特別編・第五話・夕凪佳乃が残したもの・中
灰色に塗りたくられていた雲が、まるで逃げるように空を滑っていく。
湿った空気も、肌寒い風も、降り出しそうだった雨も、まるで役者が交代するように気配をなくしていった。
ウメちゃんは、紙袋を持ったまま深く頭を垂れていた。長い黒髪は空から注ぐ光が少ない中でも、まるで光を吸収するかのようにつやつやとしている。
顔を上げ、ウメちゃんがその相貌を見せると、父と母は改めて目をしばたたかせた。
まるで世界三大美女の日本代表、小野小町を蹴落として勝ち名乗りを上げそうなその風貌に、二人は眼福を隠せないようだった。
「手を合わせてもいいですか」
ウメちゃんは無表情。
父はそれにどこか気圧されてしまったようで、言葉の頭がなかなか出てこないようだった。
「……ど、どうぞ。わざわざありがとうございます」
ウメちゃんの一挙手一投足に目を奪われる父の姿に、母は大きくため息をついた。
先ほどまでしんみりとしていた父の雰囲気は、まるで空を流れていく灰色の雲のよう。青空に取って代わられ、その姿を消してしまう。
ウメちゃんは、用意してきた線香に火をつけると、墓前でしゃがみ込み、そっと私の墓に横たえた。
煙は、父と母の横たえた線香のものと混じり、一つの大きな煙となる。雲の晴れていく空にゆらゆらと上っていく煙は、まるで真っ白な雲になりたがっているように見えた。
私の墓石に向かって、手を合わせるウメちゃん。
目をつぶり、物言わず。
深く、さらに深く、語りかけるように目をつぶっていた。微風が、ウメちゃんの髪の毛と、供えられた花々を揺らしていく。
父と母は、ウメちゃんの小柄な背中をじっと見つめていた。
後ろから声をかけることもない。
真摯に手を合わせ続ける女の子の背中に、不思議な安堵感を持ったのだろう。二人で手を合わせたときよりも、幾分穏やかにその光景を見ている。
季節外れの墓参り。
砂埃に汚れた墓場の中で、唯一私の墓石だけが輝いている。
ウメちゃんの供えた線香の半分が焼け落ちたとき、長いまつげが花開くように持ち上げられた。
「私は佳乃のことを知りません。でも、私は彼女を知りたいと思っています」
線香の先端にともる赤が、少しずつ根本に向かって移動していく。
ゆっくりと刻まれていく時間。
少し大げさだけれど、サグラダ・ファミリアが時間をかけて完成に向かうように、長い時間をかけて太陽が雲と雲の隙間から顔を出す。
その笑顔にも似た光が、暖かく地上を抱きしめる。
「私は彼女いた席に座り、そこで授業を受けています。外から入り込んでくる午後の風が気持ちの良い位置です。隣には、佐々木仁というとても変わった男の子が座っています」
私の名を刻む黒い御影石。
職人によって研磨され、父によって拭われた美しい表面。
反射する太陽光線が、私の体を貫いた。まるで私に祈りを捧げるように、ウメちゃんは合掌したまま静かに呟き続ける。
「その人は、不意に悲しい顔で外を見るときがあります。まるで何かを探すように。でも、クラスメイトが話しかけてくると、とたんに笑顔になって背中を叩いたり、腹を抱えたり。何かを心の内側に押し隠すことのうまい人です。器用なのか、不器用なのか、私には理解できません」
足下に置いた紙袋から、手のひらより少し大きいぐらいの小箱を取り出す。
「……理解したくもありませんでした」
取り出した小箱をそっと開くと、その中には紙皿の上に乗ったチョコレートケーキがあった。少し型くずれしているのは、きっと努力の証。
「……でも、色々あって、時間もたって、私は彼の見ていたものを見てみたいと思うようになった。彼の知っていることを、知りたいと思うようになった。そして、私は彼の心の中でいまだなお輝き続ける人――夕凪佳乃という人を知りたくなった」
私に差し出されるケーキ。
もちろん私は受け取ることも、口に運ぶこともできない。
「山田さんのことは、少しだけ仁君から聞いているわ。とっても綺麗な子だけど、とっても無愛想で、取っ付きにくい子だって」
母が口元に手をやり、優しく目尻を下げる。
仁君が、母に困った表情を見せて愚痴をこぼす様子が、まるで目の前で繰り広げられているように想像できる。
「おいおい、本人を目の前にして……」
父は困った顔で後頭部をかく。
「仁君のそのときの顔がね、まるで佳乃とけんかした時みたいな顔だったの。ふくれっ面で、絶対に譲らないぞって……でも、気になって気になって仕方がないって顔。彼にとっては、怒ることだって、けんかすることだって、コミュニケーションのひとつなの。許してあげてね」
こくりとうなずくウメちゃん。
「駄目なところは、もうたくさん見ましたから」
「うふふ……仁君もまだまだね、こんなにかわいい子の前で駄目なところを見せるなんて」
口元に寄せた手でこぼれる歯を隠す。
「でもね、そうして人は人を分かり合っていくと思うの。普通の人は、嫌って、避けて、無視して、一時的な接触を断絶する。嫌いな人とは極力交わらないようにする。それなのに仁君はね、そういうことをできない人なの。嫌っている原因を探して、どうやったら好きになるかを考える。他人が変わって欲しいと望むんじゃなくて、自分自身を他人と合うように変えようとする人なの。日和見なのかもしれないし、優柔不断なのかもしれない。どう取られるかは、本当に人次第だと思うわ。……ちなみに、山田さんはどう思ったの?」
「私は……」
紙皿の上に置かれたチョコレートケーキが、母の飾った花の前にそっと供えられる。
墓石に向かっていたウメちゃんは、母を振り返る。
小さな拳が握りしめられていた。
「私は佳乃が羨ましい」
宣戦布告でもするような響きに、母は少し驚いたようだった。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
ええと、例のごとくというか、一話を二話に分けました。
ごめんなさい。
評価、感想栄養になります。