特別編・第一話
花びらが窓の外から流れてくる。
ひらひら。ひらひら。
まるでそよ風とワルツでも踊るように教室の窓をくぐる。花びらは私の頬を通り抜けて、彼の肩にふわりと舞い降りた。天使が輝く翼を折りたたみ、地上に降臨するように静かだ。
女の子が教室の外から駆けてくる。
ぱたぱた。ぱたぱた。
まるで情熱的なタンゴでも踊るように教室の敷居を飛び越える。女の子は私の前を通り過ぎて、彼の前にちょこんと座った。家に帰ってきたご主人様を玄関先まで迎えに出てくる従順な小型犬のように、嬉々としてせわしない。
彼が窓の外にいらだたしげな視線を向ける。
いらいら。いらいら。
まるでテンポの速いクイックステップを踊るように、机を人差し指で叩いている。彼は視線だけを私に向けながらも、私を見ているわけではなかった。思い出を空に浮かべるように、視線は私を突き抜けて純白の雲がたゆたう空へと注がれている。
花びら、女の子、そして彼。
私は窓枠に座りながら、三者をそれぞれ瞳に映し込んでいった。
「あの、先輩先輩先輩……どうしてずっと校庭の方を眺めているのですか? それも頬を風船のようにふくらませて……。あ、にらめっこですか? にらめっこだったら杏里は負けないですよ。こう、美少女であることをかなぐり捨てたグロテスクな顔をすることも可能じゃないと思います」
女の子が彼――仁君の顔をのぞき込む。
……杏里ちゃん、したこともなのにできると思っているんだね。
「うるさい、黙れ」
仁君、女の子に対してそれはどうかと思う。
杏里ちゃんは下級生なんだし、もう少し優しい言い方をした方がきっといいはずだよ。
私は開いた窓の縁に腰掛けながら、窓の外をにらみつけている仁君に苦笑いをする。
仁君は頬杖をついて、やり場のない怒りをためているように不満げ。相変わらず指で机を叩いている。
なんだか、旗色の悪いときの代表監督みたい。
仁君が後頭部を隣に座る女の子に向けていることからも、どうやら彼女を敬遠している様子。
そんな仁君に、杏里ちゃんはまるでウェルシュ・コーギー犬のようにしっぽを振っている。
仁君がフリスビーを外に投げたなら、ここが二階であることも忘れて今にも窓の外に飛び出していきそう。
「先輩先輩先輩、どうしたのです? いつものようににこにこしてください。今日はぷりぷりしています。ほら、杏里と一緒に笑顔の練習なのです!」
仁君の顔をのぞき込んで興味津々にこにこ顔。
そうそう、コーギー犬は女王ひいきの犬という事もあって、イギリスで非常に高い人気を保つ犬種。だから杏里ちゃんは、こうして仁君びいきなのかな。
……少し、うらやましい。
「生き生きとした笑顔は、ダイエットにも効果が確認されているのです。では、先輩も杏里についてきてくださいね。今から、杏里超軍曹による短期集中キャンプ始めます。いきますよー」
杏里ちゃんの笑顔に、仁君はまぶしそうに目を細めた。
……あ、仁君、嫌がってる。眉間にしわが寄っているよ。
「まずは前頭筋ですよ。眉毛の上から縦に伸びている筋肉で、眉を上げ、顔のシワをつくる筋肉なのです。この筋肉が老化すると、額に横ジワが残りますからねー、ほら先輩、私に従って眉を上下に動かしてください! いっちにいっちに」
杏里ちゃん、衆目の真ん中で眉毛を上げ下げするのはどうかと思う。
ほら、あまりの醜態に男子が目を背けているよ。
それに、あんまり仁君を刺激しないであげて。
仁君の前頭筋が別の意味で痙攣してるから。
「次は、大頬骨筋! 大口を開けて笑う時、口元を高く上げ、ダイナミックな笑顔をつくるのです。顔を大きく動かしてこの筋肉を鍛えると、シミやシワの出来にくい生き生きとした肌がつくれます」
杏里ちゃん、もしかして仁君が怒るの分かっていてしてるのかな……?
「次はより重要な小頬骨筋へとつながりますからね、ここであきらめず、ついてきてくださいよー」
「だあああああっ! うるさい! お前は妖怪百面相筋肉馬鹿女か!」
そのコンビネーション、私だったら間違いなく傷ついてるよ。
妖怪で、百面相で、筋肉、おまけに馬鹿。
そのデルタ地帯は、きっとバミューダ海域以上の死の気配。
「誰が勝手に口答えしていいと言ったウジ虫! ベトナムに行く前に戦争が終わっちまうぞ、アホ! 口でクソたれる前と後に『サー』と言え! 分かったかウジ虫!」
あ、杏里ちゃん……いくらノリがいいと言っても、それは女の子として過激すぎな発言だと思う。
一瞬、教室中の男子の背筋が勢いよく痙攣したよ。
加えて、言いにくいけど、仁君の背中から異様なオーラが立ち上って……。
私は窓枠に座ったまま顔を手のひらで覆った。
「あ……あはは、先輩、杏里のジョークですよ? 杏里鬼軍曹のリアルさを伴った――」
「ほう……」
仁君、顔が怖い。背後から襲う変質者のようだよ。
「違います違います違います! ほら、あれです! 杏里の敬愛するスタンリー・キューブリック監督ですよ。ハートマン軍曹なのです。知ってますよね? 先輩も好きですよね? ね? ね?」
「ほほう……」
「や、ややや、やめなのです。せ、先輩……それよりさっきの続きしましょうよ。まだ皺眉筋と、眼輪筋、小頬骨筋、頬筋、咬筋、笑筋、口角下制筋が残って――」
「言い残すことはそれだけか、軍曹」
「大佐! 口輪筋を忘れていたであります!」
「歯を食いしばれ!」
「大頬骨筋が!」
「もうやっただろうがっ!」
鉄、拳、制、裁。
腹を出して服従のポーズを見せていた杏里ちゃんに、問答無用のげんこつが落ちる。
うつぶせに床に転がった杏里ちゃんの頭からは、煙が立ち上っていく。
熱した鉄板に水をかけるとこんな煙が出るよね。
「せ、先輩…………口輪筋は……口元を円状に囲んでいる筋肉で……口を閉じたり唇を突き出すための筋肉なのです。……口元の微妙な表情を演出する……重要な筋肉なのですよ……。弱ってくると……老けた顔になってしまうのです……がくり」
教室の床に、筋肉、というダイイングメッセージを残す杏里ちゃん。
杏里ちゃんの最近のマイブームは表情筋を鍛えることだったんだね。
表情豊かなのもこれで納得。
それにしても仁君、女の子に手を挙げるのはいけないよ。
たとえそれがMな杏里ちゃんでも。
私は窓枠からぴょんと飛び降りて、腕を組む。
そのまま仁君の向かい側に回り込むと、面と面を向かい合わせ、頬に空気をため込んだ。
いわゆる、めっ、って感じ。
「…………うるさい」
仁君の目の前で注意しようと頬をふくらませる私。そんな私には全く気がつかずに、仁君は隣からぼそりとこぼれた声に耳をそば立てる。
「……夫婦漫才ならよそでやって」
「誰が夫婦漫才だよ」
「杏里と先輩のことですね!」
……復活が早いね、杏里ちゃん。
「沈んでろ」
「沈――ふぎゃっ!」
げんこつが同じ箇所に被弾。すぐさま轟沈。
躊躇なく実行した仁君のえげつなさと、あえてそれを受けた杏里ちゃんに合掌。
煙立つ頭のたんこぶは、まるで駅前で人気の二段重ねのアイスクリーム。
「めざわり」
「あぁ、そうかよ」
窓から吹き込んでくる風が、私を通り抜けて漆黒の長髪を揺らす。相変わらずのアジアに誇れる美しい黒髪。
ウメちゃんは風に遊ばせた髪を翻すと、教室から出て行こうとする。
仁君は乱暴な言葉を吐いていながらも、苦しそうに頬をゆがめている。
もう……売り言葉に買い言葉なんだから。
早めに謝った方がいいと思うな。謝るのはね、やっぱり早いほうがいいんだよ。
心の傷はね、体の傷と似たようなところがあるの。いつまでも治療しないと、傷が化膿して、どんどん悪化していくんだよ。
早期発見、早期治療が何事にも有効なんだから。ということで、早く謝った方がいいよ、仁君。
……でもこれじゃ、仁君が一方的にウメちゃんに何かした感じになってるね。
「ううう……十四リットルの……砂糖水……なのです……」
私が見に来たときには、すでに仁君とウメちゃんが臨戦状態、あるいは冷戦状態、でなければキューバ危機状態だった。
「このキャンディーと、先輩への愛が……杏里を……何度でもよみがえらせるのです……」
よく分からないけど、とにかくこういうときは仁君が悪いって相場が決まっているんだよね。
ごめんね、仁君。
長年連れ添ったの幼馴染みのカンです。
「復っ活! 中村杏里復活! 中村杏里復活! 中村杏里復活! 中村杏里復活! 中村杏里――」
キャンディーを口の中で転がした瞬間に、杏里ちゃんが勢いよく立ち上がる。
とりあえず、復活したと見ていいみたい。
「復か――ぎゃん!」
つかの間の復活だったね、杏里ちゃん。
でも、ここまでくるとあえてそうしているとしか思えないよ。
痛みを表現する言葉とは裏腹に楽しそう。
頭を抱える仕草だって、痛そうに顔をしかめるのだって、目から涙がこぼれているのだって、どこか嬉しそうだもん。
……ずるいよ、杏里ちゃん。
「ううあう……杏里、はげちゃいます……。もしはげたら、先輩責任とってくださいね」
「ああ、責任もって育毛剤を買ってやる」
「ふ、ふふ……そう言われると知っていて、あえて先輩に言ってみた杏里って、なんてM。まさにMは杏里のMですね」
どこらへんが?
「どこらへんが?」
仁君と私の声がふいに重なる。
それだけのことなのに、とても嬉しい。
「でも、先輩……どうしてウメ先輩は怒っているのですか?」
自虐的な笑みを浮かべていた杏里ちゃんが、一瞬で真顔に戻る。
表情の変化に少なからず仁君は驚いたけれど、すぐに物憂げな雰囲気をまとう。
「別に……大したことじゃ」
「嘘ですね、杏里には分かりますよ」
人差し指をたてて、杏里ちゃんが仁君の顔を下からのぞき込んだ。
みずみずしい唇をニヤリと歪める。
嫌らしい笑みのはずなのに、とてもかわいい。
ショートボブの髪の毛が、窓を切り取った光を浴びて栗色に輝いている。
透き通るような肌がその光を伴って、さらに鮮やかさを増す。
不意に浮かべた笑顔もまた、輝きを倍加させた。
杏里ちゃんは子犬のようにかわいい……うらやましい。
「先輩の観察力なら、杏里の右に出るものはいませんよ」
嘘。
嘘だよ。
私が一番仁君を知っているんだよ。
幼い頃から、物心つく前から仁君と一緒にいたんだから。仁君がどんなアニメを好きだとか、仁君がお風呂に入るとき左足をはじめに洗うこととか、子供の頃、肩甲骨にけんかで付けた傷があることだって、私を守ってくれたせいでついた傷だってことも、みんなみんな私は知ってる。
杏里ちゃんは、知らないよね。
仁君と過ごした時間なら、私は誰にも負けないの。
だから、仁君の観察力なら私が一番なんだよ。
そうだよ……私が一番なんだから。
「本当にさ……大したことではないんだ」
立ち上がっていた体を椅子にどさりと預けて、仁君は天井にため息を吐いた。
私はふわりと舞い上がって仁君のため息を飛び越えると、ウメちゃんの机に腰掛けた。
まるで無重力空間のように、逆立った髪の毛がしばらくして私の肩に落ち着いた。
スカートも同じようにふわりと揺れて、腰掛ける私の太ももに落ち着く。
「ただ単に、調理実習でさ」
話すんだね、仁君。
話しちゃうんだね。
仁君が大したことないって言うとき、それは結構重要だってことだよね。
仁君の大したことない話を聞くのはいつも私の役目だった。
私だけが、仁君の大したことない話を聞くことができた。
心を許してくれているってことを実感できるやりとり。
幼馴染みにだけ許された特権行為だね。
……特権行為なんだよ。
……特権行為なのに。
話しちゃうんだね、杏里ちゃんに。
「ウメの作ったチョコレートをさ、食べたんだ」
「ふむふむ、なのです」
嬉しそうに頷く杏里ちゃんが、どんどん仁君に近付いていくのが分かる。
身体的な距離も、心の距離も。
少しずつ、少しずつ。
日本列島が今でもわずかに動いているように。
近付いていく。私は仁君のこととなると敏感でどうしようもなくなってしまうから、すぐに知覚してしまう。まるで人体の反射運動。
「そのときつい言っちゃったんだ」
「何をなのです?」
仁君の目は後悔の色に染まっていた。
「佳乃の方が美味いな……ってさ」
昼と夜が逆転したかのように視界が明滅した。胸は爆発的な加速で打ち鳴らされる。
――嬉しい。
私の名前が仁君の口から出るということ。
まだ私は仁君の心の中に息づいているのだという証明に思えた。
ポジティブすぎるかもしれない。そこまで考えることではないかもしれない。
それでもいい。それでもいいの。
まだ私は仁君にとって一番の存在でいられているって。
自分勝手でもいい、まるでアリバイ工作にでも使うように、確固たる証言にしたいから。
思い込んでいたいから。
不意にこぼしてしまう仁君の言葉に私がいたこと。
無意識に出た言葉の中に私が存在していることは、きっとどんな理屈よりも絶対に強い。
それは仁君の中に、私が浸透しているってことだよね。
そう信じていいんだよね。
まだ、私が仁君の一番だって自負していいんだよね。
駄目だってことは分かっているよ。
私はもう過去の人で、仁君は現在から未来を生きる人。
杏里ちゃんも、ウメちゃんも、みんなみんな新しい思い出を重ねていける。
私だけができない。
そんなのずるい……苦しいよ。
……だったら、今だけ。
今だけ、まだ思い出のストックがたくさんある今のうちだけ、仁君の一番でいさせてほしいの。いつか年を経て、私の思い出の量は、必ずみんなの思い出の量に抜かされてしまうから。
それは絶対で、止めようのないこと。
過去になってしまった私と、みんなとの越えられない壁。
「それで、ウメが怒った。それだけなら俺が悪いからいいかもしれないけど、あいつは……」
苦渋に頬をこわばらせる仁君の頬に、私は手のひらをあてがう。
感触はない。
透き通る自分の手が何よりも悲しく、私に現実という刃を突きつける。
「佳乃って誰? って言いやがった。週末の墓参りにも行かないって。行く必要ないって、それで俺……急に頭に血が上って……」
仁君。
私、駄目な幼馴染みだね。
仁君の背中を押したはずなのに、まだ仁君を想ってる。
「先輩、謝るのですよ。やっぱり、謝るしかないのです。年齢を重ねるごとに謝ることがなかなかできなくなるなんて、そんなの言い訳です」
杏里ちゃんと仁君の視線が一致している。
熱烈に見つめ合うほどではないけれど、仁君が杏里ちゃんの言葉に引き寄せられているのが分かる。私に向けられていた仁君の瞳の色に似ている。
その色に近い色になりつつある。
「年齢や、立場、状況、確かにすぐに謝れない理由はたくさんあるのです。でも、謝るという方法以外、許される方法はないと杏里は思えるのです。贖罪することも、結局は謝罪がはじめにくるのです。だから先輩、謝るのですよ」
杏里ちゃんの手が伸びて、仁君の手をつかむ。
宝物でも握りしめるように、杏里ちゃんは自分の胸の前で仁君の右手を両手で握りしめ、願うように目をつぶる。
「……だよな、やっぱり」
仁君は杏里ちゃんを叩いたりもせず、困ったように嘆息した。
前向きな返答に、杏里ちゃんの顔が華やぐ。
仁君の頬に添えていた私の手は、無情にも仁君の頬をすり抜けた。
杏里ちゃんが仁君の腕を引っ張って、教室を出て行ったウメちゃんの後を追いかけていったからだ。
私は半透明の自分の手を握りしめ、自分でも醜い心を言葉にしてしまう。
――私の仁君をとらないで。
仁君が私のものだなんて、誰が決めたわけでもないのに。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方ありがとうございます。
毎日暑いですね。
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