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特別編・第二話

 夕暮れの町を空から見下ろしながら、私はかつて自分が暮らしていた町並みを眺めている。


 私が通っていた学校には夕日が差していて、白い校舎がオレンジ色に縁取られている。屋上で仲むつまじそうに手を握りあっている男女の手と手、顔と顔が近付いていくのが見えた。


 野球部が必死に声をからして、汗を流して甲子園を目指している。

 スポーツに打ち込む青春。

 その一方で、恋人たちが甘い夏を過ごす青春もある。

 清純だとか、不純だとかそういうことではなく、ただ単に私はどちらの青春にせよ、何かを目指せると言うことがうらやましくて仕方がなかった。


 私はそれを高空から見下ろしながら、自分でも知らないうちに胸が苦しくなって、駅前通りに視線を投げる。


 投げた視線の先には、今でも町の中心に君臨する駅がある。


 瀟洒な駅で、今年で何度目かの改修作業がある。誰も見たことがないであろう駅の屋根は、酸性雨が与えた影響からか、所々色がはげ落ちていた。

 改修が数年おきにあるのも今なら頷くことができた。


 ふと見れば、到着した電車からは家路を急ぐ人々があふれ出して、次々に改札口に吸い込まれていく。駅から出てきた人は、三々五々、町中に流れ込んでいく。


 町を活気づけるのは、ビルや民家を彩る光ではなく、その中に生きる人なのだと思う。


 いわば人間というのは、血液。


 町に循環する血液が、人間。


 日本という国、私たちが済む都市、市、町……。支えるのは私たち一人一人。

 天災などで破壊されれば直すし、古くなったものは壊して立て直すか、補修する。何も人体の細胞活動、新陳代謝に限ったことではない。

 大局的に見れば、私たちも自分に流れる血液のように生活しているのだと思う。


 私はビルの隙間をゆっくりと通り抜けていく太陽のまぶしさに手をかざして、高度を落としていく。

 ビルの清掃員がモップを片手に汗を流している。会議が長引いてたばこの煙に埋もれている重役諸氏、係長の机の前でぺこぺこしている新入社員と、給湯室で談笑するオフィスレディの皆さん。早々に帰宅する部長と、それを恨めしそうに見る部下。


 人間いろいろなのだな、と思う。


 私が本当は過ごすはずだった日常の一風景。

 町の中にはビル一つをとってもこれだけの人生があり、みんなが主人公で、みんなが頑張っている。


 きっと恋をするだけが人生ではなくて、昇進を目指したり、子供を養ったり、家族を支えたりするんだよね。疲れた体に鞭打って頑張るんだよね。


 誰かのために、何かのために。歩いているんだよね。未来に向かって……。


 私は、頭をぼりぼりとかいて仕事に打ち込む中年男性の元に近寄っていく。

 ブラインドで締め切られている窓からわずかにのぞく白いワイシャツ。


 ひたむきに仕事に打ち込む姿。


 引き寄せられるように、私は近付いていった。


 デスクの上にはノートパソコンがあって、どうやら会議に使う資料を整理しているようだった。加工した画像をスライドショー形式にまとめ、画面上に題字を踊らせている。

 きっと企画会議でプレゼンするためだろう。


 一区切りついたのか、男性は大きくのびをして椅子の背もたれに寄りかかった。

 ぎし、と悲鳴を上げる椅子。

 男性はしばらく天井を見上げた後、視界の端に映ったであろう写真立てを手に取った。

 書類に埋もれているデスクの隅。写真立てを手に取ると、愛おしそうにすっと目を細める。


 けれど、瞳の中にある愛の色は、同じアイでも、哀の色に移り変わっていく。



「佳乃……お父さん、頑張るからな」



 次々に社員が少なくなっていくフロアの中で、一人つぶやく。



「……この親不孝者め」



 胸を突き刺すような言葉の後、父は悲しげに微笑んだ。



「おそらくお父さんが退職する頃には、定年退職は七十歳ぐらいになっているだろうから、お母さん共々早めに退職して、お前と、お前のお婿さんに世話してもらおうと考えていたのに……その野望がフイになってしまったじゃないか」


 独り言ではない。


 きっと、父が話しかけているのは、写真の中で不器用に微笑んでいる私なんだ。


「縁側でお前の孫と遊びたかった……。孫の投げたボールが速くて受け取れなかったりして、おじいちゃん下手くそ、なんて言われて困ったり、お年玉をあげて喜ばれたり、肩車をしてあげたり、高い高いだって……お前は母さんに似てきれいだから、きっと玉のようなかわいい孫だったろうな。おじいちゃんか、いいなぁ……おじいちゃん、いいよなぁ……」


 夢でも見るように目をつぶる。つぶったまぶたの間には光。

 ブラインドから漏れる夕陽のオレンジが、父の滲むまぶたの隙間を照らしている。



「……この親不孝者め」



 ――ごめんなさい。



 お父さん。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 お父さん。お父さん。ごめんなさい。ごめんなさい。


 私は床にくずおれる。大粒の涙は、透明な姿の私でも流れ落ちてくれた。床に落ちる瞬間に消えてしまうけれど、まだ私は涙を流すことができた。

 体を丸めて、私は床にすがるように泣き崩れるしかなかった。



 お父さん、ごめんなさい。



 足が臭いなんて言って、ごめんなさい。

 お父さんは、歩きっぱなしだったんだよね。汗水垂らして顧客を訪問して、炎天下の中でもハンカチを握りしめて、頭を下げて。歩くたびに、汗が頬を伝って。当然靴の中にも汗が滲んで、それでも靴底をすり減らして、歩いて、歩いて、歩いて。



 お父さんを分かってあげられなくて、ごめんなさい。



 些細なことで怒ったりして、ごめんなさい。


 帰りが遅いことで、ふくれてごめんなさい。


 終わらない仕事をいくつも抱えて、なのに納期を迫られて、多くの責任を背負って、部下を抱えて、なおかつ手綱を締めて、自分はそれ以上の仕事をして……それで早く帰ってこいなんて無理だよね。約束を守れなんて無理だよね。


 自分勝手な希望ばかり言い続けて、ごめんなさい。

 約束を押しつけて、ごめんなさい。

 酔っぱらって帰ってきたこと、怒ってごめんなさい。


 全部全部、私たち家族のためだったんだよね。

 行きにくい世の中で、必死に家族を支え続ける。

 文句だって言いたいはずなのに、家の中では笑顔でいてくれて。


 外ではこんなにたくましい背中をしている父。

 家の中ではだらしなかった父。


 当然だよね、家でだけは、自然のままの自分でいたいよね。


 なのに……なのに私は、お父さんに何もしてあげられていない。


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。



「よし……もう一頑張りするか」



 そばで泣きじゃくる私には全く気がつかずに、父は写真立てをパソコンの隣に置く。


 軽井沢に泊まりがけの旅行に行った高校一年生の夏。


 写真はいやだと駄々をこねる私を、無理に母と父の真ん中に押し込めて、父はセルフタイマーを起動させた。


 素直に写真を撮ってあげればよかった。

 あのときは想像もしなかった。

 たとえセルフタイマーであっても。



 そのファインダーの向こうには、父がいることなんて。



 こうして仕事に打ち込みながら、何度写真に目をやったことだろう。


 出勤したとき、外回りから帰ってきたとき、残業で疲れ果てたとき、帰るとき……何十回、何百回と目にしたことだろう。父が仕事の糧にしてくれているこの写真。

 その大事な写真の中。私は不器用に作り笑いを浮かべている。


 どうして最高の笑顔を見せてあげなかったんだろう。

 どうして父に微笑みかけてあげられなかったんだろう。


 ごめんなさい、お父さん。ごめんなさい。


 父の背中の向こうから、タッチタイピングの音が継続して聞こえてくる。


 きっと私が働いている姿を見たかったよね。


 退勤後、駅前でお父さんとばったり会って、会社であった出来事を二人で交換して、こうでもないああでもないと、私は大人の振りしてお父さんに言うの。

 そうしたらお父さんは、それが人生だ、お父さんなんかなぁ……なんて年輪の違いを見せつける。

 私は、お父さんの生きてきた長い人生に感心して、どうしてこんなに仕事に家庭に頑張れるんだろうって、不思議に思ってしまう。


 三十年以上働き続けることの苦労。


 家庭を支え続ける責任感。


 私にはとうてい想像できない。私にできるかどうかすら不安で仕方がなくなる。

 お父さんのよれたスーツを見ながら、私はお父さんの影を踏んでみるんだ。

 私より少しだけ恰幅のいい影だけど、問題はそこではない。

 問題は影の濃さ。

 影の濃さでは、私は全くお父さんに及ばない。


 背負ってきたものの大きさが影をより黒くしていく。


 家族を三十年間守り通してきた人の背中。作られる影。


 偉大なのだ。


 こんな身近に、世界で一番偉大な人がいること。

 アスリートより、文豪より、ノーベル賞受賞者より、お父さんは偉大だった。

 私を育ててくれた。

 言葉一つでは足りない。

 絶え間なく、当たり前のように愛を注いでくれたから、私は生きてこられた。

 そして、私は決意する。


 あなたが一番尊敬する人は誰ですか?



 ――父です。



 私は迷わずそう答える。

 家に着いたら、お母さんが夕食の用意をして待っていてくれるはず。

 スーツ姿のまま、二人でおかずをつまみ食いして、お父さんと一緒にお母さんに叱られるの。

 お風呂からあがってラフな格好をしていると、お父さんが裸同然の格好でキッチンに入ってきて、私とお母さんは非難囂々。お父さんは、むすっと真一文字に口を結びながらも、かまわずビールの栓を抜く。


 ――ほら、佳乃。


 そうしてお父さんのついでくれたビールを私はぐいっと飲み干して、次に私は返杯としてお父さんに注ぐ。

 お父さんはのどを鳴らして男らしい飲みっぷり。

 もちろん、体にしみるな〜、と威勢のいい声をキッチンに響かせる。

 仕事をして、ビールも飲めるようになった私。

 成長した私をみて、お父さんはきっとしみじみした声でこう言うはず。



 ――年月の経つのは早いなぁ……つい昨日まで佳乃はこんなにちっちゃかったように思える……。



 テーブルより低いところに手の甲を差し出す。

 お父さんの笑顔が本当に嬉しそうで、きっと私は私が大人になってしまった以上に、父が年老いてしまっていることに気がつく。ビールのせいでふくれた腹や、白髪の増えた髪の毛、しわの目立つ目尻……。


 年月という無情なものに、私は得体の知れない胸に染み渡る感慨を覚える。


 だから。



 ――これから親孝行するよ、お父さん。



 もしもそんなことを冗談交じりに言えたなら、きっと父はキッチンで泣いてしまうんじゃないだろうか。



 ごめんなさい。お父さん。ごめんなさい。ごめんなさい。

 ごめんなさい。お父さん。ごめんなさい。お父さん。



 ――大好きだよ。本当だよ。



 私が産声を上げたその日から、きっと、ずっと、大好きだった。

 叩かれても、怒鳴られても。私を見ていてくれたお父さん。

 愛しいから叱ってくれたお父さん。


 そんなお父さんが、大好き。


 だから、ごめんなさい。


 親不孝者で、ごめんなさい。



「……さて、帰るか」



 何時間か過ぎた頃、パソコンの電源を落とし、スーツの上着を羽織る。

 すでにオフィスには父以外の姿はない。

 父は腕時計に目をやり、口から焦りの言葉を漏らす。

 どうやら終電の時間が迫っているようだった。



「……おっと、忘れていた」



 出口に向かおうとする父の歩みが止まる。


 オフィスの床に無様に横たわり、後悔に押しつぶされている私に目を向けることもなく、父は自分の机から卓上カレンダーを手にとった。



 引き出しから取り出した赤ボールペンで、今週末の欄に大きな丸。



 休日出勤の確認だろうか。

 しかし、それにしては幾分緩やかな表情なのはどうしてだろう。

 私の疑問などつゆ知らず、父の背中が出口の向こうに消えていく。

 家族を守り続けてきた偉大な人の背中。

 幾分かげって見えるのは、目の錯覚だろうか。



 ……ごめんなさい、お父さん。



 真っ暗なオフィスの真ん中で、私はあきれるぐらいに繰り返す。



 ……ごめんなさい、お父さん。



 孤独が肉体のない私を包み込む。


 こんな親不孝な娘でも、お父さんの娘で幸せだった。



 ……ごめんなさい、お父さん。



 また、涙がこぼれる。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。

今回の後書きは少し長めです。

さて作中の"父"と"お父さん"の表記の揺れですが、仕様です。読みにくいとお思いになった方には、この場にて謝罪を。申し訳ありません。


ここからが本題です。誰も数えてはいないので自分で言ってしまいますが、実はこれが50話目です。自分で自分に拍手を贈ります。ぱちぱちぱち。


……思ったよりも、むなしいです(泣)


もともと十話で終わりだったこの「多重人格な彼女」が50回を数えることになったのは、他ならぬ読者の方と、わざわざこんな馬鹿作者に、栄養(評価、感想)をくださる読者兼レビュアーの方のおかげです。

皆様に後押しされて後日談、特別編……作者自身しみじみです。

今までになくこんなに自由に書いていて、なおかつ回を増すごとにシリアス方面へ、かつ幾度となく読者を裏切り……なのに読者数は少しずつ……本当に不思議です。一つの作品にあまりこだわらない作者ですが、この作品は少しだけ大事に思えます。

というわけで、佳乃視点、何とか頑張ります。

でも、期待はしないでください。ダメ、絶対。

評価、感想、栄養になります。

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