母の抱擁
ちゃぶ台の上に、大皿に盛られた素麺と、ツユが入った小皿が二つある。日本人であれば特に新鮮さは無いが、ここ最近を踏まえると、やはり新鮮さを感じてならない。皿には確かに素麺とツユがあるのが目に見えていて、箸で触れてみても、確かに感触がある。
「今日も暑いから素麺にしちゃった。素麺なら暑くて食欲が湧かなくても食べられるでしょ」
そう言って、冷えた麦茶をコップに注ぐ冬美。幼馴染だった彼女は、今は僕のお母さんのようだ。その変わり様は異様だが、不思議と事実と受け入れてしまう。それは彼女が持つ包容力が本物である故か。
僕は大皿に盛られた素麺の一塊を小皿に移し、ツユで解れた素麺を一気に啜った。素麺が盛られた大皿に氷が散りばめられていたおかげか、素麺がよく冷えている。味はちょっと薄めだが、今日のような暑い日には薄味の方がかえって食が進む。
僕は麦茶を飲みながら、正面に座る冬美を眺めた。音を立てないように素麺を啜る彼女には、大人の色気というものがあった。幼馴染の時とは違う彼女の魅力に、僕は見惚れてしまっていた。
「どうかした?」
「……君は、冬美なんだよね? どうして僕のお母さんになってるんだ?」
「変な事を言うね。アナタは私の子供で、私はアナタの母親。おかしな所なんて何も無いわ」
「じゃあ、父親は? 母親がいるのなら、父親も当然いるだろう?」
「いいえ。私とアナタだけよ」
「どうして」
「アナタがそう望んだから」
「僕が?」
「そう。だから父親なんて存在しない。私とアナタだけの、家族なの」
嬉しいと思ってしまうのはどうしてだろうか。僕は俗に言うマザコンではなかったはずなのに。そもそも、僕は本当の母親を知らない。父親も。
だから、僕は嬉しいのか。僕を愛してくれる母親がいる今が、現実であってほしいと思ってしまうのか。それにしては少し、歪な愛情だ。彼女も、僕も。
久しぶりに食べた実感のある昼食を終えると、僕は冬美の膝に寝かされた。扇風機の風も、窓から流れてくる風もあったが、彼女が仰ぐウチワの風の方が意識的にはよく感じた。
すると、何処からか風鈴の音が鳴った。チリンチリンと鳴る風鈴は夏を感じさせ、波打ち際を押しては引く波の音が脳裏によぎった。潮の香りさえ鮮明に思い出される。おかしな話だ。僕は一度も海に行った事もないのに、音や香りが記憶にあるなんて。
「ねぇ。少し外に出て、海を見に行こうか」
「え? 海があるの?」
「うん。この家の外には、白い砂浜と青い海がある。砂浜には綺麗な貝殻が転がっていて、それを耳にかざすとね、音が聴こえるの」
「どんな音?」
「海の記憶」
「海の記憶? でも、海は水じゃないか。記憶を保管する脳が無い」
「脳は記憶の映像を流す映写機。記憶はフィルム。そして記憶はありとあらゆる物に憑りつく物。大事な物や、普段何気なく使う物、そして感じとった感覚。記憶はそれらに憑りついて、思い出になるの」
「思い出……でも、僕は海を知らない」
「いいえ。アナタは海を知ってる。アナタと海は、私とアナタのように深い繋がりがある」
冬美は僕を抱き起こすと、僕の手を引いて家の外へ出た。
視界に広がるのは、白い砂浜と果てが見えない海。砂浜には所々に貝殻が落ちていて、どれも違った形をしている。
僕と冬美は砂浜を歩き回りながら、一番綺麗な貝殻を探した。淡いピンク色をした貝殻。形が歪な貝殻。割れている貝殻。中々目当ての物は見つからないが、今の冬美と並んで歩くだけで幸せだった。
そして、僕は遂に見つけた。その貝殻はまるで漂流したかのように波打ち際にあり、光沢のある黒い貝殻だった。それを耳に当てると、目の前の海とは別の、何処かの海の音が聴こえてきた。よく聴いてみると、波の音に混じって、誰かのすすり泣く声が聞こえてくる。その声は、馴染みのある声だった。でも、誰の声かは思い出せない。
貝殻を耳から離すと、いつの間にか冬美が僕の隣から離れて、足首までを海に浸からせていた。
「おいで」
冬美は微笑みながら、手を広げて僕を待ち望んでいた。吸引力というのか、僕は吸い寄せられるように彼女へ歩み寄り、抱きしめられにいった。
「可愛い可愛い私の子。私をお母さんにしてくれるアナタ。特別で、愛しくて、大切な君」
「……お母さん」
その包容力に抗えず、僕は彼女を強く抱きしめながら、遂に彼女を母と認めてしまった。その瞬間、今まで彼女を母親と認めなかった自分が馬鹿らしくなった。
だって、こんなにも温かくて優しい彼女が、僕の母親じゃないはずがないんだから。