所か固い部分があって、そこが背中や腕や、首筋や腰に触れる度に、紗季子は意識を失いそうにさえなった。ただ、抱きしめられる以外のことはしなかった。正確に言うとできなかった。黒川がすることを許さなかった。

 一度、居酒屋の個室で、紗季子から唇を交わそうとしたことがある。けれど、黒川は顔を横に向けて拒否した。彼の下半身に触れようとしたこともあるが、優しくではあるが掌を遠ざけられた。既婚者だから、そんなことはできないと言うのだろうか。であるなら、同じく既婚者の自分と二人きりで会って、抱きしめることは妻への裏切りではないのか。妻以外の女を抱きしめることと接吻することと、どう違うというのか。

 「黒川さん、ずるいよね」

 二人で帰るのが恒例となった何度目かで、紗季子はたまらずに言った。

 「え?」

 「抱きしめるだけしといて、それ以上拒むし。あたしがそんなに魅力ない? 奥さんがよっぽど美人なんだ」

 黒川は一瞬黙った。言葉を慎重に選んでいるのだとうっすらと分かった。

 「いえ。抱きしめるだけだったら、許してもらえるかなって」

 「なにそれ。随分自分勝手ね。奥さんにあたしたちの関係ばらしちゃおうか?」

 珍しく笑いながら、笑うといっても苦笑に近い笑いで、黒川は続けた。

 「石田さん、抱きしめられてないでしょう? いや、その行為自体はしてもらってるかもしれないけど、心から身体を預けられるような、そんな抱擁をされていないでしょう?」

 黒川の言っている言葉の意味が理解できなかった。けれど、紗季子は逢引をしている男たちの顔を思い浮かべ、彼らがただ欲望のはけ口としてしか自分を扱っていない事実を、思い出しながら自分が震えているのを感じた。

 「これ、気付いてました?」

 黒川は左の掌の、小指から中指までの付け根を紗季子に示した。そこには、たこか魚の目のようなしこりがあった。

 「握りだこです」

 「にぎりだこ?」

 「ええ。中学から大学まで剣道をやってましたから、竹刀の握りだこです。もう大学を卒業して十年経ちますが、まだ消えないですね」

 そう言い終わるか終らないか、黒川は両腕で紗季子の背中を覆い、自分の胸に力一杯引き寄せた。心地良い息苦しさを感じながら、紗季子は彼の胸の盛り上がりを十分に感じた。夏のノーネクタイの時期だったから、薄手のシャツは彼の体温をほとんどそのまま紗季子に伝染させ、彼女の背中に、いつもの腕と掌が這わされた。下から上に、優しくも力強く動くそれら。左の掌の三つのこぶが、その存在の理由を知ってしまったからなのか、いつも以上に紗季子の身体を刺激した。こぶに削り取られるように、少しずつ奪い取られるように、紗季子自身が壊れていくような錯覚が襲った。

 「ずるいよ。人をその気にさせといて」

 いつのまにか涙が、両目の目尻から流れていることに気付いた。

 「ごめん」

 この一言が、黒川からかけられた、唯一の敬語以外の言葉だった。黒川は笑いながら、指を紗季子の頬に這わせ、涙を拭った。紗季子はたまらなくなって、黒川の胸に頭を打ちつけて泣いた。嗚咽の声が漏れるのも構わずに泣いた。黒川は、ずっと紗季子の背中をなでていた。自分の背中を動いていく三つの握りだこを、紗季子はずっとずっと感じていた。


   * * *


 耳障りなクラクションで、紗季子は閉じていた目を開けた。振り向くと、下品に改造したセダンが、紗季子のすぐ隣に停まっていた。

 「カノジョ、暇? もうタクシーないでしょ?」

 殺してやるくらいの視線を、紗季子はドライバーの男に送った。さすがに男はたじろいだのか、一瞬軽口を飲み込む。

 「もっといい女なんていっぱいいるでしょ? 消えなよ。すぐに怖い男が来るよ」

 ドライバーは舌打ちをして、意味のない空ぶかしをしながら去って行った。過去の自分を見ているようで、紗季子はどうしようもない虚無に襲われた。

 最後に二人で会って、紗季子が号泣したあの日、あの日からすぐだった。黒川が退職したのは。条件の良い転職先が見つかったからというのが表向きだったが、紗季子には分かっていた。自分から逃げ出したことを。

 「黒川さん。ひどいですね」

 会社では話しかけない決まりだったのに、紗季子は二人きりになるのを見計らって黒川を問い詰めた。

 「すみません。本気になりそうだったので。石田さんが魅力的だから」

 嘘つき。あんたはあたしなんか何とも思ってないくせに。あたしが本気になったのを察知したんでしょう? だから、自分から消えようとしたんでしょう? どこまでお人よしなんだよ。女房もいるのに、何でそこまでできるんだよ。何で自分の人生を犠牲にしてまで、他人のあたしを救ってくれたんだよ。

 紗季子は黒川の胸に顔を突っ込んだ。無人の給湯室だが、いつ他の社員が来るか分からない。しかし黒川は、いつもと少しも変わらない腕と掌を、紗季子の背中に這わせてくれた。握りだこを背中に感じながら、不覚にも紗季子はまた泣いてしまった。泣きながら、握りだこを少しでも長く感じていられることを、身体中で望んだ。

 ――覚えてるよね、あたしのこと。

 紗季子は思う。黒川は決して私のことを忘れてくれていないと。リスクを負ってまで救おうとした相手だから、負の記憶としてでも覚えてくれているはずだ。きっとそうだ。馬鹿な女を、救ってあげたと少しでも覚えてくれているはずだ。

 夫とは離婚し、黒川の自宅とは近かった町も離れた。身体の関係だけの男たちとも縁を切った。黒川の腕や掌のように、あの力加減と優しさと温かさで包み込んでくれる男に出会うまで、一人でいることを決心した。

 「剣道をやっていた人がいいかな」

 また独り言を声に出してしまって、紗季子は思わず笑った。握りだこのない、自分の左の掌を右手でさすりながら、紗季子はあの三つの握りだこの感触をもう一度思い浮かべた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ