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紅迷宮の澱  作者: そこらへんの宝箱
第一部 第一幕
9/12

第五話「青い光の降る原」

その一団は、三人だった。


ファウストが言ったとおり翌日の昼前、セラフィナは二層を生業にしているという連中とギルドの奥の卓で顔を合わせた。卓を囲んでいたのは二人だった。一人は革と金具の擦れる音をさせる女で、もう一人は大きく重くほとんど音を立てない男だった。


「あんたが、神官さん」


女のほうが先に口を開いた。


女はセラフィナの聖印を一度見て、それから顔を見た。値踏みする目ではなかった。もっと別のものを見ようとする目だった。その視線が聖印の留め具のあたりからセラフィナの肩のあたり、それから首のあたりへと、ゆっくり動いた。寒くないか、と尋ねるような目だった。


「セレナ・ヴェスペルと、申します」


「イグネリア」


女は自分の名を言った。


「あたしは、火を焦がすの。火炎魔法。──こっちは、フェルラム」


イグネリアが隣の男のほうへ軽く顎を向けた。フェルラムと呼ばれた男は卓に肘をついたまま軽く顎を引いた。それが会釈の代わりらしかった。男は大柄だった。重装の鎧を卓の脇に立てかけていた。鎧の左の肩のあたりに一枚、ほかの部分とは違う色の古い肩当てが留めてあった。革は擦れて金具は黒ずんでいた。鎧の残りの部分よりもその肩当てだけが、ずっと長く使われてきたものに見えた。


「神官か」


フェルラムが言った。聖印を一度見て、それから顔を見た。声は低く短かった。


「はい。奇跡を」


「どこまで治せる」


「傷の縁を合わせ、血を止め、痛みを薄めます。骨が折れていても、添えれば」


「内臓は」


「届く範囲でなら。けれど、深く裂けたものは──」


「いい」とフェルラムは言った。「届かないところは、届かない。それを、はっきりさせておく者なら、組める」


フェルラムはそれきり多くを言わなかった。彼が訊いたのはどこまで治せるかということだけだった。治せないところを彼女が治せると言わなかったこと。それだけを彼は卓の上で量ったように見えた。


「あたしたちは、二層を降りる」とイグネリアが言った。「ときどき、もっと先まで、見に行く。二層は、一層とは、違う。群れが厚い。それに──」


イグネリアはそこで少し言葉を切った。


「魔物が、毒を持ってる。火で焼けば、ある程度は、なんとかなるけどね。焼き残したところから、毒が回る。だから、神官が要る。あんた、毒は」


「毒も、薄められます。完全には、抜けないこともありますが」


「それで、いい」


イグネリアはそう言って軽く頷いた。


セルウィウスは卓から少し離れた壁際に立っていた。イグネリアがそのほうへ目を向けた。


「お連れさん?」


「ええ」とセラフィナは答えた。「剣を、扱います」


「剣の方なら、助かる。二層は、手が多いほど、いい」


イグネリアはそれからもう一度セラフィナのほうへ目を戻した。視線はまた首のあたりへ動いた。


「あんた、痩せてるね。──ちゃんと、食べてる?」


「ええ」とセラフィナは答えた。


それが、最初の問いだった。


◇◇◇


最初の降下は、覚えている。


二層への入り口は一層のいちばん深い広間の隅にあった。床に岩の裂け目のような縦穴が口を開けていて、そこへまた階段が降りていた。一層の階段よりも段が急で湿りが強かった。灯火を高くしても足元の段の縁がよく見えなかった。


「足元」


フェルラムが先頭で短く言った。


「縁が、丸い。乗ると、滑る。段の真ん中を、踏め」


降りるほど空気が変わった。一層の空気は血の匂いがした。二層へ近づくとその匂いの底にもう一つ別の匂いが混じってきた。湿った苔の匂いと、それからどこか甘いような、けれども嗅いでいると胸の奥が冷たくなるような匂いだった。


階段を降りきると、ひとりでに、足が止まった。


二層は、明るかった。


地下なのに明るかった。階段の暗がりを抜けた先に広い場所が開けていた。広い、というだけでは足りなかった。岩の壁が左右にどこまでも退いて、その向こうに草が生えていた。地下に草の原があった。低い丈の草が足元から見えるかぎりの先まで続いていた。遠くには木が立っていた。一本ではなかった。木立が原の彼方に黒く茂っていた。地下に森があった。


その草と木の上に、光が、降っていた。


天井が光っていた。びっしりと天井を覆った苔が薄い緑がかった青の光を自分から放っていた。天井は高かった。原のずっと上のほうで光る苔が空のように広がっていた。その光は灯火の火の色とはまるで違った。冷たく、静かで、揺れなかった。草の原にも遠くの木立にもその光が降りていて、地下なのにまるで曇った日の昼のように明るかった。影がいつもと逆向きに落ちていた。光が下からではなく上から降っていた。


セラフィナは灯火を下ろした。


灯火など要らなかった。彼女はそれまで地下を灯火の一つ分の明るさで歩いてきた。前後の段だけが見える明るさで。けれどここでは原の彼方の木立まで見えた。地下にこれほど広い場所があるということを彼女は知らなかった。一層の入り組んだ洞窟と通路のすぐ下に、こんな、空のような天井の下の原が広がっていた。


「綺麗だろ」


イグネリアがすぐ後ろで言った。


「あたしも、最初に降りたとき、しばらく、動けなかった。──でも、見惚れてると、足元から来るからね。気を抜かないで」


セラフィナは頷いた。頷きながら、彼女はその光のことをすぐには言葉にできなかった。これほど静かな明るさを彼女は地上でも見たことがなかった。地上の光はいつも何かと一緒に来た。市の声と一緒に、人の影と一緒に、来た。ここの光は何も連れてこなかった。ただ原の上に降っていた。


その夜、初めての夜営をした。


草の原のところどころに岩が地面から突き出ていた。その岩のいくつかは根元が窪んでいて、そこなら上からも横からも襲われにくい、とフェルラムが言った。一団はその一つに身を寄せた。イグネリアが岩の窪みの真ん中に火を起こした。


火を起こす手つきが、灯火を灯すのとは、違った。


イグネリアは指先で小さな火を生み、それを組んだ枝のような乾いた燃料の上にそっと置いた。置いてから、火が燃料の縁をなめるように広がっていくのをしばらく見ていた。火は勢いよく燃え上がりはしなかった。縁からゆっくりと焦げを作りながら広がった。燃料の真ん中のいちばん太いところは、最後まで、芯を黒く残していた。


「火が、残ってますね」


セラフィナはそう言った。芯の黒いところを見て。


「ああ、それ」


イグネリアは少し笑った。


「あたしの火は、いつも、こう。焦がすの。全部は、燃やさない。──昔から、そうなんだよね。なんでだか、自分でも、よく分からないけど」


イグネリアはそれ以上その火のことを説明しなかった。説明できる、というふうでもなかった。彼女はただその焦げた芯の上にもう一本枝を足して火を保った。火はまた縁から焦げを作りながら広がった。


その火の傍で、イグネリアが装備の確認をした。


「フェルラム、装備、確認した?」


「した」


フェルラムはそれだけ答えた。彼はすでに自分の鎧の留め金を一つ一つ指で確かめていた。左の肩当ての金具のところで彼の指は、ほかより少し長く、止まった。止めてから彼はその肩当てを軽く押した。位置を確かめるように。


「セレナさんは」とイグネリアが言った。「聖印と、薬包と──あと、何かある?」


「それで、すべてです」


「奇跡は」


「ええ。使えます」


「なら、いい」


イグネリアはそう言って火のほうへ向き直った。確認はそれで終わりだった。雇った神官が明日ちゃんと働けるか。イグネリアが確かめたのはその一点だった。彼女はセラフィナの聖印の留め具を目で一度確かめ、薬包の数を声で一度確かめ、それで満足したようだった。


セルウィウスは火から少し離れた岩の縁に座っていた。問われたことには答え、問われないことは口にしない、いつもの彼の場所だった。


火が、ゆっくりと焦げを作りながら、燃えていた。


セラフィナはその焦げた芯をしばらく見ていた。全部は燃えない火、というものを彼女は初めて見た気がした。火はふつう燃やすものだと彼女は思っていた。けれどイグネリアの火は、燃やしながら、何かを、残した。


◇◇◇


二層は、フェルラムの言ったとおり、群れが厚かった。


一層の血喰狼が二頭か三頭で出てきたのに対し、二層の魔物は最初から束で来た。草の影から、遠くの木立から、地面の裂け目から、いちどきにいくつもの気配が湧いた。フェルラムが盾の代わりに重い体ごと前に立ち、イグネリアがその後ろから火を撃った。


「次、火、入れるよ」


イグネリアが戦闘の前にそう言った。


火が彼女の手から束になって出た。火は魔物の群れのいちばん厚いところを横に薙いだ。魔物は火に焼かれて動きを鈍らせた。だが完全には燃え尽きなかった。焼け焦げた体の、芯のところで、まだ動いているものがいた。


その焼け残りを、フェルラムの剣が、潰した。


二人の戦い方は噛み合っていた。イグネリアの火が群れを焦がして動きを止め、フェルラムの剣が止まったものを確実に潰していく。イグネリアが焼き切らないところをフェルラムが引き受けていた。それはもう何百回も組んで戦ってきた手の動きだった。


「セレナさん、下がってて」


イグネリアが戦いながら短く言った。


セラフィナは二人の後ろに下がった。下がりながら、彼女は二人の動きの隙間を見ていた。どこに傷が出るか。誰がいちばん先に手当てが要るか。それを彼女は戦いの始まる前から頭の中で組んでいた。


最初の傷は、フェルラムだった。


焼け残りの魔物が彼の脚に噛みついた。鎧の隙間の、膝の裏のあたりだった。フェルラムはその魔物を剣の柄で叩き落とし、それきり傷のことを口にしなかった。彼はまた前に出た。脚を引きずってはいなかった。


戦いが終わってから、セラフィナが彼の脚を見た。


「血が、出ています」


「これくらいは、いい」


「毒の魔物です。膝の裏は、血の流れの集まる場所です。手当てを、させてください」


フェルラムは少し彼女を見た。それから膝をついた。


セラフィナは彼の膝の裏の噛み傷に短く祈った。傷の縁が寄った。毒が皮膚の浅いところに広がりかけていたのを、彼女は聖句で押し戻した。


「毒は、抜けました。けれど、念のため、今夜は、深く動かさないでください」


「分かった」


フェルラムは立ち上がった。立ち上がる動作に痛みの色はなかった。彼は傷を傷として扱わなかった。けれど彼女が「手当てをさせてください」と言ったとき、彼は、断らずに、膝をついた。それだけのことが彼女には少し意外だった。


イグネリアがその様子を、火の始末をしながら見ていた。


「フェルラム、今、かばってたね、左脚」


「かばってない」


「かばってた。あたしには、分かる」


イグネリアはそう言ってそれ以上は何も言わなかった。彼女はフェルラムの動きのほんのわずかな偏りを、火を始末する手を止めずに見抜いていた。けれど追及はしなかった。ただ、見ていた。


◇◇◇


季節が、一度、巡った。


二層には地上のようなはっきりとした季節はなかった。苔の光は夏も冬も同じ青さで降っていた。草の原も枯れることなく同じ丈の緑のままだった。けれど地上から降りてくる空気の匂いで外の季節は分かった。冬の空気は乾いて冷たかった。夏の空気は湿って重かった。一団はその空気を迷宮の口の階段で一度くぐってから降りた。


降りるたびに、イグネリアは装備の確認をした。


「フェルラム、装備、確認した?」


「した」


「セレナさんは」


「ええ」


その問いはいつも同じ言葉だった。フェルラム、装備、確認した。セレナさんは。同じ言葉が、降りるたびに、火の傍で、繰り返された。フェルラムはいつも「した」と短く答え、セラフィナはいつも「ええ」と答えた。


ただ、その問いの声の調子が、少しずつ、変わっていった。


最初の頃その問いは、雇い主が雇った者の働きを確かめる職業的な調子だった。けれど季節が巡るうちにその調子に別の何かが混じってきた。イグネリアは装備を確認した後でときどきこう続けるようになった。


「セレナさん、今日、顔色、よくないよ。寝てる?」


「寝ています」


「ほんとに?」


「ええ」


イグネリアはセラフィナの装備を確認するついでに、彼女の顔色を確かめ、息の調子を確かめ、それからちゃんと食べているか、寝ているか、を確かめるようになった。それはもう雇った神官の働きを確かめる問いではなかった。けれどイグネリア自身はその変化に気づいていないようだった。彼女は同じ言葉を同じように口にしていた。


セラフィナは、その変化に気づいていた。


気づいていたが、彼女はそれを口にしなかった。イグネリアが「ちゃんと食べてる?」と尋ねるとき、その問いの底に雇い主のものではない何かがあることを彼女は感じていた。けれど、それを名指せば、何かが、変わってしまいそうだった。だから彼女はただ「ええ」と答えた。


◆◆◆


二層を半分ほど攻略した頃、フェルラムが岩の壁に印をつけ始めた。


草の原のところどころに岩の壁が立ち上がっていた。壁と壁のあいだに道がいくつも分かれていた。フェルラムはその分かれ道の岩の角に、剣の先で浅い傷を一つ刻む。次に来たときその傷を見ればどちらから来たかが分かる。フェルラムは来た道にその傷を点々と残しながら原を奥へと進んだ。


「この先は、まだ、誰も降りてない」


ある日、フェルラムが分かれ道の前でそう言った。


「岩に、誰の印もない。──行くか、戻るか」


「行きましょう」とイグネリアが言った。「あたしたちが、最初の印を、つける」


フェルラムは岩に新しい傷を刻んだ。一団はまだ誰も降りていない道へ進んだ。


その道の奥で、群れに、囲まれた。


前と後ろと両方から束で来た。フェルラムが前を、イグネリアが火で、両方を抑えようとした。だが後ろからの群れのほうが厚かった。一団は来た道のほうへ退こうとした。退く方向にも、もう、魔物がいた。


「フェルラム」


イグネリアの声が、上ずった。


フェルラムは後ろの群れのほうへ体を向け直した。


「先に行け」


彼は、短く言った。


「イグネリア、神官を連れて、先に行け。後ろは見るな。後ろは、俺が、止める」


「あんた一人で──」


「行け」


イグネリアは唇を、一度、噛んだ。それから火を前の群れに撃って道をこじ開けた。


「セレナさん、こっち。離れないで」


セラフィナはイグネリアの後について、こじ開けられた道を抜けた。抜けながら、彼女は、一度だけ、後ろを見そうになった。フェルラムが後ろの群れのいちばん厚いところへ重い体ごと立っていた。彼の剣が束の魔物を薙いでいた。


「後ろは、見るな」


フェルラムの声が、後ろから、もう一度、届いた。


セラフィナは後ろを見なかった。見ないままイグネリアの背中の後を追った。


開けた草の原まで出て振り返ると、フェルラムが道の口から退いてくるところだった。彼の鎧は魔物の血で黒く汚れていた。けれど、彼は、立っていた。脚も引きずっていなかった。


「無茶、するな」


イグネリアが、低く言った。


「してない」


フェルラムはそれだけ答えた。彼は後ろの群れをたしかに止めた。止めて退いてきた。彼はいつも後ろを引き受ける側に立った。なぜ自分が引き受けるのか、彼は説明しなかった。ただ、引き受けた。


◇◇◇


二層の奥に、川があった。


血河、と、イグネリアが呼んだ。


一層の血の水路のずっと大きなものだった。一層のあちこちを流れていた細い水路がどこかで合流して川になり、やがて一つの大河になっていた。草の原の真ん中を岩の谷が深く割って、その底を、赤黒い流れが、ゆっくりと、流れていた。水とは違う粘りのある流れだった。その流れの上にも天井の苔の青い光が降っていた。赤黒い流れの表面に、青い光が乗って、二つの色が、混じらずに、重なっていた。


岸辺の岩のあいだに、木が、何本か立っていた。


ほかの木立とは少し様子が違った。幹が太く黒ずんでいて、枝の先に丸い実のようなものがいくつも垂れていた。実は赤黒く、熟れすぎた果実のように重たげだった。その木の根は血河のほうへ伸びていた。イグネリアはその木に近づかなかった。


「あの木の下は、避けて」とイグネリアが言った。「魔物が、寄る。──理由は、知らないけどね」


一団はその木から少し離れた岸に腰を下ろした。


「ここで、少し休む」とフェルラムが言った。「この先は、また、群れが厚い。一度、息を、整えてから行く」


イグネリアが火を起こそうとして、フェルラムが止めた。


「ここは、火は、いらない」


「なんで」


「明るい」


たしかに岸辺は火がなくても明るかった。苔の青い光が岸の岩を、川面を、一団の体を、薄く照らしていた。イグネリアは起こしかけた火を消した。消してから、彼女は川面のほうをしばらく見ていた。


セラフィナは岸辺の岩に腰を下ろした。


腰を下ろしてから、彼女は隣の岩に座ったイグネリアの手の甲に古い傷があるのに気づいた。火傷の跡だった。皮膚が薄く引きつれていた。


「その傷は」


セラフィナは、尋ねた。


「ああ、これ」とイグネリアは手の甲を軽く撫でた。「昔の。火を、使い始めた頃の。──自分の火で、焼いたの。馬鹿みたいでしょ」


「手当てを、させてください」


「いいよ、こんな古いの。もう、痛くもないし」


「痛くなくても」とセラフィナは言った。「引きつれているところは、ほぐせます。少し、楽になります」


イグネリアは少し彼女を見た。それから手の甲を差し出した。


セラフィナはその火傷の跡に、そっと、祈りを向けた。引きつれた皮膚がゆっくりとほぐれた。古い傷の奥に固まっていたものが、少し、緩んだ。イグネリアは手の甲を二度ほど開いたり閉じたりした。


「……ほんとだ。楽になった」


イグネリアは自分の手の甲を不思議そうに見た。


「あんた、こういうの、頼まなくても、やるんだね。誰にでも?」


「いいえ」とセラフィナは答えた。


答えてから、彼女は続きを言いかけて、止めた。誰にでも、ではなかった。気にかかる相手にだけ彼女はそっと手を向けた。なぜこの一団の二人が気にかかるのか。それを彼女は言いかけて、口の手前で、止めた。言葉にすればそれは、彼女がこの一団に組んだ以上のものを感じている、ということになりそうだった。だから彼女はそれ以上は言わなかった。


「ふうん」


イグネリアはそれ以上は訊かなかった。


少し離れた岩の上で、フェルラムが川面を見ていた。


イグネリアの目がその背中のほうへ動いた。動いてから、彼女は立ち上がってフェルラムの隣の岩へ移った。セラフィナはその様子を見るともなく見ていた。


「フェルラム」


イグネリアが、言った。


「綺麗な場所だね」


「ああ」


「あたしさ、こういう場所に、来ると、思うんだよね。──こういう場所が、あるなら、まだ、降りててもいいかなって」


フェルラムは答えなかった。彼は川面の、二つの色の重なりを見ていた。赤黒い流れの上に、青い光が乗って、混じらずに、流れていた。


「あんたは」とイグネリアは続けた。「どこまで、降りる気なの。二層の、もっと下まで? それとも──」


「お前は」


フェルラムが、川面を見たまま、言った。


「最下層に、来るな」


イグネリアは、口を、つぐんだ。


フェルラムはそれ以上言わなかった。なぜ来るな、とも言わなかった。最下層に何があるのか、とも言わなかった。彼はただ、お前は来るな、とだけ、言った。短く。川面の青い光のほうを、見たまま。


「……なんで」


イグネリアが、低く、尋ねた。


フェルラムは、答えなかった。


イグネリアはもう一度何か言いかけて、それから言うのをやめて、川面のほうを見た。二つの色が、混じらずに、重なって、流れていた。


セラフィナはその二人を、岸辺の岩の上から、見ていた。


見ていて、何か、胸の奥が痛んだ。痛んだ理由を彼女は追わなかった。追わないまま彼女も川面のほうへ目を移した。岸辺は苔の光で静かに明るかった。その明るさの中で、フェルラムの「来るな」という短い言葉だけが、岸辺の岩のあいだに、残っていた。


血河の流れは、岸辺の岩を、音もなく、洗っていた。


◇◇◇


二層の攻略は、長くかかった。


季節が二度、三度と巡った。一団は降りては上がり、上がってはまた降りた。フェルラムの岩の印が草の原の奥のほうまで点々と伸びていった。イグネリアの火が何度も群れを焦がした。セラフィナの奇跡が何度も傷を塞いだ。


降りるたびに、イグネリアは装備の確認をした。


「フェルラム、装備、確認した?」


「した」


「セレナさんは」


その問いはもう、最初の頃の問いとはまるで違うものになっていた。イグネリアは装備を確認した後で、セラフィナの肩に薄手の上着を掛けるようになった。草の原の岩陰は苔の光で明るくても空気は冷たかった。


「あんた、冷えると、すぐ顔色に出るからね」


イグネリアはそう言ってセラフィナの肩に上着を掛けた。


「あたしが、見張ってるから。少し、寝ときな」


イグネリアは夜営の夜、自分が見張りに立ってセラフィナを寝かせるようになった。上着を掛け、見張りに立つ。その二つの所作がいつの間にか、降りるたびの彼女の習いになっていた。


セラフィナはその上着の下で目を閉じた。


目を閉じて、彼女は思った。この温かさはいつか終わる。彼女の行く場所はこの一団の行く場所の、もっと先にあった。フェルラムが「来るな」と言ったその場所の、さらに先にあった。彼女はいつかこの一団より、ずっと先まで、一人で、降りる。


その日がいつかは、分からなかった。


分からなかったが、近いような気が彼女にはした。なぜ近いと感じるのか、彼女は自分でもうまく言えなかった。ただ、迷宮の口で地上の空気をくぐるたびに、その「近い」という感じが、少しずつ、強くなった。彼女はその感じを誰にも言わなかった。口にすれば、たちまち、違うものに、なりそうだった。


イグネリアの掛けてくれた上着は、温かかった。


◇◇◇


二年の、どこかの夜だった。


その夜、一団は二層の奥の岩の窪みで夜営をした。いつものようにイグネリアが火を起こそうとした。だがその夜は燃料が湿っていた。降りてくる途中で一団は血河の支流を一つ渡らなければならなかった。背負った燃料の束がその水気を吸っていた。


「火が、つかない」


イグネリアが、低く言った。


彼女は何度か指先の火を湿った燃料に移そうとした。火は燃料の表面で、じじ、と音を立てて、消えた。湿りが深かった。イグネリアの火は湿ったものを燃やせなかった。焦がすことすらできなかった。


「今夜は、火なしか」


フェルラムが言った。


「待って、もう一回」


イグネリアはもう一度火を移そうとした。火は、また、消えた。


「いい」とフェルラムが言った。「無理に焚けば、煙が出る。煙は、上に溜まる。この窪みじゃ、息ができなくなる。──火なしで、寝る」


イグネリアは湿った燃料を束のまま脇へ寄せた。寄せてから、彼女は火のないところをしばらく見ていた。


その夜は、火が、なかった。


苔の光もその窪みには届かなかった。一団は灯火を一つだけ低く灯して、暗いところで身を寄せた。火のない夜は寒かった。岩の冷たさが下から上がってきた。イグネリアは自分の上着を脱いで、セラフィナにもう一枚重ねた。


「あんたは、冷やすと、いけないから」


「イグネリアが、寒くなります」


「あたしは、火を扱う体だからね。寒いのは、平気」


それはたぶん嘘だった。火を扱う体だから寒いのは平気、という理屈を、セラフィナは聞いたことがなかった。けれど彼女はそれを言わなかった。イグネリアの上着は彼女が脱いだばかりでまだ温かかった。その温かさだけが、火のない夜の、ただ一つの温かさだった。


火が、なかった。


火がない、ということがこれほどはっきりと感じられる夜を、セラフィナは初めて過ごした。いつもの夜は火があった。火が、焦げを作りながら、燃えていた。その火の傍で、イグネリアが装備の確認をした。今夜は、その火が、なかった。なかったから、夜が、いつもより、長かった。


暗いところで、フェルラムの息が、聞こえた。低く、ゆっくりとした息だった。イグネリアの息も、聞こえた。少し浅い、けれど、規則正しい息だった。セルウィウスの息は、聞こえなかった。


セラフィナは、二枚の上着の下で、目を閉じた。


火のない暗がりの中で、彼女は三人の息を聞いていた。フェルラムの息と、イグネリアの息と、それから、聞こえない、セルウィウスの息と。三人の息が、岩の窪みの中に、あった。火はなかったが、息は、あった。


翌朝、迷宮の口へ上がってから、イグネリアが新しい燃料を買い直した。


「もう、湿ったのは、背負わない」と彼女は言った。「火は、焚けるときに、焚いとくもんだよ」


その夜から、火は、また、毎晩、灯った。


◇◇◇


二層の、いちばん奥まで、降りた頃だった。


草の原が、そこで、尽きていた。


奥へ行くほど天井の苔の光がまばらになった。光の降らない暗がりが原のあちこちに、染みのように、広がり始めた。草の丈も低くなり、やがて岩だけの地面に変わった。木立はとうに後ろのほうへ退いていた。原の終わりは岩の壁と、その向こうの、暗がりだった。


フェルラムが、岩の壁の前で、足を止めた。


そこにはこれまでの彼の印とは違う、別の傷が岩についていた。誰かが剣で刻んだのではない傷だった。岩の表面が長く抉れていた。何か硬いもので岩を引っ掻いたような跡だった。一本ではなかった。何本もの平行した抉りが、岩の壁のずっと高いところから下のほうまで、伸びていた。


「ここから先は」


フェルラムが、低く言った。


「やめておく」


「なんで」とイグネリアが言った。「まだ、奥に──」


「嫌な、気配がする」


フェルラムはそれだけ言った。彼は岩の抉りのほうを見ていなかった。もっと、その先の、暗がりのほうを、見ていた。彼の足はその先へ進もうとはしなかった。


セラフィナも、その先の暗がりのほうを、見た。


見て、彼女の体の、芯のところが、冷たくなった。理由は分からなかった。暗がりの中に何かがいる、という気配はなかった。物音もなかった。ただ、その暗がりの先の空気が、これまで降りてきたどの場所の空気とも違っていた。甘いような、けれども嗅いでいると胸の奥が冷たくなる、あの匂い。二層の入り口で嗅いだ匂いのずっと濃いものが、その暗がりの先から、薄く、漂ってきていた。


「戻ろう」とイグネリアが言った。


イグネリアの声も、いつもと、違った。普段の彼女なら、暗がりがあれば、まず、火を入れようとした。けれど、その先の暗がりには、彼女は、火を、向けなかった。向ければ、何かが、応えてきそうな気が、するのかもしれなかった。


一団は、戻った。


戻りながら、誰も、その先のことを口にしなかった。フェルラムが「嫌な気配」と言った。それで、終わりだった。彼の「嫌な気配」は、ファウストの「嫌な感じ」とどこか似ていた。長くやってきた者の、引く、という判断だった。けれど、フェルラムのそれには、ファウストのそれにはなかった、別の何かが、混じっているようにも、思えた。


セラフィナは、その別の何かを、追わなかった。


追わないまま、彼女も戻る一団の後を追った。岩の抉りの跡が後ろのほうへ遠ざかった。岩の地面の向こうに、また草の原の緑が見えてきた。明るいほうへ、一団は、戻った。その先の暗がりは、苔の青い光も、届かない、深いところに、口を開けたまま、残された。


◇◇◇


二層の攻略が、ほぼ、終わった頃。


一団の卓に、セラフィナの「次」の話が出るようになった。


「あんた、二層は、もうほとんど覚えたね」


ある夜、火の傍で、イグネリアがそう言った。


「奇跡も、戦いの流れも、二層の歩き方も。──あんた、最初に来たときより、ずっと、迷宮の中に、馴染んだ」


「ええ」とセラフィナは答えた。


「でも、あんた、二層で終わる気はないんだろ」


イグネリアは火のほうを見ながらそう言った。火はいつものように縁から焦げを作りながら燃えていた。


「あたしには、分かる。あんた、ずっと、その先を、見てる。二層のもっと下を。──あたしたちが、今、印をつけてる、その先を」


セラフィナは、すぐには、答えなかった。


イグネリアは答えを急かさなかった。彼女は火にもう一本枝を足して、それから言った。


「あたしたちだけじゃ、二層の、その先には、届かない。フェルラムは、もっと下まで、行く気だけど。──二層を抜けて、その先へ行くには、別の手が、要る。三層を歩いたことのある連中が」


イグネリアはそこで、火を見たまま、少し黙った。


「あんたの行く場所は、フェルラムの行く場所よりも、もっと、ずっと、先だ。あたしには、分かる。──だろ?」


「……ええ」


セラフィナは、そう答えた。


「だと、思った」


イグネリアは火のほうを見たまま頷いた。それから彼女は、初めて、火から目を上げて、セラフィナの顔を見た。


「あんた、まだ、子供じゃない。──無理は、しないで」


その言葉を、イグネリアは、火の明かりの中で、言った。あんたまだ子供じゃない、という言葉が、これまでのどの言葉とも、違う近さから来た。それは、雇い主が雇った神官に言う言葉では、なかった。彼女は言ってしまってから少し戸惑った顔をして、また火のほうへ目を戻した。


セラフィナは、その言葉を、受け取った。


受け取って、彼女は何か言おうとした。けれど言葉が見つからなかった。あんたまだ子供じゃない、という言葉にどう応えればいいのか、彼女には分からなかった。彼女はずっと誰かを守る側にいた。守られる言葉を向けられることに、彼女は慣れていなかった。


「……ありがとうございます」


結局、彼女は、それだけ、言った。


イグネリアは火のほうを見たまま軽く頷いた。


◇◇◇


その先へ行く一団の段取りは、フェルラムがつけた。


「三層を歩ける連中に、心当たりがある」と、ある日、フェルラムが言った。「もっと下まで、行く連中だ。神官を、探してる。──あいつらと、組む」


「あたしたちも、行くの」とイグネリアが言った。


「行く」とフェルラムは言った。「二層までで、止める手は、ない。──ただ、あの先は、俺たちだけじゃ、足りない。三層を知ってる手と、組んで、降りる」


フェルラムはそれきり多くを言わなかった。彼は最下層、という言葉は口にしなかった。彼が言ったのは、その先へ行くには手が要る、ということだけだった。だが、彼の言う「もっと下まで」がどこを指しているのかを、セラフィナはもう知っていた。


最後の、二層だけの降下を終えた夜、一団は、火の傍で装備の確認をした。


「フェルラム、装備、確認した?」


「した」


「セレナさんは」


「ええ」


その問いは、最初に、岩の窪みで、火を起こした夜と、同じ言葉だった。フェルラム、装備、確認した。セレナさんは。同じ言葉が、二年のあいだ、火の傍で、繰り返された。けれど、その同じ言葉は、二年のあいだに、まるで違うものに、なっていた。


セラフィナは、その問いに「ええ」と答えた。


答えてから、イグネリアが立ち上がって、彼女の側へ来た。


「ちょっと、貸して」


イグネリアはそう言って、セラフィナの聖印の留め具に手を伸ばした。留め具の、布の合わせのところが、少し、緩んでいた。イグネリアはその緩みを自分の指で結び直した。それから薬包の入った袋の口を確かめ、紐を結び直した。最後にセラフィナの肩にいつもの薄手の上着を掛け直して、襟元を整えた。


「これで、いい」


イグネリアはそう言って、手を、離した。


それは装備の確認だった。けれど、最初の夜、彼女が目で聖印を確かめ、声で薬包を確かめた、あの確認とは、違っていた。今夜、イグネリアは、自分の指で、セラフィナの装備を、一つ一つ、確かめた。緩んだ留め具を結び、薬包の紐を結び、上着の襟を整えた。それは、明日から、もっと深い層へ、共に降りる者の装備を、確かめる手だった。


イグネリアは、そのあいだ、何も、言わなかった。


ただ、確かめた。


イグネリア自身は、それを、口にしなかった。


◇◇◇


翌朝、迷宮の口の縁に出ると、空気の匂いが、変わっていた。


二年の最初に降りた頃、地上の空気は冬の乾いた匂いをしていた。今、地上の空気はまた、冬の、乾いた匂いをしていた。二度、季節が巡って、また、冬に、戻っていた。けれど、その同じ冬の空気が、二年前とは、違う匂いに感じられた。違うのは、空気ではなかった。違うのは、それを嗅ぐ、彼女のほうだった。


セルウィウスが、迷宮の口の縁のほうで、待っていた。人気のない、見張り台から離れた場所だった。


「お嬢様」


その呼び方を、彼は、人気のない場所で使う。


「次の一団とは」


「明日、顔を合わせます」と、セルウィウスは言った。「三層を歩いたことのある連中だそうです。もっと下まで、行く連中だと」


「ええ」


セラフィナは迷宮の口を見下ろした。階段が幾重にも降りて、底のほうは暗くて見えなかった。二層はその底の、途中にあった。彼女がこれから降りる場所は二層の、さらに、ずっと下にあった。フェルラムとイグネリアも、その先へ、ついてくる。だが、そのもっと先、最下層には──


そこまで考えて、彼女は、考えるのを、やめた。


二年、彼女は、二層を降りた。


イグネリアの火が何度も群れを焦がすのを見た。フェルラムが何度も後ろを引き受けるのを見た。二人の傍で、彼女は奇跡を、落ち着いて、使いきることを覚えた。一層では間に合わせることを覚えた。二層では、もっと厚い群れの中で、間に合わせ続けることを覚えた。発光する苔の下の草の原と、混じらない二色の川を、覚えた。


二人とは、明日からも、共に、降りる。


けれど、彼女の行き着く場所は、二人の行く場所の、さらに先にあった。そこへ二人を連れていくわけにはいかなかった。フェルラムが「来るな」と言った場所。彼女が、一人で、行かなければならない場所。それは、まだ、ずっと、先にあった。


迷宮の口から、冷たい空気が、流れ上がってきた。地下の、深いところの空気だった。その空気の底に、あの、甘いような、胸の奥が冷たくなる匂いが、ごく薄く、混じっていた。二層の、いちばん奥の、岩の抉りの先で、嗅いだ匂いだった。その匂いが、今は、迷宮の口にまで、上がってきていた。


セラフィナは、その匂いを、嗅いだ。


嗅いで、彼女の体の、芯のところが、また、冷たくなった。理由は分からなかった。ただ、その匂いを嗅ぐたびに、彼女の中の、あの「近い」という感じが、強くなった。何が近いのか、彼女は言葉にしなかった。言葉にすれば、それは、間違った形に、なりそうだった。


セラフィナは、迷宮の口に、背を向けた。


街の灯が目に入った。冬の夕暮れの、窪地の底の灯だった。あの灯のいくつかは、今夜も、上がってこない誰かのものだった。それを、街は、数えなかった。二年前と、同じだった。街は、何も変わっていなかった。


ただ、彼女のほうが、二年前とは、違っていた。


二年前、彼女は二層を知らなかった。発光する苔の青い光も、地下に広がる草の原も、火を焦がす女の手も、後ろを引き受ける男の声も、知らなかった。今、彼女はそれを知っていた。知ってしまったものは、別れても、消えなかった。


セラフィナは、温かい街の灯のほうへ、一歩を踏み出した。二年を歩いた足が、二年前よりも、地を、深く踏んだ。背の低い影が石畳の上に伸びて、男の長い影の隣に、並んだ。


明日から、また、降りる。


二層を越えて、その先の、まだ見ぬ底へ。今度は、一人ではなかった。

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