白夜の事情とタマの事情
見上げるほど大きな門が、ぎぎぎと開き、玄関に続く道の両側に使用人がずらりと並んで頭を下げている。今まで一緒にいた二人の子どもは姿を消しており、背後で車が走り去った。
「お帰りなさいませ、若様」
燕尾服の老人が進み出て、うやうやしく頭を下げた。
「杉野、ごくろう。この人は、僕の花嫁候補の林たま嬢だ。不埒ものに帯を切られてしまってね。同じようなものを一本すぐに買ってくることと、新しい着物を仕立てるように」
「はっ、かしこまりました」
老人が一礼し、滑るような足取りで奥に引っ込んだ。かわりに年配の女中が「こちらへ」と先導する。
斎木白夜が慣れた様子で行き着いた玄関で靴を脱ぎ、先に廊下をゆく。
タマは年配の女中の手助けで草履を脱いで高い上がり框を「よいしょ」とのぼって、あとをついていった。
屋内も、外から見たそのまま。大名屋敷みたいに広い。部屋が幾つあるか分からない。とはいえ、大勢の使用人がいるはずなのに、とても静かだった。
長い廊下を歩いていると、向こうから、束髪で紫の着物をきて銀の帯を締め、裾を引きずった女性がやってきた。細面で切れ長の目をし、唇が赤い。たいそうな美人だ。
「母上、今戻りました」
立ち止まった斎木が挨拶をする。
「おたあさま」
美人が口を尖らせた。
「〝おたあさま〟とおっしゃいと何度も言うのに。聞かない子ね」
と文句を言ったあと、斎木の後ろにいるタマに目を止めた。
「この子が、あなたの花嫁?」
「求婚中です」
「まあ、ふがいない。あなたのお父様は出会ってすぐに熱烈な求愛をなさったというのに」
すすす、と寄って来て、斎木の肩越しにこちらを見た美人がタマに尋ねる。
「あなた、御歳は?」
「じゅう……さん歳です。〝おたあさま〟」
美人が、ぱああっと顔を輝かせる。
「まあまあ、愛いこと! 素敵。やっぱり女の子はいいわ。十三なら、成人するまで我が家で養うの? お着物をいっぱい作りましょうね。うちは白夜しかいなくて、着飾らせがいがないのよ」
「母上、まだ返事をもらっていません」
と、答えてから斎木は、タマを振り返って言う。
「〝おたあさま〟とは、公家言葉で〝おかあさん〟のことだ。ちなみに、父親のことは〝おもうさま〟と呼ぶ。母は公家の出で、父と会うまで屋敷から出たことがなかったので、浮世離れしている。すまんな」
「いえ……」
公家の血筋の坊ちゃんか。雲の上の人だな。
「プロポーズは、謹んでお断りいたします。では、私はこれで。お屋敷に帰らねばなりません」
タマは頭を下げた。
「だめよ!」
美人が叫ぶ。
「〝おたあさま〟と呼んでくれる女の子が欲しかったの。皆の者、足止めなさい!」
その一言で、どこからか数十人の男女が現れて取り囲む。
「どうか、お願いです。行かないでください」
「お嬢様、奥様の願いを叶えてくださいませ!」
「どうか」「どうか」「どうか」「どうか」
わいわい言われて、身を引いたタマの肩を斎木が抱く。
「おまえたち、散れ!」
パチンと指を鳴らすと、使用人たちは「ケーン」と狐の姿になって逃げていった。
「母の眷属なんだ。落ち着いて話そう」
斎木はそのまま、タマを連れて行った。
そこは洋間だった。
三隅家よりもはるかに上等な椅子とテーブル。テーブルクロスに花瓶には温室咲きの薄紅の薔薇の花。
仮に、ということで、貸してもらった帯は金襴。そして何故か横に〝おたあさま〟がいて、タマにクッキーなる洋菓子を手ずから食べさせてくれる。
「うちのシェフが作るものは、おいしいのよー」
クッキーを差し出すので、向かいに座る白夜へ目で助けを求めると、うなずくのみ。
(されるがままにしろってか)
やけくそになったタマは口を開け、親鳥から餌をもらう雛のようになっている。
「母は、晃子という。梨路の宮さまの末娘だ」
公家どころか、皇族?
むぐって、クッキーを喉に詰まらせ、タマは目の前に置かれたカップを取り上げて紅茶を飲んだ。緊張のあまり、味がしない。その前に、紅茶を飲んだのは初めてだ。
「女王だが、生まれたときに小さな角があって、異形の者として親から忌避され、それでも殺すこともできず、病弱ということにし、乳母を一人つけて別宅で育った。行儀作法や読み書きなどを教えたのは、そこにいる乳母の葉月だ」
壁際に控えていた紋付の黒い着物をきた初老の女が頭を下げた。
「今は父の術によって角は隠され、どこにでもいる婦人に見える。だが、もともと母のまとう〝気〟は異形の者を惹きつけるのか、化け狐たちが眷属となり、母の育った宮家の別宅は狐どもばかりでなく、もののけが集まる場所になった。母が十六歳になったとき、父が求婚した。宮さまは厄介払いとばかりに莫大な持参金とこの家をくれて母を降嫁させた。求婚したとき、父は宮内省に勤める下っ端役人に過ぎなかったんだけどね。うちは陰陽師を統括する土御門家の実行役を代々勤めていた。ご維新の後は、陰陽道も廃止され、下級貴族だった斎木家は男爵を名乗るだけの貧乏華族で、小役人になっていたんだ。今は宮さまのお陰で伯爵となり、父は陛下のお側に侍っている」
タマは黙って聞いていた。
(住む世界がまるっきり違う人じゃない)
「この屋敷も、ヒトは少ない。執事の杉野と料理人と数人の女中だけで、あとは式神と化け狐ばかりだ。見えない者にとっては、誰もいないのに戸が開いたりするので気味悪いのだろう。『化け物屋敷』と呼ばれている」
「じゃあ、さっきの小林さんもヒトじゃない?」
「いや、あれは分家の者で僕の部下だ。現在、朝鮮半島を支配下に置いたロシア帝国が、我が国をもうかがっているだろう? 日本では、超常の力は眉唾物として扱われるが、ロシアでは科学の一つの分野として研究されている。皇帝の側近のラスプーチンという僧は詐欺師なんだが、その部下のグレゴリーというやつは本物でね、侵略に兵と軍艦を使うだけでなく、超常の力を使う。日本もそれに対抗するため部隊を結成し、そこに僕は配属されているんだ」
ほー、としか返事のしようがなかった。タマには、まるで関係がないことだったので。
「こんなこと、普通の令嬢に言っても信じないだろう? だから、僕の花嫁になる人は見鬼じゃないとだめなんだ。身分は関係ない。そんなものは、どこかの家の養女になればいいことだから」
「そっちの事情は、あらかた分かりました」
タマは紅茶を飲み切った。渋くて苦い。
「でも、私だって事情があるんです」
と、タマは記憶をなくして行き倒れ、三隅伯爵親子に拾われたことを話した。
「ご恩のある三隅家を離れることはできません。旦那様を亡くされたお嬢様をお支えしないと。ですから、帰らせてください」
「なんと凛々しい心映えのお嬢さんでしょう。ねえ、タマさん。そのお嬢様と一緒に、うちにいらっしゃい。これから三隅伯爵家は、たいへんなことになりそうだから」
「母上、先見ですか?」
「ヒトがやりそうなことを予想しただけです」
おたあさまが、くふふと笑った。