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何故、言葉は歪むのか ー批判的理性への疑問ー

 以前にとある人のブログを読んでいたのだが、途中で読むのをやめてしまった。というのは、(この人、批判ばっかりだな)とふと考えたからだ。

 

 もちろん、批判というのは重要であるし、私も、理性の創造的なことがらのほとんどは批判であると思っている。過去の偉大な哲学というのは、その内容が批判である事が多い。

 

 ただ私がこの文章で言おうとするのは、もう一度批判を対峙的に捉え直す必要があるのではないか、という事だ。批判に対する批判、という事になるかもしれない。

 

 ※

 私が件のブログを読むのを途中でやめたのはひとつの疑問が頭に浮かんだからだった。

 

 その人は非常に明晰な頭脳を持っており、論理的で正しい答えを書いている。しかしそのあまりの正しさに私は疑問を持った。

 

 はっきりと覚えてはいないが、その人が書いていたのは「明治維新はけしからん」という事だった。

 

 何故、明治維新が駄目なのか。アヘン戦争との関連で書いていた気がするが、これもよく覚えていない。

 

 ネットで検索すると、アヘン戦争で儲けたイギリス商人が坂本龍馬を通じて薩長同盟に武器を売った、とある。これが薩長同盟に有利に働いたらしい。

 

 記憶の欠落を想像力で埋めると、アヘン戦争で儲けた悪いイギリス商人が加担してはじめて成った明治維新のような革命は、その成立要素にアヘン戦争という悪を含んでいるから、よろしくない、という事なのだろう。

 

 …以上は私の方で理屈を埋めたが、間違っているかもしれない。ただ、別にこれが間違っていても私の言わんとする本質には大きな影響はないので、そのあたりは適当に話を進めていく。

 

 ※

 件のブログの主はそのような論理で明治維新を批判していた。

 

 ただ私が疑問に思ったのは、明治維新という革命が成った上ではじめて、今を生きている我々日本人が成立しているにも関わらず、その自己の存在ーーつまり、たとえ過ちにせよ、連綿と続く過去の上ではじめて自己という存在が成立しているにも関わらず、その歴史性を等閑視して、歴史そのものを断罪する、そうした手付きだった。

 

 これは明治維新に限らず太平洋戦争でもなんでもいい。それらの歴史的事象を批判する人は、あたかもそれを批判しているその存在、その脳髄が、まるで歴史から離反して空中で浮かんでいるかのような態で話している。私はふとそれを疑問に思った。

 

 もちろん、これは誰しもがやっているゲームであり、私も参加しているゲームである。今の世の中は「正しい事を言う人間が一番だ」という価値観が蔓延しており、賢い人も賢くない人も、このルールの元でそうしたゲームを行っている。

 

 だが、私が疑問なのは「どうしてそんなに正しい事を言えるのだろうか?」という事だ。その事は、意見を言う人々の言葉の直接さ、その言語が歪んでいない事、そして彼らがあたかも世界の内側に存在しておらず、世界から離れて、世界を見て、神の如き傍観者としてものを言っている事、そうした姿勢に対する疑問点と、私の中では繋がっている。

 

 私はこの事をごく簡単な脳に関する知識の点から考えてみたい。

 

 私は脳科学の本を一時読んでいたのだが、一番印象的だったのが、「脳は痛覚がない」という事だった。

 

 脳は痛覚を欠いている。痛みを感じない。

 

 この事が、脳に相互的な身体性をもたらさず、脳が自らを空中に浮かんでいる特殊な実態として自己把握する原因なのではないかと私は考えた。

 

 件のブログの主に関して言うなら、この人物は私よりも遥かに頭が良いであろうし、私よりも優れた頭脳を持っているだろう。ただ私が問いたいのはその事ではない。

 

 私が疑問なのは、脳が痛覚を持たず、それ故世界に参加せず、世界から自己をもぎはなして見ているように、件のブログの書き手もまた、自己の存在を、本来それが参与しているはずの歴史事象からもぎはなして、歴史について論じているのではないか、という事だ。

 

 仮に明治維新が悪だったとして、それではその悪を前提として生まれた、その人の存在や、あるいはヤマダヒフミはどういったものなのだろうか。

 

 理性が過去を振り返り、自分の存在が形作られる上で、悪が前提になっていると気づき、気づいた時点で、自らの存在を断罪して、自殺する、という事はまずない。件のブログの主だって、そんな馬鹿馬鹿しい事で自死したりはしないだろう。

 

 過去の歴史を断罪する事、批判的に総括する事。それはもちろん必要で大切な事だろう。ただ、それではその歴史の上に成っている「我」という存在は果たして何だろうか。

 

 明治維新がある種の悪を前提として成ったとすれば、悪としての歴史事象を前提として成った「我」というこの存在もやはり、一片の歴史事象として裁かれなければならないのではないだろうか。だが、件のブログ主はそのような意見は吐かないだろう。また、そのような意見が彼の意見の中に混入するとすれば、その言語は歪み、誰にもわかりやすいまったき正義の論、という性格は失うだろう。

 

 ※

 私は別にブログ主を糾弾したいわけではない。また、ブログ主が歴史事象を裁断するのと同様に自己をも裁断してみせよ!と言いたいわけでもない。

 

 ただ、私が疑問なのはそのあまりにも正しい議論というのは、自らを無謬の存在と暗黙裡に前提しているから可能な議論なのではないか、という事だ。

 

 私は過去の優れた書物を読むと、そこに難解だったり、わざと作者がとぼけて書いているような、わかっていてわざと違う事を言っているような、そうした表現に多数出会う。

 

 私はこうした表現を「言語が歪む」と名付けている。

 

 何故、言語が歪むのかというと、完全に正しい議論、現代人が好きなパーフェクトな正しさとは、自らの存在の相対性を遺棄した間違った議論だと感じられているからではないだろうか。それが私が考えた事だった。

 

 この事を、脳の痛覚の話に戻して考えてみよう。

 

 痛覚がない脳は世界に参加していない。だがそれは参加していないという幻影にすぎない。ただの脳の特性なのだ。

 

 痛覚がない脳はあたかも世界から分離して、世界を自由自在に裁断し、批判する事ができる。脳は自由に、世界を、空間を、時間を飛び回ってあれこれと言う。

 

 だがその脳もまた世界の一部でしかない。その事を脳は忘れている。

 

 さて、この脳が紡ぎ出す言語形態、その議論に対して、脳自体が世界との相関関係として成っている事、脳が自らを、過去の間違っているかもしれない歴史事象や、くだらないかもしれない社会との関係の上で成り立っていると仮定し、その事自体を言語形態として表出しようと試みたとしよう。

 

 そうするとどうなるだろうか。そこには自己韜晦や自己卑下、遠回しな言い方や暗喩といったものがあふれるであろう。

 

 というのは、あまりにも正しい意見というのは、それが正しすぎるが故に間違っている、と脳が意識しているからである。あまりにも正しい意見を言う時には人は「てれ」なければならない。そうでなければ、自己を含み込んだ真実に到達できない。

 

 正しい意見を理路整然と言う人々にとっては、自己卑下や遠回しな言い方、暗喩だのといった表現は、頭の悪さとみえるかもしれない。しかし私はそうは思わない。

 

 真実は、脳が真実と捉えたものである、というのが理性の最初の段階として現れるが、理性が次のステップに進むと、理性は自らが真実性を追い求める、その動作の虚妄性をも、自らが表現しようとする真実性の中に含みこむ。

 

 ここで言葉は歪むのであり、ここに詩的表現や、文学的な表現。象徴的な言い回しというのは、直接的な真理を超えるものとして現れる。私はそんな風に考える。

 

 そういうわけで、私はそうした言語表現の事を「言葉が歪む」「言語が歪む」と呼んでいる。

 

 最後に、私には見事だと思われる「歪んだ」言語表現について引用しておこう。これは中国の詩人、陶淵明の傑作であり、この詩表現は私にはまさしく、東洋的な言語の歪みが偉大に表現されたもののように思う。

 

 

 【山気 日夕にっせきに佳なり、

  飛鳥 あいともに還る

  このなかに真意有り

  弁ぜんと欲して既に言を忘る。

  

 (山の気配は夕方がすばらしく、

  鳥たちがつれだって山のねぐらに帰ってゆく。

  この自然の姿の中にこそ、宇宙の真理が存在するのだが、

  しかしそれを語ろうとしたが言葉はなかった)】

 

 (陶淵明全詩文集 ちくま学芸文庫 p242より)

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