VILLA IOVIS/戻らない昨日、届かない声
「西暦、十字軍、産業革命、二度の世界大戦に、大災厄…エト・セトラ…。
何が一体どうなっているのだ、この世界は」
「とにかく、一杯ヒトが死んで、大変なことになった世界ですが、頑張って復興中、というのが今の状況です!」
プエルによる世界史講座…あまりにも突飛な展開が続くもので目眩がしたが、ギリギリ理解の範囲内だ。
「女神アナトの動機もおおよそ掴んだが、やはり解せんな。神々は永遠にして不滅の究極存在、人間が何を言おうと、それは変わらぬはず。
何故、人類の殲滅にそれほど固執する?」
「その事に関係するかは分かりませんが、一つ気になる点があります。我々にとっては都合が良いのですが…現在、女神アナトは瀕死の状態です」
「何?」
あり得ないことだ。信仰が廃れるのはよくある話だが、信仰の対象となる原理は滅びを知らない。
「僕も詳しくは分かりませんが…本来の彼女なら、アカネさんの肉体を奪う程度は造作もないことのはずです。なのに、わざわざ貴方を利用して仮想現実を構築して、心を折って精神を掌握しようとした」
「美の女神にしては精細を欠くな…では、どの程度弱っているのだ?」
「この図書館に存在する全情報をエネルギーに変換すれば、僕でも勝てる目が出るぐらいに」
「私が真っ向から戦ったら?」
「死にますね、一瞬で」
私はそもそも本職の戦士ではなく指揮官だ。最初から勝負になるとは思っていなかったが、なかなか現実は残酷らしい。
「しかし、そのように弱り果てては、世界を滅ぼすなど夢のまた夢であろう」
「…それを、夢ではなくする手段が一つあります」
プエルは白い板を物陰から引っ張り出し、角張った文字を記していく。
「楔形文字だな。なんと書いてある?」
「『アィヤマル・ヤガリシュ』…追放と撃退の名を冠する、大神バアルが有する二振りの雷霆です。
一度、現実において使用された記録が残っています。アクハト王子を殺した怪鳥ヤトパンに対する仇討ちに向かう王女プガトへ、バアルが一時的にこれらを貸与していたのです。
そして、女神アナトはバアル神と深く結びついた神格…故に、その使用権限を有している可能性があります。アカネさんの肉体を通じて現実に顕現し、この雷霆によって世界中の主要都市を壊滅に追い込んだ後、戦闘神としての力を振るって生存者を狩り続ければ、人類を滅ぼすのは決して困難ではありません」
「なれば、その雷霆を無効化すべきか?」
「いえ。無効化する方法はあるにはありますが…悪魔と手を結ぶようなものなので…。
むしろ、アナトを現実に顕現させるのを防ぐ方向性の方が現実的かつ建設的です。そのための手段は二つ。一つは、この世界から切り離された箱庭を利用して、御崎暁音もろとも女神アナトを封ずる方法。アカネさんは既に精神の一部をアナトに侵食されてしまっており、切り離しはほぼ不可能といっていい。この場合、現実のアカネさんは頭部外傷で死亡することになります」
「それは冗談で言っているのであろうな。相変わらず下手くそなことよ。…本気であれば見損なうぞ」
「ええ、もちろん。ただし、彼女が貴方の記憶と自分の過去を乗り越えられない場合は、この方法を取らせていただきます。既にその仕掛けも完成しているので、僕の一存でいつでも発動できます」
「ハァ、全く、お前というヤツは…で、もう一つの方法とは?」
プエルの声色に真剣味が増す。多くのものを背負った人間にしか出せない凄味が、コイツにもある。
「一応、聞いておきますが…死ぬ準備はできていますよね?」
「無論」
「迷いがない…貴方らしい答えだ。…僕は、可能であれば少しでも長く歴史を読んでいたいですが…そんなに覚悟を決めた人間が目の前にいては、生命を張らざるを得ませんね」
言葉の美しさとは裏腹に、少年はなんとも悪い笑みを浮かべている。…何か、策があるようだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜
まただ。記憶が見える。
場所に見覚え…ここは、アウグストゥスの家だろうか。
ティベリウスが誰かと話している。その姿は、私がよく知っている…厳格な壮年男性のそれだ。
「…東方への転属とは、一体どういうおつもりですか、伯父上」
「元老院で話しただろう。此度の戦勝、見事だった。アルミニウス…ゲルマニアのケルスキ族の長。我が国で多くを学んでおきながら造反し、トイトブルクの森で第17、18、19軍団ならびに補助軍団…およそ2万の兵を全滅に追い込んだ我らの仇敵に、よくぞ打ち勝った。
ようやく、あの戦いの死者を弔えた。それに、奪われた軍団旗も二つは帰ってきた。アルミニウスを殺せなかったのは惜しいが…これでもう、十分だろう」
相手は、若い男性。赤いマントがよく似合う美男子…この顔…もしかして…!
「いいえ、まだです!次こそは、アルミニウスを殺し、奴らに思い知らせてやるのです!あの暗い森で死んでいった友人達の無念を!」
「…分かっていないな。その暗い森を勝ち取ったところで、一体何になる?確かに、帝国北東部の防衛の強化は急務だ。だが、何も我らが市民、我らが属州民に犠牲を強いる必要はない。ゲルマニア諸部族と同盟関係を結び、連中を利用しつつ睨みを効かせる。それが私の計画だ」
「ですが、それでは…今まで死んでいった兵士達に顔向けができません!次は…次こそは、より大きな勝利を!」
青年は泣き出しそうな声で憤りをぶつける。
「…若いな。だが、これ以上無益な戦いを続け、金と人を無駄遣いし続ければ、待っているのは破滅だけだ。
今は、ゲルマニア戦線に区切りをつける、最高の機会なのだよ。敗走であれば、市民はこれを許さなかったろうが、お前は勝将として凱旋した。この戦勝を祝う空気の中で、ゲルマニアへの拡張政策は放棄される。
これは決定事項だ。文句はあるか?」
「…いえ」
青年の表情は憤懣遣る方無い、という感じだ。勝ったのに、何故引き下がらなければならないのか。私を信じて、生命をかけて戦ってくれた兵士たち…その墓前に備えてやる花が、撤退でいいはずが無いではないか。
「…東方戦線は、ゲルマニアを上回る重要性を有している。相手は我が国と並ぶ大国、パルティア。まずは、軍事的な要衝であるアルメニア王国に対する工作をやってもらう。
ここで堅実な仕事をすれば、お前はますます市民の尊敬するところとなる。確かに、ゲルマニア征服は叶わなかったが、東方の安定を実現できれば、お前の名が泣くことはない…分かるだろう、ゲルマニクス」
「…承知、いたしました」
…ゲルマニクス。ティベリウスの甥っ子、亡くなったネロさんの長男。
まだ納得しきれていない、といった様子のゲルマニクス青年が去った後、ティベリウスは目頭を抑えて溜息をつく。
「やれやれ。次期皇帝なのだ、もっと思慮深くあってほしいものなんだがな」
「あまりゲルマニクス兄さんに意地悪しないであげてくださいね、父上」
若いティベリウスによく似た、明るいようで少し暗い雰囲気を纏った青年が入ってくる。それに、別の誰かの面影も混じっている。
(ウィプサニアさん…!?)
「…ドゥルースス、俺は別にヤツをいじめようとしているわけではないぞ」
「分かっています。ただ、父上の想いは伝わりづらい。そうだ…父上も一度やってみたらどうです?どーん、と背中を叩くアレ。絶対打ち解けられますよ」
「それを俺がやったら純粋な恐怖だろう」
彼が…ティベリウスの子供?確かに、よく似ている。そして、さっきまで張り詰めていた空気が嘘のように穏やかだ。
「ゲルマニクスのこと、お前はどう思う?」
「素晴らしい方です。正義感が強く、市民に慕われ、兵に愛されている。
ただ…少々先走りしすぎる部分が不安ですね。ローマにいらっしゃる間は、私が歯止めをかけられますが…」
「お前にはお前の仕事がある。義兄弟でシリア行、という訳にはいかん。
シリア属州総督としてピソを送り込む。良い目付け役となってくれるはずだ」
「ピソ殿ですか…まあ、妥当なところですね。僕からもゲルマニクス兄さんには色々言い含めておきます」
「助かる。全く、良い息子を持ったものだ。いつもありがとうな、ドゥルースス」
「そう言っていただけると励みになります。ゲルマニクス兄さんと二人、どんどん成長していきますから、どうぞお楽しみに」
ティベリウスが浮かべる微笑みは、かつてあった光がまだ、彼の中で消えていない事を示していた。ドゥルーススさんも、未来への希望を体現するかのように、穏やかに笑みを返していた。
『状況設定:西暦19年、アンティオキア』
雑踏が聞こえる。
目を開くと、そこはフォロ・ロマーノではなかった。
「…ここが、アンティオキア」
暑い。強烈な陽光が目を焼く。だけど、乾燥した気候のおかげか、そこまで不快感がない。
日陰で少し休んでから、市場を歩いてみることにした。ローマに負けない、いやそれ以上の活気を感じる。穀物やオリーブといった食料品に加えて、名前も知らない色んな種類の香辛料、さらには絹やすっごく高そうな工芸品まで、ありとあらゆるものが揃っている。
商品が様々なら、人も様々。聞こえてくる言葉のほとんどは理解できない。…多分、ティベリウスの記憶の影響で、私はラテン語とギリシア語が認識できるようになっているけど、それでも知らない言葉がたくさん聞こえる。ペルシア、インド、中央アジア…色んな国の人がここに集っている。
東西の結節点、シルクロードの西端。
多様性の象徴のような、とても華やかな街だ。
「これ…仏像!?」
ふと立ち止まった商店で、驚きのものが見つかった。ローマの神殿で見た彫刻にそっくりだけど、でもこのモチーフは多分、お釈迦様だ。私に気づいた老店主が目を見開いてこちらを見てくる。
「おっ、嬢ちゃん分かるかい?俺はバクトリアの出身でね。ご先祖様はマケドニア生まれで、かのアレクサンドロス大王に付き従ってインドまで行ったんだ。で、現地の女の人と結婚して、何代か経ったのが俺ってわけ。
それで、嬢ちゃんはどこ出身?見た感じ、西域のオアシス都市辺りかな…いや、ひょっとしてもっと向こう、単于の国…あるいは漢の国かい?」
日本です、と答えようと思ったが、ちょっと待った。この夢は西暦19年が舞台、つまり今頃日本は弥生時代。よくよく考えれば、ティベリウス達が私の国を知らないのも当然のことだわ。
「まぁ、そんなとこです」
「向こうにも仏様の教えが分かる子がいるんだねぇ。この像、良いだろう?インドの仏教と、ギリシアの彫刻文化の融合!」
そう言えば、教科書で読んだような…。ヘレニズム文化、アレクサンドロスの東方遠征がもたらした、東西の融和。
世界は広く、そして狭い。きっかけは戦争だったとしても…色々な人が混ざり合い、共に美しいものを作り上げていく。それはとても素敵なことに思われた。
…まあ、私は仏教徒じゃないんだけどね。どっちかって言うとキリスト教徒…?いや、個人的には無宗教、というか神社とお寺の違いもなんとなくしか分からんし。
「この街、面白いところでさ。昨日なんか、駆け落ち中の若い子達を見たよ。男はギリシア人で、女の方はユダヤ教徒っぽかったな」
また恋愛小説が書けそうな話題が出てきた。…この時代の一神教って、多分多神教の神話体系とすごく仲が悪いんじゃなかろうか。そういう事情がその二人にもあったのかもしれない。どうか、お幸せに!
「アレクサンドリアのフィロン殿みたいに話の分かる人もいるけど、それでも宗教の違いってやつは難しいねぇ。皇帝陛下のお治めになるこの国じゃ、ローマの市民権を持ってる奴らが偉いって事になってる。でも、属州民も税金さえ払えば、何を信じてようが安全を保障される。だから、信じる神が違うことで殺し合いが起きることはあまり無い。でも、互いに互いを避けて、自分の殻に閉じこもって住んでる奴らが結構いる。
…この仏像みたいにさ、互いの良いところを取り入れ合えたら、もっと楽しく生きられると思うんだがなぁ。仏様も、きっとそれを望んでおられる、と俺は信じてる。まぁ、この老いぼれにできることは、何も無いけど、ハッハッハ!」
…宗教の話は、実を言うとあまり好きではない。トラウマが、あるから。現在進行形の。
ただ…この老いたインド商人の言う事は…理想論に過ぎないとしても、正しいと思う。それに、ほとんどの人は争いなんか望んじゃいないはずだ。
あと…フィロンって誰…?私、カタカナ覚えるの苦手なんだよね…。
「ああ、いけない、つい長話をしてしまった」
「いえ、楽しかったですし、別に」
「そうかい。ところで、何か探し物があるのかい、嬢ちゃん?」
…いけない。こっちも目的を忘れかけていた。
アウグストゥスが言っていた、二人目の協力者。名前はゲルマニクス。
「ゲルマニクス様にお会いしたいんですけど、どこに行けばいいですか?」
「ゲルマニクス様…うむ。街の外れに古い要塞があるだろう。アレクサンドロス大王の腹心の一人、セレウコスが建てたものだ。そこに行けば会えるかもしれないが…知り合いかい?」
「そんな感じです。ありがとう、おじいちゃん!」
商人と別れ、要塞の方へ向かう。本当に、面白い街だ。今も…別の形で残っているだろうか?
…いや、確か地中海東岸は…今、「聖都封印会議」の管轄下で…つまり、そういうことだ。
…やっぱり、人間は愚かだ。素晴らしい過去の記憶も、解決すべき問題も、全て爆弾で彼岸に吹っ飛ばしてしまった。そうなってはもう、取り返せない。
「ゲルマニクス様にお会いしたい?」
「何を言っとるのだ、このちんちくりんは?」
(誰がちんちくりんじゃコラ)
城門に辿り着いたが、案の定、門番に阻まれてしまった。三十年前のアウグストゥスに言われて…なんて信じてくれる訳が無い。でも、きっと会わないと夢は進まない。
「ああ、その娘ならば通していい。私の客人だ、丁重に頼む」
「はっ、ゲルマニクス様!申し訳ありません!」
「いいんだ。話を通すのを忘れていた私の落ち度だからね」
まるで、童話の王子様が形を得たかのような立ち居振る舞い。彼の登場で、兵士たちの様子が一気に変わった。尊敬を通り越して、崇拝の域に達している。
「では、行こうか…暁音さん」
「は、はいっ!」
うーん、このイケメン。笑顔が最高だ。爽やかが過ぎる!いかん、駄目だ、ダメダメ、過去の人間を好きになるとか…!
「あなた…その子は?」
「プエルの紹介でね。パルティアよりもずっと東の国から来られたそうだ」
…ですよねー。こんなカッコいい人には、とっくに運命の人が見つかりますよねー。
「へぇ、あの子、友達とかいたんだ…意外。
はじめまして、お客様。アグリッピーナです」
「御崎暁音です…って…え…ユリア…さん…?」
「…知ってるの、母のこと?」
名前からして、ユリアさんと、アグリッパさんの娘で…亡くなったガイウス君とルキウス君の妹さんだろう。もっとも、性格は両親とはあまり似ていないように見える。
「プエル曰く、昔、シチリアのメッシーナにいたらしくてね。そこからイタリアを訪れた時に、義母上と会ったことがあるとかないとか」
プエルさん、フォローありがとう!…改めて、何者なのか気になる。
「そう…なんだ…。ねえ、お客様…いえ、アカネさん。教えて。あなたから見て、母はどんな人だった?」
…ああ、そうか。この時代に、ユリアさんはもういないんだ。アグリッパさんも、アウグストゥスも…。
「優しくて、明るい人…に見えました。笑顔が、綺麗で」
「…街じゃ、母さんに対して、あること無いこと、悪い噂ばっかり…。
でも、良いところもあったってこと、知ってくれてる人がいて…嬉しいよ。ありがとう」
…なんと、言葉を返せばいいのか、私には分からない。やっぱり、私はまだまだガキだ…。
「そういえば、あなた…今日はピソの奴が静かだね。何かあったの?」
「…客人の手前、無様な喧嘩を見せまいと、気を遣ってくれているのかもしれないな」
どうやら、現実の王子様は、物語みたいに無条件で誰からも好かれる、という訳じゃないらしい。
「あのクズにそんな良心無いと思うけど。でも、ま、いっか。
それよりも、困ったな…お客様が来るなんて聞いてなかったし」
「プエル曰く、『彼女には、何一つ飾るところのない、普段の生活を見せてあげてくれ』とのことだ」
「やっぱり変わってるわ、あの子。リウィウス先生の教育の賜物ね。
普段の暮らし、か。じゃ…私たちの宝物に会わせようかな」
ゲルマニクス・アグリッピーナ夫妻に連れられて、私は要塞の中庭に通された。
「…どいつも…こいつも…!僕のことを、馬鹿にしやがって…!」
憤りの声と共に、木剣の打ち込みが聞こえる。ミニチュアみたいな鎧を身にまとった小さな男の子が、柱に対して必死に斬撃をぶつけている。
「カリグラ…?違う!僕は…ガイウスだ!」
カリグラ…?何か、すごく悪い意味のある名前だった気が。あと、ガイウスって名前を聞くのはこれで何度目だろうか。アウグストゥスの本名もガイウスらしいし、ユリアさんの長男もそうだし…もっと名前のバリエーションを増やせ、ローマ人!
「ガイウス、お客様。挨拶しなさい」
「あ、母上!…失礼しました。
はじめまして。ガイウス・ユリウス・カエサルと申します、お客様」
…すごい。July…7月の語源になった人の本名と寸分違わず同姓同名。でも、この世には苗字という概念が存在しない文化圏もあるみたいだし、それに比べればまだ理解できるかな…?
あと…カリグラって、確かインモラルの象徴みたいな感じじゃなかった?え、この子役みたいに可愛い子が?
「ガイウス、こっちにおいで」
「はっ、父上!」
ゲルマニクスさんが息子を手招きする。少年はパッと顔を輝かせて父親の方に向かう。
「カリグラという渾名、嫌いか?」
「…子供扱いされているみたいで…我慢、ならんのです…」
「小さな軍靴…この渾名は、私の大切な部下たちが、お前の事を可愛く思ってつけた名だ。決して、馬鹿にするためにつけた名前じゃない。
…お前は覚えてないかもしれないが、伯父上が就任されて間もない頃、前線で反乱があってね。私も殺されかけた。でも…お前を基地から逃がそうとしたら、暴徒がみんな、武器を捨てて泣き始めたんだ。俺達から、あの可愛い子を守る権利を奪わないでくれ、ってね。
それほどまでに、お前はみんなに愛されているんだ。その装備も、彼らが手造りしたものだろう?そして、それだけじゃない。父さんも、母さんも、お前の兄さんたちも…伯父上だって、お前のことが大好きだ。だから、そんなに焦らなくて良い。ゆっくり、大人になれるよう頑張れば良い」
そのまま、彼はギュッと幼い我が子を抱きしめた。まるで、失われた未来を惜しむかのように。そして、今度は少年の剣術稽古に付き合い始めた。…やや荒っぽさが目立つが、筋は悪くないように見える。
「そういえば、カリグラ君には、お兄さん達がいるんですか?」
「うん。あと、妹も一人。あっちで軍団兵達を遊び倒してるわ。全く…これじゃ、ガイウスとどっちが年上なのか、分からなくなるわね」
遠くで、三匹の猛獣に絡まれる哀れな兵士が見える。きっと、力尽きるまで振り回されるのだろう。
「…そういえば、こんな穏やかな時間は久しぶりだな…」
アグリッピーナさんが感慨深げに呟く。…何か、あったんだろうか。
「プエル君から聞いてるかもしれないけど。私たち、今、属州総督のピソの一家と揉めてるの」
またカタカナネームが増えた。でも、ここに来る前に聞いたティベリウスの話に出てきた名前だった気がする。
「多分、私たちの監視役として…あの男が寄越したんだ」
「あの男って…ティベリウスのことですか?」
言い方に、棘を感じた。行き場のない怒りが、滲み出ている。
「…あの男を呼び捨てするんだ。なかなか勇気があるね、きっと気に入られるよ。
アイツはね、母さんを捨ててロードスに逃げて…兄さん達が死んで、ポストゥムスがおかしくなってから帰ってきたんだ。本当に、面の皮の厚さだけは尊敬できるね。
…お祖父様が愛したリウィア様の息子って言ったって、アイツは連れ子なんだ。私たちの家族じゃない。なのに…デカい顔して皇帝の座に居座って…」
それは違う…あの人は…。でも、見方を変えれば、きっとそうだ。
「…アイツさえいなければ…母さんも…ポストゥムスも…死なずに済んだかもしれないのに。
…ごめん、アカネさんはお客様なのに、こんな話聞かせちゃって」
…きっと、みんな苦しんでいるんだ。天命と社会の欠陥が廻す、喪失の車輪の中で。
「アグリッピーナさん…いえ、アグリちゃん、って呼ばせてください!」
思わず、そう叫んでいた。だって、なんかこの人、同年代感がすごい!実年齢は違うけど…!
「あ…アグリ…ちゃん…!?」
…たとえ、一夜の、いや、コンマ1秒の幻に過ぎずとも。
「私は…貴女と…友達になりたい!」
この胸に渦巻く痛みは、きっと嘘ではないから。
「…貴女………最ッ高に面白いね!
流石、プエル君の友達!類は友を呼ぶんだね、狂いっぷりがそっくりだよ!」
残念ながら私はプエル君が誰なのかさっぱり分からないので、褒められているのか貶されているのかも全く分からないけど、少なくとも雰囲気は悪くない。
たくさん話を聞かせてもらった。王政から共和政、そして帝政に至るまでの歴史、そしてゲルマニクスさんの英雄譚。若干美化されているような気がするけど、数多の困難を、信頼する兵士たちや家族とともに乗り越えてきた、その雄姿がありありと瞼の裏に浮かんでくる。
私も、自分の話をすることにした。…夢の中だし、未来の話も少し混ぜた。
「面白い冗談だね…だけど、本当かもって思わされたよ。
そっか…お父さんが。それに、お母さんも…。
…私のゲルマニクスなら、そんな不正義は決して許さない。そして、ムカつくけど、ティベリウスだって許さない。あの男のことは大嫌いだけど、クソ真面目だし、人を馬鹿にするだけの実力はあるんだ。全く、腹だたしいことこの上ないけどね。
私たちが願うのは、正しい人間が正しいまま生きられる国。悪人が正しく裁かれ、善を貫く人たちが不利益を被るのを放っておかない社会。
…夢物語かな。でも、私とゲルマニクスなら、できる気がするんだ。ドゥルースス君もいるしね」
…この人は、本当は正義感の強い人だ。だから、ゲルマニクスさんと惹かれ合うんだろう。同じ魂の、持ち主同士だから。
「ドゥルースス君…って、ティベリウスとウィプサニアさんのお子さん、でしたっけ」
「そうよ。私から見た続柄は甥だけど、歳は同じ。ティベリウスがいなくなって、一人になっちゃったあの子と、私たちはよく一緒に遊んだり、勉強したりしたんだ。
あの子、すごいんだよね。一目見ただけで人の本質を見抜いちゃう。だから、誰もあの子の前じゃ嘘をつけないんだ」
ティベリウスは家族じゃないけど、ドゥルーススさんは家族、という判定になるらしい。まあ、幼馴染だし、当然といえば当然か。
しかし…ティベリウス、むっちゃ嫌われてるなぁ。
夕食も終わって、子供たちを寝かしつけるのを手伝ったりして、それから私はゲルマニクスさんと話をすることにした。
「まず、プエルに感謝しなければならないな」
夜遅くまで見張り番を続ける兵士を慰労したあと、私たちは砦の城壁に登り、街を見渡す。ここは古代だ。灯の燃料は貴重…みんな、早めに眠りへと向かっている。
「…あの、誰よりも哀れな境遇に生まれた子が、ここまで人の心を解するようになったか…いかん、涙が出てきそうだ」
「プエルって、結局…どなたなんですか?」
「…私の家族だよ。変わり者でね。でも、だからこそ、あの子はこの先…最後まで生き残るのだろうな」
青年は空を仰ぐ。暗闇に紛れて、表情がよく見えない。
「…今日一日…過ごしていて思ったんだ…。
こんな…夢のような一日が…現実にあったなら…何かが、変わったんじゃないか…って」
…その声は、必死に涙を堪えている。
知らな、ければ。一体、何が、あったのか。
「ピソ殿とは…戦略上の不一致やら、軍権の重複やら、不運な行き違いが重なってね。私と彼でなんとか収められたら良かったんだが…気がついたら、家族も巻き込んで…罵り合いに、いがみあいが始まってしまったんだ。
それでも…止めることは出来たはずだ。相手は、伯父上の意向を受けて、元老院から選ばれた正統な総督だ。どちらかと言うと、臨時の特使のような立場の私のほうが、彼の指揮権を尊重すべきだったのだろう。
だが…そんな簡単なことにも気付けないくらいに、熱くなってしまっていた。ドゥルーススが側にいれば、きっと止めてくれたのだろうが…一人でそれを出来なかったのは…私の落ち度だ」
いつの間にか、ゲルマニクスは涙をこぼし始めていた。
「…そんな日々が続いているうちに…体調を崩してしまってね。…負担が多いのが良くなかったのかもな、あっという間に起き上がれなくなってしまった。
…この地では、熱病がたまに流行る。君の時代では、マラリアと呼ばれるものだ。私は…それに罹って…そのまま…」
幻視する。父親と同じように、多くの人々から愛された若い英雄の最期。だが、彼が遺したのは、憎悪と不信の嵐だった。
「兄さん…嘘だろ…?」
突然の訃報に接して、ドゥルーススは即座に仕事を切り上げてシリア属州へと急行した。
「何でだよ…何で…兄さんみたいな正義の人が…こんな中途半端な所で死ななくちゃならない…」
失意の内にある遺族と共に遺体を回収した彼は、返す刀でローマに舞い戻った。
(一人、死なせてしまった。すまない、ネロ)
国葬には、彼の生前を知る多くの市民が、涙と共に参列した。ドゥルーススも、棺を前に静かに涙を零した。
ティベリウスは、涙こそ流さなかったが、弟の忘れ形見をむざむざと死なせたことを悔い、そして、兄と慕った幼馴染の喪失に項垂れる息子に、かつての自分を重ねていた。
…そして、国葬が終わると同時に、帝都は騒乱に飲み込まれた。
前シリア属州総督ピソが、英雄ゲルマニクスを暗殺したのではないか?その疑惑は…市民の間で確信に変わっていった。
…その疑惑の主唱者は、ゲルマニクスの妻だったアグリッピーナ。彼女の娘であり、後の皇帝ネロの母である小アグリッピーナと区別するため、歴史学者からは大アグリッピーナと呼ばれる彼女は、何かに取り憑かれてしまったかのように、ピソの暗殺容疑を執拗に追求した。
「父上。ピソ殿は、嘘はついていない。兄上の死因はほぼ間違いなく流行り病。ですが…」
「そうだな。…これから裁判を開く。だが、真実が分かったところで、市民は納得はすまい。
このままでは、ピソ本人だけでなく、彼の家族にまで害が及ぶ。…それだけは避けるぞ」
「分かっています。…兄上が穏やかに、冥界でお休みになるためにも」
市民の怒声が場外で鳴り響く中、元老院議場で裁判は進む。
ティベリウスは、あくまで冷静に真実を追求することを陪審員と聴衆たちに訴えた。だが…怒りと憎しみによって思い込みは固着し、狂気は加速し続ける。
…ドゥルーススは、ある晩、密かにピソ邸を訪れた。
「…父上は、あなたに兄上のお目付け役を果たすようにと、期待をかけてシリア属州総督という大任をお任せになられたのだ。分かるか?」
下を向き、黙りこくる名門貴族の成れの果てに青年は畳み掛ける。
「だが、家族ぐるみで醜く罵れ、などとは誰も命じていない。お前はラテン語すら分からないのか?歴史に名を刻んだ家系の出身のくせに?
堕ちたものだな、元老院も。金とつまらない名誉のことしか考えていないか、そうでなければ、あなたのような無能しかいないというのだから」
ドゥルーススは懐から短剣を取りだす。曖昧な笑みを浮かべながら、冷徹に話し続ける。
「あと数日もすれば、お前はテヴェレ川に惨殺死体となって浮かんでいるだろう。家族共々ね」
「…!?お願いいたします、ドゥルースス様、家族だけは…!」
ドゥルーススは乾いた笑い声を上げる。欠片も感情の籠もっていない瞳でピソを見下ろしながら、彼は宣告を突きつける。
「あなたの家族が巻き込まれるのは、僕も父上も望んでいない。僕としては、英雄ゲルマニクスの最期に汚点を遺すことはしたくない、という一心でね。
…頭がカラでも、流石にこれぐらいは分かるだろう。市民を言葉で納得させるのは、もはや不可能。残念ながら、それができるだけの権威を僕も父上も持っていない。というわけで、生贄が必要だ。一人でいい。それで少なくとも、大衆の怒りは鎮静化させられる」
短剣の柄を引き、鞘から刀身を露わにする。鈍く輝く鉄に、凍りついたように冷たい青年の眼光が反射する。
「グナエウス・カルプルニウス・ピソ…最期に選ばせてやる。結末が変わらなくとも、過程は重要になるからね。
さて、二択だ。自らの手でケジメをつけるか。それとも…僕の手で死ぬか。好きな方を選ぶと良い」
その後、ドゥルーススはティベリウスに報告する。
ピソは家名と、遺される家族を想い、自ら全ての責任を負って自刃なされた。実に立派な最期だった、と。
こうして、ゲルマニクス事件は収束へと向かった。だが、アグリッピーナの憎悪を癒やすには、ピソ一人の犠牲では足りなかった。彼女の矛先は、皇帝ティベリウスへと向かう。ゲルマニクスを疎み、息子ドゥルーススを次期皇帝に据えようという企みのもと、ゲルマニクスの暗殺をピソに命じたのではないか、と。
(…元々、思い込みの強い、気性の激しい女性だったが…)
ドゥルーススは苦しみを顔に滲ませながら、父親を庇うようにして立つ。罵詈雑言を並べ立てているアグリッピーナの瞳を見通して、気づく。
…曇っている。これでは…僕が何を言ったとしても、もう届くまい。
青年はまだ知らない。いつか…この憎悪の波が、さらなる悲劇の呼び水となるということを。
「…私が残したかったのは…憎しみや、怒りじゃなかった…!みんな、私のことを大切にしてくれて…伯父上も、ドゥルーススも、アグリッピーナも、子供たちも、戦友たちも…たくさんのことを教えてくれたんだ、人として、本当に大切な事を…。
こんなはずじゃなかったんだ…こんな…はずじゃ…!」
…青年が、膝から崩れ落ちて泣いている。
多くの人から愛され、その死後も、市民たちによって語り継がれた伝説、ゲルマニクス。
その実像は、きっと…白馬の王子様でも、完全無欠のスーパーヒーローでもなくて。迷い、間違い、それでも進みたいと願う、一人の人間だったんだろう。
「伯父上には…迷惑をかけっぱなしだった…最後まで出来の悪い甥っ子で…申し訳ございません…」
「…誰だって、間違えます。私なんて、後悔の連続みたいな人生で。ティベリウスも、そうだと思います。…きっと、それ自体は…悪くないんです」
私は、ゲルマニクスさんに手を差し出す。…あまりに生意気で、そして欠片も意味のないことだと分かっているけど、それでも。
「…アグリちゃんが、下で待ってます」
「………!」
「夢でも…幻でも。たとえ、手遅れだとしても。後悔に気づいたなら…それには意味があると思うんです」
…泣き笑い。ゲルマニクスは、私の手を取って立ち上がる。
「…明日のことなんて忘れましょう。今夜は、気が済むまで、飽きが来るまで話しましょう」
「ああ、そうだな。
…御崎暁音さん。君は強くて、優しい魂の持ち主だな。きっと、多くのものを受け取ってきたのだろう。
…私たちは、君の二千年前に逝った死者。結末は、もう変えようがない。だが、君はまだ生きている。
過去は変わらない。どんなに惨い犠牲であろうと、どんなに悲しい喪失だろうと、あったことは変えられない。事実として、そのまま受け止めなければならない。
だが、未来は確定していない。何が行く手を阻むとしても、それはまだ結末ではない。
だから、君は、真っ直ぐに進め。胸に手を当てて、自分が何者なのか、その灯火を見失わず、前へ、ただひたすらに」
…そして、ゲルマニクスと、アグリちゃん、そして私。
三人の、あり得ざる時間が流れる。昔話に花を咲かせ、日々の愚痴をぶつけ合い、夢が叶う刻に思いを馳せながら。
「…ねぇ、アカネ」
…朝が近い。頭がピリつく。そろそろ、お別れのようだ。
「…また一緒に話そうね」
友の言葉。ああ、願いが叶うのならば…もう一度。
「…できたらね」
「ふふ…嘘が…下手な…子。
ありがとう…ずっと遠くの、新しい友達…」
意識が落ちていく。もう何処にもない、夢のアンティオキアは朝日と共に、光となって消えていった。
〜〜〜〜〜〜〜〜
…政治というのは、難しい技術が求められるものだ。
……………………。
小さな頃から、人の眼を見るだけで、性格も感情も読み取れる才能があった。
だが、どうやら…それは政治においてはあまり役に立つモノではないようだ。
例えば、相手が嘘つきだと分かったとして、どう対処するかは状況により異なる。大した嘘でなければ、釘を刺せば十分。不正をなしているのであれば、証拠を集めて裁判を行い、然るべき罰則を与えるよう誘導する。ならば、国家に対する陰謀を企む、そんな嘘つきに対しては?
…答えは、色々あるだろう。
……………………。
セイヤヌスという男がいた。父上の旧友で、親衛隊の長官を勤めていた。
有能な軍人で、僕も多くを教わった。その力量は確かなものだ。このローマでも、五本の指に入ると断言できる。
だが…最初は澄んでいたその目は、年月を重ねる度
に、濁り、汚れていった。
汚い権勢欲が、この男を支配してしまっている。長年、父上の近くで働く中で、権力の深淵に心を奪われてしまったのだろうか。
…理由はどうでもいい。
造反の兆しがある。ならば、消えてもらわなければならない。
「父上、お疲れ様です。どうか、今日はもうお休みください」
瞳に疲労の色が強く滲み出ている。アグリッピーナ義姉さんに会うたびに、お前さえいなければ、だの、お前が死んだら息子を皇帝にしてやるのよ、だのと罵詈雑言を浴び、その母親の影響を受けているであろうゲルマニクスの遺児たちに囲まれながら仕事をしているのだから、やむを得ないことだろう。
父上は、強い御方だ。誰よりも強い。…母上の、かつての最愛の女性の訃報に接しても、顔色一つ変えなかった。…もっとも、父上は皇帝に就任なさる直前に、二度と会わないと覚悟を決めていらしたから、準備はできていたのだろうけれど。
だけど、その強さは、単純に人間として分厚いという事を意味しているだけで、アキレウスのような不死性とはかけ離れている。
…無慈悲で冷酷に見えるが、父上には繊細な部分もある。悪意をぶつけられれば傷つく。巷の風評はそれほど気にしていない…というより最初から人気取りを全部放棄して財政再建を目指し、市民が大好きな剣闘士試合も輝かしい公共事業もほとんど何もやっていないのだから、今更気にしても遅いのだが…それでも、市民はおろか、国家の利益を何処よりも真剣に検討すべき元老院でさえその真意を理解できないことにも、孤独と失望を感じている。
「お前もだ、ドゥルースス。最近、調子を崩しているだろう。長年の偏食が祟ったのではないか?」
…まだ、他人を慮るだけの余裕はあるみたいだ。だけど、恐らく…近いうちにまた限界が来る。
「驚かないでくださいよ…僕、野菜を食べれるようになったのです!」
「おお、成長したな、我が息子よ!」
「…リウィッラが励ましてくれて。今でも苦くて不味いと思ってますが…ようやく慣れてきました」
リウィッラは、僕の従妹。初恋の幼馴染で、彼女と婚約できた時は、泣いて喜んだ。今は、子供も三人いて、すごく幸せだ。…彼女との幸福を守れるなら、僕はなんだってするだろう。
「…これは、逆に野菜が不味すぎて体調を崩したのではあるまいか?」
「ははは…面白い事を言いますね、父上は!
ですが、まずは自分の事を大事にしてください。今日は、もう休みましょう。
それと…一つ、提案なのですが」
「何だ、言ってみろ」
…この街の空気は、父上には合わない。蒼い海に面した、清々しい場所が老後には相応しいだろう。
「先の話にはなりますが、この街を離れ、別の場所で執務を行う、というのはいかがですか?」
「ローマを離れろ、と言うのか」
「いまや、ローマの版図は北は低地ゲルマニア、南はエジプト、西はヒスパニア、東はシリアへと拡大し、街道と海路で密接に結びついています。これらの道は、人とモノだけでなく、情報も運ぶ。
この情報網を用いれば、どこにいようと統治は可能です。もっとも、ロードスは流石にローマから遠すぎるので…そうだ、カプリ島はいかがでしょうか。あの島はアウグストゥス様が島全体を購入して、その権利は父上が相続されている。
噂に聞くところによると、海が綺麗で、それから青く輝く洞窟があるとかなんとか」
「…そうだな、その話、少し検討してみよう。
しかし、お前は気が利くな。ウィプサニアによく似て…本当に良い息子だ」
「…でしょうとも」
和やかに、父との対話は終わった。
…セイヤヌスに関しては、懸念を伝えるに留めた。まだ、証拠がない。だが、近い内に、僕の愛するものに牙を剥くだろう。
さあ、どこから仕掛けてくる?この瞳は決して見逃しはしない。いかなる兆候であれ、容赦なく見つけだして、それを使ってお前をこの世から消し去ってやる。
…自らの才能への絶対的自信か、あるいは別の何かがあったのか。
…僕は、気付けなかった。
ある日の朝。
身体が突然言う事を聞かなくなった。息ができない。
これは…もうダメか。
だが…まだだ。父上を、リウィッラを、そして…子供たちを!
「…リ…ウィッラ、お願、い、医者…を…」
愛する人の瞳を見て、気づいてしまった。
…なんで。
なんで、君が…あの男と同じ目をしている?
その理由に気づくだけの猶予は、もう僕には無かった。
仰向けに倒れて、そのまま死んだ。
37年の、短い人生だった。
『状況設定:不明、カプリ島』
…起動する。
…状況を確認。
「プエル君」
「はい、ドゥルースス様、お久しぶりです。
まず、役割は事前の説明通りに。
そして、女神の邪魔が入ると思いますが、…上手いこと、誘導できたと思うので、返り討ちにしてください」
「騙し討ちは得意中の得意でね、痛手の一つは与えてやるさ。
あと、兄上に…夢だとしても希望を見せてくれたこと、感謝する」
「…いえ。では、御崎暁音をお願いします」
「了解」
…声との会話を打ち切り、目を開く。
月も、星もない暗夜。漆黒の海が陸地を取り囲んでいる。
おそらく、カプリ島だろう。結局、僕はここを訪れることは出来なかった。折角なら夜ではなく昼の設定にしてほしかったが…と考えてから思い至る。
星が…見えない?
…そうか。
…最期には、星空の美しさすら分からなくなってしまわれたのか。
ここはただの夢ではない。父上の精神、その最奥だ。
「あれ…ここは…?」
ぼんやりと光る坂道の真ん中に、少女が一人倒れている。服装は、二千年後の学生の制服…セーラー服という代物に戻っている。元は、水兵の服だったとか。
背は、この時代のローマ人女性の平均と比べるとかなり高い。血統の差というよりは、栄養状態の違いか。僕の背と比べても、ほとんど変わらない。
体格は痩せ型だ。病的というほどではなく、健康的な段階にいると言えるだろう。ただ、もう少し筋肉をつけるべきでは、とも思う。
顔立ちは…よく分からない。まあ、あまり重要な情報ではないか。
立ち上がった少女に声をかける。あまり怯えさせないように、なるべく穏やかな声で。
「御崎暁音さん、ですね。もう僕が誰かは知ってるかな。でも、改めて自己紹介を。
ドゥルースス・ユリウス・カエサルです。どうぞ、よろしく」
「はい。ドゥルーススさん…あの、ティベリウスとウィプサニアさんに、色々お世話になりました」
「そうでしたか。両親も君に会えて嬉しかったでしょう。
さて、先に進みましょうか、暁音さん」
坂道を登る。…確信する。この先に、父上がいる。
「あの…この先には、何があるんですか?」
「…『ウィラ・ヨウィス』、ユピテルの別荘、を意味する…父上が晩年を過ごされたカプリ島の邸宅です」
一歩、上へと進むたびに頭に激痛が走る。隣の少女も、同じ状態のようだ。
「また…記憶…!?」
…これは、僕も知らない記憶だ。この夢に配置された時に、プエル君から知識として「その後」の情報は与えられているが、実体験として理解した訳ではない。
…理解、しなければ。それに…この記憶は、この少女が一人で相対するには、あまりに過酷過ぎる。
だから、僕が協力者、というわけか。プエル君…成長したな。
…僕は、皇帝ティベリウスの息子。そして、その苦しみを最も理解した、理解し得た人間だ。
だから、向き合わなければ。
少女に手を伸ばす。指と指で、しっかりと繋がる。
「…覚悟はいいかい」
「…怖いけど、うん」
先へ進む。最期の年月、崩壊の音が流れていく。
〜〜〜〜〜〜〜〜
歴史学において、ティベリウスの長子は小ドゥルーススと呼ばれる。叔父、ネロ・クラウディウス・ドゥルースス、通称大ドゥルーススと区別するためだ。
西暦23年、小ドゥルーススの突然の死。当初は病死と判断された。ゲルマニクス死後の執務の穴埋めもある程度は彼が担っていただろうことから、過労によるものだろう、と人々はみなしたのかもしれない。
ティベリウスは、ドゥルーススの死の報せを受けながらも、一切の動揺を周囲に見せず、毅然として職務に邁進していった。
だが…その喪失は、全てを手遅れにしてしまった。
内向的な嫌われ者のティベリウスに代わり、小ドゥルーススはユリウス氏族ならびにクラウディウス氏族における潤滑油としての役割を担っていたと考えられる。
その彼が、いなくなったのだ。
大アグリッピーナの暴走。属州総督の地位を得て私腹を肥やすため、下らないおべっかに、中身のないへつらいの言葉を延々と並べ立てる元老院。そして、戦場で血を流したこともないくせに、剣闘士の殺し合いを見られないことに文句を零す市民たち。
全てに嫌気が差したティベリウスはセイヤヌスを代理人としてローマに残し、カプリ島へと隠棲した。
次に起こるのは、粛清の嵐。
ティベリウスがアウグストゥスから受け継いだ使命。
帝政の確立。生涯をかけて取り組んできたその仕事を、確実なものにしなければならない。
29年に母リウィアが死去すると、ティベリウスはセイヤヌスを使って、大アグリッピーナ一派に対する攻撃を開始した。
罪状は、国家反逆罪。
大アグリッピーナと、ゲルマニクスの遺児たちは次々と流罪にされた。市民たちは英雄の忘れ形見への仕打ちに憤ったが、怒りをぶつける相手がローマにいないのだ、どうすることもできない。
妻であるウィプサニアの死後、大アグリッピーナに接近したガッルスも巻き添えを食った。
そして、次の矛先は、この粛清を主導したセイヤヌスへと向けられる。
小ドゥルーススが死の直前に残していた懸念。また、その未亡人リウィッラとの再婚をセイヤヌスが狙っていることや、ティベリウスの意図を超えて元老院の有力者たちへ攻撃を行っていることなど、材料はいくらでもあった。
セイヤヌスも馬鹿ではない。主の意図に気づき、反逆の準備を進めたが、政治家としては、ティベリウスの方が遥かに手練れだった。
西暦31年。元老院での弾劾の後、セイヤヌスは拘束、そのまま絞首刑に処せられた。数名の親族を殺せば、嵐は止むかに思われた。
だが、関係者への取り調べで、最悪の真実が明らかになる。
小ドゥルースス、その真の死因は毒殺。
セイヤヌスに籠絡された妻、リウィッラにより、少しずつ毒を盛られて、病死に偽装されて殺されたのだ。
有力者だったセイヤヌスが粛清された事で、元老院議員たちは疑心暗鬼になっていた。それを、ティベリウスは放置した。
セイヤヌスの一族は、幼い娘であろうと例外なく、皆殺しにされた。元老院では疑惑が疑惑を呼ぶ告発合戦が展開され、名のある議員はほぼ全滅に追い込まれた。
リウィッラの処遇はその母、小アントニアに任された。裁定は、邸宅の地下牢に監禁。放置され、餓死した。
この惨状を憂いた皇帝の旧友、後の賢帝ネルウァの祖父である法学者は、抗議の遺書をカプリ島へ送り、食を絶ち命を落とした。
…この間、ティベリウスはカプリ島から一歩も外には出ていない。
自らは指示を飛ばすのみで、帝都にいた反逆者を抹殺し、まだ辛うじて息があった元老院の政治力と権威を奈落の底に叩き落とした。
皇帝の権威は絶対となった。そして、その椅子に座るのは誰であろうと構わない。ユリウス氏族だろうが、クラウディウス氏族だろうが、他の無名の家系や属州出身者だろうが、大きな失敗さえ無ければ、統治システムとして十分に機能できる。
こうして、帝政は確立した。数百年に渡る繁栄の基礎となる偉業を、ティベリウスは成し遂げた。己と周囲を徹底的に犠牲にした、その先で。
そして、全てを失った。
愛も。
誇りも。
名誉も。
友情も。
幸福も。
文字通り、その全てを。
〜〜〜〜〜〜〜〜
目眩がする。
何も胃に入っていない状態で出力されて正解だった。こんな記憶を見せられたら、間違いなく吐く。
御崎暁音は隣で崩れ落ちている。少なからず、この子には父上への思い入れがあるように見えた。その最期の日々がコレだと知れば、絶望もするだろう。
だが、見えた。ウィラ・ヨウィス。宮殿と見紛う、実に立派な邸宅だ。皇帝の隠れ家にはふさわしい。
その門の前に、邪魔者が立っているのを除けば。黒い、揺らめく炎の影が人型をなしたかのようなナニカが立っている。
女神アナトからの干渉か。だが、プエル君の誘導はうまくいったらしい。父上の剣術の才を僕はあまり強く受け継いだわけではない。しかし、女神の代行者とはいえ、自我のない人型ならば勝ち目があるだろう。
長剣を抜く。刀身には、『カウンター・プログラム』なる毒が仕込まれている。一発でも当てれば、大元にもかなりの損傷を与えられるそうだ。
御崎暁音は…茫然自失としたままだ。戦力にはならない。もっとも、最初からそのつもりはないが。
「早く退いてくれよ、この先に用があるんだ」
先手を取ったのはこちらだ。一直線に突く。だが、難なく外された。
「…まさか、その身のこなしは!」
脇腹に焦熱感が走る。短剣で切り裂かれたか。かなり深い。口から血が流れる。臓器に達したようだ。あまり時間はかけられないな。
それに…コイツにだけは負けられない!
「ずっと考えていたんだよ。一体誰が悪いのか。
アグリッピーナ義姉さん?目は曇っていたが、悪人ではなかった。
ガッルス?母上の再婚相手…器の小さい時代遅れなど、どうでもいいな。
リウィッラ?何故あんな選択をしたのかはよくわからないが…でも、最初は間違いなく良い子だった。
じゃあ、悪いのは誰か?」
袈裟斬りを落とす、と見せかけて横薙ぎを繰り出す。だが、また外された。こちらばかりが削れていく。
「お前だよ、セイヤヌス。
お前こそが、諸悪の根源だ!」
…僕を殺すのは別にいい。国のためと称して、多くの人間を犠牲にしてきた。軍で起きた暴動の首謀者に、話し合いを持ちかける振りをして背後から刺した事もあった。誰がどう見ても、僕は極悪人だ。
「だが…お前のつまらない野望のせいで、どれだけの人間が不幸になった、ええ?」
肩を刺し貫かれた。負けるな、正しいのは僕だ。なんで、こんなヤツに負けなければならないんだ。
お前がリウィッラを誑かしたりしなければ、アントニア様は自分の娘を殺さずに済んだのだ。
お前が僕を殺さなければ、アグリッピーナ義姉さんも、ゲルマニクス兄さんの子供たちも、もっと違った未来を迎えられたかもしれないのだ。
そして、僕が死ななければ、父上を…父上を一人にはしなかった!
「お前みたいなヤツがなんで存在を許されるんだ。お前みたいなヤツが、いつだって善人の脚を引っ張り、世界を悪くするんだろうが!
お前さえ、お前さえいなければ…!」
叫ぶ。そして、気づく。
あれ…この言葉…どこかで…?
「ティベリウス、お前さえ、お前さえいなければ!
母さんも、夫も死なずに済んだ!この…疫病神め!」
父上を庇うようにして立つ。きっと、父上はそれなりに傷ついている。
「アグリッピーナ姉さん、そのお言葉、今すぐ取り消してください。市民の第一人者たる皇帝に対しては、あまりにも不適切だ」
ああ、目が曇っている。あんなに熱く火が燃えていたのに、それが覆い隠されてしまっている。
でも、まだ間に合うかもしれない。
僕がこの家族を繋ぐ。そして、ゲルマニクス兄さんが見られなかった未来へ、みんなを連れて行くんだ。
そのために、もっと弁論の技を磨かなければ。
法律の知識もまだまだ不足している。もっと勉強しなければ。
体調管理も大切だ。リウィッラも野菜を食えと言っているし、不味いけど頑張ろう。
権力を奪おうとする頭の悪い不届き者がまだたくさんいる。証拠を集めて、必要ならばでっち上げてでも、全員舞台から降りてもらわなければならない。
もっと、もっと、もっと。
最期の記憶を思い出した。
リウィッラの目は裏切り者のそれだった。
でも、人間はいきなり善人から裏切り者になったりしないはずだ。一体、何があった?
…そういえば。
リウィッラと、最後に目を合わせて、きちんと話をしたのは…いつだった?
そもそも…そんな事を、したことがあったか?
短剣が胸に突き刺さった。
…生きた人間ならば絶望するのだろうが。生憎と、僕はもう死んでいるのでね。
セイヤヌスの影の首を切り落とした。黒い灰になって消えていく。そのまま、僕も倒れた。
手放した剣の切っ先に、刹那、僕の瞳が映っていた。
…ひどい目だ。曇っていやがる。
そうか、僕も周りが見えなくなっていたんだ。
ゲルマニクス兄さんが死んで、アグリッピーナ姉さんが心を病んで。だから、僕は兄さんの分も必死に頑張って、そして姉さんにまた昔みたいに笑って欲しくて、あと父さんに楽をさせたいとか、色々一人で背負い込んでしまったんだ。
みんな大好きだったんだ。誤解されやすいけど、本当は優しい父上。敵をよく作るけど、小さい頃何度も僕を守ってくれた姉さん。未熟で失敗だらけだけど、それでも亡き父親の背中を一生懸命追っかけてる甥っ子たち。お母さんっ子でとても賢い、小さなアグリッピーナ。
リウィッラも、自分の子供たちも、心から愛していた。
…政務や謀略にかまけて、きちんとリウィッラの事を見てあげられなかった。彼女の気持ちが離れていくことにも、気づけてなかった。だから、セイヤヌスみたいなヤツに、付け入る隙間を与えてしまったんだろうな…。
ああ…たくさん心残りがあるなぁ…。もし、もう一度生きられるなら…こんな風には絶対させないのにさ…。
「ドゥルーススさん…!」
女の子が駆け寄ってきた。一瞬、小さな頃のリウィッラに見えたけど…ああ、違った。
御崎暁音。その目は…地獄のような日々の記憶を、なんとか自分の内で消化できたんだな。
…この子には、未来がある。最後の…言葉を…。
「…一つだけ。
大切な人の目を見て、ちゃんと話すんだ。できるうちに」
全身から体温が抜けていく。再び、暗い死が僕に追いつく。
…父上、母上、もう一度生まれたら、また貴方たちの息子になれますか?
…ゲルマニクス兄さん、アグリッピーナ姉さん、また一緒に遊んでくれますか?
…そして…リウィッラ…また会えたら、改めて…君を好きになっても……………
〜〜〜〜〜〜〜〜
「ドゥルーススさん…お疲れ様でした」
遺体も、血痕も…最初から無かったかのように、光の粒になって消えていく。
…先に、進もう。
ウィラ・ヨウィス。
料理人やお世話係、たくさんの人がここにいたはずだけど…静かだ。まるで、孤独に死んだ彼の心を表すかのように、暗くて…冷たい。
流石皇帝の御屋敷、すぐに迷った。月明かりはおろか星の光もないからどの方向へ向かっているかすら分からない。
でも…きっと、この直感が、予感が、私を彼のところまで連れて行ってくれる。
…風を感じる。極めて原始的だけど、ここは天文台だ。
その中心に、影が座っている。かつて、ティベリウスだった誰かの残骸が、一人、佇んでいる。
…聞こえてくる。市民の喝采が。血で血を洗う大粛清を引き起こし、自分たちを蔑ろにし続けた悪帝の死を心から喜ぶ、人々の声が。
ティベリウスの死は、老衰死とも他殺とも言われるが、真相は本人たちしか知らない。
三代目の皇帝に就任したのは、カリグラと呼ばれた青年だった。英雄ゲルマニクスの遺児の即位は、明るい時代の幕開けかに思えた。しかし、彼は見境のない浪費家で、ティベリウスが自らの不人気と引き換えに再建した国家財政を数年で破綻させ、小ドゥルーススの遺児を殺害するなど意に沿わない人物の排除を進めた。失政を繰り返した彼は、最後は妻子ともども暗殺された。
カリグラの死後、皇帝に擁立されたのは、名門クラウディウス氏族の異端者。一介の歴史家に過ぎなかった彼は、人々や周囲の予想に反して、国内問題を次々と解決する優れた手腕を見せつけた。しかし、女性関係は壊滅的で、その最期は小アグリッピーナによる毒殺とも言われる。
五代目の皇帝のネロについては、言うまでもない。西暦68年、彼の死をもって、ユリウス・クラウディウス朝は滅亡。皇帝の座は短い内戦を経て、フラウィウス氏族へと受け継がれた。
「何者だ、小娘?」
その瞳には、何も映っていない。かつてあった炎も、もう消えている。
「アカネだよ、忘れたの?
それから…ティベル、あなたに、言いたいことがあるんだ…多分」
「自信のない台詞だな。やめておけ、帝都で私がどう噂されているか知っているか?
夜な夜な小児を侍らせている変態男、だそうだ。ここの敷地に迷い込んだ少女に、気まぐれで菓子を与えてやったのに妙な尾ひれがついたのだろう。まったく、いつの世も想像力が逞しいな、民衆というやつは。
…分かったら引き返せ。ここにいても、何も得るものはない」
…ロリコン疑惑はないわー、と思うけど、でも、同情はしない。
ティベルは、心根は優しい人だ。お父さんみたいで、かっこよくて。でも、理想のためとは言え、大勢人を殺したんだ。アグリちゃんや、彼女の子供たち…死ななくていい人間もたくさん死なせたんだ。
この人は、誰がどう見ても極悪人だ。
……………。
「こんなの…こんなの、あんまりだよ!
ティベルは最期まで投げ出さなかった…他のみんなも、自分なりに精一杯頑張ってたんだ…!
それなのに、なんでこんな目に合わなくちゃならないの…?」
でも…涙がとまらない。これは私の人生じゃない。だから、泣くのは筋違いかもしれない。
だけど、つらい。悲しくて、悲しくて、胸が張り裂けそうだった。
この世界は、どこまでも醜く、残酷だ。
ティベルの影を抱きしめながら、私はずっと、ずっと声を上げて泣き続けた。
〜〜〜〜〜〜〜〜
…まだ、残ってくれているね。
ありがとう。ティベリウス帝の…いや、僕たちの人生に付き合ってくれて。
…救いになるかは、分からないが。
ティベリウス帝は、後世の歴史学者からも散々な評価をされた。そもそも、ローマの歴史家たちは概して共和政の時代を理想として、帝政を好ましく思っていなかったていう背景もある。
でも、分かる人間は分かっていた。ティベリウス帝は、とても重要な仕事を成し遂げた、ということをね。
彼は単に帝政システムを確立させただけじゃない。
ライン・ドナウ両河川を北方防衛の前線とする、というローマ帝国の軍事戦略の基本を作ったのは彼だ。それは後に、リメスと呼ばれる防衛線として確立し、君の世界ではその遺構が世界遺産に登録されている。
娯楽の提供や公共事業をまともにやらなかった、とドゥルースス殿は言ったね。でも、それは帝都ローマや、本国イタリアでやらなかったというだけだ。属州、つまり植民地のインフラ整備には、惜しみなく税金を投入した。無論、それは善意のボランティアなんかじゃなく、ローマにとっての利益のためにやったこと、でも現地の人々の生活を向上させることに繋がったはずだ。帝国主義者の論理と言われれば、そこまでだけど。
インド商人の話に出てきた「アレクサンドリアのフィロン」という名前を覚えているかい?彼もまた、ティベリウス帝を評価した同時代人の一人だ。ちなみに彼はエジプトのユダヤ教社会の有力者で、ギリシア哲学とユダヤ教神学の融合を図った哲学者だったんだけど、あまりに先進的すぎて生前は誰も理解してくれなかったというオチがついている。辛いね、天才ってやつは。
まあ、人格に難があったし、色々失敗もしたけど、皇帝は大事をなした。それだけは確かさ。
さて、この昔話もそろそろ終わる。退屈してないといいんだけど。飲み物は足りてる?
…オッケー!じゃあ、この夢の続きと、終わりを見に行こう!