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特別編・第六話・夕凪佳乃が残したもの・下

「羨ましい……ふふ、仁君も大変ね」


 母の目尻にしわが寄る。

 いつの間にか母は歳を取ってしまった……もちろん、取らせてしまったのは、他でもない私だ。


 私の記憶のひもをたどると、そこにはいつも綺麗で輝いていた母がいた。


 父との間に、一人娘である私が誕生してから約十七年。

 私が生きていた頃、母は体重が増えてしまったと体重計の前で愚痴をよくこぼしていた。

 それでも、私から見ればそれは些細なことで、二の腕なんかは私とほとんど変わらないくらいに細かったし、腰回りだって服を着てしまえばなんの問題にもならないくらいだった。


 母の自慢。

 それは、よく私を娘ではなく妹としてみられること。


 若作りもそこまで行けば十分だ。

 逆に私が老けて見えているのかな、なんて自己嫌悪に陥ってしまう。

 それぐらい、母は娘の私から見ても綺麗だった。

 授業参観の時は他のお母さんが年並みに太っていたり、老けていたりするのに比べて、母は圧倒的に美人だった。そんな母に私は鼻高々。

 授業参観や、学芸会、進路相談……諸々の親子同伴の学校行事がある度に、私はよく言ってものだ。


 ――今度の行事もお母さんがきてね。お父さんは絶対に駄目。


 クラスメイトに、佳乃のお母さん綺麗だね、といわれるのが嬉しくて、何度もそう言ってお父さんを寂しくさせてしまった。

 隠れて父が見に来たことは後で母から聞かされたけれど、今から考えても苦笑いをこぼしてしまう。


 劇の発表会でお姫様役をやったときに、父は来ないと私に言っていた。

 もちろん前述した理由で私が、来ないで、と言ってしまったからだ。でも、私に隠れてこっそり父がきて、母と合流し――遅刻したらしいけれど――劇を見る。私にばれてしまうのが怖くて、こっそりと劇が終わる直前に一人帰る。そんなことも知らずに劇が終わると、私は母の近くに寄っていき、私の演技はうまくいっていたかな、と興奮した口調で言う。母は私だけではなくて兵士役の仁君のことも褒めて、二人の頭を撫でてくれた。


 その頃の父は、きっと寂しそうに会場を後にしたに違いない。


 ……ごめんね、お父さん。


 今ではやせてしまったお母さんにも……ごめんね。


「山田さん、私はね」


 父の声が、小学校時代にタイムスリップする私を引き戻した。


 仁君は他の誰かのために自分自身を変えることのできる人。そして、それは言い換えれば私のために仁君自身を変えるということ。それをウメちゃんは羨ましいと言った。仁君を変えてしまえる私を羨ましいと。

 それはつまり、ウメちゃんにもほのかにではあるにせよ、恋愛感情が芽生えはじめているわけで。


 父は、それを感じ取ったのだろう。

 祝福するには低すぎる声音が、私の墓前に落ちていく。


「私は……父親として少し変な思考をしているのかもしれない。普通の父親というものは、娘を結婚に出すのはすごく反対するものだろう? そりゃあ、娘は目に入れても痛くないほどかわいいものだからね。手塩にかけてきた娘を、どこの誰とも知らない男に取られてしまう……想像するだけでそれはすごくつらいことだ。でも、たとえば、それが自分の息子にも等しい男だったらどう思う? 愛情をかけた二人の人間同士の結婚というのは、どこかすがすがしささえ感じられるんだ」


「あなた……」


 母が思わず父を遮ろうとしてしまう。

 父はそれを見越していのか、手をあげて母を制した。


「頼む、言わせてくれ」


 言葉を飲み込む母。母の手がふくよかな胸元でぎゅっと握られた。


「佳乃と仁君は結婚して、子供をもうけて、孫の顔を見せてくれて、私は孫とキャッチボールして……そんな未来図を描いていた。私が長年望んでやまなかった未来だ。それ以外は認めたくない。仮想すらできないほどだった。けれど、そんな夢も今となっては意味のない夢想に過ぎない。それでも私は……仁君には佳乃のことを想っていてもらいたいんだ。何ヶ月も、何年も……一生、好きでいつづけて欲しいんだ」


 それは、私が望んでいたことと同じ。

 私が死んでからも、ずっと私だけを想っていて欲しい。

 誰ものにもならないで欲しい。

 私のわがまま。

 死してから唯一願うこと。

 本当は……願っては駄目なこと。


「仁君だけが新たな人生を歩み始める……。それではあまりにも佳乃がかわいそうじゃないか?」


 母がそうしたように、私も思わず胸に手を当てた。


 確かな痛みがある。


 ……ああ、この痛み。知っている。


 仁君が珍しくデートに誘ってくれた日。

 思い出の公園で、仁君の胸を一心不乱に叩きながら泣いてしまった日。

 仁君が心からの笑顔を見せてくれなかった、あの日。


 ――答えてよ!


 どうしても仁君の答えが欲しくて、私はわがままになった。

 この心痛は、あのときの胸の痛みと同じなんだ。


 これは、そう……罪悪感だ。


「いい年をした大人が何を見苦しいことを……そう感じるだろう。でも私はね、ふとしたときにそう思ってしまうんだよ」


 父は晴れ渡っていく空をまぶしそうに見上げた。


「……佳乃は本当にいい子だった。親馬鹿のひいき目をのぞいても、本当に良くできた子だった。何でそんな娘なのに、幸せを奪われなくてはいけないんだ。幸せになることができないんだ。世の中には、本当にどうしようもない人間がたくさんいる。人を殺して保険金をだまし取るやつだっているほどだ。面識のない人間を、何のいわれもない人間を通りすがりに殺してしまえるような野蛮な人間。夜道で強姦した翌日に、のうのうと大通りを歩いている悪魔のような人間。携帯電話を運転中にいじるなと法律で定められているのに、それを平気な顔をして実行してしまえる人間」


 遠く消えゆく灰色の雲を、まるで目の敵にするように。


「生きるべき人間が死に、そうでない人間が生きていられる……おかしいじゃないか。愛されるべき人間なのに、愛されないまま忘れ去られていくのは、悲しすぎるじゃないか」


 父の言葉に力が込められていく。

 火の粉が、火炎になり、劫火になり、理性を焼き尽くす。手がつけられなくなる。

 こんな感情的な父を見るのは初めてだ。


「だったら! せめて佳乃が愛した人間が、佳乃を愛した人間が、生涯、他の誰も愛さずに佳乃だけを愛し続けていったっていいじゃないか! 佳乃にはそれぐらいの救いがあったっていいじゃないか!」


 両手を広げ、振り、髪を乱してまで、この場にいる人間、ひいてはこの世の全てに訴えかけようという絶叫にも近い感情の剣。


「あなた!」


 胸を押さえていた母は、後ろから父の腕ごと抱きしめることで、何とか感情の剣を押しとどめる。


「……私も……なの。私もそう! 私だってそうなのよ! でもね、でもねあなた……それを言ってしまっては駄目なの……駄目なのよ……」


 母の涙があふれ出す。


 お母さん、お父さん、私も同じことを考えたんだよ。


 私、馬鹿みたいなほどお母さんの子供なんだね。

 ううん、お母さんだけじゃない。

 家族みんな同じことを考えて、同じことで苦しんで、同じことで泣いて。


 これは……そう。


 目に見えなくても確かにそこにあって、血縁関係さえも飛び越えてしまえる、長い年月をかけてつちかわれていくもの。

 愛情のように注いだり、注がれたりものではなくて、離れないように、離さないようにお互いをつないでゆくもの。

 幾千の距離を越えて人を結んでゆくもの。

 尊く透明な強くて太い、父と母と私を結ぶ虹の架け橋……一言で言うなら。


「駄目なのよ……駄目なの……」


 聞いて、お母さん。


「お前……!」


 聞いて、お父さん。


 一言で言うならそれは――




 ――絆。




 感じることができた。

 私たち家族はつながっているんだ。

 過去に縛られるんじゃなくて、絆で結ばれているんだ。それは決して悪いことではないと思う。

 家族はどこまで行っても家族で。どんなときでも家族。

 私を想っていてくれる人達。愛していてくれる人達。


 やせてしまった母の目からぽろりぽろりとこぼれていく。

 曇りのない澄んだ青空のような母の瞳。それなのに、そこからは雨がこぼれる。


「現実を認めるしかないの。絶望も、苦痛も、起こってしまった悲劇も、否定しては駄目なの……。そう思えるの……。それら全てを否定してしまったら、佳乃が生まれてきたことも否定してしまうことになる気がする……。佳乃が私たちの元からいなくなることが最初から全て定められていることなら、今まで起こってしまったどんな些細なことも否定してはいけない気がするの……たとえ悲劇がその先に待つとしても、それまでの幸せは確かなものでしょう? 私たち家族が生きてきた軌跡でしょう? 決められていたシナリオでもいい……私たちは必死に生きてきたの、幸せを感じてきたの! 詭弁でもいいから……私はそう思いたいの……」



 泣かないで、お母さん。



「すまない……こんなことを言うべきではなかった。……ああ、お前の言うとおりだ。私が佳乃を育ててきた十数年は、確かに誰よりも幸せに満ちていた。たとえその先が絶望だとしても、私たちは精一杯幸せをかみしめてきたんだ。亡くした佳乃を生涯愛し続けることは、確かに純粋だし、最高の美談だ。誰もが涙する純愛だ」



 泣かないで、お父さん。



「だが、それは仁君を縛り付けることになる。行き場を失いさまよう愛は、何も生みはしない。そういうことか……そうなんだな」


「そう。私たちは、仁君の背中を押してあげなければいけないの。我が子のように思える仁君……佳乃の幼なじみとして連れ添ってきた仁君を、佳乃の親である私たちが」


 私の肩の荷が下りていくような気がする。自然に鎖がちぎれていく。


「愛は決して一つじゃないのよ」


 お母さん、お父さん、佳乃の最後のお願い。


「愛の始まりと終わりは、必ずしも同じじゃなくていい」


 私の代わりに仁君に伝えてね。


 他の誰かを愛してもいい。

 一つの愛が始まり、やがてその愛が終わるかもしれない。

 もう一つの愛が始まり、やがてその愛が終わるかもしれない。

 終わっても、終わらなくてもいい。

 人それぞれの愛し方があっていい。

 そこに純粋な誠実な心さえ宿っていれば。


「私たちが、佳乃の代わりに伝えるんだな」


 父が決意し、母が深く頷く。


 私は幸せ。お父さんと、お母さんの子供で良かった。

 私は、世の中の一パーセントも知らない、経験のない子供だけど。




「あなた……私、思うの」

「私も、思うことがある」

 ――私は思うんだ。




 幸せな私たちを襲った悲劇。訪れた絶望。やまない痛み。それらを全部一緒くたにして。

 家族三人が、同時に口を開く。




「幸せがあるから、絶望が深くなるんじゃないの」

「幸せがあったから、絶望が深くなるんじゃない」

 ――幸せがあったせいで、絶望が深くなるんじゃなくて。




 家族三人が、同時に言葉を継いでいく。




「絶望があるから、幸せが輝くんじゃないかって」

「絶望があったから、幸せが輝いていくんだと」

 ――絶望があるからこそ、幸せが輝いていくんだよ。




 ここにも、絆。

 私たち家族はつながっている。

 死は分かつものじゃない。互いを深めるものなんだ。

 だからほら、こんなに通じ合える。



 そのとき、全身が震えた。



 目の前がかすんでいく。揺れて、白く。

 何かに吸い込まれるような。

 溶けて、心が、体が熱くなる。涙のせいだろうか。



 ……水桶に入れられていた杓子がバランスを崩す。



 一音、ことり。


 そして、静寂を経た墓地に、ひときわ清澄な声が響いた。



「お母さん、お父さん」



 その声に顔を上げる二人。

 視線の先には、墓碑の前に立つ少女。悠然と前を向き、長い髪はさらさらと風にそよぐ。

 黒瞳はよどみなく純然。細い足はしっかりと大地を踏みしめる。


 まるで何かが乗り移ったように。

 まるで最初から宿していたように。


 墓前に立つ小さな女の子は、二人を見つめていた。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。

「炎はやがて灰になる。大恋愛もいつかは終わる」

この台詞は、私が一生大事にしていくであろう映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のなかの台詞です。似たような台詞が本編にありますが、意識して書きました。オススメの映画です。興味を持った方は是非。

それでは評価、感想、栄養になります。


……言い忘れましたが、次回が最終回です。頑張ります。

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