人斬り蓮十郎は普通に暮らしたい
(壱)
「俺は、表の世界で普通に生きてみたい」
加木塚蓮十郎がそう言うと、父は湯呑みを置いた。
春も終わりに近い昼下がりだった。
開け放した障子から差す陽が、畳の縁を白く照らしている。
「急にどうした」
「前から少し興味があったんだ。仕官して、俸禄をもらって暮らすっていうのに」
「うちは代々、人斬りだぞ」
「知ってるよ」
加木塚蓮十郎、二十七歳。
人を斬る仕事なら、とうに一人前だった。
加木塚家は、表向きはどこの藩にも仕えぬ古い武家である。
その裏で、代々人を斬ることを生業としてきた。
蓮十郎も幼い頃から、人を斬るための技を家伝として叩き込まれている。
そして、その長い家の歴史の中でも、とりわけ出来がよかった。
「まあ、一度くらい表で働いてみるのもいいか」
「いいのか?」
「正体不明のやつがいきなり仕官するより、推薦状があったほうがいいだろ。ちょっと頼んでみるわ」
父はそう言った。
数日後、本当に推薦状が届いた。
差出人は、大目付・楓川定鑑。
加木塚家の存在を知る、数少ない人間の一人だった。
父はそれを蓮十郎に渡した。
「よし。行ってこい」
「行ってきます」
「おう」
蓮十郎は家を出た。
向かう先は梅沢藩。
城下には川甚とよし乃という、評判の店があるらしい。
蓮十郎は、それも少し楽しみにしていた。
(弐)
梅沢藩の城下は、思っていたより賑わっていた。
城を中心に武家屋敷が並び、その外へ町人地が広がっている。荷を担ぐ男と行商人が行き交い、軒を連ねた店からは客を呼ぶ声が飛んでいた。
城へ向かう前に、蓮十郎は蕎麦屋へ入った。
腹が減っていた。
蕎麦をすすっていると、一匹の蠅が目の前を飛んだ。
追い払う。
また来る。
もう一度追い払う。
また来た。
蓮十郎は箸を置いた。
卓上の爪楊枝を一本取った。
蠅が飛ぶ。
蓮十郎の指が動いた。
蠅が落ちた。
片方の翅だけが、その脇に落ちていた。
蓮十郎は何も言わず、また蕎麦をすすった。
食べ終えると、そのまま城へ向かった。
推薦状を差し出すと、応対した藩士の顔色が変わった。
「……大目付、楓川定鑑様?」
「はい」
「そなた、楓川様とはどういう……」
「父の知り合いです」
「……お父上は何者だ?」
「侍だと思いますけど」
「どこの家中だ?」
「さあ」
「……では、なぜ梅沢藩へ仕官を望む?」
「働いてみたかったので」
「…………」
「駄目ですか?」
「……まあよい」
その日は、それで帰された。
数日後、城から呼び出しがあった。
どうやら推薦状が本物か、確かめていたらしい。
話は妙に早く進んだ。
ちょうど町方の見回り役に空きがあり、採用のための試しが行われることになった。
御前試合である。
相手は黒瀬正重。
二十九歳。
梅沢藩筆頭家老の嫡男であり、藩の道場では一番の使い手とされていた。
試合場で向かい合った瞬間、蓮十郎には分かった。
強い。
少なくとも、この藩では相当な腕である。
同時に思った。
負けよう。
ここで目立つのはまずい。
黒瀬が打ち込んできた。
蓮十郎は、わずかに遅れて受けた。
次を辛うじてかわす。
少しずつ押される。
最後は黒瀬に一本を取られ、蓮十郎は負けた。
「そこまで!」
声が飛んだ。
黒瀬は満足そうだった。
周囲も、名も知らぬ男が黒瀬相手によく粘ったという顔をしている。
蓮十郎も満足だった。
ちょうどよかった。
数日後、蓮十郎は正式に召し抱えられた。
(参)
「井沢源兵衛だ。お前の仕事は、まず私が教える」
そう言ったのが、蓮十郎の先輩となった井沢源兵衛だった。
まじめな男だった。
そして、少し間が抜けていた。
「いいか加木塚。見回りというものは、ただ町を歩いていればいいというものではない。まず第一に――」
井沢の説明は長かった。
軒下から落ちる陽が、少しずつ庭石の上を移っていく。
井沢はまだ喋っていた。
蓮十郎は途中から聞いていなかった。
井沢は気づいていない。
「――それから、昼餉についてだが」
「はい」
そこだけは聞き逃さなかった。
仕事にも少し慣れた頃、蓮十郎は昼の休みに川甚へ向かった。
楽しみにしていた店である。
だが、戸が閉まっていた。
暖簾もない。
看板を外した跡だけが残っている。
隣の店からは、客を呼び込む威勢のいい声が聞こえていた。
川甚の前だけが、妙に静かだった。
「……潰れてる」
しばらく立っていた。
楽しみにしていた。
かなり楽しみにしていた。
仕方なく、蓮十郎は隣の店へ入った。
膳が運ばれてくると、蓮十郎は川甚のほうを見た。
「隣の川甚、どうしたんです?」
「ああ。ひと月ほど前から閉めてるよ」
店の主人が答えた。
「妙なのに目をつけられてな。ずいぶん銭を持っていかれたらしい」
「主人は?」
「この城下にはいるよ。今は知り合いの店を手伝ってる。店を開ける銭がないんだとさ」
「そうですか」
蓮十郎は飯を一口食べた。
悪くない。
だが、目当てはこれではなかった。
数日後。
昼の休みになった。
蓮十郎は、もう一つの評判の店、よし乃へ向かった。
近づくにつれ、焼けた醤油の香ばしい匂いが漂ってきた。
蓮十郎は少し足を速めた。
よし乃は繁盛していると聞いていた。
ところが店へ入ると、客がいない。
蓮十郎は内心、喜んだ。
待たずに食える。
奥を見ると、三人の藩士が主人を囲んでいた。
「ずいぶん繁盛してるそうじゃねえか」
「少しくらい、こっちに回しても罰は当たらんだろ」
「もう勘弁してください。先日も……」
「誰のおかげで、この城下で商売ができてると思ってる」
蓮十郎は少し待った。
終わらない。
「あの」
三人が振り返った。
「何だ」
「そういう話は、店を閉めてからにしてもらえません?」
「何だお前。見ねえ顔だな」
「最近、召し抱えられました。加木塚です」
「新入りか」
「はい」
「俺たちが来たら店仕舞いだ! 帰れ!」
「昼の休みが終わってしまうんで」
「知るか!」
「お腹空いてるんですよ」
「お前もこの店ごと潰してやろうか」
「それは困ります」
「舐めてんのか!」
一人が蓮十郎の胸倉を掴んだ。
拳が振り上がる。
その拳が届く前に、男の身体が床へ転がった。
「貴様!」
二人目が殴りかかる。
蓮十郎は半歩ずれた。
男は何もないところへ拳を振り抜き、そのまま床へ叩き伏せられた。
三人目が刀の柄へ手を掛けた。
「この野郎――」
抜こうとした。
抜けなかった。
蓮十郎がその腕を掴んでいた。
「店の中で抜くと危ないですよ」
そのまま外へ放り出した。
先に倒した二人も外へ出した。
蓮十郎は店へ戻った。
「こちらで一番うまいものをください」
主人はしばらく蓮十郎を見ていた。
「……はい」
翌日。
蓮十郎のもとへ、父から手紙が届いた。
そちらの暮らしには慣れたか。
表の仕事はどうだ。
普通にやれているか。
「うん。今のところ順調」
誰も聞いていなかった。
蓮十郎は手紙を畳んだ。
その日の午後は帳面仕事だった。
人を斬ることに比べると、帳面仕事は難しかった。
間違えて一行消した。
書き直した。
また間違えた。
「加木塚」
「はい」
井沢だった。
「黒瀬様がお呼びだ」
「黒瀬様?」
「黒瀬正重様だ」
「ああ」
「すぐ行け」
「はい」
「いいか。筆頭家老のご嫡男から直々のお呼びだ。くれぐれも粗相のないようにな。まず部屋へ入ったら――」
井沢の話は長かった。
「――それから、何を聞かれても余計なことは申すな。分かったか」
「はい」
そこは聞いていなかった。
黒瀬の部屋へ入ると、本人が一人で待っていた。
「単刀直入に言う」
「はい」
「店で藩士を三人、殴ったそうだな」
「はい」
「あれは俺の仕事をしてもらってたんだ」
「はい」
「分かるな」
「何がですか?」
「……分からぬか」
「あ! いや、分かりました!」
「そうか」
「川甚を潰したのも黒瀬様ってことですね!?」
「いや……そういうことでは……」
「そういうことでしょ! さっきご自身でおっしゃったじゃありませんか!」
「もうよい。下がれ」
「いや、下がれませんよ!」
「何?」
「大事なところですよ、ここ!」
「下がれと申しておる!」
蓮十郎は、はっとした。
そして身を引いた。
「……失礼しました」
一礼して、部屋を出た。
(肆)
その夜。
城下の店々は、すでに戸を下ろしていた。
遠くで犬が一度吠えた。
それきり、音がしなくなった。
黒瀬は一人で歩いていた。
ふいに――
身体が割れた。
背後から一刀を浴び、肩口から胴まで断ち割られる。
そんな己の姿が、あまりにも鮮明に見えた。
黒瀬は息を呑んだ。
肩口を押さえる。
何もない。
斬られていない。
額から冷たい汗が流れた。
「黒瀬正重」
振り返る。
蓮十郎が立っていた。
黒瀬はわずかに息を吐いた。
「……お前か」
「城下の店から巻き上げた金を返せ」
「何だと」
「聞こえなかったか」
黒瀬の手が柄に掛かった。
「貴様――」
刀を抜いた。
踏み込む。
鋭い一太刀を、蓮十郎は軽く受けた。
黒瀬はすぐさま返す。
流された。
斬り上げる。
外される。
間合いを詰め、続けざまに打ち込む。
受けられる。
流される。
届かない。
蓮十郎からは、一太刀も来ない。
黒瀬の息が荒くなった。
歯を食いしばる。
大きく踏み込んだ。
渾身の一刀を、真っ向から叩き込む。
蓮十郎は避けなかった。
刀を上げた。
刃と刃がぶつかった。
鋭い音が、夜道に響く。
止まった。
黒瀬の刀が、完全に止まっていた。
「……な」
押す。
動かない。
さらに力を込める。
蓮十郎は一歩も退かなかった。
黒瀬の腕だけが震えていた。
やがて刀を引いた。
構える。
だが、打ち込まない。
切っ先が揺れた。
蓮十郎はただ立っている。
黒瀬の喉が鳴った。
次の瞬間。
首筋に、冷たいものが触れた。
黒瀬の目が見開かれる。
蓮十郎は背後にいた。
刃が首に添えられている。
薄皮が切れた。
一筋の血が、襟へ伝った。
黒瀬の手から刀が落ちた。
「巻き上げた金を、すべて店に戻せ」
「使い込んだ分は私財から出せ」
「潰した店には、再建する分を上乗せして返せ」
「今後も筆頭家老の息子として、ふんぞり返っていたいなら、以上のことを即実行しろ」
「そしてこのことは忘れろ」
返事はできなかった。
黒瀬には、そこからの沈黙が永遠にも思えた。
刃が首筋から離れた。
「俺も忘れる」
刀が鞘へ収まった。
蓮十郎は歩き去った。
黒瀬の膝から力が抜けた。
その場にへたり込む。
荒い息を吐きながら、首筋に触れた。
指に血がついた。
黒瀬はそれを見つめた。
顔を上げたときには、もう蓮十郎の姿はなかった。
(伍)
それから月日が流れた。
季節は夏へ移ろうとしていた。
梅沢城下の一角に、川甚の暖簾が戻っていた。
昼時の店内には、膳の触れ合う音と笑い声が満ちている。
その片隅に蓮十郎がいた。
目の前には、ずっと食べてみたかった料理が並んでいる。
湯気の向こうで、一口食べた。
ゆっくり噛んだ。
もう一口。
蓮十郎は満足そうに頷いた。
「うまい」
しばらくして、店の外から声が飛んだ。
「加木塚!」
蓮十郎が顔を上げた。
客の間をかき分け、井沢が入ってきた。
「やっぱりここか!」
「井沢さん」
「昼餉に出たきり、いつまで食っておる!」
「まだ食べ始めたばかりです」
「そういうことではない!」
井沢は額の汗を拭った。
「いいか! 私が新入りのころは――」
また始まった。
蓮十郎は、もう一口食べた。
やっぱり、うまかった。
その頃。
加木塚家では、父が縁側に座っていた。
夏の日差しが庭を白く照らしている。
一通の手紙を開いていた。
蓮十郎からだった。
こちらの暮らしにも慣れました。
仕事も特に問題ありません。
飯もうまいです。
父は、その先を読んだ。
短い一文だった。
普通にやれています。
父は、その一文をもう一度読んだ。
「……ほんとか?」
手紙を畳んだ。
庭では、蝉が鳴いていた。




