幕間・佐々木仁と中村杏里
水道の蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく流れ落ちた。
水桶と杓子を所定の場所から持ってきて、たくさんある蛇口の内の一つを借りる。蛇口からあふれ出る水は、水桶の内周をぐるりと回って水位を上昇させていく。俺はその中に杓子を放り込んで、手近にあるぞうきんを水桶の縁に引っかけた。
満たされた水が、ぞうきんに染みこんでいく。
……手慣れたものだ。
右手に携える重量感。揺れる度に縁から飛び出しそうになる透明な水。
まるで京都の町並みのように碁盤の目をなすたくさんの墓石。
その隙間を縫って、目的地へ至るまでの最短距離。
身につけたくてそうしたわけではないけれど、いつの間にか身に染みついてしまった道程。
この先は行き止まりだから、その手前で曲がっておくこと。
遠回りのようで実は近道であること。
壊れた卒塔婆を目印にして、左折すること。
同じ高さの灰色の御影石を門に見立てて、その間を通ること。
そのまま直進し続けて、突き当たりの大きな墓石を曲がること。
……そして、砂利道を約二十メートル進んだ先に、目的の場所はある。
「見ない顔だな」
俺が声をかけると、俺と同じように水桶と杓子を持った女の子がにっこりと笑った。
「先輩……ごめんなさい。私が来ていいのか分からなかったのですけど、でも、先輩の行くところ、私もついて行かなければいけないような気がして」
通り過ぎざま左手で脳天にチョップを落とすと、杏里は頭を押さえて片目だけ目をつぶった。
それほど痛くしたわけではないが、杏里には堪えたようだった。
「ああ、う……違いますね。今のは言い訳なのです。本当は、ただ私も見ておきたかったのです。先輩の見てきたもの、先輩の見ていくもの、いろいろなものをです」
杏里が足下に置いた水桶と杓子を持つと、表面張力に耐えきれなくなった水が、水桶からこぼれだした。ニーソックスを濡らした杏里が、がっかりしたように肩を落とす。
「……冷たいのです」
「水を入れすぎだ。墓を水浸しにする気か」
「でもでもでも、大は小を兼ねると言いますか、柔よく剛を制すと言いますか、山椒は小粒でもぴりりと辛いと言いますか、キジも鳴かずば撃たれまいと言いますか」
「何をどう言いたいのか、俺には全く分からん。なにが、と言いますか、だ。とりあえず、一つ分かったことと言えば、お前がわざと普段使わないことわざを並べ立てて、自分の知識をひけらかそうということぐらいか?」
俺がつまらなそうにため息をつくと、杏里は今にも飛び上がらんばかりの勢いで、俺の横に並ぶ。
「何をおっしゃいますか、先輩! 杏里にとって今のは激しくワールドスタンダードですよ?」
楽しそうに笑む杏里は、俺の右側に並んで歩く。
俺は、歩幅の狭い杏里に歩く速さを合わせてやる。
俺の左手に持った水桶。
杏里が右手で持った水桶。
たっぷりと入った水が、二人の歩幅に同調するように揺れる。みずみずしい音のアンサンブルは、杓子が転がる音も相まって、まるで狂想曲のようだ。厳格な形式によらない、感興のおもむくままに作られた器楽曲。
「じゃあ、山椒は小粒でもぴりりと辛い、を使って何か文章を作ってみろ」
俺より頭半分小さい杏里に、嫌らしい笑みを浮かべて見せる。
「……それは杏里に対する挑戦と受け取っていいのですね?」
杏里の頬がふくらんだ。
「いいぞ」
鼻を鳴らす俺。
「受け取ってしまっていいのですね!?」
「ああ」
背伸びをしてさらに頬をふくらませる杏里。
「受け取りますよ!?」
ぴょんぴょん跳ねるな。お前はウサギか。
「本当に受け取ってしまいますよ!?」
「いいからさっさと受け取れ!」
思わず杏里の脳天にげんこつをたたき込んでいた。
反射的に手をあげてしまうのは、人間としてどうなのだろうか。
先日、杏里の落ち度のない話に対しても手が出てしまった俺は、きっともう重傷だ。
「……先輩、こういう場所ではお静かに願います」
「お、ちょうどいいところに水がある」
水桶に入った杓子に手をかけて脅す。
「お前のゆで上がった頭を冷やしてやるにはぴったりだな」
「年寄りの冷や水………………ふっ」
さりげない笑みを浮かべて前髪をかき上げる杏里。
ショートボブなので、なびくほど前髪がないのは愛嬌だろうか。
鼻で笑う様が何ともニヒルだ。
「あのな、うまいこと言ってやったぜ……という表情をしているが、今のはこれっぽっちもうまくないからな。それより、ほら、山椒も小粒ではどうした?」
「むむむ……分かりました」
砂利道を歩む音が止まる。俺もつられて止まった。
「ある日、AさんがBさんに頼み事があるといって電話で呼び出したんです。Aさんのあまりに真剣な声にBさんはただごとではないと思い、あわてて家を飛び出します。ところで、最近の日本経済は……」
「ところで、って話を急に変えるな」
ニュースの途中で緊急速報が入ったように話題が転換した。
思わず横やりを入れてしまった俺に、杏里は人差し指を右に左に揺らす。まるで柱時計の振り子だ。
「先輩、世界設定から入らないとなのです。物語の中に引き込むにはそういう設定が必要不可欠なのですよ」
「あー、もういい、さっさと続けてくれ」
頭痛が襲ってきたので、俺は額に手を当てた。
この徒労感、伝わるだろうか。
「もう、先輩はせっかちさんなのです。そんなに焦らなくても、杏里は逃、げ、ま、せ、ん、よっ!」
自分の体を抱きしめて頬を染める杏里。
最後の言葉の後には、俺の唇を人差し指でふさいできた。
血管が切れるとしたら、今しかないだろう。
堪忍袋の緒が切れるとしたら、今をおいて他にはないだろう。
我慢は体に毒だ。毒は吐き出すのが一番。我慢する必要はない。
そもそも、なぜ我慢していたのかが分からない。
我慢する必要なんてないな、うん。
負の連鎖が、杏里の背筋に悪寒を走らせる。肩をふるわせる様でそれがよく分かった。
「じょ、冗談なのです!」
選手宣誓をするように、高らかに手をあげて敗北宣言をする杏里。
大量の汗が頬を伝っていった。
「え、ええと、も、もう一度最初からいきますね。山椒は小粒でもぴりりと辛い……はい、分かりました。一事が万事オーケーなのです」
杏里の咳払い。
俺は情けで聞いてやることにした。
杏里は水桶を足下に置くと、身振り手振りを交えながら表情豊かに語りはじめた。
「ある日、AさんがBさんに頼み事があるといって電話で呼び出したんです。Aさんのあまりに真剣な声に、Bさんはただごとではないと思い、あわてて家を飛び出したのです。いったいAのやつどうしたって言うんだ。普段はあんなに落ち着いているAが……。つぶやきながら約束の場所に向かいます。近所の喫茶店『アルマジロ』に呼び出されたBさんは……あ、アルマジロというのは豚の角煮カレーが有名な店でしてね、中国人のマスターがちょびひげを生やしていてこれが何とも海賊ゲームのあれに似ていて面白い人なのですよ。Bさんは、なかなかやってこないAさんを、いらいらしながら待っているのです。なんだよー、大事な話があるって言うから待っているのに、Aのやつちっとも姿を現さないじゃないか。よし、こうなったら、昼飯でも食べながらのんびり待つか。ぽんと手を叩いたBさんは、カツカレーを注文するのです……」
腕を組んだ杏里はうんうんと深く頷いている。
「…………それで?」
「それで、山椒は小粒でもぴりりと辛いのです」
「どこがだ!」
思わず特大の疑問符を浮かべた俺に、杏里はさらにない胸を張って見せた。
もちろん、反射的に握り拳を杏里の頭上に振り下ろしていた。
今のげんこつは、意思や思考を飛び越えて脊椎が反応した。
だとすれば、俺はもう手遅れなのだろうか。
「い、痛いのですよ……今、杏里の海馬が深刻なダメージを受けましたよ?」
涙の粒を目尻にためて、つぶらな瞳の上目遣い。
お散歩に連れて行って、とねだる子犬の目に似ている。
まん丸の目が、水の幕を帯びてゆらゆらと不安げに揺れていた。
不覚にも、時々その目にどきりとさせられてしまう俺がいる。
もしかしたら、俺はこの目が見たくて手をあげているのだろうか。
……いや、よく考えてみろ。杏里だぞ。流石にそれはないだろう。
俺は思考の茨から抜け出して、杏里に指を突きつけた。
「それにAさんとか、喫茶店『アルシンド』とかいらないだろうが!」
「ち、ち、ち、分かってないですね、先輩。喫茶店『アルマジロ』です」
「俺が言いたいのはそこじゃない!」
「まさか、角煮カレーが有名な店で、なぜにカツカレーというつっこみどころなのですか!?」
「自分でボケの解説をするな!」
二人の応酬が、青空に広がっていく。
閑静な住宅街を抜けたところにある、緑豊かな墓園。
週末、誰も訪れる人のない場所で水桶を持ちながら、漫才まがいのことをしている。
とても奇異な光景だ。
明るくていい場所ではないのに。
足取りが重いぐらいの方が適しているのに。
寂しい気持ちでいる方がお似合いの場所なのに。
俺は寂しさを少しだけ忘れていた。
左手に持った水桶の重さがいつもより軽い。水の量が少なすぎたのだろうか。
「絶好のお墓参り日和ですね」
杏里が空を仰いだ。
歩きながら目をつぶって、息を大きく吸い込む。
大自然の真ん中というわけではないのに、杏里は本当に気持ちよさそうだ。
「ああ、一時は雨が降りそうなほど曇っていたのに」
俺もつられて目を向ける。
広がる空は、小学生がよくやる青空の描画の仕方。
色と色を混ぜてグラデーションを作り出すのではなく、青い空だから青い絵の具、水色の空だから水色の絵の具といったように、チューブからしぼり出してそのまま塗りたくったような空の色。
気持ちのいいぐらい群青一色に染め上げられていた。
「先輩、杏里は空を捕まえましたよ」
俺の袖をくいくいと引っ張った杏里が、笑顔で俺の前に水桶を差し出す。
そこには、鏡に写したようにうり二つの、美しい空で満ちていた。
「お前は三歳児か」
杏里を馬鹿にしながらも、水桶を見せられたとき、ああ、本当に空が捕まっている、と思ってしまったことは内緒だ。
杏里の無邪気な笑顔と、袖を引っ張る一定の引力。
決まった歩幅と、向けられる視線の位置。
俺もいよいよ毒されてきたのだろうか。
証拠はそろっている。
ふいに声をかけられた時、向けられる視線の高さに自動的に目を落としてしまう自分がいる。
服が樹木のささくれに引っかかっただけなのに、それがいつもの強さだから思わず振り返ってしまう。
……少しだけ、本当に少しだけ、その勘違いを残念に思っている俺がいる。
気がつけば、必ず俺の右側を歩くようになった杏里。
誰が決めたわけではない。これは自然に決まってしまったことだ。
左側にいられるとなぜか落ち着かないし、話しづらいとさえ思えてしまう。
……なんなんだろうな、ちくりと胸が痛くなる。
考えたときに瞬間的に訪れる痛み。
そうか、これが思い出が上書きされる痛みなのかもしれない。
人の記憶力には限界があって。覚えていられないこともあって。
それらがどんどん増えていく。楽しいことには楽しいことだけの記憶領域。
その中に入りきれなくなった思い出が、上書きされていく痛みなんだ。
フラッシュバックするように、俺の記憶を少女が走り抜けていった。
過去。俺の右隣を歩いていた少女の記憶。
現在。俺の右隣を歩いている少女の記憶。
上書きされてしまう。少しずつ消えていってしまう。まるで風化されるように。
「……佳乃」
そして、俺は黒くそびえる墓碑の前に立つ。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
みなさん推測の通り、最終話ではありません。突然、あ、幕間を書こうかな、と思い立ってしまいました。思い立ったが吉日と言うわけで書いてしまいました。
コメディがやりたかったというのもあります。最終話の展開などは全く変わったりしないので、この幕間はあくまで補完材料です。蛇足になっていなければよいのですが……。
評価、感想、栄養になります。




