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特別編・最終話・「いってらっしゃい」・後

 殴られたような衝撃が、頭のてっぺんからつま先までを駆け抜けた。


 落雷に打たれたようなしびれを全身に感じ、指先にわずかに残る。

 伸びた前髪がまつげにわずかにかかっていて、風が吹けば目元で揺れる。頬は幾分こけて精悍な顔つきになったのは、彼の中で何かが変わったせいだろう。

 服装は相変わらずのラフなもので、無地の白いワイシャツにダメージの残るジーンズ。靴は二年目のつきあいになる三本ラインのスポーツシューズ。

 見た目よりも機能性が優先されているのはあの頃と全く変わらない。


 男子三日会わざれば刮目して見よ。


 そんな言葉があるけれど、目の前の彼にもばっちり当てはまっていた。

 変わらない服装とは対照的に、背が伸び、肩幅が大きくなっている。一年前は少し猫背だったはずなのに、今はすっきりと背筋に一本線が通っていた。

 最初に目についた精悍な顔つきは、ますます彼のお父さんに似てきたようだ。



 ……仁君。



「やっぱり愛されているな、佳乃は」


 空の頂点に来た太陽のせいか、黒い墓石に当たる光の強さがますます強くなる。

 仁君はそんな光にまぶしそうに目を細め、手で作った影で目を隠した。


 父が一生懸命に磨いてくれた墓石。

 黒くつややかな御影石が鏡のように光を反射している。


 母がていねいに剪定してくれた献花。

 カサブランカ、トルコキキョウ、デルフィニューム、白とブルーが目に寂しくなく、派手すぎない花々の共演。


 ウメちゃんが真心をこめて調理してくれた供物。

 エプロンだけではなく、額や腕まで汚して作った努力の結晶、チョコレートケーキ。


 仁君はそれらを全て目に留めて、嬉しそうに微笑んだ。


「本当に……愛されているのですね、夕凪先輩は」


 一歩を踏み出した仁君の背中に、寂しそうな視線を送る。

 私の墓前に立つ仁君の背中を追うことはしない。

 杏里ちゃんは、ぎゅっと握りしめた拳を胸の前でふるわせて、墓前で微笑む仁君を視界に納めていた。

 私を何度も包んでくれた両手が音もなく合わせられ、仁君は少しだけ頭を垂れた。


「佳乃、遅くなってごめんな。寂しくなかったか?」



 寂しかったよ。



「つらくなかったか?」



 つらかったよ。



「泣いてたりしないよな?」



 泣いていたよ。



 ずっと、仁君を想っていたんだもの。寂しくないはずがない。つらくないはずがない。体が干からびてしまうくらい、泣いてばかりだったよ。

 仁君はそんな私に気がつかないんだよね。

 昔みたいに、すぐに駆け寄ってきてくれないんだよね。

 こんなに近くにいて、こんなに好きでいるのに。

 想いは通じているはずなのに。相思相愛なのに。



 ああ……駄目だよ。

 仁君がこんなに近くにいるってだけで、私のことを考えているって分かっただけで、仁君の全てを奪い取ってしまいたくなる。

 倫理観や、道徳観、生死の彼岸なんて蹴飛ばして、今すぐ抱きしめて欲しくなる。


 合わせていた手のひらを下ろして、仁君が私に向かって微笑む。


 まるで、長い間かくれんぼをしていたような感覚だった。


 私があまりに上手に隠れてしまっているから、誰にも見つけてもらえない。

 真っ暗な地下室の隅でひざを抱えて、息を殺して、誰かに見つけてもらえるまで待ち続けている。

 得体の知れない虫に取り付かれ、蜘蛛の巣が私の髪の毛を包んで、ほこりを体中にかぶる。

 このまま誰にも見つけられずに白骨化して、私は忘れ去られていく。

 底冷えのする夜を何百、何千と越えて、私は時間の海原に飲み込まれていくしかない。

 私は自分で見つけてもらいに行くことができないから、そこで空しく待ち続けるしかない。

 何万分の一という僥倖を願うしかない。


 突然、地下室の扉が開いて、輝かしい光が私の体を包む。


 何年かぶりに浴びた光は、目もくらむばかりにまぶしくて、舞い上がるほこりを黄金に染めた。


 佳乃、やっと見つけた。


 そう言ってたくましい手をさしのべてくれた彼に、私は弱々しい手を伸ばす。

 救って欲しかった。温もりが欲しかった。見つけて欲しかった。


 世界で一番大好きなあの人に。


「俺、何とか頑張ってる。この前のテストは平均八十点だった。このまま何とか頑張り続ければ、指定校推薦だってもらえそうな勢いだ。佳乃には遠く及ばないけど、少しでも追いつけるようにこれからも頑張り続けるよ。クラスの奴らは相変わらずだな。ぽけぽけ早坂は、今度は英語の発音に四苦八苦してる。鹿岡兄妹は相変わらず騒がしいし、最近はエスカレートしてきてる。校舎内で銃撃戦をするほどだぞ。信じられるか? 恋はスリルとサスペンスなんだってさ。鹿岡義妹が言うにはちょいエロも大切らしい。確かにアメリカ映画には欠かせないけどさ……」


 アメリカ人のような大げさな身振り手振りと、四季のように移り変わる表情。

 折々の変化は、私を楽しくさせる。

 近況を話してくれる仁君の一生懸命さに、私は深く心打たれる。


「そうそう、レスリング部の田中はインターハイに出場したぞ。……一回戦で負けたけどな。レスリング部始まって以来の快挙だから、新聞にも載って大変な騒ぎだった。優勝したらインタビューで佳乃のおかげで優勝できました、天国で見てるか、って言うつもりだったらしい」


 生き生きしている。

 さわやかな風を受けながら話し続ける仁君は、本当に楽しそう。

 ここが墓園だなんて思えない。


 喫茶店で待ち合わせをして、遅れてやってきた仁君が、私に、ごめんな、って謝るの。

 私は来てくれた嬉しさで飛び上がってしまいそうなのに、それをぐっとこらえて怒ったふりをする。

 だって、そうでもしないと遅刻の常習犯になってしまいそうだから。

 私は待っているだけの女じゃなくて、追いかけて欲しい女でもあるから。

 うーん、ちょっと大人っぽかったかな。

 そんなことを考える私に、仁君はテーブルに両手をついて何度も頭を下げるの。私はちらりと仁君を盗み見て、妥協案を提示する。


 ジャンボパフェ。


 仁君は困ったように思案し、お尻に押し込んでいた長財布を取り出して中身を確認する。


 大丈夫、一つだけならそんなに高くないよ。


 仁君を待っている間に見ていたメニューを思い出す。

 仁君は決意を固めたようで、店員さんを呼ぶ。


 ジャンボパフェ、二つ。


 聞き違いではないかともう一度聞き直す店員さんに、仁君ははっきりとした口調で、ふたつ、と告げる。目を丸くする私に、仁君は喜色満面でこう言うの。


 俺も食べたかったんだ。


 メニューも見ないのにジャンボパフェの値段を知っていた。

 今日この日のために、仁君は予習をしていた。すてきな思い出にするために、楽しい思い出を残すために、私を喜ばせようと予習をしてくれていた。

 行き当たりばったりな仁君には珍しい甲斐性に、私は不機嫌なふりを忘れてしまうんだ。

 大好きであることを実感してしまうんだ。

 私はあわてて照れ隠し。

 テーブルの下、仁君のつま先の上に、ちょこんと私の足を乗せる。

 仁君はニヤリと挑戦的な笑みを浮かべて、逆に私の上につま先を置いてくる。あとは延々と繰り返されるいたちごっこ。馬鹿なことが、些細なことが本当に楽しく思えてしまう。

 ジャンボパフェが一秒後に届いたと勘違いしてしまうぐらいに、楽しい時間はすぐに過ぎる。


 そんな愛しい時間。



 ――全部、全部、私の勝手な作り話。

 あれも、これも、恋人らしいことをたくさんしたかった。

 全部抱きしめて欲しかった。キスの雨だってそう。降らせて欲しかった。


 私はもう仁君の視界に写り込むことはない。

 無意味な想像を繰り返すしかない存在だから。


「新聞部の皆川亜矢子は自主映画作りに奔走してる。聞いたところによるとお前をモデルにしているって噂だぞ。女主人公のよしの……ま、佳乃って書いて、よしの、って読ませるんだけどな。その女の子が、幽霊となってよみがえって、みんなを気がつかないうちに幸せにしていくんだってさ。都合のいい話だけど、なんだか応援してあげたくなる。俺も……一応脇役で出てる。それから――」



 ねぇ、仁君、これ以上素敵にならないで。


 ねぇ、仁君、これ以上仁君を好きにさせないで。


 私の中に、仁君はこれ以上入らないよ。もう一杯なの。パンクしそう。

 優しくして欲しいけれど、優しくしないで。

 仁君の優しさが私の中でこぼれるの。

 私は欲張りだから、全部欲しいって思ってしまう。

 こぼしてしまうのなんて嫌だから、全部受け止めてしまう。

 自分の感情が破裂して廃人になってしまうまで、きっと受け止め続けてしまうから。


 だから、もうこれ以上……。


「――っていう感じかな」


 長い長い近況報告を終えた仁君は、疲れたように一呼吸入れる。

 一方的に話し続けた仁君の額には、玉のような汗が浮かんでいた。

 直射日光にさらされてさらに大粒となり、つるりと額を流れ落ちる。


 ふと目を移せば、ウメちゃんがいつの間にか高くそびえる墓石の後ろに隠れていた。


 小さい体をさらに小さくする様子は、まるでこたつの中で丸くなる子猫のよう。仁君に墓参りに行かないといった手前、鉢合わせだけはなんとしても避けたかったのだろう。

 けれど、それも後の祭り。

 ウメちゃんにすれば意地でも隠れ続けるしかないといったところだろう。


「佳乃、その……こんなことを頼むのも何だけど、これ食べてみてもいいかな?」


 供えられているチョコレートケーキに目を留めて、仁君は後頭部をかいた。

 私に断っているけれど、私は声を出すことはできない。そして、話しかけた仁君は、当然私の存在を感知しているわけではない。

 私がここにいることすら知らない。

 ただ、形式を取っただけだ。


 仁君がケーキの話題を口頭に上した瞬間、隠れているウメちゃんの肩がぴくりと反応する。

 体を強ばらせているのは、極度の緊張だろうか。


「ごめん、食べるよ……いただきます」


 思い当たる節があったのだろう。

 食べる直前に紙皿の上のケーキをあらゆる角度から眺める仁君。

 最後にふっと笑みをこぼすと――強情なやつめ、そう言った気がした――ケーキの端っこを手でつかんで丸かじりする。

 男らしい豪快な食べ方は、ここでは少し行儀が悪い。

 ウメちゃんは曲げたひざをこれでもかと抱きしめ、仁君の動向に備えている。

 不安がこみ上げるのか、ウメちゃんは唇をかんで耐え忍んでいた。



「…………なんだよ、やればできるんじゃないか」



 二口目。

 さっきよりも大きく口を開けて、ケーキの半分をまるまる頬張ってしまった。

 仁君の頬が喜んでいることは、端から見ていてもよく分かる。よく味わうように咀嚼して、ごくりと飲み込む。

 後味につられて出てくるのは、極上の笑み。



「うまい」



 三口目。

 指に付いた欠片さえもぺろりと舌でなめ取って、仁君は物足りなさそうにお腹を撫でた。



 ……仁君、知っている?



 ウメちゃんのこのときの表情を。


 仁君の一言で体現した微笑み、この世の春のような百花繚乱を。

 きっとウメちゃんは自分でも知らないくらいに素敵な表情をしている。

 つぼみだった花々が全て花開いてしまうくらい。

 絶対零度、永久凍土の大地が、一気に温帯の四季へと変貌を遂げてしまうくらい。

 生まれ出ずるもののない不毛の地から、うっそうと樹木が生い茂っていくくらい。

 きっとどんなに大げさな比喩表現を使っても足りない。百聞は一見にしかず。


 何を隠そう、ウメちゃんはね。


 真っ白な頬を、うっすらと桃色に染めて、恥ずかしそうに照れているんだよ。

 薄紅色の唇を嬉しそうにたわめて、熱く胸を高鳴らせているんだよ。



 ……教えてあげない、教えたくない。百聞は一見にしかず……ううん、これは意地悪なのかな。


 でもね、仁君が自分で気がつかなければいけないことだから。


 仁君が美味しそうにケーキを頬張る背中を、寂しそうに、辛そうに見つめ続けているつぶらな瞳も。

 お墓の裏でかつてない鼓動を感じている小さな女の子にも。


 全部、仁君自身で気がついてあげなければいけないこと。


「さて、今でも十分綺麗だけど、俺もしてあげたいしな」


 水桶から杓子で水をすくい、お墓のてっぺんに水をそっと流す。

 太陽の熱を吸収して表面温度が増した墓石は、まるで熱せられたフライパン。流れていく水は油のように広がるけれど、温度を増してすぐに蒸発してしまう。


「今日は暑いからな。佳乃も熱いだろうと思ってさ、たくさんくんできたんだ」


 何度も何度もお墓に水をかけ続ける。それが儀式として正しいことなのかは分からないけれど、仁君は海辺で海水を掛け合うように、何度も私の墓石に水をかぶせる。

 墓石の後ろに隠れていたウメちゃんは、甘んじて大量の水をかぶってしまう。

 頭からびしょ濡れになってしまって、ブラジャーのホックが透けたシャツから見えてしまっていた。それでもウメちゃんは仁君に気がつかれないように我慢し続けている。


 ここまで我慢したのだから、最後まで……そんな気概が感じ取れた。




「………………くしゅん!」



 ……感じ取れたのだけれど。



「ん?」



 墓の裏から聞こえた不審なくしゃみに、仁君は背伸びをしてのぞき込む。

 そこには体を丸めて隠れているウメちゃんがいて。

 前髪で必死に赤々とした顔を隠そうとするのだけれど、首まで真っ赤になってしまってはそんな意味はなくて。



「…………あ、う、ウメ」



 燃え上がるように仁君も赤くなった。

 ケーキを褒めてしまった手前、ウメちゃん同様恥ずかしいのだろう。


「な、何してるんだ? こんなところで」


「……墓参り」


 何とも要領の得ない会話。

 あわてて目をそらす仁君と、ばれてしまっては仕様がないと、赤い顔を隠しもせずにさっさと立ち去ろうとするウメちゃん。

 びしょ濡れのまま歩き出すと、前髪から雫がぽとりと落ちる。

 杏里ちゃんは驚いて何が何だか分かっていないようだ。

 仁君とウメちゃんを交互に見やっている。


「なぁ、ウメ。それに杏里もさ」


 気を取り直すような仁君の芯の通った声に、杏里ちゃんは頬を引き締め、ウメちゃんは背中を向けたまま立ち止まった。



「三人で、墓前に手を合わせよう。佳乃もきっと喜んでくれると思うから」



 優しさは時に残酷でもある。そんなことを思い出してしまう。


 仁君が生死の境をさまよっていたあのとき。

 私は仁君の直情的すぎるほどに純粋な想いをたくさん受け取った。思い出を確認し合い、愛と愛が触れあった気がした。

 このままでいたいと哀願してくれたのに、二人でいたいと懇願してくれたのに、私はそんな仁君の手をやんわりと振り払った。

 背中を押して、ため込んだ私への愛を流れ出させてあげた。

 仁君はたった一滴の涙を流すのに、どれだけの苦しみを経験してきたのか。

 私はそれを知っている。だから絶望に変わってしまった私への想いを、私は嬉しいと思いながらも、心のどこかではそれではいけないと思った。



 ――未来を歩いて欲しいと思ったから。



 それが仁君にとって救済だと、私は気がついてしまった。

 思い出が後ろ髪を引いても、そのときは髪の毛ごと切り落とさなければいけなかった。

 髪が女の命であるとしても……。


 私の墓前に並んで立った三人が、同じタイミングで手を合わせる。



 右に杏里ちゃん。

 真ん中に仁君。

 左にウメちゃん。



 三人ともうつむき加減で目をつぶり、わずかに頭を下げる。そして、瞑想するようにそれぞれに私への冥福を祈る。



「…………行こう」



 最後に墓石を仲良く三人で拭いて、汗だくになってまで綺麗にしてくれた。

 ウメちゃんは、もう汗なのか水なのか分からないぐらい頑張ってくれた。もちろん、残りの二人も一心不乱にぞうきんで拭ってくれた。

 垢を拭い、親愛をすり込まれるようだった。

 赤ん坊をお湯に入れて、体を拭いてあげるような親心に似たもの。

 三人の真心。


「それじゃ、佳乃……また来るよ」


 空になった水桶と杓子、ぞうきんを持って、墓前から離れる。

 一歩一歩、大好きな人の背中が遠ざかっていく。

 吹き付ける風が、三人の会話を届けてくれた。


「ウメ先輩……杏里は負けないのです!」


「そう」


 仁君の右腕に取り付いた杏里ちゃんが、無表情で歩くウメちゃんにつばを飛ばす。


「むむむ……そんなクールな感じが、世に言うクーデレ――クールな性格ながらも親しくなると可愛らしい一面デレを見せる人――ですか……! 新たなライバルに杏里ピンチです。力が低下してきたので、新しい顔が欲しいのです!」


「お前は、妖怪人間か」


 切り捨てるような台詞に、杏里ちゃんは大ショック


「杏里は願わずともすでに人間ですよ!?」


「……そう、よかったわね」


 かみつこうとする子犬を、子猫がさらっと受け流す。その中心で困り果てる飼い主。

 そんな微笑ましい構図が、徐々に遠ざかっていく。


 しっかりと前を向いて、歩き出そうとしている人達。

 父も母も仁君も、たくさんの思い出話を聞かせてくれて、私を仲間はずれにしないようにしてくれた。

 忘れないでいてくれた。

 優しさが心に染み渡った。


 そんな優しさにみんな惹かれていくんだね。

 不器用だけど格好悪いけれど、それでも努力を止めず、泥臭いことも止めず。

 雨にも負けず、風にも負けず。

 地震、雷、火事、親父、その全てに負けずに。


 歩いて、歩いて、歩いて。


 悩んで、悩んで、悩んで。


 それでも懊悩して、辛酸をなめて、はいつくばってでも進もうとするみんなの姿勢に、きっと周囲は感化されていく。

 私だってそうだ。



 過去を振り返った人だけが分かる、前進する強さ。



 仁君はそれを知っている。

 知っているから、成長していく。

 新しい恋を見つけていく……愛していく。



 仁君が好き。

 どうしようもなく好き。

 誰も好きにならないで。変わらないで。私だけを好きでいて。

 私の知っている仁君でいて。優しい声を聞かせて。好きだって言って。

 他の人に笑顔を見せないで。ずっとここにいて。私のそばにいて。

 私を見て。皮肉でもいい、憎まれ口でもいいから、私に話しかけて。



 どんなに叫んでも、どんなに胸をかきむしっても、声は絶対に届かない。

 時間が止まってしまった私は、これからもずっと苦しんでいく。

 仁君が誰かを好きになっていくのを、指をくわえて、唇をかんで傍観することしかできない。



 ……もう、それしかできなくてもいい。



 私は、小さな光を手のひらに宿す。

 また……いつか会えるよね。

 仁君とはまたきっと会える日が来るから。

 今ではないいつか、ここではないどこかで、きっと仁君と話せる日が来るから。

 そんな日が来るって、馬鹿みたいに信じているから。

 だから、私は自分に無理をしてでも言わなければいけないんだ。


 今はただ、その痛みを抱えて、涙をこらえて、お腹にぎゅっと力を入れて。

 私は手を振るよ。




 ――いってらっしゃい。


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