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特別編・第四話・夕凪佳乃が残したもの・上

 雨が今にも降りそうな、午後の曇天の真ん中で、私は膝を抱えていた。



 あれから私は、週末の町が嫌いになった。



 そこかしこに笑顔が溢れていることが嫌いになった。

 手をつないで、腕を組んで、肩を寄せ合って、お互いの体温を感じながら歩いていく人々の幸せな顔を見るのが、何よりも嫌いになった。


 みんな不幸になってしまえばいいのに。


 すり減った私の心が叫び出す。


 両親の大切さも知らないで、引きこもって親を殴りつけて、挙げ句の果てには罪を犯して親を泣かせて。

 恋人がいるのに浮気して、平気で人を傷つけて。

 職を失って駅のホームで生活する人を袋だたきにしたり、遅くまで働いているサラリーマンを襲ってお金を巻き上げてみたり。

 ゴミ箱が近くにあるのに、ポイ捨てを平気な顔でしてみたり。

 何でそんなことを簡単にしてしまえる人が楽しそうに笑っていて、私はこんなに苦しまなければいけないの。


 おかしいよ。

 絶対におかしいよ。間違っているよ。


 生まれてからずっと、大好きな人の背中を見て育ってきた。

 夕日に揺れる仁君の背中。

 寒空に震える仁君の背中。

 青空に広がる仁君の背中。

 汗が染みこんでシャツが張り付く仁君の背中。

 どんどん広く、大きくなっていく頼もしい背中。


 私が手を伸ばせば触れられる位置に、その背中はいつもあった。


 私はおそるおそる触れてみようとする。

 自転車のバスケットに入れた宇宙人と交流するように、私はゆっくりと指を仁君の背中へ。


 もう少しで、触れられる。仁君の背中は、どんな感触なんだろう。

 大好きな人に触れるって、一体どんな感覚なのだろう。

 電気が走るのかな。熱が伝わってくるのかな。


 あと一センチというところで、仁君が肩越しに振り返ってしまう。

 目を点にして驚く私に、仁君は馬鹿にするように笑ってくれる。

 枯れ木に花を咲かせるように、私の心に花が咲く。乾いた心が潤っていく。


 いつかきっと結ばれると、抱きしめあえる日が必ず来ると、私はどんなに長い時間望んでいただろう。

 自分を磨いて、大好きな人を知っていく日々。

 純粋な恋心だけがそこにあった。

 自分でも馬鹿だと思う。そんなに人を好きになれる私が滑稽だと思う。


 だって、結ばれたとたん引き裂かれてしまうんだもの。


 神様。もし、神様がいるとすれば、私にとってあなたは悪魔です。


 世の中には平気で悪いことをしてしまえる人達がたくさんいるのに、どうして私と仁君を引き裂いてしまえるのですか。

 ただ愛し合いたいだけなのに。

 どうして私だけ。私だけこんなにつらい目に遭わせるのですか。

 あとどれだけ涙を流せば、私は救われるのですか。


 もしも、私を救う気がないのなら。


 それならいっそ、みんな不幸になってしまえばいい。


 仁君だって……苦しんでしまえばいい。


 口からこぼれたその言葉が、私の孤独を物語る。


 私はふわりと地面に着地して、郊外にあるさびれた路地を通り、年季の入った門をくぐった。

 私の両サイドに立つ御影石のように冷たい言葉を抱え込む。

 呟いても、嘆いても、いくらでも生まれてくる残酷な言葉達。

 足かせがが増えていくような気がした。


 細かい砂利の上を滑りながら、私は碁盤の目のように区画整理された通路を行く。

 時期的に誰も訪れないせいか、生けられた花はしおれ、ほとんどが枯れ果てていた。

 卒塔婆が雨水を染みこんで腐っている。無縁仏は石が積み重なっているだけで、知らない人が見れば、ただの岩石置き場に過ぎない。

 乱雑に寄り合わさった石を飛び越え、私は再奥にある比較的新しい墓石に歩み寄っていった。


 避けようのない現実が私を苦しめる。


 悲しみはどこまで深くなるのだろう。

 どれだけ深い悲しみを受ければ、人は悲しみだけで命を散らすことができるのだろう。答えのない疑問だけが、浮かんではのどの奥に押し詰められていく。

 答えが出るまで折り重なっていく疑問の数々。


 決して浮かんで消えることはない。

 浮かんでは積み重なる。


 人は、そんなに簡単に割り切れる動物ではないから。


 ――そして私は、私の墓前に立つ。


 雨風にさらされたせいか、遠くからは比較的新しく見えた墓石も、ざらざらとして茶色を帯びている。

 隅の方はこけがむしはじめていて、青くくすんでいた。

 私の心のように黒い墓石。

 私の体温のように冷たい墓石。

 じくじくと心から血が流れ出していく。

 私がこの世に存在したという証明は、もはやこれしかない。

 人の記憶は曖昧で、不確かなもの。

 簡単に勘違いしたり、うろ覚えで間違ったり、鮮烈な出来事に上書きされていく脆弱なもの。

 記憶は必ず失われていく。

 楽しかった思い出もやがては消える。思い出されなくなり、隅に押しやられて、やがて消える。

 私が眠るこの場所でさえ、きっと忘れ去られていく。

 悲しみの時が終わり、みんな自分の幸せを探し出す。悲しみが好きな人間なんていないから、きっと私のことはなるべく考えないようになるだろう。

 父も母も、仁君も、クラスメイトも。


 いつか必ず自分たちの幸せを探し始める。

 そのとき私はどこにもいられない。

 誰の心の中にもいられない。


 孤独だけを背負って、眠るしかないのだ。


 この冷たい石の中で。

 この冷たい意思と共に。


 遠くに見える曇天の中で、光が爆発する。

 雨が降るのだろうか。今にも降り出してきそうな曇り空は、きっと今の私の心に例えやすい。


 いくらでも降ればいい。洪水にでもなればいい。落雷だって落ちればいい。

 そうすれば、きっと私だけが不幸ではなくなるから。



 ……足音がした。



 私がふらふらと漂ってきた砂利道の方からだ。

 次第に近づく足音は、二人分。水が揺れる音と、木製の物同士がぶつかる音に混じって、砂利を踏みしめる音がする。

 角を曲がって、大きな墓石から姿を現したのは、父と母だった。

 水桶と杓子を持った父と、花束を持った母が並んで歩いてくる。

 父は少しやせて見え、母はしわが増えたように見える。


「ほら、あなた、落としましたよ」


「おお、悪い。気がつかなかった」


 ポケットから線香の束を落とした父のシャツを引っ張る。

 その仕草が、仁君のシャツを引っ張る私の姿に似ていた。


 ……いや、きっと違う。

 私がお母さん似にているんだ。私がお母さんとお父さんの子供で、二人とも大好きで、ずっと見ていたから。

 意識してそうしなくとも、視界に入っていたから。

 私は仁君の背中だけではなくて、お父さんとお母さんの背中を見て生きてきたから。


 父が新聞を読む背中。肩をもんで上げたときの背中。石膏のように堅くて、仕事のストレスで凝り固まっていて。

 でも、立派な背中。誇れる背中。


 母が台所に立つ背中。庭で洗濯物を広げる背中。洗い立ての真っ白なシーツが、朝の光に反射してまぶしい背中。小柄だけど、筋はしっかりしている。

 立派な背中。誇れる背中。


 墓前に立つ私をすり抜けて、父が墓前に立った。



「……佳乃、寂しくなかったか?」



 父は杓子の入った水桶を足下にことりと置いた。

 その音が耳に入り込んだ瞬間、私は父と母に抱きしめて欲しいという衝動に駆られた。

 甘えたいという欲求に駆られた。大きな慈愛で包んで欲しかった。

 どんなに泣いても優しく抱き留めてくれる、家族という絆で包んで欲しかった。


 私を許して欲しかった。

 頭を撫でて、褒めて欲しかった。


 頑張ったね、と。

 よく耐えた、と。


 世界中が敵になっても私の味方でいてくれる二人に。悲しみ続ける私を。

 人の苦しみを願った私を。二人の大きな胸の中で許して欲しかった。


「……お父さんは、寂しいよ」


 父の目尻が悲哀に歪んだ。


「母さんも、寂しいわ」


 座り込んだ父の肩に、母が手を添える。


「母さんなんかな、最近は日増しにぼけていくんだよ。仏壇の前に何時間も座って、佳乃の写真を眺めているんだ。ぶつぶつと独り言を言っているときもある。何を言っているかと思えば、お前と会話でもするように昔話をしている。公園デビューをしたときとか、授業参観で恥ずかしい思いをしたこととか、旅行先で迷子になったこととか……何時間もそうしているんだぞ」


 父が肩をすくめる。

 母はそんな父の仕草に腹が立ったのか、肩をつねる。

 父の顔が険しくなり、私の墓石に向かって、しまった、という顔をして見せた。


「……あなたこそ、昔のビデオを引っ張り出してきて、すり切れるほど見ているくせに。知っているんですからね。夜中に起き出して、こっそり佳乃が小学校の時の、運動会のビデオを見ていること。佳乃が五十メートル走で転んだところ、何度見ても笑っているでしょう」


「……知っていたのか」


 父が渋面を作る。


「知っていますよ。あなたと佳乃のことなら、何でもです」


「……そうか」


 つねっていたはずの母の手が優しさに代わる。その手を感じ、父は母の手を左手で包む。

 二人が思い出を共有しているように思えた。


「佳乃が玉入れで十三個の赤玉を入れたところとか、鼓笛隊で縦笛を吹いていたこととか、劇の発表会でお姫様役をやったこととか……そうそう、あなた、佳乃の晴れ舞台に遅刻しましたっけね」


「何度も言っただろう。急な仕事だったんだ……。先方にはあのあと疲労骨折するほど頭を下げることになったんだぞ」


 母の意地悪な言葉に、父は唇をとがらせる。

 こんな子供っぽい仕草は、きっと部下には見せられないだろう。


「さてと……今、綺麗にしてやるからな」


 立ち上がった父が、持ってきたぞうきんを水桶の中で絞る。

 母は花束のフィルムを解いて、花瓶の中のにごった水を捨てていた。


 父が、力強く私の墓石を拭いていく。


 ごしごし、ごしごし。


 まるで小さい頃、私をお風呂に入れてくれたときのように。あの大きな手で私を包み込み、私の墓石を――私を綺麗にしようとする。目に入れても痛くない、そんな瞳の色。

 終始笑顔で汗水を垂らす父の背中を、私は見ていることしかできない。

 額ににじむ汗をぬぐいもしないで、父は胸元を汗でびっしょりにしながら、ぞうきんで墓石を磨き続ける。

 こけをはぎ取り、砂埃をぬぐう。

 愛おしそうに。守るように。

 隅々まで綺麗にしていく。


 ……いつのまにか、私の頬を涙が伝っていた。


 母が花瓶の水を入れ替えて、そこに咲き誇る花を入れる。

 花の高さをそろえ、全体的に広がるように微調整をする。

 一生懸命、父がぞうきんを動かす様を優しく見守りながら、母は墓前に花を飾る。


「おお、綺麗だな」


 ぞうきんを絞りながら、父は笑った。


「そうでしょう。私が選定したんですよ」


 母も嬉しそうに笑う。


「違う違う。私が磨いた墓石のことだ」


「もう……あなたはすぐそうやって……」


 苦笑いを浮かべる母が、自らの腰に手をやる。あきれた時にする、おきまりのポーズだ。

 遠く雲の中で稲光を発するのが見えた。

 遠雷。雨はすぐにでも降りそうだ。



「……ああ……本当に綺麗だな……」



 まるで遠くを見るような父の目に、哀愁がたまっていく。

 汚れたぞうきんを水桶に沈め、虫の鳴くような小さな声音でそっと呟いた。


「…………佳乃は帰ってきたりはしないのかな」


 父は線香の帯を破った。風が吹き、帯は灰色の雲に吸い込まれていく。


「……ただいま。お母さん、今日のご飯は何かな? お父さん、今日は早いんだね。そんなふうに、突然いつも通りの日常に戻ったりすることはないのかな」


 水桶に沈んだぞうきんが、波紋に揺れていた。父は揺れる水面を見つめ続けている。そこには鈍色の空が映っているだけだ。感慨を抱くほどの物は写っていない。

 しかし、父はそこの何か別の物を投影しているように感じられた。


「――私たちはきっと弱い者同士なんです」


 母が私の墓石にそっと触れた。


「私は、あなたが時々意地悪になるところが好きで、あなたが困ったときに見せる顔が好きで、いつの間にか惹かれていて……気がついたらこんなに歳を取って、今ではおばさん。なんだか、あっと言う間で、今では振り返ることばかり。でも、後悔は何一つない。あなたがいてくれたから、佳乃が生まれた。弱かった私が母になった。佳乃を育てることで、人間として強くなれた気がするんです。生きていく強さを、佳乃が教えてくれた気がするんです」


 母が、背後にたたずむ父を振り返る。


「私もそうだ。お前の笑顔が頭から離れなくなって、時々意味不明なことを言うのだって魅力的に思えた。純粋さで言ったら、誰よりもお前は輝いていたから、私は夢中になって……気がついたら結婚指輪を買いにいっていたんだ。佳乃に何もしてやれないことが悔しくて、働いた。一心不乱に。でも働けば働くほど、佳乃との距離は開いていった。夜遅くに帰ってきて、一分間だけ、佳乃を起こさないようにこっそり寝顔を見て終わる一日。たったそれだけのことが、私のこれまでの人生を支えていたんだ。あの子が、私をここまで強くしてくれた。お前達を守るだけの力をくれたんだ」


 二人の弱い男女が、たった一つの芽を死にものぐるいで育てた。

 守るために、育てるために自らを強くしていった。

 風が吹けば身をていして風よけになり、雨が降れば傘になる。

 それら積み重ねた辛苦が、弱かった二人を鍛えた……二人の言葉が私の中でかみ砕かれていく。



 ……私は父と母に、何もしてあげられなかった。

 ただ一方的に受け取るばかりで、何も返すことができなかった。



「佳乃はもういないんです。私たちが愛した娘はもういないんです」


 母の目に熱を帯びた膜が張る。

 揺らめいて、揺らめいて。

 やがてこぼれる。


「でも、あの子が残してくれたものは、たくさんたくさん私たちの心に溢れているんです。深く深く私たちに刻まれているんですよ」


 口を押さえて涙をこぼす母を、父は優しく抱き留めた。


「佳乃は私たちに大切なものを残してくれた。失ったものも多かった。涙も枯れるほど傷ついた。立ち直れないと思った。でも、私たちは今も歩いている。生きている。佳乃がいてくれたから、私たちはこれからも生きていけるんだ。これは他の何物でもない、佳乃がくれた強さなんだ」


 大きな父の胸の中で、声を押し殺して泣きじゃくる母。

 母の頭を撫で、全ての悲劇から守り抜くように強くあろうとする父の立ち姿。

 それは、仁君が私にそうしてくれたように、空を突き抜けるような愛に溢れていた。


「佳乃は、私たちの誇りだ」


 お父さん。ありがとう。

 お父さんは私の誇りだよ。


「ええ……あの子は世界一の娘です」


 お母さん。ありがとう。

 お母さんは私の誇りだよ。


 それ以外に言える言葉がない。

 親孝行の一つもできなかった私なのに。

 父と母に愛を返すこともできなかった私なのに。


 ……でも、二人がそう思ってくれるのなら。

 私はこの涙を、嬉し涙に変えてもいいんじゃないかって、そう思えるから。


 心が救われるから。

 それが分かるから。



 ――ありがとう、お父さん、お母さん。



 御影石の間を、乾いた風が通り抜けていった。

 どうやら、曇天は姿を消すらしい。

 乾いた風に湿り気はない。

 遠雷の見えた場所には、極小の晴れ間が見えた。

 一筋の太陽光は、まるで天使が降臨するかのようにすてきな光景で、私は胸を打たれてしまう。


 そして、不意に訪れたもう一人の天使にも。


「あら、あなた……」


「お……君は確か……」


 抱きしめていた姿を見られて恥ずかしいのか、父と母はあわてて離れる。

 母は父の陰に隠れて目元をぬぐっていた。父は鼻水をすすって、何事もなかったかのようにふるまった。


「こんにちは」


 一礼。


 長い黒髪が肩から滑り落ちた。

 小柄な風体に、見目麗しい顔。白い肌は石膏のようで、美術品のそれを思わせる。ミロのヴィーナスもハンカチをかんで悔しがりそうな、整った顔立ち。

 表情の少なさが、その存在を現実から際だたせる。

 紙袋を手に提げた少女が頭を上げると、母は気を取り直して微笑んだ。


「山田ウメです」


 そんな母に、もう一度、彼女は頭を下げた。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。

現在、二作平行執筆をしていますが、無謀でした。一人称と三人称の繰り返しも、なかなかに大変な作業であることを現在進行形で思い知っています(泣)

今回、上、ということで残り二話です。時間がないので推敲がされていない感情的な文章です。誤字も脱字もあると思います(←最低)。どうか、お許しください(泣)

……というわけで残り二話、頑張ります。

評価、感想、栄養になります。

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