表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

TIBERIUS/暁音

 確信する。

 俺が勝利できる可能性は限りなく低い。

 女神アナト…残滓に過ぎず、か弱い少女の肉体であるが…それでも、究極の武、その領域にいることがよく分かる。

 だが。

 プエルが俺の思考に刻んだ、近代以降の戦闘技術。そして、悲惨な殺し合いの中で生み出された、罪過の結晶。

 これらと俺の経験が融合すれば、ある程度は、勝負になるだろう。

 「戦女神と手合わせとは…実に光栄だ。真っ向から、殴り合おう」

 「いいわね、楽しそう!」

 アナトは、笑みと共に、こちらに向けて猛烈な勢いで突進してきた。

 殴り合いで勝てるわけがない。間合いに入られたらこちらの負けだ。

 …最初はこれを使わせてもらおう。旧ソ連で開発されたトカレフ拳銃の後継…即ち、PMマカロフ自動拳銃!

 「へえ、これがあなたのパンチなんだ、速いわね!」

 歴戦の射手の矢を大きく上回る弾速。しかし、アナトはまるでそれが見えていると言わんばかりに、速度を全く落とさずに初撃を回避した。

 「目線、銃口の向き、指の緊張…」

 二発目も同様の結果に終わった。不味い、食らいつかれる!

 「見えるのよ、どういう風に飛んでくるか」

 左手の指を揃えて、首筋を狙う。だが、その前に。

 「これは効くでしょう?皇帝陛下!」

 アナトは一瞬で沈み込み、逆突きが腹に突き刺さった。

 まるで破城槌だ。プロテクターを通しても衝撃が全く殺しきれていない。内蔵がいくつか機能を停止した。…次はなさそうだな。

 「前菜としては…あまり気に入らんな!」

 距離を取りながら、手榴弾のピンを引き抜き、即座に前方へ投げつける。

 「せっかちね。ぽいっと」

 アナトは何のこともない、といった風に手榴弾を掴み、後方に投げ捨てた。遠方で爆発、有効打にはならない…だが!

 「お返しだ!」

 少しだけ、注意が逸れた。この隙に三発目!

 「素敵なプレゼント…でも、当たらない」

 駄目か…やはり、俺では厳しそうだ。しかし、それでも。

 「ならば、この輝きで応えよう!」

 再びこちらへと迫るアナトの前で、スタン・グレネードを地面に投げつける。

 …これはフリだ。閃光弾の形をした、偽物。だが、視界を守るために彼女は目を閉じるはず。そこを撃つ。

 「ガラスの宝石は嫌よ?本物じゃなきゃ、ね!」

 「何ッ!?」

 一切の迷いなく、アナトは目を開いたまま近づき、蹴りを放ってきた。咄嗟に両腕を交差させて、心臓を守ったが…。

 「くっ…!」

 左前腕は粉砕、右腕の骨にもヒビが入った。

 転がって衝撃を抑えながら、もう一発。外される。

 …無理だな。どう足掻いても当たらない。

 「やめだ、やめ。逃げているばかりでは勝てん。

 では、次はナイフといこう」

 「刃物は大好き!流れる血が最高よね!」

 拳銃を捨て刃を抜く。

 どこまでも嬉しそうに、喜びを隠さずに、少女神は俺に手を伸ばす。…やはり、アカネには似合わないな、これは。

 だが、ここまで無邪気に、俺との戦いを楽しまれては…真っ向から、一撃でいい、ぶつかる事ができたら、と思ってしまう。

 …このナイフには隠し種がある。柄に銃弾が仕込まれているのだ。

 限界まで引き付ける。相討ち上等。

 さあ、一緒に死ぬとしよう!

 女神が目前に迫ると同時に、ナイフを振り上げる。そして、刃ではなく銃口を向け、脳天に放つ…。

 …凶弾は空を切り、白い石床に突き刺さる。…消えた?どこへ?

 気づいた時には、もう遅かった。

 「ソビエトの消音拳銃…少し、焦ったわ」

 身体を地に這わせてからの蹴撃。つま先がこめかみに突き刺さった。

 意識を刈り取られそうになるのを、なんとか乗り切る。

 だが、万策尽きた。上段蹴りの衝撃でナイフも放してしまった。立っているだけでは、どうにもできまい。

 「これで、本当に終わり…」

 寂しげな殺意が笑いかけてくる。人差し指が防具越しに正中に触れた。

 …結局、俺は…誰も、守れないのか。

 雷霆のごとき寸撃。死の宣告が、胴体を突き抜けた。


 目が覚める。

 光の中に、一人。

 「俺は…負けたのか」

 当然の結果だ、と思う。あの女神、瀕死のくせに、ふざけた強さをしておった。仮に一個軍団をぶつけたと仮定して、遊撃戦に持ち込まれたら勝てるか怪しい。

 生涯をかけて武術に打ち込んで、ようやく一撃届くかどうかという相手であった。勝負になるかも、と思った数分前の俺、甘ちゃんすぎて恥ずかしいぞ。

 「アカネ、プエル…すまん」

 二人への別れは済ませてある。できることは全てやった、後悔はない。しかし…思うところは、ある。

 「結局…俺は誰も守れぬまま終わるのだな」

 生前、託された使命はやり遂げたが、他の全てを代わりに失った。リウィッラは別にいいとして…ゲルマニクスに、ドゥルースス。死なせてしまったのは、俺の落ち度だ。

 プエル?アイツは俺が生きている内は終始、蚊帳の外にいただけだ。別に俺が何かをしてやったわけでもない。

 そして、今回も。

 アカネのために、女神の亡霊を道連れにしようとして、果たせなかった。

 守れなかった、大切なものを、何も。

 弱いな…俺は…。

 「どーん!」

 背中に大きな衝撃。ヒトが思索に耽っているところを邪魔するとは、一体どのような了見であろうか?

 振り向くと、そこには…。

 「本当は強いフリしてるだけなのに、頑張っちゃって。まあ、そこがいいんだけどね!」

 あの日と同じ、小悪魔じみた、眩しくて仕方がない微笑みが、すぐそこに………。


 マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの長女、ウィプサニア・アグリッピーナ。

 初対面のときは、実にはた迷惑なチビだと厄介に思ったが…。

 あまりにも懐いてくるもので、いつの間にか絆されていた。初めての、友人ができた。

 弟、ネロも入れて三人、たくさん馬鹿をやった。正確に言えば、ウィプサニアが火をつけ、ネロが油を注ぎ、俺が慌てて水をかける、という構図だったが。

 俺達は、良き友人であったと思う。だから、ウィプサニアが俺の許嫁になると聞かされた時は、頭を抱えた。

 いい友人がいい夫婦と等号で結べるのか、俺には分からなかった。それに、ずっと小さな妹のように思っていた相手を、いきなり妻として扱えるようになるものか?

 頭の片隅に悩みを抱えたまま、学業と執務に励んでいた時、突然…アウグストゥスの後継者第一位だった、マルケッルス殿が亡くなられた。同じ氏族の出であり、将来を嘱望された親友の死は、俺にとっても悲しいものだった。

 その後、マルケッルス殿の未亡人、例のユリアの再婚を如何とするか、という問題が浮上した。最終的にアウグストゥスは、自らの右腕であるアグリッパ様を相手として選んだ。

 それは、同時に…ウィプサニアの母、ポンポニア様との離縁を意味していた。


 雨が降っている。

 川縁に、少女が立っている。

 「こんなところにいたのか、風邪を引くぞ」

 少女の背中に、なるたけ明るく声をかける。消え入りそうな姿が、痛々しい。

 婚約式の後、まさか兄様と夫婦とか…びっくりですね、あはは〜、と軽く笑ってしまえるような、いつもの明るさが見当たらない。

 「…ユリア様、若くて美人だよね。私とも、三つしか変わらない。

 お父さんとも、仲が良いみたいで…最初の子は、男の子かな、女の子かなぁ、なんて、あはは…」

 …母君のために、憤っているのだろう。こういうのは…この国ではよくある話だ。それでも、受け入れがたい、そうした感情も…理解できる。

 「…帰ろう。お前が身体を壊したら…俺が悲しい」

 「…うん」

 部屋に戻り、二人で、温かい蜂蜜入りのワインを飲みながら、語り合う。

 「そういえば、私達もそろそろ結婚ですね。正直なとこ、どう思ってるのか聞きたい〜」

 さては…酔っているな?加減なしに小突いてきた。普通に痛い。先程の意気消沈っぷりはどこへ行った?

 「難しい質問だな。俺はアグリッパ様の背中を見てきた。それに、アウグストゥスのような不品行は嫌いでね。

 まあ…良き夫たれるよう、これからも精進…」

 「どどどのどーん!」

 「ごふっ…!?何故に最大威力?今、何か変なこと言ったか?」

 俺の困惑する様子を見て爆笑しやがった。…コイツ、ガキだな、まだ。

 「…そういうんじゃなくてさ。私のこと、どう思ってるの?」

 ずい、とウィプサニアは身を乗り出してくる。うーむ、こういう時はどういう答えが正解か…?

 「気立てが良くて…実にできた娘だと…」

 「どどんがどーん!」

 「がはっ!?な、何故だ…俺には、理解できん…!」

 輪をかけて大爆笑。もう…わからん。何なのだ、何をすればお前は満足してくれる…?

 「見栄を張るのが下手だねぇ、兄様は。

 …じゃ、私の方から話すよ」

 その…光は、あまりに眩しかった。誰も信じられないと思っていた俺は、お前の、君のおかげで…。

 「私、兄様が大好き!大大大好き!

 だから、必ず好きにさせてやります。いい夫になるって言いましたね?兄様…いえ、ティベリウス様も、私のことを好きになるよう、頑張るように!」

 …一瞬で、恋に落ちた。

 ヒトを愛するとは、どういうことであるのかを知った。

 最高の友人が、最愛の人になった。

 …幸せだった。ドゥルーススも生まれて、このまま、ずっと一緒に…。


 …ロードス島から帰還して、帝位に就くまでの中間の日々に…一度だけ、ウィプサニアを道で見かけたことがある。

 …知らないふりをしてすれ違い、二度と会うまいと決めた。その夜は、泣いた。人生で最後の涙だった。

 それなのに。

 俺が最期に思い浮かべるのは、君なんだな、ウィプサニア。

 「…出迎え、ありがとう。ガッルスには、少し悪いように感じるが…」

 「ガッルス様も、私のことは大切にしてくれたし、良い人だったけどね。私が死んだあと、アグリッピーナちゃんの方に行っちゃったんでしょ。もう、義理はないって」

 「…その理論だと、俺にも義理はないはずだが?」

 「…やっぱり、分かってないなぁ、ティベリウス様は」

 寂しげに、あの日々のように、くるりと回る。

 「あの日、自分を殺して…国を救うための戦いへ向けて、私の側を通り過ぎていったのを…ずっと忘れられなかったんだ。

 …あの時…声をかけていれば…また、なんてさ。

 つまり、それぐらい、私もティベリウス様が大好きだったの!最期までね、あなたと同じ!」

 そうか…まったく、それほどまでに…救いようのないほど似た者同士であったのか、俺達は。

 そして思い出した。君から受け取った炎…それを絶やしたくなくて、俺は戦うことを決めたんだ。ああ…そうだったんだな。

 光が全てを飲み込んでいく中、しっかりと抱き合いながら、惜しむ。

 大切なものの影も、死にゆく中で、レテの川の、忘却の水底に沈み、失われていく。

 とても、勿体なく感じる。他人からすれば、何の価値もない、至って個人的な感傷だろうが…。

 いや、いい。

 …だって、忘れても、こうして思い出せたんだ。

 ……なら、きっとまた、出会うことができる。

 ………じゃ。




 何度繰り返すとしても、再び、はじめましてから。




〜〜〜〜〜〜〜〜


 トドメを与えた。間違いなく、致命傷だ。

 でも、その時。

 「…石頭………でなッ!」

 予想はできたはず。なのに、避けられなかった。

 衝撃がモロに伝わってきた。世界がぐらんと揺れ、歪む。後退りして、膝をつく。

 割れた額から熱いものが流れ、視界の左半分が赤く染まった。

 脳にかなりの損傷を負ったらしい。立ち上がるのに二秒もかかった。

 「素晴らしいわ…この私に、一撃入れるなんて…!」

 限界がどんどん近づいてきているところに、さらに痛手が入った。でも、それが楽しくて楽しくて仕方がない。

 …思えば、私は戦いの神なのに、まともに戦いをしたことがなかった。いつだって、一方的な殺戮だ。それでは戦いとは言い難い。

 今回は…確かに、私が圧倒していたのは事実だけど、でも、一瞬でも気を抜けば敗北は必至、という緊張感があった。その感覚が、たまらなく愛おしくて、面白かった。

 …ティベリウスはまだ、立っている。微動だにせず。もう、中身はスムージーになっているだろうに、まだ、戦うつもりのように見える。

 「凄まじい意志の力ね!これが、可能性なのかしら…?

 もっと、私を楽しませて!さあ…第二ラウンドの…はじまり…」

 …何故、私が動けなくなっていた、その隙を見逃したの?

 …目を凝らす。微動だにしていない。…震え一つ、その身体には見いだせない。

 …光の粒になって、崩れていく。

 全てを失おうとも、倒れる事を自らに許さなかった男。

 なるほど…私が、彼を計画に巻き込んだ理由は…。

 人間が持つ強さ、その一つの極致である彼に、認めてもらえたら、堂々と人類に刃を向けることができる、と思ったから…だったのね。

 …確かに、らしくない。私は、アナトそのものじゃない。歴史の裏に焼き付いた、影のような存在。

 「お見事でした。貴方のことだけは、ヒトと認めてあげます、皇帝陛下」

 解体していく光へと言葉を残す。消えない炎、折れない意志を体現した、実に得難い相手だった。

 …けれど。そういった強さや善の心を、小さな失敗の積み重ねで無意味にしていくのが、人間が害獣でしかないということの何よりの証左だ。

 故に…滅ぼす。これで、御崎暁音の精神に乱れができるはず、そこから現実へと這い出る。

 …待って。

 御崎暁音…彼女の意識は、今、どこに?

 感傷に浸っている場合では、無かった。

 残骸が放つ光は、消えることなく、再び集まり、収束していく。

 偽りの空が曙色に染まる。その下に、一人の剣士が現れた。

 金属板を幾重にも重ね合わせた鎧に、両刃の長剣、そして波打つ紅のマント。

 「ウェスタの火は…」

 声が神域にこだまする。幼く、未熟な響きの中に、鉄の芯が通っている。

 まるで、夜明けを告げる音のようだ。

 「未だ消えず!」

 燃え盛る火のような視線が、私を貫いている。

 …とっても素敵な置き土産ね、ティベリウス。やっぱり最高よ、アナタ。

 だけど、こちらも譲りはしない。二回戦の、はじまりだ。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 学生服の少女に向けて、斬撃の雨を降らせる。

 自分と同じ顔の誰かと戦うなんて、恐らくは二度とない、とんでもない悪夢だ。

 しかも、ドッペルゲンガーの中身は、とある神話における最強の女神様だというのだから、とんでもない。

 普通なら、私なんかでは相手にならない。

 しかし、何故か戦いが成立している。

 …ああ、そっか。

 斬撃の間に、拳と蹴りを混ぜていく。掴み、そして投げの可能性を匂わせる。

 余裕の笑みが、女神から消えた。

 「その…炎を!浪費し続け、誤り続けたのが、お前達の歴史だろう!違うか、害獣!」

 違わない…そう、私たちは同じなんだ。

 アウグストゥスに、女神の意図を聞かされて困惑した。動機自体はともかくとして、何故、私やティベリウスが巻き込まれたのか、と。

 …きっと、私たちは同じものを知っている。

 大切なものを踏みにじる悪と不条理に対する、やり場のない怒りと苦しみ。

 私は、それに耐えられなかった。ティベリウスは、それに耐えきってしまった。そしてこの女神様は、自分なりのやり方で解決しようとしている。

 「それでも、私は!」

 …ようやく捉えた。斬撃は見切られている。でも、警戒の網に空白ができた。

 「いっけええええ!」

 「がああああああ!」

 焦燥に染まった表情がさらに歪む。膝を蹴り抜いた。これで、今までのように動くことはできなくなったはず。

 「やられっ放しは、嫌…なのよねッ!」

 「くっ…うううう!」

 だけど、流石は戦いの神様。黙ってやられてはくれない。ゼロ距離から途轍もない威力の打撃。全身にダメージを分散させて耐え抜いたけど、痛いものは痛い。

 …ここまで、戦えている理由は、女神様の視界が半分消えて、距離感が狂っている…というだけでは決して無い。

 私が、半ばこの女神様に侵食されてしまっているから。彼女が無限の彼方で積み上げてきた技術と経験が、その一端だけとはいえ、この身体に刻まれてしまっているんだ。

 何故、それで自我を保てているのかは、よくわからないけど、ティベリウスの…そして、プエルさんや他の記憶たちが、私に示してくれたからなのかな。憎悪と悲しみが、全てではないってことを。

 そうだ…たとえ、もういなくなってしまったとしても。

 みんな…ずっと一緒だ!

 「…最後の手段を!

 いと高き主、バアルに代わって!」

 咆哮。まるで、世界の全てに代わって怒りの声を上げているような、空気の振動。

 「追放し、撃退する…王権の象徴!

 今こそ、忘恩の徒に裁きを!

 接続…アィヤマル・ヤガリシュ!」

 …箱庭の中で、無理やり世界を焼く雷霆を使おう、ということ、みたいだ。

 構える。完全発動されたら、間違いなく私は消し飛ぶ。

 その前に、決着を!

 …。

 …………。

 ……………………?

 あれ?

 「接続が…拒否…?あは…あはは…」

 その場で、少女は膝から崩れ落ちた。…ここで、限界か。

 「つイに…兄サマからモ…見捨テらレて、しまッた…ミたイ…ね…」

 力なく、少女は首を差し出している。もう、殺意は感じられない。剣を構えて、近づく。

 死に際は、せめて、華々しく。

 そんな声が身体を突き動かす。

 …それは、正しいの?私が…この女神様に、してあげられることは?

 剣を捨てる。ありがとう、ティベリウス。

 …うん、やってみよう。

 「あなたの!妹さんを!」

 ここは、かつての神域の再現。なら、気づいてくれるかもしれない。

 「迎えに来てあげて、バアルさん!」

 刹那、偽りの世界に雷鳴が落ちた。空の彼方、いや、別の世界へと続く梯子のような、光の柱が現れる。

 「…兄様………?」

 「これが最良のタイミングだったんだ。待たせてすまないね」

 柱の中に、人のカタチが見える。

 私は、アナト様の腕を持って引っ張り上げて、肩を貸す。一歩ずつ、柱へと近づく。

 「御崎暁音…謝ることはしないわ…。

 今でも、私は…正しいと…思ってるから…」

 「…はい」

 「…ただ、あなたは、勝った…この、私に。

 せいぜい、誇りなさい…小さなヒト…」

 …よく喋る女神様だ。表情を見ると、笑っている。

 「…はい」

 こちらも釣られて、笑みが浮かんできた。

 柱の前に立つ。少女の姿が、光の中で影へと変わり、形を失っていく。

 「君も、来ないかい?この先には、永遠の楽園がある。妹を連れてきてくれたお礼をしたいんだ」

 「遠慮しておきます」

 「やはりね。分かっていたよ。

 ただ、一つ、君に残念なお知らせを伝えなければならない」

 バアルさん…と思われる影は、一拍置いてから、私に告げる。

 「この箱庭は、私が去ると同時に崩壊する。

 そして、この箱庭の性質は、君の自我を砕き沈めるという目的ゆえに、限りなく冥界に近いものとなってしまっていた。

 ヨモツヘグイは知っているね?冥界で飲食をとると、二度と外には出られないという規則だ。

 ここは冥界そのものじゃないから、そこまで厳しいルールはない。ただ、現実に帰りたければ、君はここで得た大切なものを失わなければならない」

 ティベリウスの最後の言葉が蘇る。

 振り返らず、真っ直ぐ進め。

 「君はここで起きた全てを忘れる。君自身が巻き戻る、というわけではないが、この夢での思い出は失われる。そして、二度と思い出すことはできないだろう。

 それでも、君は現実に帰る事を望むのかい?」

 …目を閉じる。

 ユリウス・クラウディウス朝。

 世界の礎となった、彼らの喜びと悲しみ。

 そして、アナト様の怒り。

 …そうだ。記憶は失われても、この身体に、この心に刻まれているんだ。

 なら、何も問題はない。

 首を、縦に。

 「その答えも、そうだと思っていたよ。

 最後に、少し早いけど、お誕生日おめでとう。ついでに業腹だが、うん、メリー・クリスマス!

 では、お別れだ」

 柱が上へと去っていく。同時に、全てが崩壊し始めた。

 記憶から創られた虚構の世界が、虚無の海へと分解されていく。

 真っ直ぐに歩く。振り返ってはならない。異界帰りの鉄則だ。

 現実は、真っ黒な口を開けて待っている。さあ、たとえ全てを忘れるとしても。

 大切なものと、向き合うために。

 もう一度、自分自身を、この世界へと投げ入れよう。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 …お疲れ様。最後まで聞いてくれて、本当にありがとう。

 …飲み物のおかわりは?ウェルカム・ドリンクの反対、フェアウェル・ドリンクはいかが?

 え?『プエルさん、結局何者?』だって?

 今まで、めちゃくちゃ匂わせまくったのに、気づいていらっしゃらない?あ、冗談だよね、分かる、分かるよぉ!

 いや、あるいは!僕の本当の名前を、他ならぬ僕の口から聞きたいんだね?もしかしてファン?最初から気づいてた?ニクいねぇ、君!

 だったら、この子を頭の中に書き込ませて!リウィウス先生の『ローマ建国史』!その失われた後半部分!一巻だけでも君が持ち帰ってくれれば、歴史学者は感謝感激、一生遊べるだけのお金も入ってくる!どうだい、悪く無いだろう?

 …え?いらない?ていうか、現物ないと研究に使えないって?

 ……………。

 うわああああん!そんなのあんまりだぁ!

 ……………。

 ごほん。

 さて、君もそろそろ帰る時間だ。この夢の図書館から、現実の日々へ。

 ん、御崎暁音のその後?

 知らないよ。だって生きてる人間とか、あんまり興味ないし。ああ、昔はあったよ。もう、懲りたけど。

 じゃ、ここらへんで…あ、もしまたここに来ることがあったら、その時は和牛か大トロ持ってきてね!

 ばいばーい!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ