酔った勢いで昔の元カノを呼び出した話
目が覚めると、見覚えのない天井があった。
頭が痛い。明かに、昨夜の酒のせいだ。
本当はまだ寝ていたい。だけど、ここがどこなのか気になる。
ゆっくりと、俺は上半身を起こした。
柔らかいベッドの上。かなり大きなベッドだ。ダブルベッドどころか、キングサイズだろう。俺の部屋のシングルベッドより、はるかに広い。
ベッドの上部には、部屋の機能を操作するパネルがある。エアコンや明り、室内の音楽を操作するパネル。
間違いない。疑いようがない。
ここは、ラブホテルだ。
やばい。酔った勢いで、どこかの女とワンナイトでもしてしまったのか。
でも、ベッドには、俺以外に誰もいなかった。もしかして、一人でラブホテルに入ったのだろうか。
まあ、見ず知らずの女とホテルに入るよりはマシか。
どこかホッとしながら、俺は部屋の中を見回した。右側には、小さな冷蔵庫。ゆっくりと視線を動かしてゆく。お茶などを入れるポットやカップ。ガラス張りの風呂。部屋の入口のドア。
反時計回りに、部屋の中を見回して。
ソファーのところまで視線を運び、俺の身体は硬直した。
ラブホテルらしい、合皮で包まれたソファー。そこで、足を組んでスマートフォンを操作している女がいた。ホテルのバスローブに身を包んでいる。
彼女が――麻由美が、俺の方に視線を向けた。俺の人生を変えた女。たぶん、今一番会いたかった女。同時に、一番会いたくなかった女。
麻由美は、冷めた目をしていた。どこか怒っているようにも見えた。
「ああ、起きた?」
彼女の言葉をきっかけにして、俺の頭に記憶が流れ込んできた。まるで、濁流のように。昨日の記憶だけじゃない。もう八年も前の記憶。
俺と麻由美が出会った頃の記憶。
俺と麻由美の出会いは、自動車学校だった。仮免を取得して、公道で運転講習をしたとき。
俺が十八歳。麻由美は二十歳だった。
教官を交えた会話の中で、すぐに意気投合した。自動車学校で互いを見かけると、声を掛け合うようになった。
運転免許試験場には、一緒に行った。一緒に合格して、喜び合った。
当時の俺は、高校卒業後、フラフラとフリーターをしていた。就職活動なんてしなかった。ただ適当に生きていた。一生、そんな生き方でいいと思っていた。
自分に劣等感も後ろめたさもないから、気兼ねなく麻由美に告白できた。
「こんなふうに知り合ったのも、一緒に免許取ったのも、何かの縁だからさ。俺と付き合わないか?」
軽い口調で告白したが、麻由美に対する気持ちは真剣だった。出会ってから、ほんの数週間。でも、本気で好きだった。惚れた気持ちは理屈じゃなかった。
遺伝子が相手を求めて、好いた惚れたの気持ちになる――そんな話を聞いたことがある。たぶん、俺の遺伝子が、麻由美に惹かれていたんだ。だから、こんなに簡単に惚れてしまった。
麻由美は、どこか楽しそうに笑っていた。少し茶色に染めた、長い髪。小柄な身体。胸は大きくない。見かけによらず、少し気が強い。俺より年上だけど、愛らしかった。
「いいよ。宮下君、優しいし、楽しいから」
麻由美は、すでに会社員として働いていた。自動車学校にも、仕事の後に来ていた。今のご時世では、高卒で正社員として採用されるのは難しい。彼女も例に漏れず、最初は契約社員として働き始めたそうだ。そこから頑張って、正社員登用までこぎ着けた。
麻由美と過ごす日々は楽しかった。バイトが終わって、彼女の家に行く。二人でゆったりと過ごす。一緒のベッドに入って、裸になって、戯れる。
こんな日が続けばいいと思っていた。このままでいいと思っていた。
けれど、麻由美は、このままでいいとは思っていなかった。
付き合い始めて八ヶ月ほど経ったあたりから、麻由美に聞かれるようになった。
「私との将来、考えてる?」
今なら分かる。麻由美は、互いに安定した職に就き、安定した生活を送り、結婚を視野に入れたかったのだ。将来、子供ができるかも知れない。そんなことすら見据えていたのだ。
そんなことを見据えるくらい、俺のことを好きでいてくれたのだ。
「考えてるよ」
流すように、俺はいつもそう答えていた。でも、当時のバイト先で正社員になろうなんて、思っていなかった。今日を生きる金があればいいと思っていた。
「ねえ。本当に、私との将来を考えてるの?」
付き合い始めて十一ヶ月を迎える頃には、麻由美の口調は強くなっていた。
「当たり前だろ。考えてるよ」
正直、うっとおしかった。とはいえ、麻由美を嫌いになったわけじゃない。好きだった。別れるなんて、一切考えないくらいには。
付き合い始めて一年と一ヶ月目に、別れを切り出された。
「ごめん。私との将来を見据えてくれない人とは、もう付き合えない」
麻由美は泣いていた。気の強い麻由美が。俺と別れるという選択は、彼女にとって、泣くほど悲しかったのだ。でも、一緒に生きる将来が見えないから、別れを選択した。
麻由美の泣き顔を見て、俺は何も言えなくなった。別れを拒むこともできなかった。
たった一年一ヶ月の交際期間。たぶん、それまで付き合った中で、一番好きだった彼女。
俺は独り身になった。
ひとりになって、じっくりと考えた。うっとおしいと思っていた、麻由美の言葉。
『私との将来、考えてる?』
最初は、麻由美が何を考えているのか、分からなかった。適当に仕事をして、今日を生きる稼ぎがあればいい。何が不満だったんだ? 何が不安だったんだ? 彼女との別れに気を落としながら、ひたすら考えた。
時間が経つにつれて、少しずつ分かってきた。
俺は、今しか見ていなかった。
でも、麻由美は違った。五年後、十年後を見ていた。一緒に生きていく中で、どちらかが、病気や怪我で倒れるかも知れない。子供ができるかも知れない。未来を見つめたとき、生活の基盤となるものが必要だった。社会的な信用も必要だった。
麻由美と別れて半年ほどで、彼女の真意に気付いた。
俺はバイトを続けながら、転職先を探した。
正社員の募集は、ことごとく不採用だった。いわゆる「お祈り」が、数え切れないほど封筒やメールで来た。
方針を変えて、契約社員の募集を探した。契約社員から正社員登用を目指そう、と。
かろうじて採用されたのは、コールセンターの仕事だった。商品に関する問い合わせを受けるセンター。
まったくの未経験だったが、俺は必死に働いた。仕事の合間に、タイピングの練習もした。通話中に、より速く正確に文字を打ち込めるように。
二十歳のときに契約社員として入社して。その三年後には、一つのチームのリーダーとなった。さらにその一年後には、チームを管理するSV――スーパーバイザーとなった。
正社員登用もされて、麻由美が望んでいる俺になれた――と、思う。
でも、彼女に連絡はできなかった。あれから何年も経っている。もう、新しい彼氏がいるかも知れない。何より、昔の俺を知っている彼女に会うのは、恥ずかしかった。適当に、いい加減に生きていた俺。
反面、誰よりも好きだった彼女に会いたくもある。
悶々とする日々の中で、俺は、必死に業務をこなした。
部下を持つようになって。麻由美のことを時折考えつつも、気は引き締まっていた。
人を管理するというのは難しい。厳しさだけでは、部下を傷付けてしまう。かといって、甘やかし過ぎてもいけない。個人的な好き嫌いがあったとしても、業務に関連する差別をしてはいけない。
何より大切なのは、部下を、仕事の駒として扱わないこと。人間として見なければならない。どんなに仕事が大変だとしても。
SVになった俺は、よく上司とぶつかるようになった。上司が、部下を、駒として見ていたから。ノルマをクリアするための駒。
そんな中、俺の部下の一人が、妊娠を報告してきた。当然ながら、出産前には産休に入るし、その後は育児休暇に入る。俺のチームから一人いなくなるわけだから、人員の補充が必要となる。
上司にその旨を報告したとき、彼は、準備すると言っていた。今から半年ほど前のことだ。
だが、部下の産休まで一ヶ月を切っても、上司はまったく行動を起こさなかった。
部下の産休まで二週間を切った頃、俺の堪忍袋の緒はプツリと切れた。
「人員不足でチームに負担がかかると、ミスが起こる可能性が高くなります。早急に対応してください」
俺の言葉に、上司は面倒そうな顔を見せた。
「ただの可能性だろ」
堪忍袋の緒どころか、他のものまで色々と切れた。
「俺のチームに負担かけて、ミスが起こる可能性を軽視したんだ。何かあったら責任とれよ」
部下を管理し、仕事を円滑に回すのが上司の仕事だ。その仕事を放棄した奴は、上司でも何でもない。敬語を使う必要もない。
麻由美と別れてから七年。真面目に仕事をしてきた。もちろん収入は上がった。社会的な信用を得られる立場にもなれたと思う。でも、その分だけ、負うべき責任も重くなる。ストレスが溜まることも多くなる。
クソみたいな上司にクソみたいなことを言われた日。たまたま、金曜日だった。
俺は一人で飲みに出た。適当な居酒屋に入って、最初に頼んだビールを一気飲みした。二杯目も一気に飲み干した。
空きっ腹にビールを流し込んだから、酔いが一気に回った。ストレスはどこへやら、気持ちが大きくなった。
スマホを取り出して、電話帳にある女に片っ端から電話を架けた。
麻由美と別れてから、三人の女と付き合った。しかし、いずれも一年と経たずに別れた。何か違和感があったんだ。そんな違和感も忘れて、三人に電話を架けた。
「今から俺と飲まない? 一人で飲むのも寂しくてさ」
当然のように断られた。
電話帳を見ていくと、麻由美の名前を見つけた。別れてから七年も経つのに、まだ残っていた。
酔って気が大きくなっているのに、麻由美に連絡するのは、少し躊躇った。躊躇いつつも、通話アイコンをタップした。
麻由美の電話番号は変わっていなかった。
「久し振り」
ありきたりな言葉を交わし合い、麻由美を誘った。返答は、OKだった。今近くにいるから、と。
誘ってから二十分ほどで、麻由美が居酒屋に来た。七年振りに会う彼女は、昔よりも大人っぽくなっていた。スーツを着ている。仕事帰りなのだろう。
別れてから七年間のことを伝え合った。彼女は結婚して、子供がいるらしい。今、子供は二歳。実家の両親が見てくれているという。
麻由美が結婚したことを聞いて、苦しくなった。別れてから七年も経っているのだから、結婚していても不思議じゃない。それでも、どこか苦しかった。
麻由美に仕事の愚痴を言いながら、俺は浴びるように酒を飲んだ。記憶がなくなるほど飲んだが、麻由美が、微笑ましそうに俺を見ていたのは覚えている。
「そっか。頑張ってるんだね。偉いね」
微笑ましそうで、でもどこか寂しそうな、麻由美の顔。
そのあたりで、俺の記憶はプッツリと切れて。
あ、でも。
居酒屋を出たところで、麻由美に言ったんだ。
「麻由美ぃ。帰りたくねぇよぉ。帰したくねぇよぉ」
自分が言ったことは覚えている。でも、それ以降はまったく記憶がない。とはいえ、ホテルにいるということは、そういうことなんだろう。
麻由美はニッコリと笑った。笑っているが、その表情の裏には、怒りも見えた。
「ずいぶん気持ち良さそうに寝てたね」
「……あ……うん」
どんな反応をすればいいか、分からない。
「まあ、気持ちいいよね。好きなだけ飲んで、私をホテルに連れ込んだと思ったら、部屋に入った途端に爆睡だもん」
「……は?」
ということは、俺は麻由美としていないのか。
「ねぇ? 分かるかな? これから抱かれるって気になって、一緒にホテルに入って。それなのに、連れ込んだ本人は、部屋に入った途端に爆睡して。一人で一晩中動画を見てた私の気持ち」
「いや……その……」
麻由美は既婚者だ。だから、抱かなかったということは、結果的にはいいことなのだろう。でも、女としての彼女を傷付けたことにもなる。
自分に対する情けなさなのか、それとも罪悪感か。もしくはその両方か。
なんとも形容しにくい気持ちを抱えながら、俺は口を開いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私の家は母子家庭だった。
父親はギャンブル狂のクズ。両親が離婚したのは、私が小学校三年のときだった。
そんな父親だから、慰謝料も養育費も払わない。
当然、ウチの家は貧しかった。なんとか高校には進学できたが、大学なんて無理だった。
私は、幸せで安定した家庭に憧れた。結婚して、夫婦二人で支え合って。どちらかに何かあったら、相手を助けることができる。父のように好き勝手に生きて、相手を困らせたりしない。
高校卒業後、私はすぐに就職した。といっても、正社員で登用してくれる会社はなかった。契約社員からのスタートだった。
私は、ガムシャラに働いた。将来結婚したときに、互いに支え合える夫婦になりたい。支え合うためには、私も相手を支えられなければならない。そんな自分になるために、必死だった。
憧れていたんだ。両親が――母ができなかった、幸せな結婚に。
仕事ぶりが認められて、二十歳直前に正社員として登用された。給料も上がったし、少ないけれどボーナスも貰えるようになった。
就職したときから貯めていたお金も、そこそこの額になった。
私は、自動車学校に通い始めた。
講習を受けて、仮免の試験にも合格して。
公道での運転講習が始まった。
グループでの運転講習で、私は、良太に出会った。宮下良太。私の、二つ下の男の子。
初めて公道で運転するとき。私は、凄く緊張していた。もしかしたら、冷や汗をかいていたかも知れない。
良太は、そんな私の緊張をほぐすように、明るく話しかけてくれた。同乗している教官に注意されても、笑顔を絶やさなかった。彼の運転コースが終わって私と交代するとき、気遣いの言葉をくれた。
「初めての公道だから、緊張するよな。俺も注意されたし。まあ、失敗するのなんて当たり前だよな」
私の父親は、人を気遣うことなどなかった。他人はおろか、家族すらも気遣わなかった。
良太は、嫌悪する父とは正反対だった。彼のことが気になってしまうのは、当然と言えた。
その運転講習以来、私は、良太とよく話すようになった。自動車学校で顔を合せたら、互いに声を掛け合った。
私も彼も、仕事の後に自動車学校に通っている。講習の後は、一緒に晩ご飯を食べることもあった。
自動車学校のカリキュラムを全て終えて、私は、良太と一緒に運転免許試験場に行った。互いに合格し、互いに喜び合った。
出会ってから、たったの数週間。それなのに私は、良太のことが好きなっていた。父とはまるで違う、自分以外の人に気配りができる人。
好きだから、良太に告白されたときは嬉しかった。二つ返事で付き合うことを決めた。
付き合い始めてから知ったが、彼はフリーターだった。時給がギリギリ四桁の仕事。
世の中には、働かない大人もいる。だから、ちゃんと仕事をしているだけで、偉いのかも知れない。
でも、私は、そんなふうには思えなかった。母と二人で暮らして、経済的には苦しかった。将来を考えるなら、良太には、安定した仕事に就いてもらいたかった。
だけど、良太は、フリーターのまま就職活動もしていなかった。毎月、生活ギリギリのお金だけ稼いで。貯金なんて、まったくない。もし身体を壊したら、どうやって生きていくんだろう。もし今の仕事ができなくなったら、次の仕事が見つかるまで、どうやって生きていくんだろう。
もし子供ができたら、出産や育児の費用はどうするんだろう。
付き合って八ヶ月目あたりから、私は、良太に問い詰めるようになった。
「私との将来、考えてる?」
良太はいつも「考えてる」と返答してきた。
彼は私を大切にしてくれた。愛してくれた。その辺の馬鹿な男みたいに、避妊具なしでセックスはしなかった。私が体調を崩したら、次の日が仕事でも一晩中看病してくれた。
優しい人なんだ。
でも、優しいだけで、将来を考えられる人じゃないんだ。
付き合い始めて一年と一ヶ月目。私は、別れを選択した。
「ごめん。私との将来を見据えてくれない人とは、もう付き合えない」
大好きだった。こんなに大好きな人とは、たぶん、二度と出会えない。
でも、もし生活が困窮したら、好きなんて気持ちは消えてしまう。貧しさに耐えかねて、大好きな人を嫌いになってしまう。
貧しさは、心を荒ませるんだ。
だから私は、別れを選択した。大好きな良太を、嫌いになりたくなかったから。
良太と別れてから一年くらいして、私は、職場の上司に口説かれ始めた。職場でも人気の上司だった。人当たりがよくて、仕事もできる。おまけに、背が高くて顔もいい。
どうしてこんな人が、私なんかを口説いているのか。疑問に思いつつも、私は、上司と付き合い始めた。彼は口が上手くて、息を吸うようにスムーズに、私をベッドに誘い込んだ。
彼とセックスをするとき、コンドームをしたことはなかった。
そんな性生活を送っていたら、当然のように私は妊娠した。妊娠を機に、彼と結婚した。
経済的には安心できる暮らしだった。夫の稼ぎは悪くない。私を専業主婦にしても、十分生活できる。
でも、良太と付き合っていたときのような安らぎはなかった。
夫は、私の妊娠を機に浮気を始めた。もしかしたら、私が妊娠する前から浮気をしていたのかも知れない。彼は口が上手く、人当たりがよく、仕事ができる。おまけに、背が高くて顔もいい。女が寄ってこないはずがない。避妊をする気遣いすらない彼が、寄ってくる女に手を出さないはずがない。
私は我慢した。この、優しさも気遣いもない生活の中で。一人で出産し、一人で育児をし、ただひたすら耐えた。
娘が二歳になって、保育園に預けられるようになった。私の母親も健在で、娘の面倒をよく見てくれた。
私は職場に復帰した。同時に、離婚に踏み出した。
クズのような父親を見ていたから、私はよく分かっている。世の中には、いない方がいい父親がいることを。
育児と、離婚調停と、仕事。
私は疲れていた。
疲れているから、頻繁に思い出していた。良太のことを。彼の優しさを。でも、当時の彼は若過ぎた。よく考えてみれば、まだ十代だった彼に、将来を見据えるなんて無理だったんだ。
良太と付き合っていたとき、私は、将来を見据えていた。将来ばかり見つめて、その時点の彼を理解できていなかった。
無駄に過去を美化しているわけじゃない。良太は本当に優しかった。誠実だった。外面だけがよくて誠実さの欠片もない夫とは、まるで違っていた。
そんなことを考えていたから、七年振りに良太から電話がきたとき、舞い上がってしまった。母親に娘を頼んで、彼のもとに駆けつけた。夫との離婚は、まだ成立していないのに。
ここで良太に身を寄せたら、浮気した夫と同じになってしまう。だから私は、自分に言い聞かせた。今日は、彼と飲むだけだ。結婚していることを伝えて、間違いが起こらないようにしよう。
久し振りに会った良太は、相変わらず優しかった。でも、ストレスを溜めていた。今ではしっかりと働いていて、部下もいるという。だけど、その分大変そうだった。
良太は、驚くほどのペースで飲んでいた。店を出るときは前後不覚になるほどで、私が肩を貸していた。
「良太、大丈夫? もうすぐ終電だよ? ちゃんと帰れる?」
そう聞きつつも、私は期待していた。
そして良太は、期待通りの言葉を口にした。
「麻由美ぃ。帰りたくねぇよぉ。帰したくねぇよぉ」
私も帰りたくなかった。
一人の母親として、最低な選択だと思う。人の妻としては、最悪の決断だと思う。
それでも私は、良太に肩を貸してホテルに入った。
酔っていても、良太は男だった。フラフラでも、私を求めてきた。たぶん、明日の朝には、記憶がなくなっているだろうけど。
思った通り、良太は記憶をなくしていた。私とホテルに入ったことを覚えていなかった。そんな状態でも、彼はちゃんと避妊をしていた。無意識でも、彼は誠実だった。
私は嘘をついた。私と彼はセックスなんてしていない。だから、これは不倫じゃない。
良太は、どこか心苦しそうな顔をしていた。複雑な表情で、でもしっかりと私を見つめて、力強く言った。
「もし何かあったら、俺が責任取るから。旦那さんに何か言われても、悪いのは全部俺だから」
お人好しとすら言えるほどの誠実さ。他人への気遣い。近しい人への優しさ。
私は泣きそうになった。無意識のうちに、口から言葉が漏れた。
「ごめんね、良太」
何に対しての「ごめん」なのか、私自身わからなかった。
ただ、七年前に別れたことを後悔していて。
離婚調停中なのに――まだ夫がいるのに、良太のことが好きで。
良太は覚えていないけど、ホテルに連れ込んだのは私で。
つい泣きそうになって、私は必死に涙を堪えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――広田麻由美が岡部麻由美に戻ったのは、それから三ヶ月後。
それから宮下麻由美になるまで、あと一年。
(終)