特別編・第三話
アパートの屋根に座りながら、私はかすかに光る星空を見上げていた。
家族で軽井沢に小旅行したときに見上げた満天の星……には及ばないけれど、強い光を放つ恒星だけがぽつりぽつりと夜空に灯っている。
宝石箱をこぼしたような夜空、なんて表現が小説でされていたけれど、私の持っている宝石箱を逆さまにしたら、ちょうどこの星空ぐらいなので、何とも味気なく思えてしまう。
……その場合、味気ないのは星空ではなくて、私なのだけれども。
瞬く星の強弱。
他を凌駕して自分の存在を主張できる、強い輝きを持った星。
空を覆うスモッグや、地上の光に打ち消されてしまう、弱い輝きを持った星。
あるいは、自分自身では輝くことすらできない他力本願な星。
そのどれかに私を当てはめるなら、きっと私は自らで輝くことのできない虚しい星に過ぎないのかもしれない。
仁君がいたから、きっと私は輝いていられたんだと思う。
仁君を好きになって、仁君のために何かをしてあげたいと思うようになって、私はそこで初めて大きく前進することができたんだと思う。
仁君と出会わなかった私を想像してみるだけですごく怖い。
何の取り柄もなくて、引っ込み思案で、根暗で、地味で……人前に出て自己紹介をすることすら恐怖に感じてしまう、臆病な人間。
夕凪佳乃という人間は、本来ならそんな人間であるはずだった。
……仁君がいたから、仁君がいてくれたから、私は変わることができたの。
時には恥ずかしくもあったけれど、仁君の喜ぶ顔や、楽しそうな顔を見るたびに、私は仁君の二倍嬉しくなることができた。二倍楽しくなることができた。
仁君を笑わせられる私が、楽しませられる私が、仁君を世話してあげる自分が、誇らしく思えた。誰にもできないことをしているんじゃないかって。
世界中で私だけが、仁君を嬉しくさせることができるんだって本気で思っていた。
……でも、それは思い上がり。思い上がりだったんだよね。
抱え込んだ膝の中に顔を埋める。
アパートの屋根を削り取るような強風が、心細い私の心を折ってしまおうとする。
……ねぇ、仁君。
否定してほしいよ。思い上がりなんかじゃないって、私だけが仁君を心の底から嬉しくさせることができるって、仁君の口で、手で、腕で、私に痕を残してほしい。
決して消えない、刻印のような傷跡がほしいよ。
仁君に、否定してほしいの。
私は確かに仁君の背中を押したけど、本当は……。
本当は、私だけを見てほしい。
本当は、私だけの仁君でいてほしいの。
わがままかな。自分勝手かな。
馬鹿でどうしようもないのかな。子供なのかな。
耐えられない。
日本人形のように眉目秀麗で、子猫のようにきれいなウメちゃんが好き。
ひまわりのように天真爛漫で、子犬のようにかわいい杏里ちゃんが好き。
――でも、本当は嫌い。
二人とも嫌い。嫌いなの。
私がいないところで、仁君を取ろうとするから。
仁君しかない私から、仁君を奪ってしまうから。
私には何もなくなってしまう。
仁君の心まで奪われたら、私には何も残らなくなってしまう。ただの残りかすだけになってしまう。風にもてあそばれるだけの塵芥。
そんなの嫌。だから……嫌い。ウメちゃんも、杏里ちゃんも。
好きだけど、嫌いなの。
夜空にまたたく星をにらみつける。
…………でもね、私はそんなことを考えてしまえる私が一番嫌い。
醜いよ。仁君がこんな私を知ったら、きっと嫌いになっちゃうね。
仁君……。
星空につぶやく私の耳に、扉の鍵を開ける音が響く。
階下の住人が帰宅したようだ。
私はその人影に胸を痛める。
スーパーの袋二つを小さな両手に一つずつしっかりと握りしめて、アパートの鍵が入っているであろうポケットをまさぐっている。
しなやかで潤いのあるロングヘアーが、肩から滑り落ちる。夜の闇にも月の光で輝きそうな黒髪。
彼の人の持つ髪を見れば、平安時代に十二単をまとっていた女房もうらやましがるだろう。
山田ウメちゃん。
仁君の隣の席に座っていた私。その私がいなくなったことで、彼女は現在、仁君の隣の席に座っている。そして、ウメちゃんは仁君が、今、一番気にかけている人。
胸が寄せては返す波のようにうずき出す。
「……とれない」
ぼそりと告げた言葉があまりにもフラットで、とてもいらいらしているようには聞こえなかった。スーパーの袋が邪魔でなかなかポケットから鍵を取り出せないらしく、一度だけ深呼吸をする。あきらめないで繰り返すかと思いきや、あっけなくスーパーの袋を地面においてポケットから鍵を取り出す。
面倒くさがりな性格ではないようだった。
地面においたスーパーの袋からは、卵やチョコレート、バターなどが顔を出す。見たところでは、夕飯の支度ということではないようだ。
ウメちゃんの後を追って、私は閉められた扉を通り抜けた。ウメちゃんの部屋を見るのは初めてだけれど、新鮮味よりは驚きの方が初めにくるような部屋だった。
あまりにも何もない部屋。
機能的といえば聞こえはいいが、つまりは何もないに等しい。ベッドにクローゼット、テーブル、パソコン。見渡せばそれしかない。
今時の女子高生ならば一つは置いていそうなぬいぐるみ、ポスター、写真はおろか、テレビ、ソファー、雑誌、小物の類などはどこにもない。
マイホームの展示場のような最低限のものしか置いていない。
……と言うか、展示場ですらもう少しものは置いていそう。
私が部屋の様子に驚いていると、ウメちゃんは制服のままで立ち止まっている私を通り抜けて、キッチンに向かう。冷蔵庫の前に置いたスーパーの袋を空けると、店を広げ始めた。
ウメちゃんは手に取ったチョコレートにわずかに顔をしかめる。食わず嫌いならばはじめから買ってはこないわけで、その顔には何か他の原因があるようだった。
私はウメちゃんの背後に立って、彼女の様子を観察している。
長い髪をゴムで一つに縛って、少し大きめのエプロンに袖を通すウメちゃん。小さな体を覆う純白エプロン。
ウメちゃんには失礼だけど、背伸びをして料理に挑戦する小学生に……やっぱり失礼だね、仁君と違って表現力がないね、私。
そんな私に見向きもせず、ウメちゃんは汚れ一つ無いキッチンに向き合っている。買ってきた料理の本をちらりと横目にしながら、卵を割って卵黄と卵白に分けると、卵白と砂糖を混ぜて泡立てる。泡立て器を乱暴にふるうから、泡だって真っ白な卵白が、ボールから飛び出してウメちゃんの頬に付着する。
一言で言うならば、不器用、なのだろうか。
お弁当を毎日作ってきている割にはあまり料理に慣れていない。
昼休み、机の上で目立たないようにお手製の小さな弁当を広げるウメちゃんからは、想像もできなかった。……でも、今ならその訳が分かる。
仁君はいつも杏里ちゃんから逃げるために教室を飛び出してしまう。
私もその一部始終を見たいがために、仁君の背後をふわふわと追いかける。
背後霊だ、なんて言われるとなんか悲しいな。
ウメちゃんは、仁君や杏里ちゃんのいなくなった教室で、一人弁当を広げている。
……そう、仁君のいなくなった教室で、おそらく、真っ白な白米だけの味気ない弁当。
見られたくないから、目立たないように。
目立つはずのウメちゃんが、あえて誰にも関わらないように。
何より、仁君に見られないように。
だからウメちゃんは、仁君が何か言いたそうにしている視線を、
――見ていられると迷惑。
ウメちゃんらしい冷たい言葉で払いのける。
仁君は拳を握りしめながら教室から出て行こうとする。杏里ちゃんだったら確実に振り下ろしているだろう拳を押し込めて、去り際に一言。
――屋上に行ってくる。アーセナルからバルセロナに移籍したあいつには、俺は屋上にはいないと言っておいてくれ。
ウメちゃんは無言のまま答えないけれど、私には分かるよ。
必ず行き先を告げて教室を出て行く仁君の気遣いが。
それって、仁君の照れ隠しなんだよ。
俺は屋上にいるから、一緒に昼飯でもどうだ。
そう言えないから、仁君は告げる必要もない行き先を告げて教室を出て行く。
ウメちゃんも心のどこかでそれを分かっているのかな。
行かないとも、うるさいとも、しつこいとも言わないで、黙って弁当箱を包む袋の結び目をほどいている。
雄弁なる沈黙……なんて言葉をここで使っていいのかは分からないけれど、その沈黙からはすごく多くを読み取ることができた。互いに背中を向けあっているくせに、その気持ちは重なっているだなんて、互いを思いやっているなんて、そんなのずるい。
ウメちゃんの背中をにらみ付けると、汚れたウメちゃんのエプロンや、チョコレートまみれになっているウメちゃんの頬が確認できた。泥遊びに夢中になる幼稚園児のように、夢中になって料理に取り組んでいる。
きれいな指を真っ赤にしてかき混ぜて、きれいな髪を小麦粉だらけにして、きれいなまつげの上に液体のチョコレートを付着させて、きれいな口元を汚す溶けたバターをぺろりと舌でなめ取りながら、きれいなウメちゃんは一心不乱に頑張っている。
落ち着いて作業すれば、汚れるほど難易度の高い料理ではないはずなのに、目の前の女の子は力一杯、精一杯、憎しみすらこもったまなざしで作業に没頭している。
――ねぇ、ウメちゃん。ウメちゃんはどうしてそんなにしてまで頑張るの?
泡立て器をキッチンに投げ出して、頬を汚したウメちゃんがいらだたしげにエプロンをほどく。
簡単な料理にもかかわらず、それすら満足にこなせない自分に腹を立てたのだろう。
レシピの本を乱暴に閉じると、無言のまま、どすんどすんと足を鳴らして自室に戻ってしまおうとする。
右手でぐしゃぐしゃにしたエプロンを、洗濯機の中にたたきつけようと大きく振りかぶる。
……けれど、頂点でその手の勢いは止まってしまう。
思いが拮抗するように、右手に握りしめられたまま、エプロンはぷるぷると震えていた。
「……いらいらする」
洗濯機にエプロンを放り込んで、ふて寝して。
それで終わるはずだった今日という一日。
「あいつのせいだ」
背中を向けていたキッチンを、かつて無い感情的な視線でにらみ付けると、キッチンを後にしたときよりも大きな歩幅と足音で、同じ場所に戻っていく。
しわくちゃになったエプロンを再装着し、汚れた顔をそのままにして、再び泡立て器を握り、レシピの本をめくる。
チョコレートとバターを弱い直火にかけて、焦がさないようにゆっくりと溶かしていく。
危なっかしい手つきは相変わらずだが、それでも料理開始直後よりはだいぶ上達している。
「あいつがあんなことを言うから」
――そのときつい言っちゃったんだ。
ウメちゃん、もういいの。頑張らないで。お願いだから、頑張らないで。
――佳乃の方が美味いな……ってさ。
自分を汚してまで、面倒くさい思いまでして、何度も失敗してまで、どうしてそんなに頑張ろうとするの?
駄目だよ。そんなに頑張ったら、駄目なんだよ。
ひたむきな思いが、頑張り屋のウメちゃんの強さが、伝わってしまうから。
「……仁を絶対に見返す」
私の大切なあの人に伝わってしまうから。
だから、お願い。頑張らないで。
叫ぶ私をよそに、料理は完成に近づく。
型にかき混ぜた液体を流し込んでいくウメちゃん。
汗をにじませて頑張るウメちゃんの表情は、今までにないほど生き生きとしている。こんな彼女の表情を見て無表情だ、なんて言う人間がいたら、その人の目はきっと節穴だ。
誰かのために頑張ろうとするウメちゃんの顔は、誰より女らしくて、誰より美しい。
小さな背中を存分に動かしながらダイナミックに料理をする姿は、まるでスポーツ。
料理をする姿はたった一人かもしれないけれど、まるでウメちゃんはここにはいない誰かとラリーをしているように見える。
黄色いボールをテニスラケットで打ち合うような情景。
ウインブルドンの決勝、きらきらと輝く緑色のコート上、敵同士ながらも通じ合う思い。
バックハンド、ボレー、フォアハンド……持てる全てを基本動作につぎ込んで譲らない。
意地っ張り同士、果てなく続くラブゲーム。
汗が宝石のように飛び散って、二人だけの世界へ。
渾身の力を込めて放ったボールが、返ってくる喜び。
受け止め、さらには返してくれる喜び。
ラリーが続いてくれることの喜び。
様々な喜びを交錯させながら、二人はまだ見ぬ地平へとたどり着く。
私は高見へ上っていくラリーを観客席で見つめながら、唇をかむしかない。
あのコート上には、かつて私がいた。
楽しそうに、大切な人とラリーをする私がいた。
想いを乗せたボールを打ち合う私がいた。
楽しかった、本当に。心が躍る行為の連続だった。
……でも、私の居場所はもうコート上ではない。
もちろん、キッチンにも、学校の教室にもない。
孤独に押しつぶされて、当てなくこの世をさまようだけ。
「……あとはオーブンで」
オーブン付きレンジに型を入れて、満足げにニヤリと微笑む。
「仁の驚く顔、楽しみ」
エプロンの裾で額の汗をぬぐうと、額についたチョコレートの汚れが広がる。自分が汚れていることにすら気がつかない。それほど夢中になって、たった一人の誰かのためにチョコレートケーキを作っていた。
ウメちゃんは、その行動が何に根ざしているか知っているのかな。
仁君にバカにされた悔しさ? 復讐心? 気まぐれ?
それとも、自尊心を保つため?
きっとウメちゃんは、気がついていない。
まだとても淡くてほのかな想いだから、それらの気持ちに打ち消されてしまっている。
「……楽しみ? 私、今楽しみって言ったの……?」
ウメちゃんの顔がとまどいに変わる。
「あいつの喜ぶ顔……嬉しい?」
ぶんぶんと顔を振って、まとわりつく想像を払いのけようとする。
「……きっと気のせい」
いつか気がついてしまう。
仁君が、ウメちゃんのチョコレートケーキを食べたとき。
もし、そのとき仁君が、いつも私に向けていてくれたあの笑顔で、卵焼きを嬉しそうに頬張ってくれたときのあの笑顔で、おいしい、とウメちゃんに笑いかけたなら。
私が胸を高鳴らせて、思わず抱きしめたいという欲求に何度も駆られてしまったように、ウメちゃんも……。
昼休みに食事をする仁君とウメちゃんの風景を思い浮かべてしまう。
笑顔と笑顔が重なり合って、強力な磁場を作る。
他者を寄せ付けない絶対的な恋の磁場だ。
かけがえのない人のために努力できること。
努力の結晶を受け取ってもらえるということ。
喜んでもらえるということ。
私が、夕凪佳乃のいた場所が全て取られてしまう。
……そんなの駄目だよ。
容赦のない孤独が、私の透明な体を蝕んでいく。
体を失った私に痛覚なんか無いはずなのに、胸の奥では今も激痛が走る。
仁君の気持ちが誰かに徐々に傾いていくのを、私は黙って見ていることしかできない。
生者と、亡者の違いは絶対的。決意や、思いでどうにかなるものではない。
だから、私がどんなに望んでも、仁君の周りを透明な体でまとわりついても、仁君の気持ちからは私の欠片が残酷なほどにこぼれだす。
こぼれだした代わりに補填されていく、仁君が誰かを思う気持ち。
ウメちゃんや、杏里ちゃん。二人の天秤に注がれていく。
……少しずつ、私が消えていってしまう。
私のアイデンティティは仁君の中に存在していた。
仁君が私を想っていてくれたから、私は存在していられた。私はここにいていいと、仁君のそばにいていいと、勇気づけられた。強くなることができたのに。
私はまた、バカの一つ覚えのように涙をこぼす。
仁君は、どれほどまでに強い人なんだろう。
私がいなくなっても、ずっと涙をこらえていた。自分一人で悩みもだえて、弱い部分を見せようとしなかった。なのに、人一倍他人を思いやって。
私は、駄目。勝手に涙がこぼれてくる。
ぬぐっても、ぬぐっても。ぬぐっても、ぬぐっても。
次から次へ。後からから後から。
ひとりでに涙がこぼれてくる。
――助けて、仁君。
私、仁君の中からいなくなっちゃう。
仁君の恋人でなくなっちゃうよ。
仁君が私を好きだったっていう証拠も、仁君と過ごしてきた思い出も、語り合った言葉も、伝えあった気持ちも、全部全部、手のひらからこぼれていってしまう。
確かにあったのに。無くなっちゃうんだよ。
永遠なんてない。でも、永遠を信じていたいんだよ。
仁君、助けて。私を忘れないで。私のことを想っていて。
他の誰かを好きになんてならないで。
笑顔を向けて。笑いかけて。意地悪な顔でもいい、ふくれっ面でもいい。私を見て。
視線を向けて、視界に映して。
助けて、仁君。私を助けて。
力なく崩れ落ちる。
助けて、お願い、助けて。
――仁君……助けて……。
仁君の笑顔が浮かんで、消えた。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
最近、また忙しくなってきました。更新に影響しますこと、ここでお詫び申し上げます。加えて、新連載の方にも少なからず影響が……。
評価、感想、栄養になります。




