偽りの家族とおまじない
三年前の冬のあの日、山の洞から弟の暁月に連れ出された夕月は、一人の男に引き渡された。東京に連れて行ってくれると言う。その言葉を信じて、他にも集められた少女たちと街まで歩き、汽車に乗った。一緒にいる女の子たちはみんな隣村か少し離れた村の子たちで、男に気づかれないよう、こっそり話していると、男は女衒だと分かった。
暁月は夕月を女郎屋に売ったのだ。
驚くと同時に、やっぱりな、とも思った。夕月は七歳まで、東京にいた。そして、その年に初めて弟がいるのを知り、弟を置いて吉野の屋敷へ来たのだ。それは父の命令であっても、恨んでいるだろうな、と思う。
十六歳で妾となった是枝華月は郷里の吉野から東京の茅野家の本宅に連れて来られた。そこの離れに住まわされ、翌年に夕月をその次の年に暁月を産んだ。
妾を迎えることは本妻の蔦子にとって不本意だっただろうが、当主の高治には逆らえず、表面上は穏やかに華月に接していた。夕月が生まれたときには、前年生まれていた鹿野の産着をくれた。女の子だったので、機嫌が良かったそうだ。それも十三歳の儀で殺される次女だったので余計に。しかし翌年、男児の暁月が生まれると、産婆が産湯をつかわせてすぐに奪っていき、自分の子とした。夫の高治も、蔦子を母として暁月を戸籍に載せた。
その後三年間、華月は蔦子の冷たい視線の中、妾として離れで暮らしたが、以後は子を産む気配はなかったので蔵に住むよう高治に命じられた。妾としての役目は終わったのだ。高治は華月よりもずっと美しくて男の気を引く芸者と関係を持ち、別宅を与えるほど寵愛した。
本宅の蔵に住まいを移した華月と夕月の母子に、本妻の蔦子は最低限の食と衣類しか渡さなかった。そして外出も許さない。そのぎりぎりの暮らしの中で、華月は娘に読み書きができないうちから呪禁の術を教え始めた。
『これは、人を呪うために使えば恐ろしいものだけど、本来はおまじないで人を癒すものなの』
と、母は教えてくれた。
父は夕月を尋常小学校に行かせてくれなかった。どうせ十三歳で死ぬからと。蔵には書物も多くあったので、母の華月はそれで読み書きと計算を夕月に教えた。
この貧しく不自由で、それでいて平穏な暮らしが破られたのは、夕月が七歳になった春のことだった。
いきなり蔵の戸が引き開けられた。
『これが、あんたの母親と姉よ、暁月。けがらわしい。わたくしを姉と呼ばないで!』
きれいな振袖を着た女の子が長い髪を振り乱し、後ろを振り返って叫んだ。
『かの……ねえさま。ほんとうなの? キヌたちが言っていたことは』
震える声をして入ってきたのは、白いシャツに黒いズボン、その上に濃紺の上着をはおった綺麗な顔立ちの男の子だった。
『わかったでしょう。これが、あんたの本当の家族。わたくしたちと一緒にしないで』
目を大きく見開いて、自分そっくりな女性と女の子をその瞳に映した暁月は、次の瞬間、弾けるように笑い出した。
『おかあさん!』
と、暁月はゆっくり立ち上がった華月に飛びつく。
『おかあさん、おかあさん!』
ぎゅうぎゅう抱き着いて、笑いながら泣いている。
『良かったあ。あんな女が母親でなくって』
『なんですってェ』
鹿野が鬼の形相をした。
『意地悪で、ぼくをぶってばかりのあんな女。母親じゃなくて、ほっとしたよ。性根の腐ったアンタにお似合いの親だ』
鹿野を振り返った暁月が言い放つ。
『せっかく教えてあげたのに』
と、鹿野が右手を振り上げた。
『お嬢様!』
そのとき、どかどかと男の使用人たちがなだれ込んできて、暁月と華月を引き離し、鹿野を連れて出て行った。
その翌日、華月と夕月は東京の本宅を追い出され、吉野の屋敷へ送られて再び監禁生活が始まったのだ。東京を離れるとき、父は母に告げた。
『十三歳の儀で、夕月が生き残れなかったら、おまえを放逐する』と。
(ずっとごく潰し扱いの妾でいるよりは、茅野家を追放されたほうが、かあさんには良かったんじゃないかな)
儚げな様子をしていても、母は根性が据わっていたから、きっとうまく生き延びていると思う。
夕月もそうだ。母に似た儚げで弱弱しい女の子という外見を最大限に利用している。容姿に反して、性格はけっこう図太い。本当は口も悪い。見えない猫を何匹も飼っている。でなけりゃ、あんな家でまともに暮らせない。
女衒に連れられて東京駅に着いたとたん、夕月は隠形の術を使って姿をくらました。しかし、考えが甘かった。東京へ行けば、働き口くらいすぐに見つかると思っていたのに、田舎から出て来たばかりで尋常小学校も出ていない十三歳の子どもなど、どこにも雇ってくれない。
(物乞いすっか)
と道端に坐ってみれば、その〝職業〟にも縄張りがあるみたいで、追い出されてしまった。
空腹のあまり行き倒れたところ、十三歳になる三隅伯爵のお嬢様に拾われて、雇ってもらえることになった。実に幸運だった。
(幸運になったら、その分、どこからか差っ引かなきゃならないけど、助かった)
大恩人の伯爵様とお嬢様には、どれだけお礼を言っても足りないくらいだ。
拾ってもらったとき、過去から決別するつもりで記憶がないふりをした。父は死亡届を出すと言っていたから、もう茅野夕月は死人。だから、記憶がなくてもいいよね、ってことで。
三隅伯爵が奔走してくれて、お屋敷で雑用をしている源三郎じいさんの養女になった。「林たま」というのが今の名前だ。
名無しに戸籍をつくっちまうなんて、普通そんなことできないよ、貴族院議員ってすげえ。
と思いながら、夕月は毎晩、旦那様とお嬢様の部屋の方に向かって拝んでいる。ちなみに、源三郎じいさんはそのとき、ぽやんとしていて、翌年風邪をこじらせ、ぽっくり逝ってしまった。父娘としての生活は、ほとんどなかった。じいさんに身寄りはなかったから、タマにも親戚はない。
ただ、拾ってもらえたとき、何年もろくに食べてなかったから、ガリガリのひょろひょろだったので、年齢を十歳と記載されてしまった。実年齢より三つも下。その代わり、尋常小学校に十二歳の卒業まで通わせてもらえた。今は戸籍上、十三歳だ。本当は結婚できる十六歳なんだけど。
(伯爵様って、仏様の生まれ変わりじゃないだろうか)
いつも、そう思う。
でも、そうじゃなかった証拠に、どうやら一人娘で跡継ぎの美知子お嬢様のわがままのはけ口として、夕月を雇ったようだと後になってから知った。しかし、そのおかげで夕月――タマに模範を示そうと、お嬢様が生活態度を改めて淑女となったのは万々歳といったところか。
そのお嬢様もこの春には結婚する。元村伯爵家の次男・彰浩を婿に迎えるのだ。
めでたい。お嬢様の罵倒は、ご褒美。
夕月ことタマも嬉しかった。
ところがその日、帰宅した三隅伯爵を他の使用人と一緒に玄関で出迎えたタマは、驚いて真っ青になった。
(死相が出てる。なんで? 朝には無かったのに)
三隅幸喜伯爵は口ひげの似合うダンディな紳士だ。八年前に奥様を病で亡くされても再婚せず、一人娘の美知子の成長を楽しみにしていた。春に婿とする元村彰浩伯爵令息は友人の息子で幼い頃より知っており、娘の幸せを願っての婚約だった。美知子と彰浩も仲が良く、家庭的には何の問題もない。
(お身体に何かあるのか?)
しかし夕食を共にする親子を使用人の定位置の壁際に立って眺めていると、そんな様子も感じられない。二人のオーラは健康的な橙色だ。
夕月――タマは、母の華月から呪禁の術以外に二つのものを受け継いだ。
一つは、他人の感情や業をオーラの色で見分けられること。発現したのは、東京の家の蔵で生活していた六歳のとき。蔵から出て、本妻の蔦子に見つかり、鞭打たれた以後のことだ。それに気づいた母が、精神に害が及ぼさないよう制御の仕方を教えてくれた。銀座へ行ったときは、人が多すぎて失敗し、気分が悪くなったけれど、いつもはそんなヘマはしない。
もう一つは、憑きもの。是枝の呪禁師は、先祖たちの関わった因縁を背負い、それは時代を経て、今では大きく邪悪な憑きものとなって術者と共にある。名はなく、歴代の呪禁師はアレとだけ呼んでいる。アレは人の悪意が大好きで、取りついている術師が不幸になればなるほど力を得るという、やっかいなシロモノだ。使役するのも命がけ。アレは弱い術者だと、その精神を食ってしまうから。
『アレを使役するときは、命にかかわるときだけになさい』
と、母は言った。
タマに対するお嬢様の罵声は、アレにとってはおやつ。タマ(夕月)にとっては、取引の材料。幸と不幸を足し引きして、利用しなくてはならない存在だ。
だから、力が欲しければ、幸せになってはならない。
アレの力は、暁月も受け継いだ。一代に一つの憑きもののはずだったのに、『なぜ』と母は悩んだ。
十三歳の儀の直前に、暁月が突然、会いに来た。『多分、今生の別れのつもりで父親が許可した』と言っていた。そのとき、母は暁月にも、アレの説明をしていたはずだ。アレの力に負けず、生き残って欲しいと思う。
(お身体に問題がなければ、強盗とか? 旦那様は人格者で恨んでいるやつなんていないだろうけど、政敵はいるから)
ロシアが朝鮮半島を植民地とし、日本の対馬、そして日本という国も狙っていた。住民は本土に避難して、対馬は全島を要塞化している。そんな情勢の中、議会では融和派と開戦派が争っていた。三隅伯爵は、融和派だった。最後まで対話での平和的解決を探っていた。
(とりあえず、お札で結界を張っておこう)
タマはそっと食堂を出て、お札を作るために女中部屋へ向かった。