お嬢様と小間使い 1
夕月が郷里を離れて三年後の二月初め。東京、銀座。
「タマ、遅いですわ」
「は……はひ。申し訳ありません」
緋色の被布姿、上品なたたずまいの少女が後ろを振り返って睨む。その視線の先には、茶色の縞模様の着物に古びた黄色の帯をしめ、長い前髪が目元まで覆った三つ編みの野暮ったい少女が風呂敷包みを抱えながら震えていた。
「人ごみに酔ったの? 連れてくるんじゃなかった。彰浩様への贈り物を買いたかったのに」
「も、申し訳ありません、お嬢様」
『タマ』と呼ばれた少女は青い顔をしながら、ぺこぺこ頭を下げている。
「美知子様、女学校では『完璧な淑女』と呼ばれているお嬢様が、タマには当たりがきつうございますね。この子にだけは、がみがみと叱って」
二人の間に、五十歳前くらいの婦人が入った。
「ばあやも知っているでしょう? お父様と約束したの。タマを拾って、うちで雇うのなら、自分で面倒を見なさいって。だから、わたくしは使用人として躾けているのよ」
「旦那様にも困ったものです。猫の仔を拾ったわけでもないのに」
「あ、あの。キヨさん、わたしはいいんです。どんくさい、わたしが悪いんです。お嬢様のお叱りは当然で。嗚呼、そのお声は天使の歌声のよう。なじるお顔も神々しくて、直接見るのは、はばかられ……」
うっとりと、タマが語り出す。
「もういいわ。あなたって馬鹿みたい。叱っても八つ当たりで理不尽に怒っても、全然気にしないのだもの」
羞恥で頬を赤く染めて美知子は歩き出し、人にぶつかってしまった。
「お嬢様!」
ばあやが叫ぶ。
「あ、ごめんなさい」
美知子はすぐに謝った。
ぶつかった相手は書生のようだった。もっさりとした頭をし、縞の着物に紺色の袴を穿いた若者だ。
「いえ、お怪我はありませんか」
「はい、何も」
「申し訳ございません」
ばあやのキヨも一緒に謝っている。
「あちらの人はお連れの方ですか? 無事じゃないようですが」
書生に言われて美知子とキヨが振り返ると、タマが道に座り込んでいた。それを人が避けて通っていく。
書生はすたすたと歩いてタマの側に寄り、しゃがんでその左肩に手を置いた。
「君、具合が悪いのかい?」
「……吐きそう」
ぐるぐると目の前が回っている。なんでかって? タマの目には、極彩色のモノ、真っ黒なモノ、ぴかぴか光ってるモノ、が行き交う大勢の人の姿にだぶって見えるのだ。
「君は、見鬼か?」
訊かれて目線を上げると、前髪の間から澄んだ瞳が見えた。
(きれい……)
うっとりとそれに見惚れていれば、声が聞こえた。
《変化した白夜の正体が分かるんだ、へえ》
《ねえ、イナサ。これがエンジュの言ってたヤツ?》
《そうさ、ヒカタ。あの宿曜師のばーたれがさ》
くすくす笑いながら、若者の両脇から子どもが覗き込んでいる。薄物の変わった服を着ていた。どこかで見たような……。
「ほら、これを口に含んで」
と書生が腰に下げていた印籠から丸い物を取り出して、ぽいっとタマの口に放り込んだ。
「むぐっ」
つい飲み込んでしまい、その苦さに目を白黒させていたら、吐き気も収まり、人影に重なる変なモノも見えなくなった。
「あ、ありがとうございます。収まりました」
タマは礼を言って立ち上がった。
「役に立って、良かったよ」
書生がにこりとする。
「まあ、うちの小間使いにお薬をいただいて、申し訳ありませんでした。わたくし、この子の主の三隅美知子と申します。お礼をいたしたいので、お名前をうかがってもよろしいですか?」
「三隅……というと、貴族院議員の三隅伯爵のご令嬢でしたか。いえ、お礼など。私は斎木と申すもの。こうして高貴で美しいご令嬢と出会えたことがお礼代わりになりますよ」
「まあ」
お世辞を言われて、美知子が頬を染めた。
(気障なやつ)
助けてもらったにもかかわらず、タマの書生に対する印象は急降下した。
「では」
と、書生が去ってゆく。
「またね。僕のお嫁さま」
最後の言葉は、三人には聞こえなかった。斎木が雑踏に紛れてしまうと、美知子たちも当初の目的を果たすために百貨店へ向かった。