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人斬り蓮十郎は普通に暮らしたい

作者: 須亭分半太
掲載日:2026/10/07

(壱)


「俺は、表の世界で普通に生きてみたい」


 加木塚蓮十郎がそう言うと、父は湯呑みを置いた。


 春も終わりに近い昼下がりだった。


 開け放した障子から差す陽が、畳の縁を白く照らしている。


「急にどうした」


「前から少し興味があったんだ。仕官して、俸禄をもらって暮らすっていうのに」


「うちは代々、人斬りだぞ」


「知ってるよ」


 加木塚蓮十郎、二十七歳。


 人を斬る仕事なら、とうに一人前だった。


 加木塚家は、表向きはどこの藩にも仕えぬ古い武家である。


 その裏で、代々人を斬ることを生業としてきた。


 蓮十郎も幼い頃から、人を斬るための技を家伝として叩き込まれている。


 そして、その長い家の歴史の中でも、とりわけ出来がよかった。


「まあ、一度くらい表で働いてみるのもいいか」


「いいのか?」


「正体不明のやつがいきなり仕官するより、推薦状があったほうがいいだろ。ちょっと頼んでみるわ」


 父はそう言った。


 数日後、本当に推薦状が届いた。


 差出人は、大目付・楓川定鑑(かえでがわ・さだあき)。


 加木塚家の存在を知る、数少ない人間の一人だった。


 父はそれを蓮十郎に渡した。


「よし。行ってこい」


「行ってきます」


「おう」


 蓮十郎は家を出た。


 向かう先は梅沢藩。


 城下には川甚とよし乃という、評判の店があるらしい。


 蓮十郎は、それも少し楽しみにしていた。


(弐)


 梅沢藩の城下は、思っていたより賑わっていた。


 城を中心に武家屋敷が並び、その外へ町人地が広がっている。荷を担ぐ男と行商人が行き交い、軒を連ねた店からは客を呼ぶ声が飛んでいた。


 城へ向かう前に、蓮十郎は蕎麦屋へ入った。


 腹が減っていた。


 蕎麦をすすっていると、一匹の蠅が目の前を飛んだ。


 追い払う。


 また来る。


 もう一度追い払う。


 また来た。


 蓮十郎は箸を置いた。


 卓上の爪楊枝を一本取った。


 蠅が飛ぶ。


 蓮十郎の指が動いた。


 蠅が落ちた。


 片方の翅だけが、その脇に落ちていた。


 蓮十郎は何も言わず、また蕎麦をすすった。


 食べ終えると、そのまま城へ向かった。


 推薦状を差し出すと、応対した藩士の顔色が変わった。


「……大目付、楓川定鑑様?」


「はい」


「そなた、楓川様とはどういう……」


「父の知り合いです」


「……お父上は何者だ?」


「侍だと思いますけど」


「どこの家中だ?」


「さあ」


「……では、なぜ梅沢藩へ仕官を望む?」


「働いてみたかったので」


「…………」


「駄目ですか?」


「……まあよい」


 その日は、それで帰された。


 数日後、城から呼び出しがあった。


 どうやら推薦状が本物か、確かめていたらしい。


 話は妙に早く進んだ。


 ちょうど町方の見回り役に空きがあり、採用のための試しが行われることになった。


 御前試合である。


 相手は黒瀬正重。


 二十九歳。


 梅沢藩筆頭家老の嫡男であり、藩の道場では一番の使い手とされていた。


 試合場で向かい合った瞬間、蓮十郎には分かった。


 強い。


 少なくとも、この藩では相当な腕である。


 同時に思った。


 負けよう。


 ここで目立つのはまずい。


 黒瀬が打ち込んできた。


 蓮十郎は、わずかに遅れて受けた。


 次を辛うじてかわす。


 少しずつ押される。


 最後は黒瀬に一本を取られ、蓮十郎は負けた。


「そこまで!」


 声が飛んだ。


 黒瀬は満足そうだった。


 周囲も、名も知らぬ男が黒瀬相手によく粘ったという顔をしている。


 蓮十郎も満足だった。


 ちょうどよかった。


 数日後、蓮十郎は正式に召し抱えられた。


(参)


「井沢源兵衛だ。お前の仕事は、まず私が教える」


 そう言ったのが、蓮十郎の先輩となった井沢源兵衛だった。


 まじめな男だった。


 そして、少し間が抜けていた。


「いいか加木塚。見回りというものは、ただ町を歩いていればいいというものではない。まず第一に――」


 井沢の説明は長かった。


 軒下から落ちる陽が、少しずつ庭石の上を移っていく。


 井沢はまだ喋っていた。


 蓮十郎は途中から聞いていなかった。


 井沢は気づいていない。


「――それから、昼餉についてだが」


「はい」


 そこだけは聞き逃さなかった。


 仕事にも少し慣れた頃、蓮十郎は昼の休みに川甚へ向かった。


 楽しみにしていた店である。


 だが、戸が閉まっていた。


 暖簾もない。


 看板を外した跡だけが残っている。


 隣の店からは、客を呼び込む威勢のいい声が聞こえていた。


 川甚の前だけが、妙に静かだった。


「……潰れてる」


 しばらく立っていた。


 楽しみにしていた。


 かなり楽しみにしていた。


 仕方なく、蓮十郎は隣の店へ入った。


 膳が運ばれてくると、蓮十郎は川甚のほうを見た。


「隣の川甚、どうしたんです?」


「ああ。ひと月ほど前から閉めてるよ」


 店の主人が答えた。


「妙なのに目をつけられてな。ずいぶん銭を持っていかれたらしい」


「主人は?」


「この城下にはいるよ。今は知り合いの店を手伝ってる。店を開ける銭がないんだとさ」


「そうですか」


 蓮十郎は飯を一口食べた。


 悪くない。


 だが、目当てはこれではなかった。


 数日後。


 昼の休みになった。


 蓮十郎は、もう一つの評判の店、よし乃へ向かった。


 近づくにつれ、焼けた醤油の香ばしい匂いが漂ってきた。


 蓮十郎は少し足を速めた。


 よし乃は繁盛していると聞いていた。


 ところが店へ入ると、客がいない。


 蓮十郎は内心、喜んだ。


 待たずに食える。


 奥を見ると、三人の藩士が主人を囲んでいた。


「ずいぶん繁盛してるそうじゃねえか」


「少しくらい、こっちに回しても罰は当たらんだろ」


「もう勘弁してください。先日も……」


「誰のおかげで、この城下で商売ができてると思ってる」


 蓮十郎は少し待った。


 終わらない。


「あの」


 三人が振り返った。


「何だ」


「そういう話は、店を閉めてからにしてもらえません?」


「何だお前。見ねえ顔だな」


「最近、召し抱えられました。加木塚です」


「新入りか」


「はい」


「俺たちが来たら店仕舞いだ! 帰れ!」


「昼の休みが終わってしまうんで」


「知るか!」


「お腹空いてるんですよ」


「お前もこの店ごと潰してやろうか」


「それは困ります」


「舐めてんのか!」


 一人が蓮十郎の胸倉を掴んだ。


 拳が振り上がる。


 その拳が届く前に、男の身体が床へ転がった。


「貴様!」


 二人目が殴りかかる。


 蓮十郎は半歩ずれた。


 男は何もないところへ拳を振り抜き、そのまま床へ叩き伏せられた。


 三人目が刀の柄へ手を掛けた。


「この野郎――」


 抜こうとした。


 抜けなかった。


 蓮十郎がその腕を掴んでいた。


「店の中で抜くと危ないですよ」


 そのまま外へ放り出した。


 先に倒した二人も外へ出した。


 蓮十郎は店へ戻った。


「こちらで一番うまいものをください」


 主人はしばらく蓮十郎を見ていた。


「……はい」


 翌日。


 蓮十郎のもとへ、父から手紙が届いた。


 そちらの暮らしには慣れたか。


 表の仕事はどうだ。


 普通にやれているか。


「うん。今のところ順調」


 誰も聞いていなかった。


 蓮十郎は手紙を畳んだ。


 その日の午後は帳面仕事だった。


 人を斬ることに比べると、帳面仕事は難しかった。


 間違えて一行消した。


 書き直した。


 また間違えた。


「加木塚」


「はい」


 井沢だった。


「黒瀬様がお呼びだ」


「黒瀬様?」


「黒瀬正重様だ」


「ああ」


「すぐ行け」


「はい」


「いいか。筆頭家老のご嫡男から直々のお呼びだ。くれぐれも粗相のないようにな。まず部屋へ入ったら――」


 井沢の話は長かった。


「――それから、何を聞かれても余計なことは申すな。分かったか」


「はい」


 そこは聞いていなかった。


 黒瀬の部屋へ入ると、本人が一人で待っていた。


「単刀直入に言う」


「はい」


「店で藩士を三人、殴ったそうだな」


「はい」


「あれは俺の仕事をしてもらってたんだ」


「はい」


「分かるな」


「何がですか?」


「……分からぬか」


「あ! いや、分かりました!」


「そうか」


「川甚を潰したのも黒瀬様ってことですね!?」


「いや……そういうことでは……」


「そういうことでしょ! さっきご自身でおっしゃったじゃありませんか!」


「もうよい。下がれ」


「いや、下がれませんよ!」


「何?」


「大事なところですよ、ここ!」


「下がれと申しておる!」


 蓮十郎は、はっとした。


 そして身を引いた。


「……失礼しました」


 一礼して、部屋を出た。


(肆)


 その夜。


 城下の店々は、すでに戸を下ろしていた。


 遠くで犬が一度吠えた。


 それきり、音がしなくなった。


 黒瀬は一人で歩いていた。


 ふいに――


 身体が割れた。


 背後から一刀を浴び、肩口から胴まで断ち割られる。


 そんな己の姿が、あまりにも鮮明に見えた。


 黒瀬は息を呑んだ。


 肩口を押さえる。


 何もない。


 斬られていない。


 額から冷たい汗が流れた。


「黒瀬正重」


 振り返る。


 蓮十郎が立っていた。


 黒瀬はわずかに息を吐いた。


「……お前か」


「城下の店から巻き上げた金を返せ」


「何だと」


「聞こえなかったか」


 黒瀬の手が柄に掛かった。


「貴様――」


 刀を抜いた。


 踏み込む。


 鋭い一太刀を、蓮十郎は軽く受けた。


 黒瀬はすぐさま返す。


 流された。


 斬り上げる。


 外される。


 間合いを詰め、続けざまに打ち込む。


 受けられる。


 流される。


 届かない。


 蓮十郎からは、一太刀も来ない。


 黒瀬の息が荒くなった。


 歯を食いしばる。


 大きく踏み込んだ。


 渾身の一刀を、真っ向から叩き込む。


 蓮十郎は避けなかった。


 刀を上げた。


 刃と刃がぶつかった。


 鋭い音が、夜道に響く。


 止まった。


 黒瀬の刀が、完全に止まっていた。


「……な」


 押す。


 動かない。


 さらに力を込める。


 蓮十郎は一歩も退かなかった。


 黒瀬の腕だけが震えていた。


 やがて刀を引いた。


 構える。


 だが、打ち込まない。


 切っ先が揺れた。


 蓮十郎はただ立っている。


 黒瀬の喉が鳴った。


 次の瞬間。


 首筋に、冷たいものが触れた。


 黒瀬の目が見開かれる。


 蓮十郎は背後にいた。


 刃が首に添えられている。


 薄皮が切れた。


 一筋の血が、襟へ伝った。


 黒瀬の手から刀が落ちた。


「巻き上げた金を、すべて店に戻せ」


「使い込んだ分は私財から出せ」


「潰した店には、再建する分を上乗せして返せ」


「今後も筆頭家老の息子として、ふんぞり返っていたいなら、以上のことを即実行しろ」


「そしてこのことは忘れろ」


 返事はできなかった。


 黒瀬には、そこからの沈黙が永遠にも思えた。


 刃が首筋から離れた。


「俺も忘れる」


 刀が鞘へ収まった。


 蓮十郎は歩き去った。


 黒瀬の膝から力が抜けた。


 その場にへたり込む。


 荒い息を吐きながら、首筋に触れた。


 指に血がついた。


 黒瀬はそれを見つめた。


 顔を上げたときには、もう蓮十郎の姿はなかった。


(伍)


 それから月日が流れた。


 季節は夏へ移ろうとしていた。


 梅沢城下の一角に、川甚の暖簾が戻っていた。


 昼時の店内には、膳の触れ合う音と笑い声が満ちている。


 その片隅に蓮十郎がいた。


 目の前には、ずっと食べてみたかった料理が並んでいる。


 湯気の向こうで、一口食べた。


 ゆっくり噛んだ。


 もう一口。


 蓮十郎は満足そうに頷いた。


「うまい」


 しばらくして、店の外から声が飛んだ。


「加木塚!」


 蓮十郎が顔を上げた。


 客の間をかき分け、井沢が入ってきた。


「やっぱりここか!」


「井沢さん」


「昼餉に出たきり、いつまで食っておる!」


「まだ食べ始めたばかりです」


「そういうことではない!」


 井沢は額の汗を拭った。


「いいか! 私が新入りのころは――」


 また始まった。


 蓮十郎は、もう一口食べた。


 やっぱり、うまかった。


 その頃。


 加木塚家では、父が縁側に座っていた。


 夏の日差しが庭を白く照らしている。


 一通の手紙を開いていた。


 蓮十郎からだった。


 こちらの暮らしにも慣れました。


 仕事も特に問題ありません。


 飯もうまいです。


 父は、その先を読んだ。


 短い一文だった。


 普通にやれています。


 父は、その一文をもう一度読んだ。


「……ほんとか?」


 手紙を畳んだ。


 庭では、蝉が鳴いていた。

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