わたしと皮膚呼吸
「化粧するとさ、なんか息苦しくない?」
湯気が立ち上るカモミールティーをちびちび飲んでいた私は、今日一番話したかったことを思い出し、少し大きな声をあげた。
「息苦しい?」
わけがわからないという顔をしたアヤが、マドラーでかき混ぜていた手を止める。コーヒーの中に溶け込んだミルクの渦はあっという間になくなって、コーヒーとひとつになった。
「そう、なんか毛穴全体が詰まって皮膚呼吸できない感覚」
「人間って皮膚呼吸してるの?」
「調べよっと」
混ざりきったミルクコーヒーからマドラーを抜き取るアヤを横目に「人間 皮膚呼吸」で検索する。
「肺呼吸の酸素の量と比べると0.6%だって」
「その0.6%のうちの、顔だけって、ほぼ呼吸してないんじゃない? まあ、でも毛穴が詰まる感覚はなんとなくわかる」
「でしょ、なんで化粧ってしなきゃいけないんだろう」
「おっと、話はそこにいくんだ」
「だってさ、男の人は化粧しなくても外歩いているじゃない? なんで私たちって化粧するのが当たり前で、化粧していないと外歩くのは恥ずかしいってなるんだろう」
「それは確かにね。化粧しないのが当たり前だったら私も多分しない」
「でしょ。そのくせさ、すっぴんと化粧の差を見て『顔全然違うじゃん』って男の人は残念がるんだよ。意味わかんなくない?」
ショートケーキにぶすりとフォークを突き刺す。そのまま食べる分だけ掬い上げると、バランスを崩したケーキはお皿の上でひっくり返った。降参した動物が強者に弱点のお腹を差し出しているみたいでなんだか滑稽だった。
「……ユウトくんとなんかあったの?」
アヤが心配そうにこちらを見つめる。図星をつかれた私は、何も答えずにケーキを咀嚼しながら白い湯気を発するカモミールティ―を眺めた。
「私でよければ話聞くよ」
コーヒーゼリーの上に乗ったミントの葉を丁寧に退かしながら、こちらを見つめるアヤは綺麗だ。頭の中で、アヤの化粧を丁寧に落としていく。はっきりとした二重の大きな目、スッと通った鼻、薄くてぐみのような柔らかい唇。ありのままで綺麗なアヤが羨ましくて、少し妬ましかった。
「ううん、大丈夫。うまくいってるから」
「……そっか、ならよかった」
上手に笑えなかった。なにかを察していたアヤだったが、それ以上は聞いてこない。やや気まずい沈黙が流れたもののすぐに話題は近所にできた新しいハンバーガー屋さんや、お気に入りのブランドの新作の話になって盛り上がった。
アヤと解散し、斜陽が反射して輝く川辺をのんびりと歩く。
不意に、昨日のユウトの驚いた顔が脳裏に浮かんで、頭を振って追い出した。
初めてのお泊まり。先に風呂から上がったユウトがテレビを見ている音が聞こえる脱衣所で、私はメイクを落としていく。
カラーコンタクトを外し、二重瞼を作っていたシールを剥がし、クレンジングで、目元のラメを、毛穴を隠していたファンデーションと下地を、私の顔を構成している息苦しいものたちを落としていく。
全てを落として鏡に映る私の肌は、なんだか沈んで見えた。
サッとお風呂に入り、美白化粧水やクリームを使って元の肌色に戻していく。アイプチを貼ろうとしてその手が止まる。
ユウトなら、ありのままの私を受け入れてくれるだろうか。そもそも、もし将来同棲や結婚をしたとして、いつまでもありのままを隠したまま生きなければいけないのだろうか。
指に張り付いたアイプチをゴミ箱に捨て、そのまま脱衣所を出た。
「ハルカ。いまテレビおもしろ……いよ」
こちらを見たユウトの目が一瞬泳ぐ。何か言おうとしてやめて、何事もなかったかのようにテレビを見始めた。
ああ、失望の色だ。一瞬交わった彼の瞳の奥はそんな色だった。私はどんな反応を期待していたのだろうか。
普通に、何事もなく話しかけてくれればよかった。いつも軽口を叩く彼のことだから「化粧落とすと全然違うじゃん」と揶揄って笑ってくれてもよかった。見てはいけないものを見たような、知りたくなかった一面を見てしまったような、そんな反応だけはされたくなかったのに。
「すっぴん、意外だった?」なんて聞く勇気もないから、熱くなった目頭を無理やり冷まして、ただ何事もなかったかのようにユウトの隣に座った。
その日、ユウトは私を抱かなかった。
川辺に、死んだ魚が打ち上げられていた。陽に照らされ、その肌に少しも潤いはない。
「肺呼吸、出来ればよかったのにね。苦しかったよね」
干からびた魚を指で摘んで、川へと流す。川の中へと帰ることもできず、ただぷかぷかと遠くへ流されていく魚。
肺呼吸ができれば、その肌が日差しに耐えうる強さを持っていれば、陸地でも生きられたのに。息もできず、日差しにも耐えられず、ありのままで陸地に受け入れられなかった魚に気がついたら涙が溢れていた。
「だれが、わたしを、そのまま受け入れてくれるんだよう……」
五分前に送った「別れよう」の言葉。震えたスマホがディスプレイに表示したのは「そうだね」という簡素な言葉だけだった。
X(旧Twitter)で「ブサイクが本当の意味で傷つくのは容姿を貶された時ではなく、周りの人が容姿を褒められている時に自分だけ全く褒められない時」というニュアンスのポストを見かけました。
わかる!とつい声を出してしまいました。
同じような経験したことある人いるのかな。
骨格とか肌の色とか、生まれたままで、ありのままで、誰かのいちばんになりたいものです。
投稿後に知ったのですが、この作品が、小説家になろうに載せている20作目みたいです。
読んでくださった方に、少しでもいいことが起こりますように。