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禍福は糾える縄の如し 1

 病室は一人部屋、それも洗面所付。見舞客用の椅子やテーブルがあるので、とても高い値段の部屋なんだろうな、とタマは入院中、ずっと思っていた。

『朝食は我が家で一緒に摂ろう』

 と昨日見舞いに来た白夜が言い、早くに迎えにくる約束をしていた。でも、タマはその前に病院を抜け出すつもりだ。

 涙があふれ出る。それを洗面所で顔を洗うついでに流した。

 とても大事にされているのが分かる。でも、全部振り捨てていく。

(あの人のこと、私、好きなんだなあ。一緒にいると、心が、あったかい)

 改めて自分の恋心に気づき、涙が出そうになったが、無理やり押しとどめた。

 斎木家の人たちと家族になりたかった。でも、あんな邪悪な憑きものがいては、幸せになれない。アレは斎木家の人たちをも害すことだろう。

(どこか誰も知らないところに行って、ひっそりと死のう)

 憑いている人間が死んだら、アレがどこへ行くかタマは知らない。また是枝家の誰かにとり付くのだろうか。

 分からない。しかし今は、ここを出て行くべきだと、タマは考えた。

 白夜はタマの着替え一式を風呂敷に包んで持ってきてくれていた。行李に入っていた下着類といつも着ていた地味な着物に黄色の帯。

『今度こそ、着物を買おう。僕もだけど、母が一番楽しみにしているんだ』

 それもできません。ごめんなさい。と、タマは心の中で謝った。

 病衣から自分の着物に着替えてから、一人部屋だったのが幸いし、誰にも見つからずにタマは病院を抜け出した。とりあえず、東京駅に行ってみるつもりだった。白夜は着物と一緒にタマが貯めた給金が入った巾着も入れてくれていたので、それを握り締め、早朝の道を歩いた。

 病院がどこに建っていたかも知らなかったから、タマは行く先々で、道で見かけた人に東京駅へ行くにはどうしたらいいか尋ねた。

 歩きながらも小さく真言を唱え、アレが心に侵食してくるのをさまたげる。けれども、しだいに憎悪や悪意といった感情が湧き上がってきた。

 幸せな人が憎い。むやみに人を傷つけたくなる。

(だめだ、負けるな)

 自分を叱咤したタマは、やっとのことで東京駅の前までやってきた。

 そこで、行き交う群衆の中に見つけてしまったのだ。

(かあさんに、暁月あかつき……?)

 束髪で上等な羽織姿の母と、洋装で中学生くらいの少年となった暁月。二人の後ろには背広姿で帽子を被り、荷物を持った十郎太がついていく。豊かな家の母子と付き人といった感じだ。

 暁月は母に話しかけ、幸せそうに笑っていた。

〝ぼくたちは、幸せになってはいけないんだ〟

 そう言ったよね、暁月。

 自分が幸せになるために、アレを私に寄越したの?

 うそつき、ずるい、ひどい。

 そんな思いが心の中でグルグルと回り、悪意が外にあふれ出てくる。

(もういいや……)

 タマは自分の自制心を手放した。アレが自分を飲み込み、体外に出れば、この周辺にいる人たちは死ぬか、気が狂うだろう。

 と、タマが自分自身を放棄したとたん、びしりと身体が固まった。アレも固まっている。

(金縛りの術?)

 タマも出来るが、それ以上に強力なものだった。

「タマさん、一人で先に行ってはだめでしょう」

 背後から、白夜の穏やかな声が聞こえた。

 その間に、母と弟たちは人ごみに紛れて消えてしまった。

「車に乗りましょう」

 白夜が手を引いてくれる。そして建物の陰に停めてあった車の前に行くと、横抱きにして後部座席へ乗せてくれた。

 車に乗って白夜が隣に座ったとき、タマの身体のこわばりが解ける。しかし、アレはそのまま金縛りになっていた。

《白夜のばかあ》

《ヒトにこの術をかけると、壊れてしまうことがあるんだ。ひでえ》

 二人の子どもがタマの両脇に現れ、背中を撫でたり、怒ったりしている。

「いや、急にいなくなったので、あせった。おまけに、凄まじい悪霊の気配がするんだものな」

「確かにすごいですね。近来、まれに見る逸物だ」

 運転席にいる小林が車を発進させながら言った。

「隊長が仕事をさぼって、その人にかまっていたのが分かりますよ」

「その解釈は違うな。僕は自分のお嫁さんを心配しただけだ」

(そうか、斎木さまは仕事を休んで私の問題にかかわってくださっていたんだ)

 そう思うと、涙が出て来た。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 タマは左のたもとで顔を覆った。

「君は……声を殺して泣くんだな」

 しんみりとした口調で、白夜が言う。

「もうそんなふうに泣かなくていい。僕の側に来たら、声を出して泣いたり笑ったりしていいんだ。これからは誰に遠慮することなく、感情を出して欲しい。その方が僕も嬉しいから」

 と、語りかけ、ひょいとタマを膝の上に乗せた。

「ひゃあ。あの、斎木さま」

 わたわたしているタマに白夜が微笑みかける。

「婚約者なんだから、『白夜』と呼んでほしいな」

 キラキラの笑顔を向けられて、タマはぼっと赤くなった。

「白夜……さま」

「なに?」

「これからどうするんですか?」

「当初の予定では、我が家に来て暮らしてもらうことになっていたけれど、この憑きものを見たからには、真っ先にこれを無力化しようと思う」

「できるんですか?」

 こんなに古くて大きな悪霊を。

「祓うには入念な準備が必要なので、すぐにとは言えないが、とりあえず今は君に害を為さないよう縛ることにするよ」

 アレを鎮めることなんて考えてもいなかった。それが「できる」と言い切るこの人を信じてみよう、とタマは思った。


 しばらく行くと斎木家の屋敷が見えて来た。以前来たときと同じように車を降り、使用人たちに出迎えられ、邸内へ入った。シノという若い女中を紹介され、タマの付き人だと説明された。

 シノの案内で和室に通され、お膳に載った朝食を供された。それを食べ終わると湯あみのため、湯殿ゆどのへ案内された。

 お風呂に入るのなんて三年ぶり、それも人の手を借りるなんて初めて。なので、「一人で出来ます」と抵抗したが、シノには軽くいなされ、磨き上げられた。そして湯殿から湯帷子ゆかたびら姿で出れば、髪を入念に梳かれて前髪を眉くらいに切られ、白い着物に着替えさせられた。

 シノに手を引かれ、長い廊下を歩いてゆく。

「やあ、やっと君の綺麗な瞳を見ることができたね。かわいいよ」

 行き会った白夜が笑顔でタマを褒めた。

 その白夜は、神官が着るような白い衣に、頭には烏帽子を被っていた。

(白夜さま、すてき。御曹司なんだなあ)

 改めて身分の差を感じたが、白夜が「いい」と言うのだから、とタマはそれを気にしないようにした。

 白夜のあとについて行くと、中庭らしき場所に出た。廊下のきざはしを伝って降り、シノが差し出した草履を履いた。

 庭には台が設けられ、ぬさが幾つも捧げられていた。台の上には供物が載っている。そして、その手前にはむしろが敷いてあった。

 供物台の向こうには、四方に竹が立てられ、縄で四角く区切られた空間がある。その中央にも、むしろがあった。

 シノがタマの手を引いて、そこに行って座らせると、白夜も供物台の前のむしろに坐った。白夜のすぐ側で使用人たちの手によって火が焚かれる。

「始めるから、何があっても動かないで」

 そう言い置いて、一礼すると白夜は紙を懐から取り出し、祭文さいもんを読み出した。読みながら、乳木ちぎを火に投じる。

 ぞわり、とタマの身体が震えた。黒い霧が立ち上り、次第に大きくなって形を作ってゆく。

 白夜の左右から光が飛び出し、タマの頭上を旋回する。二人の童子たちは今では大人の姿になって、手には光の縄を持ち、アレを縛ろうとしていた。アレが暴れている。

 童子たちの動きが速くなった。

 白夜が九字を切って印を結び、「ゆるくとも、よもや許さず縛り縄、不動の心あるに限らん」と唱え、印を結んで「ノウマクサンマダ、バサラダンセン……」と唱えれば、タマの背後のものは動きを止めた。

 イナサとヒカタが童子の姿になって消え、白夜が一礼した。

「終わりました。シノ、タマさんをこちらへ」

 と、白夜が振り返ったとき、タマが廊下の方を見やれば、当主の真夜しんやと夫人がそこに立っていた。

「これは大物だな」

「まあ、ナーガラージャの」

「知り合いかい?」

「ええ、前世の故国の蛇王の一族ですわ。この御霊みたまは蛇王シューシャの妹、マナサー。〝毒を除く者〟と呼ばれていました。何とも穢れてしまって、面影もありませんが」

「父上、お早いお帰りですね」

 夫婦の会話に、白夜が割って入った。

「今日は土曜。半ドンだよ。義娘が来るというので、急いで帰ってきたのだが。驚くべきことに遭遇するものだ」

「着替えてから、ご説明いたします。タマさんもご苦労様。みんなで一服しましょう」

 夫妻の話が理解できないまま、タマはシノに連れられて部屋へ戻り、華やかな振袖に着替えさせられたのだった。







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