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CAPUT MUNDI/光の日々に、弔いの花を

 眠くないかい?

 暗い話だ。疲れてしまったのなら、ここから去ってくれて構わない。

 ああ、その前に勘違いがあったら嫌だから、一つ付け足しておこう。…別に、あの方を可哀想だとは思ってないんだ。だって、よくある話でしょ、こういうの。

 色々な事情があって、好きな人と添い遂げられない人なんて、君の時代にも五万といるだろう。

 世の中、いいヤツから先に死んでいくものさ。別に珍しい事じゃない。

 耀かしい功績を積み上げてきたヒーローが、晩年は頭の硬いご老人。古今東西、どんな国の歴史にもそういうの、あるよね。

 そう、よくある話なんだよ。ありふれた悲劇。誰だって一つは経験したことがあるものだ。君は、そういうものとは無縁に生きていて欲しいと思うけど、世の中そう甘くはないかな。

 …だけど、世界にとってはどれだけ積もっても塵でしかないようなそんな苦しみが、何度も襲い掛かってきて、一人の肩にのしかかり続けたら?

 それを業苦と呼ばずして、何と呼ぼう。

 西暦前夜から、1世紀後半まで続いたユリウス・クラウディウス朝。ローマ帝国の発展の礎が築かれた時代の影では、欠陥だらけの天運と権力を巡る争いが絶妙に噛み合ってしまったせいで、必要以上に多くの涙と血が流れることになった。

 誰も悪くない。誰もが悪い。

 皆が被害者になり、加害者にもなった。

 人間社会のカリカチュアみたいな、笑えない喜劇だ。

 …ごめん、少し熱くなりすぎたね。

 それじゃあ、続きを紡ごう。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 父上が消えて、二年が経った。

 「おはようございます。随分と遅いお帰りですね」

 初めて会った時に比べて、いささか老けたように見える彼女に、僕は少しの皮肉を込めて挨拶を贈る。

 「あれ、ドゥルースス君?朝、早いんだね」

 意地悪に言ってみたつもりだが、気づかれなかったらしい。苦笑しながら、僕は椅子から立ち上がる。

 「探し物に手間取りまして、徹夜明けです」

 「大丈夫?早く休んだ方が…」

 「…問題ありません。体力には自信がありますので。

 それと、一つお願いがあります。今夜、お時間をいただきたく。大事なお話を、しなければなりません」

 「あ…今夜は、ちょっと用があって…」

 …まったく、悲しくなる。確かに、母として認める気は欠片もなかった。だが、同時に…家族になれるのではないか、そう期待していた。この気持ちに嘘はない。

 …失踪した父上がロードスにいると分かった時、私はユリア様に、追うように進言した。父上が僕を置いていったことには腹が立った。悲しかった。ユリア様の気持ちももっと考えるべきだ、と憤った。

 だが、信じている。きっかけさえあれば、ティベリウス・ユリウス・カエサルはもう一度立ち上がる。

 故に、まだ間に合うと、やり直せると、説得しようとした。僕が父上の尻を立てなくなるくらい、思い切り叩いてやるから。貴方は、あの人に肩を貸してあげて欲しい、と。

 その時のユリア様の目は、いなくなった日の父上とよく似ていた。…返ってくる期待もないのに、与え続けるのは、どこか感覚が欠落している人間でなければ難しい。

 …そして、ユリア様は、噂に聞いていたような、以前の生活に戻ってしまわれた。

 「とても…大事なお話なのです。僕にとっても、ユリア様にとっても」

 「それは、この場で済ませちゃ…駄目?」

 距離を感じる。父上との関係が破綻した以上、僕との関係性も変化せざるを得なかったのだろう。

 「今は、時間がありません。そして、明日では、駄目なのです」

 真っ直ぐに、その瞳を見つめる。父上の甘さと弱さ、それは僕にも受け継がれている。だから、最後の期待を込めて。

 「ごめん…私も、大事な用があるんだ」

 …濁っている。残念です。貴女とは、ここでお別れだ。

 人間の目というのは、言葉よりも、表情よりも雄弁だ。面白いほどに、感情や気質が表れてくる。

 父上の目は暗い。だが、奥に炎が見える。ペルシアの拝火教徒は、消えない炎に聖性をみるそうだ。それと同じものが、あの方にはある。

 母上…幼い日に見たその瞳は、美しい青空のようだった。最近は、少しだけ雲が見えるようになってしまったが。

 …ユリア様の目は暗かったが、その中に輝く星が見えた。けれど、今は濁っている。嘘をついたり、負い目を感じたりした時、人間の目は泥水のように濁る。

 早朝の街を歩く。これから、僕の祖母、リウィア様に会いに行く。

 「せいぜい、最後の逢瀬を楽しめばいいさ」

 …ユリア様が、また恋人を作り始めた時、僕は冷淡にその影響を測り始めていた。

 もともと、ユリア様は素行の悪さで知られた方だ。姦通罪が適用されそうなものだが、そうでないところを見ると、アウグストゥス様はこれを黙認しておられるのだろう。父上に悪評が及ぶ可能性は考えなくていい。

 だが、どんな相手と付き合いがあるか、それは問題になる。

 僕は子供な上、ユリウス氏族の中では、それほど重要性が高い存在ではない。だから、警戒されることなく嗅ぎ回ることができた。

 ユリア様には複数の恋人がいるようで、その大半はどうでもいい小貴族だったが、一人、厄介な男がいた。

 ユッルス・アントニウス。国賊アントニウスの遺児のうち、カエサリオンをはじめとする潜在的な脅威は消される事になったが、それ以外は助命された。そして、アウグストゥス様は彼らのために色々と便宜を図っていらっしゃった。

 ユッルスもその一人で、属州総督も務めた有力者でもある。ユリア様が彼に近づいたのは、将来、アウグストゥスが亡くなった後の後ろ盾として利用するという打算もあったのだろう。

 だが、それでは父上の邪魔になる。皇帝の一人娘との関係、それは究極の権力に通じる道になりうる。父上がこのローマに帰還する時、競合相手がいられては困るのだ。

 アウグストゥス様の後継者候補のうち、ユリア様の子であるガイウス、ルキウス、ポストゥムスの三人は若年な上、いずれも皇帝としての重責に耐えうるとは思えない性格をしている。

 僕の従兄、ゲルマニクス兄さんは熱い心の持ち主で、将来は亡くなられた父上の弟、ネロ・ドゥルースス様と同じように市民に愛されるいい指導者になるだろうが、それはずっと先の話だ。それと、ゲルマニクス兄さんの弟の…えーと、確か父上と同じティベリウスという名前だったはずだけど…は論外だ。

 つまり、これらの後継者候補が成長する前にアウグストゥス様がお亡くなりになられた場合、後見人が必要になる。

 ロードス島へお逃げになる前は、父上がその役を担うはずだった。だが、今はユッルスがその地位に座ろうとしている。

 父上は、ここで終わるようなお方ではない。その目の奥に映る炎は、まだ消えてはいないはずだ。

 というわけで、できることならば、ユッルスには消えてもらいたい。昨日の夕方、偶然を装って会いに行き、弱みを探した。

 探し物は簡単に見つかった。彼の目は、汚い野望に塗れた、裏切り者のソレだった。この男は、あろうことか、恩人であるアウグストゥス様を裏切ろうとしている。

 ユリア様といい仲になり、調子に乗ったのかもしれない。リウィア様にこの疑念を伝えれば、ユッルスの陰謀はすぐに明らかになるだろう。

 だが、そこまで来て、迷いが生まれた。

 ユッルスが断罪されれば、ユリア様も連座して厳罰に処される可能性が高い。姦通罪の罰則は島流しだ。そんなことになれば、真っ当な死に方はできなくなる。

 弟の誕生を一緒に楽しみにした時間も、笑い合えたあの日の夜も、僕は全て…全て覚えている。

 …手はあるんだ。ユリア様に、ユッルスと別れるよう説得して、それから、アウグストゥス様とリウィア様に見逃してもらえるよう頼めばいい。アウグストゥス様はともかく、リウィア様は、自らの血を引く僕に期待を寄せてくれている。危険な賭けだが、それでも、まだ間に合うのなら…!

 だが、そんな気はもう失せた。よくよく考えれば、ユリア様が存在していることは、僕や父上の今後にとっての利益にならないし、むしろ有害だ。恩知らずと放蕩娘、邪魔者二人、まとめて消えてもらおう。

 「ユッルスのことは私も気づいていた。既に証拠は掴んでいる。今は、アウグストゥスの裁定を待つ段階だ」

 …リウィア様は、市民たちからは国母として尊敬を集めている。だが、実際の彼女は優しさと冷酷さが矛盾なく共存する、恐ろしい人だ。

 「ユリアの我儘もここまでになるだろう。全く、とんだ親不孝者…」

 「僕が差し出がましい真似をしなくても、良かったということですか…」

 …既に、ユリア様の運命は決定していたようだ。アウグストゥス様の悲しむ顔が目に浮かぶ。

 「…ドゥルースス、お前には人間の本質を直感的に見抜く力があるようだ。それは、お前の父親にはないもの。

 必ず時は来る。それまで研鑽を積み、父の目となれ」

 吹雪を思わせるような、冷たい目だ。この人は、おそらくはアウグストゥス様よりも先が見えている。

 帰り道、街道にある轍に雨が溜まっていた。特に理由もなく、それを覗き込む。

 「…気持ち悪い」

 こんな顔は…間違っても母上には見せたくないな。人目を避けるように俯いて歩く。今日は…ネルウァ殿の家に泊めてもらおう。

 結果は、僕の予想通りになった。ユッルスは自害。ユリア様は流罪になったものの、後にイタリア本土へと移送された。一人娘への情を捨てきれなかったのだろう。

 しかし、帰還された父上がアウグストゥス様の跡を襲った後、リウィア様は遺言にユリア様への言及がないことを利用し、ユリア様の行動制限を強化した上で一切の援助を停止した。

 父上や僕が気づいた時には手遅れだった。ユリア様は、一人で餓死した。あの、笑顔がよく似合う女性の最期としては、あまりにも残酷なものだった。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 …もう何も分からない。

 立っているのか、倒れているのか。歩いているのか、走っているのか。意識が朦朧として、ワケが分からない。

 …誰かの記憶が見えた。ユリアさんが写っていた。

 …死んだ?ユリアさん…死んじゃった…?

 この手が殺した…いや、違う…ずっと…前に………?

 ティベル…も?

 …嫌…そんなはずない…だって私の背中をなでてくれた手は…暖かかった。

 …嫌…信じたくない。あの人が…何百年…何千年も前に死んでしまったなんて…。

 …ティベリウスという名前…そうだ…どこかで聞いたことが…。

 『それは、テベレヤかしら?』

 いやいや読まされた…宗教の本に出てくる…音の連なり。ガリラヤの街…大昔の…皇帝が…その地名の由来…。

 …そんなはずない…名前が同じなだけの…別人…そうだよね…?ねぇ…どこにいるの…?そばにいる…って言った…よね…?

 …あれ…私…今、どこにいるの?

 ここは…私の…高校?

 図書室…?

 …私…友達いなくて…いつも一人で…本ばっかり読んでて…。

 机の上に…本が置いてある。英語で…ローマ史ってタイトル。

 いやだ…私、歴史は苦手なの…英語も…。

 読みたくないのに、指が勝手にページをめくっていく。

 『お馬鹿な貴女でも、もうわかるでしょう?』

 ティベリウス・ユリウス・カエサル。

 紀元前42年生。

 在位、紀元後14年から37年。

 ミラノ近郊、現在のミゼーノにて老衰死。暗殺とする異説あり。

 そんな情報が、微妙な表情をした、胸像の白黒写真に併記されている。

 『じゃ、もう一度聞くわ。今度は、答えを間違えないで』

 私を助けてくれた。見つけてくれた。

 夢が覚めたら、現実に会いに行きたい。ロードス島を、一緒に見てみたい。

 そう、思ったのに。

 二千年も前に、死んでたんだ。

 もう、どこにもいないんだ。

 だったら、もういいや。

 『私に全てを捧げなさい。そうすれば、私が全てを終わらせてあげる』

 その冷たい、でもどこか優しいような声を聞いて…思い出した。

 何故、満月の下を逃げていたのか。

 …この世界は、私を愛してくれない。どこにも居場所がないのなら。

 消えてしまおう。

 首を、縦に。

 そう決めた瞬間。

 周囲を、光の壁が取り囲んだ。壁、というより檻のようにも見える。

 「…テステス。うん、たぶん、大丈夫だ」

 意識は闇に沈んでいく。遠くで声が聞こえる。

 「あ、これ録音メッセージだから。君は聞き流すだけでいい。

 これが再生されているなら、僕の仕掛けは正常に動作しているってこと。そして、君のメンタルは恐らくボロ雑巾並みに酷いことになっているってことだね」

 呑気な声が何か独り言を呟いているけど、情報として認識できない。もう…何も考えたくない…。

 「そうだね、君は少し、休むべきだ。一旦何も考えずに、ぐっすり眠ろう。それだけの時間はこの仕掛けで稼げる。

 ただ…全てを投げ出すのは、考え直してくれないかな。だって、それじゃ、君が受け取ってきた価値あるものが、無に帰ってしまうだろう?」

 …もう…全て忘れてしまいたい。名前も、過去も、何もかも。

 「…今の君には、難しいか。仕方ない、誰でも死にたくなる日ぐらいある。

 良い夢を。あと、夢の中で、三人の協力者が君を待っているから、よろしく言っておいてね」

 意識が闇に落ちる瞬間、図書館の中に佇む、あの人と知らない少年の姿が見えた気がした。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 「…期待以上よ、アナタ。私が、残された全てをかけて作り上げたこの箱庭…。

 その中に、さらに別の世界を作り上げて、御崎暁音を隔離し、私の干渉を封じ込めた」

 うへぇ…美人さんの褒め言葉って、死ぬほど苦手なんだよね…。

 「あ、でも、勘違いしないでくれる?

 同じ神でも、アナタと私では格が違う。アナタは、ヒトの世の功績をもとに祭り上げられただけのニセモノ。純正の私にはあらゆる点で及ばない」

 そりゃそうでしょうとも。六十年ちょいの短い人生に、二千年ぽっちの読書生活。その程度で、永遠を生きる神々の域に達せるなんて誰も思わない。

 でも、こちらにはまだ余裕がある。それに比べて、そちらは力尽きる寸前みたいだ。

 「嫌なところを突いてくるわね。アナタ、全くモテないんじゃなくて?」

 ぐふっ!?な、なんでそのことを!?

 「アッハッハ!…今ので絞り込めたわ、アナタの正体」

 くっ…だけど、そちらに今できることといえば、アカネさんの夢の中で嫌がらせをするぐらいなものだ。僕の名前が割れたところで、それに変わりはない。

 それにね、女神様…こちらは貴女の全てを知っている!

 名前も、何を体現する神性であるかも、そして用い得る切り札も全て!

 「大きく出たわね。じゃ、言ってみなさい。この私が直々に、答え合わせをしてあげる」

 …フフフ、同じ失策は二度と犯さない、それが僕なのです…!お口、チャック!

 「記憶力が悪いのね。自分がなんで死んだのか忘れたの?」

 ゴフッ!?ふざけるな、取り消せその言葉…!

 …ハッ!?も、もう一言も話しませんから!エンガチョ、です!

 ………ハァ。やっぱり美人は苦手だ………。

 あ、もう出てきていいですよ。

 「プエル、改めて説明しろ」

 …ああは言いましたが、実を言うとこの状況の全てを把握しているわけではないんです。それでもよろしいですね?

 「構わん。そんなとこだろうと思っていた」

 やっぱり、お見通しでしたか。流石…。

 …本当なら、たくさん昔話をしたい。知り合いに会うのは、二千年ぶりですから。

 ですが、僕の力では、それほどの余裕は作れなかった。時間が、無いのです。

 「では、一つだけ言っておこう。プエル、この状況からして、俺が死んだ後、お前がどういう人生を生きたのか、おおよそ想像がつく。

 よく頑張った。そして、ありがとう」

 …礼を言うべきはこちらの方です。心から、感謝を。

 「…しかし、やはりお前は女にモテんのだな!」

 がはァッ!?あ、貴方までそれを言いますか!?…ええ、そうですよ…どうせ僕は、恋愛運マイナスのクソ雑魚ナメクジですよ、ええ!

 もう無駄話はおしまいです!そろそろ、アカネさんが一人目の協力者に接触する頃!こちらも動き出しますよ!


〜〜〜〜〜〜〜〜


 『状況設定:紀元前16年、ローマ』


 「…っあ………?」

 暖かな光が身体を包んでいる、そんな感覚がする。

 目を開ける。柔らかいベッドの上、知らない建物。空の頭で考える。ここはどこだろう?

 「まだ寝ていても構わないぞ。ここは戦場ではないしな。…ああ、もう眠くないのならば起きてくれ。話があるからな」

 …聞き覚えのある声だ。でも、聞いたことがないくらい穏やかな口調で、嬉しいような、悲しいような、くすぐったさを感じる。

 「ティベ…リウス…?」

 「君は…俺のことを知っているのか?いや、ティベリウスなんてよくある名前だし、他の誰かと勘違いしているのかも…うーむ」

 いや、絶対にあのティベリウスだ。それ以外にはあり得ない。…あれ、なんで、私この人のことを知ってるんだろう?それに、若くて生気に溢れているような…?

 「…こうして考えていても埒が明かないな。

 君も困惑しているだろう。ここで話すのも難だ。とりあえず、朝食にしよう。

 でも、その前に、名前くらいは聞かせてほしいかな」

 えっと、私の名前は…。

 「アナ…です」

 「アナ、か。分かった、よろしく頼むぞ!」

 本当の名前は別にある。でも、それを思い出したら、きっとまた苦しくなる。だから、アナでいいや。適当な思いつきだけど、それで別の人間になれるなら、それで。

 「良かった…!目が醒めて!」

 この女の人は…知らない。でも、とても綺麗な目をしている。まるで、雲一つない青空のような。

 「ああ、紹介しよう。妻のウィプサニアだ」

 「はじめまして、ウィプサニアです。ええと…お名前は…」

 「…アナ、です」

 「よろしくお願いしますね、アナさん!」

 子供と大人の境界に立つ、無邪気で、少し悪戯っぽさを感じさせる笑顔。…ずきりと胸が痛む。嘘を…私は嘘をついている。

 ゆったりと時が流れる。朝食を取りながら、ティベリウスは私に事のあらましを説明し始める。

 「昨日の夜、ネロ…俺の弟が、君を連れてきたんだ。なんでも、空から降ってきたらしい」

 私は名作アニメのヒロインか何かだろうか。しかも、ティベリウスの目を見る限り、嘘や冗談ではなくマジらしい。

 「一時は神々の御落胤かとも思ったが、見た限りそうは思えない。君、どこから来たか覚えているか?」

 「…日本…です。中国…絹の国よりも向こう」

 「なんと…!?まさか、そんなことが…」

 他のことは何も覚えていないことも伝えると、ティベリウスは頭を抱えながら一分ほど押し黙り、それから首を縦に振った。

 「…君の記憶を取り戻し、元の国に帰せるよう、努力する。だが、時間がかなりかかることは覚悟していて欲しい。

 …絹の国についての情報は皆無、ましてやその向こうに国があるなど初耳だ。移動するだけで何年かかる?そもそも、どこをどう経由すべきか…ゲルマニアは論外、パルティアとは敵対、インドにはいくつか王国があるらしいことが分かっているだけで交渉は無い…。

 …いや、ここは視点を切り替えてインド諸王国と国交を結ぶ機会と見れば…東方戦線の状況を大きく転換でき…」

 「どーん!と、ティベリウス様、そこまで!」

 ブツブツとお経のように思考を垂れ流しているティベリウスの頭をウィプサニアさんがベシっと叩く。

 「う…うむ?」

 「それは…今考えるべきことじゃないよね?」

 ウィプサニアさんがドスの効いた低音ボイスでティベリウスを現実に引き戻す。

 「それと…あなたはこれから父さん達と会議でしょう?」

 「…相違ないな」

 「アナちゃんの話もしなきゃでしょ。食べ終わったら、急いで準備しなさい」

 「…はい」

 なんだか、この家の権力構造の一端が見えた気がする。

 朝食を終えて、ティベリウスは白地に赤紫の縁取りのゆったりとした服に赤いマントをたなびかせた、正装で玄関へと向かう。

 「では、行って参ります」

 「早めに帰ってきてね!寂しいから!」

 「分かってるさ。あと、その娘を頼んだぞ!」

 行ってしまった。…少し不安だ。…記憶なんて、戻らなくたって別にいいし、むしろ戻ってほしくないけど。

 隣に立つ女性を見る。私の視線に気づくと同時に、彼女は私の手を取る。

 「じゃ、私たちも行こっか!」

 「行くって、どこに?」

 …目を、見開く。

 「それは、もちろん…」

 朝日に、照らされている。まるで、太陽のような笑顔。嵐のように舞う、細身の女性。

 (愛していた。心の底から。君のことを)

 …そりゃあ、そうだろう。

 「私たちの街、世界の首都!」

 かつて、光のような日々があった。

 この夢はきっと、ティベリウスの人生において、もっとも幸福だった刻の断片。

 「いざ、ローマへ!」

 いずれ失われるその輝きが、今、私の目の前にある。


 活気のある街だ。

 ピカピカに新しい大理石の広場や議会、建設途中の劇場や神殿、そして古いレンガや木造の建築群。

 世界史で知ったフォロ・ロマーノは、夕焼けに浮かぶ白い廃墟だった。でも、ここに広がっているのは、西暦前夜、未だ発展途上国の段階にある、日々変わり続ける町並みだ。

 …多分、私は夢の中で、更に別の夢を見ているのだろう。厳密には、少し違うのだろうけど。そして、二度目の記憶喪失はあまり深刻なものではなく、自分が何者なのか、名前を除けばもうほとんど思い出してしまっている。

 まるで、現実に帰れ、と言われているかのように感じる。

 でも…怖い。外の世界は…怖いんだ。

 今は…この幸せな箱庭の中で眠っていたい。

 「そしてここが街の目玉、全ての神々を祀る万神殿、パンテオン!」

 パンテオンも、教科書で見たことがある気がするけど、これは私の知識とは少し形状が異なる。後に改修されたか、あるいは建て直されたかのどちらかだろう。

 「あら、ウィプサニアちゃんじゃない。それで…そっちにいるのは?」

 神域の周りには、屋台が立ち並んでいて、値段交渉に精を出す店員と客の声や、何かについて熱く議論する人の声などなど、色んな人が交流する賑やかな場所になっている。そこに、一際明るい声が響く。…この声、知ってる。振り向くと…そこには…

 「ユ…リア…さん…?」

 「ん?ええ、確かに私はユリアだけど…顔色悪いわね。ちゃんとご飯食べてる?」

 鉄錆の匂いと、臓器の生暖かい感触が蘇ってくる。

 「ち…ちが、わ、私じゃ…」

 「アナちゃん、大丈夫?…ユリアさん、ごめんなさい、この子、異国から来て、しかも記憶がないみたいで」

 視界が暗くなってくる。息がうまくできない。

 この人は、私と話をしたあのユリアさんじゃない。この人は私を知らない。落ち着いて、きちんと普通の態度を取らなきゃ。

 脚に、脚に力が入らない。きっと今、私は酷い顔をしている。だめだ、これじゃ、だめだ…。

 「それは大変ね。でも、大丈夫!」

 ユリアさんはそんな私に近づき、抱きしめ、支えてくれた。

 「あ…ああ………」

 「私のパパ、すごい人だから!

 必ず、元いた場所に帰れるよ!自分が誰かも、きっと見つかる!」

 そんな優しい言葉をかけてもらう価値なんて、私にはないのに…!

 「うう…えっぐ、ううう…!」

 「辛かったよね、怖かったよね。大丈夫、大丈夫だからね」

 しばらく、頭を撫でてもらって、だいぶ落ち着いてきた。なんだか、子供に帰ったみたいで気恥ずかしいな、と泣き終わってから赤くなった。

 それと…一つ、言わなければならない事がある。嘘つきは、もう御免だ。

 「…あ…あの、私…ほんとは…別に名前があって…あ、アカネっていうんです、けど」

 「…アカネちゃん、か。

 確かに、そっちの方が似合ってるかも!」

 「教えてくれてありがとう。改めてよろしくね、アカネちゃん!」

 本当の名前も、二人は受け入れてくれた。…これが夢ではなかったなら、過去の記録でなかったなら、どれほど良いだろう。私が、貴女たちと一緒の時代に生きられたなら…。

 でも、もしかして。私が生きる21世紀にも、こういう良い人たちが、私を受け入れてくれる誰かが、どこかにいるんじゃないかな…?

 「あれ、ユリアお姉様にウィプサニアお姉様!それから、ああ、その子がそうなんですね!」

 もう一つ、声が現われた。クラスの人気者みたいな、華やかさのある誰か。

 「はじめまして、異国のお姫様!アントニア・ミノルです!」

 …待った。お姫様って、私が?何やら、誤解があるような…?


 「やっぱりみんなで入るお風呂は楽しいね〜!」

 遊び人な長女、といった感じのユリアさん。

 「そうですね。新しい友達も一緒ですし」

 しっかりものの次女風のウィプサニアさん。

 「よければ、お国の話をしたくださる?私、遠いところの話を聞くのが大好きなの!」

 可愛い末っ子アントニア(小)さん。ちなみに彼女のお姉さんもアントニアという名前らしい。ローマ人同姓同名多すぎでしょ。

 ウィプサニアさんのお父さんが主導して建設したアグリッパ浴場。3年前、ウィルゴ水道の完成によって本格的に機能し始め、今となってはローマで一番の人気スポットとなっているそうだ。

 本来はローマ市民権のない私は立ち入れないみたいだけど、ユリアさんが番頭さんに話を通し、特例で入らせてもらうことになった。

 温泉、というよりも銭湯に近い趣が感じられる大理石の浴室。熱いお湯が気持ちいい。気持ちいい、のはいいんだけど…。

 ちょっと、いや、すごく落ち着かない。理由は主に二つ。

 一つ、その…すごく時代を感じるんだけど…お付きの方…言い方変えると奴隷…の人が浴槽の近くでずっと控えてるんですよ…いつもお疲れ様です…。もっとも…待遇はそこまで悪くなさそうで何より…。

 で、もう一つは…。

 「アウグストゥスも君の話を聞きたがっているようでね。というわけで、今夜は宴会だ!楽しみにしていてくれ!」

 「…少し忙しないが、あの方の知遇を得ておけば今後の心配は軽くなる。なに、考えすぎる必要はない。目の前の食事の味を楽しみながら、聞かれたことに答えれば良い」

 「湯煙に包まれたアントニアも可愛い、ああ…眼福!」

 アグリッパさんに、ティベリウス、そして弟のネロさん。…なんで男衆がいるの!?混浴かよローマ帝国!?てゆーか、せめて[検閲済]隠せや!

 (こちらプエル、説明しよう!ローマ浴場には最初、男女別の浴室とかそういう発想はなかったのである!当然風紀の乱れが問題になって色々変わっていくけど、それはまた別の話!アカネさん、グッドラック!)

 …謎の幻聴も聞こえてきた。気を紛らわすために、こっちから積極的に話を振ってみよう。

 「そういえば、アントニアさんは私のこと、お姫様って言ってましたよね?今のところ、私、お姫様とかじゃなくて、普通の平民だと思うんですけど」

 「あー、そういえば…私、どうしてそう思ったのかな?」

 アントニアさん自身、よく分かっていないらしい。

 「別にいいじゃないか。出自なんて関係ない。貴族でも、平民でも、解放奴隷でも、誰だって、女の子はお姫様さ」

 「きゃー!ネロ様、カッコいいー!」

 ネロさんがキザな決め台詞を発し、アントニアさんが悲鳴を上げる。なんかいちゃつくための出汁にされた感。あと、公共の場所で乳繰り合わないで欲しい。風紀が乱れる。

 「俺が見るに、君はなかなか優れた知性の持ち主のようだ。我々のものとは異なる体系だろうが、ある程度の教養を修めているのだろう。言動にそれが滲み出ている」

 新婚のラブラブ空間をよそに、ティベリウスが穏やかな笑みを浮かべながら私のことをそう評する。

 「教養なんて、そんなの無いよ、私には」

 「謙虚だね、アカネちゃんは。ちょっとセレネ様に似てるかも」

 「ああ、セレネというのはクレオパトラ・セレネ…プトレマイオス朝最後の生き残り。あの女王クレオパトラの娘。私の幼馴染で、今は北西アフリカのマウレタニア王国のお妃様!めちゃくちゃ頭が良い子なんだよね!」

 「このアントニア(小)の妹でもあります。えっへん!」

 世界三大美女の娘とか、純正のプリンセスと比較されても困ってしまう。というか、好感度が上がりまくりで怖い、何なのこの人たち。

 「ねぇ、アカネちゃん」

 「はい、ウィプサニアさん」

 「…この街に、残らない?」

 …え?

 「私たちが面倒を見るからさ。この街でなら、きっと色んな生き方を選べる。男の子ほど自由じゃないにしてもね。

 そうだ、もし私たちに子供が生まれたら、家庭教師をやってもらうとかいいかも…なんて、ごめんね、勝手に盛り上がっちゃって」

 「い…いえ…」

 もし…この記憶の世界に残れるなら…私は…。

 「それも良いかもしれない。しかし…我が娘よ。この子は、帰りたがっているように見える」

 アグリッパさんの言葉。私が…帰りたがっている…?

 「…俺も同感だ。だから、君が帰路につけるよう、俺達はできる限り努力する。…もっとも、距離が距離だから時間は掛かるがね…多分…十年ぐらい…」

 「最後の一言で全て台無しですよ、ティベリウス様」

 確かにこの時代の航海技術じゃそれぐらいかかるかもしれないなぁ、と思いながら私はティベリウスとウィプサニアさんを見る。…笑っている。とても…幸せそうで…。

 …でも、やっぱり[規制済]とか[検閲済]は隠すべきだと思うんだよなぁ。


 風呂上がりに運動をして、それから向かったのは、パラティヌスの丘にある大きな邸宅。

 「ここが…皇帝の宮殿………?」

 …想像したほどには大きくなかった。それに、聞こえてくる会話は、王家の華やかな生活というよりも、行政や立法を司るお役所を感じさせる。

 (そして…私は何故、子守をしてるんだろう?)

 二人の小さな男の子、ガイウス君とルキウス君。ユリアさんとアグリッパさんの息子二人は、静かに巻物とにらめっこをしている。

 無言の空間が広がっている。そこに響く足音。

 冷たい汗が背を伝う。何かが、来る。

 「…『友情について』。…キケロの本か」

 端正な顔立ちの、初老の男性が立っている。

 「ご、ごめんなさい、お祖父様」

 「何を謝る必要がある?…これは、良い本だ。目の付け所がいい、きっと将来有望だな。

 でも、まだお前たちには難しかろう。何が書いてあるか、じいじが説明してあげる。ああ、御崎暁音、お前も一緒にどうだ?」

 …私のフルネーム!?それに、お祖父様ってことは…。

 その名前は、誰もが知っている。英語で八月を意味するAugustの由来となった、世界史で最も有名な偉人の一人。

 初代皇帝アウグストゥス。

 イメージよりもずっと温和で、家族思いのおじいちゃんに見えるその人は、孫二人を抱き寄せると、巻物を手にとって和やかに語り始めた。

 …結局、内容はあまり頭に入ってこなかった。いつの間にか、子どもたちも疲れて眠ってしまっている。

 「…ああ、嘘じゃないさ。期待していたよ…本当に」

 そのあどけない寝顔を見つめる瞳は、とても淋しげに見えた。何かを、見通しているかのように。

 「御崎暁音」

 「は、はいっ!?」

 素っ頓狂な声で返事した私に対して、皇帝陛下はフッと笑う。

 「私のローマはどうだった?」

 「…素敵な街、だと思います。ティベリウス…さんもウィプサニアさんも。良い人ばっかりで。

 街に活気があって、みんな笑顔でした。多分、皇帝陛下のおかげなんでしょうね」

 「…そうか。これは実によく出来た…いや、食事を前に難しい話はナシだ。

 楽しい一日だったようで何よりだよ、遥か彼方より訪れしお客様…これから、その締めに移ろう」

 孫たちを使用人に託すと、やや芝居がかった調子で、皇帝は私に手を差し出す。

 「昨日も明日も、忘れてしまえ。今は、食べて飲む時間だ。そして、騒ぐだけ騒いでやろう。

 さあ、参ろうか!美味しい夕餉と、春の記憶たちがお前を待っている!」

 「…はいっ!」

 夕焼けの光に照らされた影の手を取る。その手は、微かに冷たく、けれどもそれが心地よかった。


 こんな贅沢な食事は、生まれて初めてかも。

 色々知らない料理が出てきて、ユリアさんやアントニアさんがその都度説明してくれて。

 皇帝陛下とアグリッパさんは、中身のない昔話をしては大爆笑。ネロさんもその輪に加わり、最終的にはティベリウスも堪え切れずにクックックと変な声を出してウィプサニアさんに笑われていた。

 …かなり特殊な状況ではある。ティベリウスとネロさんは連れ子で、ユリアさんとウィプサニアさんは3歳差なのに義母と義娘で、アントニアさんは政敵の忘れ形見。

 きっと、皆、言葉にしがたいものを抱えているはずだ。でも…そんなの知るか!って感じで、この瞬間を楽しんでいる。確かに、彼らは家族なんだ。

 目を閉じると、お父さんとお母さんの姿が浮かんできた。こみ上げてくる苦さを誤魔化すために、果物の蜂蜜漬けを頬張る。…甘い。この時間と同じで、まるで夢のように。


 「…楽しかったな」

 「私もだ。こんなに笑ったのは何年ぶりか」

 ネロさんとアントニアさんは飲み過ぎで気絶、お付きの方に回収されていった。ティベリウスの方はいくら飲んでも正気を保っているようだったが、ウィプサニアさんにストップをかけられて退場。ユリアさんとアグリッパさんは、目を覚ました子供たちに遊ばれている。

 気づく。ここにいるのは、私と、アウグストゥスだけだ。

 「…みんな、いいヤツらだろう?」

 「はい。…ずっと、こんな日が続けばいいのに」

 「私も、同じ気持ちだよ…御崎暁音。

 だが、お前なら分かるだろう。そんな綺麗事は…古今東西、どこにも存在しない」

 苦々しげに、皇帝はそう呟く。楽しい時間を惜しむように、彼はグラスに残ったワインの一滴を口に流し込む。

 「皇帝陛下…あなたが、一人目の協力者、ですか?」

 …この、虚構のローマに誘われる前に聞こえた少年の声が告げていた。三人の協力者がいると。

 「プエルから聞いていたか。

 そうさな…ふむ。では、昔話から始めよう」

 皇帝の後について、廊下を歩く。書庫から巻物を一巻取り出して、月明かりに文字をかざす。

 「今のお前なら、読めるはずだ」

 もちろん、ラテン語能力は私には皆無。そのはずなのに、その本のタイトルと著者名がはっきりと認識できた。

 「『国家について』。マルクス・トゥッリウス・キケロ」

 「…素晴らしい人だったよ。本物の、憂国の士だった。

 ユリウス・カエサル…お前の時代だとジュリアス・シーザーの方が通りが良いか…の悪友でもあった。政治的な立場は真逆で、仲はあまり良くなかったが、文学については趣味が合ったらしい。議論を肴にして、何度も酒を酌み交わしたそうだ」

 皇帝は、目を閉じ、巻物を閉じて傍らに置く。

 「カエサルが殺された後、その名を継いだ私はキケロに会いに行った。老いてはいたが、執政官を務めた大物政治家な上、その弁舌は衰えを知らず、ますます切れを増していた。

 …会って確信したよ。この老人は正義の人だ。共和政の存続が国のためになると本気で信じ、命すらかけてしまえる。同時に…利用できるとも思った。信念は違えている、だがそれでも、私も理想のために戦う覚悟をしていた。だから、この老人は、私の熱を理解し、そして私のために力を貸してくれる、間違いなく」

 在りし日の、かけがえのない友を惜しむ声。痛みと、悲しみが書庫にこだまする。

 「ああ、私の読みは正しかった。キケロは何かと私を気にかけてくれた。まるで息子を思うかのように、何度も励ましてくれた。

 しかし、なんでかねえ、正義感の強い人間ってのはどいつもこいつも生き急ぐ。死んだら、元も子もないだろうに。

 頼まれもしないのに、アントニウスを非難する演説をぶちあげてくれた。おかげで、器の小さいあの脳筋馬鹿はカンカンだ。しかも間の悪いことに、私はまだ、政敵を好き勝手できるほど偉くはなかった。

 キケロには、消えてもらうしかなくなった。本当に…残念だよ…」

 どうして、そんな話を私にするのだろう。その、キケロって人は、きっととても良い人だったんだろうけど…同時に、私には関係のない人だ。

 「…お前は、父親を小さな内に亡くしているとプエルから聞いた。それから、母親と関係が拗れていることも聞いている」

 「私の個人情報を勝手に…。その、プエルって一体誰なんですか…?」

 「ある本好きの成れ果てだ。気にする必要はない。

 …つまり、お前は親から人生を学ぶ機会を、あまり多く持つことが出来なかった。故に、お前は知るべきだ。多くの人生を。参考になるかは別として、な。

 次は、これからの話だ。少し、風に当たりながら話すとしよう」

 アウグストゥスと二人で、公邸を出る。坂をゆっくり下りながら、フォロ・ロマーノを目指す。

 「…皇帝陛下ともあろうお方が護衛もつけずに大丈夫なんですか?」

 「御崎暁音、お前がいるから大丈夫だろう。

 その足取りは騎士のものだ。ここまでの展開で、ティベリウスに仕込まれたな」

 そこまでお見通しとは、恐るべし初代皇帝。

 「だが、それだけではない。既に、かなり侵食が進んでいるようだ。あの女神の権能を、お前は一部とはいえ行使することが可能になっている」

 「侵食…女神…?」

 「今は止まっている。そして、まだ手遅れではない。

 聞こえただろう?蛮行へと自らを突き動かす、血に飢えた声が。そして、学舎を模した異界では精神を一瞬とはいえ完全に掌握され、あの子の人形を手にかけてしまった」

 …何の…話をしているんだろう。…いや、私はもう知っているはず。私に根付き、そして取り込もうと迫る彼女の存在を。

 「お前には素質があった。自らを受け入れないように見える世界への恨みが。その苦しみは、きっかけさえ与えれば他者に対する凶暴性へと容易に転換する。

 しかし、同時に耐性もあった。何故、こんなまどろっこしい手段に訴えているかは知らないが、あの女神はどこかでティベリウスだった自我の残骸、そしてあやつに紐づけられた記憶の断片を手に入れ、この箱庭の素材とし、お前の心を完全にへし折り、依代とするために利用した」

 理由は全くわからない。だけど、少しずつ状況が飲み込めてきた。

 これはただの夢じゃない。一種のバーチャル・リアリティ、仮想現実だ。かなり高度な代物だから、シミュレーテッド・リアリティと言っても良いかもしれない。

 「はたして、女神の目論見はほとんど達せられた。お前の精神は崩壊し、隷従の契約を結ぶ寸前まで追い込まれた。

 だが、ティベリウスの存在を計画に組み込んだのは失敗だったな。おかげで、関わりの深い存在による二つの介入を許した。

 一人はプエル。ヤツは、この箱庭が形成された時点で密かに干渉を開始し、お前の思考を閉じ、女神の侵食を食い止めることに成功した。

 そして、もう一人はこの私だ。死後、私は神として祭り上げられ、意識を保つことができた。おかげで、プエルの計画に協力することができる。

 ティベリウスは結局、最後の最後まで私に心を許さなかったし、私も私でアイツの頑強さ、そして無駄に丈夫なところが心の底から大嫌いだったが…それでも、アイツは私の息子だ。私の遺志を理解し、人生を捧げてくれた。…こんな形で利用されて、黙っていられるはずがない」

 養子であるティベリウスへの強い思い入れが伝わってくる。それが子に向けた愛なのかは分からない。むしろ、二人の間にあるものは、戦友や同志の関係性に似た、歪な信頼に基づく、しかし確かに存在した絆、というべきものかもしれない。

 「…現実への帰還には、三つの障壁が立ちはだかる。

 一つは、お前自身。痛み、苦しみ、絶望を抱えた5年間に対する決着が必要だが…これに関してはプエルに考えがあるようだ。

 二つは、ティベリウスが経験してきた喪失。それを通して、お前は世界との関わり方を見直さなければならない。

 そして、最後に、この箱庭の作り手と対面しなければならない。地中海東岸…歴史的シリアないしマシュリク、あるいはカナンと呼ばれる地の神話体系。その中で語られる美と戦いの女神。その名は…」

 その名が纏うのは、何よりも深い、ただ一筋の愛の形。すなわち…。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 少し、時は遡って。


 地面を蹴る。天井から落下してきた上半身型の怪物。直感だが、肌に直接触れられた時点で即死する呪いがかかっているようだ。可能ならば、真っ先に処理したい。

 右手で帯を鞭のごとく振るう。全身運動と連動した鞭の動きは風を切り、その速さは歴戦の剣士の太刀筋を凌駕する。しかも、この帯の先端には金具がついているから、生身の人間の頭部に当たれば頭蓋が砕けかねない威力が出る。

 上半身の模型は避けたようだが、甘い。即座に力の方向を変え、軌道を変化させる。蛇が食らいつくかのように、金属部分が化け物の眼窩にめり込んだ。

 と、ほぼ同時に鎧武者の袈裟斬りが迫る。一歩引いたが、胸筋をハスられた。軽く血が吹き出る。帯の方も切れて使い物にならなくなった…馬鹿の一つ覚えも、侮ってはならないようだ。

 「この鎧の相手は厳しそうだ、なッ!」

 ならば、逃げるのみ。戦いにおいて、背を向けるのは恥ではある。だが、軍事において重要なのは捕虜の数でも個々の戦闘の勝利でもなく、設定された目標の達成だ。つまり、最後に勝つのが俺であればそれで良い!

 廊下を走り、二階へと駆け上がる。一つ、策がある。

 「また袈裟斬りか!同じ技の繰り返しで、この私を捉えられるかな?」

 上段から振り下ろされた一撃は、見事に切り裂いた。…宙に舞う、黒い外套を。

 「きっとお似合いだ、仲良くな」

 背後に回った俺は、渾身の横蹴りで鎧をふっ飛ばした。例の女怪が徘徊する図書室の中に。予想通り、仲睦まじく殺し合いを始めてくれた。

 「プエル、残りの怪異は?」

 「残り四つのうち一つは消滅済みです!音楽室と美術室には立ち寄らず、最後の怪異…存在しない五階に向かってください!」

 「感謝する。では…アカネを回収してから…」

 「駄目です。彼女は放置してください」

 …プエルの言葉を理解できず、足を止める。あの子の心は壊れかけだ。放っておいたら手遅れになりうる。

 「…は?」

 「理由はまだ説明できません。盗聴されている恐れが否定できないので。どうかこの僕を信じていただきたい」

 …この状況で傷心の娘を置いていけと抜かすとは、相変わらずイカれている。だからコイツは女にモテんのだ。…だが、プエルは嘘をつくのが下手くそだった。決して善人ではなかったが、自分にも他人にも嘘がつけない、気持ちのいい馬鹿野郎だったのを覚えている。

 「油断せず!まだ、人体模型の下半身が動いています!」

 確かに足音がする。しかも、間隔が異常に速い。

 「馬が欲しいな。戦車競走では負け知らずなんだが!」

 「よっ、オリュンピア大祭優☆勝…じゃなくて急いでください、早くッ!」

 急いで階段を上がるが、追いつかれそうだ。どうする、ティベリウス?

 どこかで隠れるか?いや、駄目だな。視界がないのに追ってこれる以上、意味がない。なら、殺るか。

 三階と四階の中間、踊り場で迎撃。

 両脚での飛び蹴りを避ける。そのまま壁を蹴り、飛び上がって蹴りおろしに繋げてきたのには冷や汗が出たが…隙ができたな。

 この建造物に迷い込んでから、俺は靴を履いている。ここの教師の正装なのかもしれない。かなり頑丈なつくりだ。

 「お別れだ」

 着地と同時に、敵の軸足につま先を叩き込む。これでもう、走れまい。

 だが、何か追加で仕掛けられても困る。四階へと一息で駆け上がると、先程は存在していなかった階段が出現していた。かなり古びているが、構わん、そのまま走り切る!

 石造りの扉の隙間に飛び込む。橙色の光に照らされた、巻物と冊子に、粘土板や石碑などが無造作にばら撒かれた空間。らしい場所だ、と思いつつ、少年の方を見る。

 …幼い日の姿。びっこを引き、口の端から漏れてきた涎を拭いながら、近づいてくる。

 「お会いしとうございました…!」

 泣きそうな、ひどい顔をしている。黙って澄ましていれば父親似の美形なのだが、表情と言動が全てを台無しにしている。

 「惜しいことだな」

 「何の…えっぐ、話…ひっぐ…ですかぁ…?」

 「こちらの話だ。あと、泣くな。鼻水が本に垂れるぞ」

 「うぇ…?あ、いけない…!」

 半泣きのまま忙しなく本を片付け隙間を作る。

 「ええと、アカネさんが動き出す前に…ちょっと失礼」

 プエルは身振り手振りで何かをしろと言っている。なんだ…?視線を、合わせろ?

 「こうか?」

 プエルが頭に触れる…と同時に割れんばかりの激痛が走る。一気に意識が沈みそうになる。

 「グッ…何を!?」

 「…これが僕の、神としての力。いかなる情報であろうと、好きな媒体で複製できる。もっとも、一度にできるのは、僕が一冊の本、あるいは一個の史料と認識できる規模までですが。

 これを応用して、貴方の脳内に一つの『扉』を書き込ませてもらいました。御崎暁音、その過去の記録へと通じる扉です」

 …やはりコイツ、頭がイカれている!全く別の人間の精神を接続して、無事で済むとでも思っているのか!?

 何やってんだお前、と突っ込みたくなるが、そういえば、コイツは昔からこうであった。一族の中の異端者という絶妙な立場を良いことに、反体制的な歴史書をどんどん書いてしまう。師の教えに忠実なのは実に結構だが、こう、手心というものがないのか、とその著作を読むたびに息子と大笑いしたものだ。

 だが、神、か。神格化された、ということは…すなわち。

 「あ、ちょっと向こうに行っててください。アカネさんが動き出したので。僕の会心の仕掛けが発動すると同時に、あの高慢美少女系女神を笑い者にしてやります。ヘヘッ、美人許すまじ…!」

 年長に対する扱いか、これが。あと、あまりにもモテなさすぎて気が狂ったと見える。いや、あるいは…手酷い裏切りにでも遭ったか?


 どうやら、プエルにとって女性関係は禁句となっているらしい。真っ赤にしてプンプンと湯気を上げている。もっとも、私相手だからか、本気でキレているわけではなさそうだが。あと、先程の女神との会話、笑い者になったのはどちらかと言うとプエルの方に聞こえた、というのは彼の名誉のために黙っておこう。

 「…では、状況を説明します」

 「急に落ち着いたな。執務の時は、そういう面をしていたのであろうな」

 「…お気に召しませんか?」

 「…まさか。その顔を見れば、お前の母親も、お前のことを…すまん、過ぎたことだな」

 「…お気になさらず。代わりに、私はお祖母様に、そして師と友人に恵まれた。アウグストゥス様や貴方も僕を気にかけてくださった。カリグラ君も僕を頼りにしてくれた。心配されずとも、私は十分幸せ者です」

 「…モテないがな」

 「…一言余計です」

 実に、立派な顔だ。先程の情けなさが嘘のようだ。…小さい頃、あんな事がなければ、もっと幸せに、真っ直ぐに育つことができたろうに。

 …違うな。歴史にもしもはない。そして、コイツでさえ、自分の使命をやり遂げた。私も、かつての自分自身のように、ここでもやるだけだ。

 「ところで、プエル。先程から頭がこう…ピリつくのだが」

 「ああ、貴方の記憶…正確には私たちの記憶でアカネさんが大暴れしている頃ですからね。彼女の方にも扉を仕掛けておいたので」

 訂正。やはりコイツはひたすら狂っている。どうやって神格化まで漕ぎ着けた?

 「で、賢きプエルよ」

 「今、僕のことを褒めましたね!生きておいでだった頃は一度も本の感想をくださらなかった貴方が!」

 「…至って普通の小僧よ、この状況は、一体如何なるものか?」

 咳払いをするプエル。議論を始める時のクセだ。

 「極めて重大な事件です。恐らく、貴方が予想しているよりも遥かに。

 あの女神の目的が達成された場合、最悪の場合、人類は絶滅します。もっともマシなケースでも、アカネさんが暮らす東京、現在の世界最大の都市は壊滅を余儀なくされ、世界復興機構…現行の世界政府の機能停止に伴う…」

 「焦るな、プエル。しかして、そのように世界を滅ぼしうる女神…名のある御方と見たが」

 「…皇帝として、東方に多少なりとも関わりがあった貴方ならば、名前だけは聞いたことがあるはず。

 アナト。女神アナト。太古のセム族の都市国家ウガリトを中心に、シリア・エジプトで広く信仰された…かのオリエントの大神、バアルの配偶神の一柱です」

 アナト…確かに、聞き覚えのある名だ。ウガリトなる街については初耳だが、エジプトにおいては王権の象徴として、古の大王ラムセス2世からも篤く崇拝されたと。

 「しかし、何故だ…?何故、そのような貴き御方が、人の世に害を為そうとされるのか?」

 「…とても、長い話になります。それを考えるには、我々の去った後を、この世界の歴史を振り返らなければならない」

 プエルが語ったのは、大きく在り方を変容させ、しかし、その本質の上では一歩も前進しなかった、二千年の物語だった。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 頭が痛む。

 記憶が…。

 最悪の時間が、頭に流れ込んでくる。


 紀元前9年、ゲルマニア。

 一人の騎士が、夜の森に敷かれた簡易な道を駆け抜けていく。

 「ネロ、待ってろ。今すぐに行くからな。頼む、無事でいてくれ…!」

 昼夜を問わず、馬を乗り換えながら、騎士は一切の休息をとらずに、ただひたすら道を突っ走る。

 「ティベリウス様…!?」

 「百人隊長だな!弟は、ネロはどこにいる!」

 基地に転がり込んだ騎士は開口一番そう問いかけると、絶望に染まった将兵達の表情にも気づかずに、司令部の一室に駆け込む。

 そこには、血の気の失せた青白い顔で…騎士の弟、ネロ・クラウディウス・ドゥルーススが横たわっていた。

 「ティベル……兄…さん?」

 「…ああ、兄さんが…来てやったぞ」

 騎士は明らかに動揺していた。前線からの帰途、落馬により負傷、そのまま意識不明。その報を受けて、彼は最悪の可能性を想定していた。だが、それでも、弟ならば大丈夫だと信じていた。だって、ずっと一緒に、どんな困難でも乗り越えて来たのだから。

 だが、気づいてしまった。騎士は、前線で傷を負い、病を得て死んでいく兵士達を見てきた。両手では数え切れないほどに。その兵士達に浮かんでいた死相が…弟の…ネロの顔にも見える。

 …ふざけるな。

 そんなわけがないだろう。

 ネロ・ドゥルースス。俺の自慢の弟だ。みんなから愛される、可愛い可愛い、俺の、俺達の大切な家族だ!

 こんなところで、死ぬわけが…死んでいいわけがないだろうが!

 「…はは……油断…しちゃった。ごめん…なさい…兄、上…」

 「…誰だって、失敗はする。俺だってそうだ。次に活かせば良い。そうだ、必ず次がある。それまで、生命を繋ぐんだ」

 騎士は諦めない。決して、諦めない。

 その日から、彼は基地に留まり、自分だけでなく弟の分の仕事をもこなしながら、時間を見つけては、弟の側に立ち寄り、励まし続けた。幼い日の話や、夫婦生活の悩み、将来の理想まで、多くを語り合いながら。

 だが、その甲斐なく。

 「…兄さ…母…上…父…う…え」

 「大丈夫だ。俺がついてる。兄さんがついてるんだ。何も心配要らない。大丈夫、必ず、必ず助かるから」

 「………ごめんなさい。僕は、ここまでみたいだ」

 騎士の目が絶望の色を帯びる。…駄目だ、死ぬな。

 「何を言ってるんだ、お前は…!アントニアが待ってる!いつも、お前の話を楽しみにして!

 彼女だけじゃないッ!子供たちもまだ小さい!特に、一番下の、俺と同じ名前のあの子は身体が弱い!お前が背中を見せなくて、誰があの子達を導いてやれる?」

 そうだ。お前はこれからだ。俺達はこれからなんだ。平和な国を、子供たちの幸せな未来を、一緒に作ろうって、約束しただろう!

 「…もっと、夫として、父親として…生きたかったなぁ」

 「弱音を吐くな!まずは、休め。そうすれば、治る…治るんだ…!」

 「ウィプサニア義姉さんみたいに、あの子を…もっと…幸せに…」

 「………きっとあの娘も、お前の帰りを楽しみにしてる。だから…逝くな、ネロ…!」

 「兄さん…を一人に…嫌だなぁ…。

 どうか…子供たち…と…アントニアを…よろし…おね…が…」

 「ああ、分かってる。大丈夫だからな………ネロ………?

 おい…返事を………兄さんの…言葉が…聞こえない…の、か………?」

 現実を受け止めきれず、騎士は肩を落とす。

 命を捨てるのも厭わないまでに、若き英雄を慕っていた兵士達の慟哭が…あってはならないことが、現実で起きていることを告げている。

 騎士は…泣いた。生まれて初めて。…静かに、声も上げずに。

 涙が枯れ、冷静さを取り戻してから、騎士は状況を分析し始める。

 落馬事故による負傷、そして病死。

 前線では、よくあるとまでは言えないが、想定しうる状況だ。

 帝都での葬儀の後、騎士は思考を回転させる。

 …なら、何を恨めばいい?俺の片割れは…なんで、死ななければならなかった?こんな寒くて、寂しい森で、無意味に死ななければならなかった理由は何だ?

 …そうだ、この…ゲルマニア戦線。アウグストゥスが目指す、エルベ川へ国境線を拡張し、帝国北東部の軍事的脅威を完膚なきまでに克服せんとする…拡張政策。

 騎士は生粋の軍人だ。その戦略的思考は決して揺らがず、寸分の狂いもなく計算を繰り返す。あらゆる可能性を想定し、莫大な数の仮想戦闘を脳内でこなし、政治や社会、現地の文化習俗、すべての知識を総動員し、結論を弾き出す。

 ローマ帝国が、ゲルマニアを征服するのは限りなく困難。仮に征服に成功したとしても、莫大な人員・資源を注ぎ込んだ挙げ句、統治の確立に失敗する。最悪の場合、軍事的失敗と国家財政の破綻により帝政の権威は失墜し、再度の内戦、属州や同盟諸国の離反により、今度こそローマは滅ぶ。

 この戦争は無駄だ。だが、無駄と分かったなら、やめれば良い。

 そうだろう、アウグストゥス。

 何故分からない。何故、無意味な拡張政策に固執する?

 兵士は…貴方の…アンタの道具じゃない!みんな、生きた人間なんだ!

 ふざけるな!ウィプサニアの時も…!

 貴様は、ヒトを…人間を何だと思っているんだ!

 クソッ!…こんな時…アグリッパ様がいてくださったら…!

 ……………。

 ………もう限界だ。


 「う…ぐ…が…アアあ…!」

 「…プエルめ、安全性、検証する前に精神を繋げたな?」

 頭が割れそうになる。心を引き裂き、死に至らしめるのに値する絶望と痛みが流れ込んでくる。

 「『アウグストゥス…!お前が…お前が…!』」

 「呑まれるな、暁音。それはティベリウスの記憶だ。お前のじゃない。

 …分かってはいたつもりだったが…ここまでとはな。…私は…私なりに最善を尽くしてきたんだ…」

 憎い…殺してやりたいほどに。でも、同時に気づいていた。再び立ち上がらなければ。この喪失も、あの光のような日々も、全部無に帰してしまう。

 「…だが。あの時…お前の話をきちんと聞いていれば、何か、違ったのかもしれないな………。こんな事を言っても…もう、何も取り返せないが…」

 …アウグストゥスの晩年は、少なくとも他人の目から見れば不幸なものだった。

 後継者問題だけに絞っても…ガイウスとルキウス、二人の孫は若くして世を去り、彼らの弟であるポストゥムス少年は精神を病んで幽閉される運びとなった。

 そこまで来て、ようやくティベリウスの番が来た。もっとも、アウグストゥスの大甥、ティベリウスにとっても亡き弟の忘れ形見であった少年、真の後継者であるゲルマニクスが経験を積むまでの「つなぎ」としてであったが。

 だが、それでも。

 ティベリウスは帰ってきた。

 ロードス島を出て、ローマへ。

 「…だが、お前に贈るべきは謝罪ではなく、感謝だ。

 私では、帝政システムを完成させるに能わなかった。ティベリウス…お前は、いや、お前たちは私の負の遺産を解消し、さらに皇帝という機構の意味を、この私という個人から、その意志を継ぐ『誰か』へと書き換えた。そのために払われた犠牲は、何物によっても贖うことはできないだろう。

 だが、お前たちの尊い犠牲が無ければ、ローマは存続せず、はるか未来…御崎暁音の生きる世界は存在し得なかった。

 だから、言わせてくれ。…よくやった、と」

 身体の震えが収まっていく。私のものではない憎しみと怒りが、少しずつ分解されて、心の中の暗闇へ還っていく。

 「…ふう、落ち着いたか」

 「はい」

 「いい表情だ。さて、この先に見せたい物がある。

 その後で…私の先の話を始めるとしよう」

 丘の麓に、古びた神殿が建っている。相当古いが、それでも、手入れが行き届いて、大切に使われているのであろうことが分かる。

 「夢の中でもご苦労だな、巫女殿」

 「んあ?…おー、そっちもお疲れ様でーす…ふあぁ…。

 あ、そうだ…注意事項の確認です。もし、私たちの一人にでも手を出したら?」

 「超簡単な常識問題…即ち、死刑!…って、信用ないな、私!?」

 「日頃の行いですよ」

 一人の女の子がうつらうつらしていて、その側で、小さな火が揺らめいている。ティベリウスたちの記憶が、その炎の名前を知っている。

 「…かまどの女神、ウェスタのご神体。ウェスタの火」

 「そうだ。王政の時代から最後の皇帝テオドシウスの時代まで、千年間絶えることなく受け継がれる…この国の精神の象徴だ。

 暁音、私が戦った理由はコレだ。もっとも、守りたかったのは形ではないがね。この火が神々と帝国の落陽と共に消え、我々の偉業がことごとく忘れ去られようとも、熾火のごとく燃え続ける人間の意志。それを守りたかったんだ。

 そして、私は、私たちは勝利し続けている!御崎暁音、お前たちが生き、より良い明日を求め続ける限りは!」

 「うるさいですよ〜、真夜中で近所迷惑です〜」

 「巫女殿!?大事なところだよ、今!?」

 …側に寄って炎を眺める。その中に、過去の歴史が微かに見える気がする。道半ばで倒れた人々、最期まで戦い抜いた人々…そういった多くの意志を背負って、この小さな火は燃え続けたのだろう。

 巫女さんに頭を下げて、神殿を出る。

 「さて…では、最後の話だ」

 「お別れは…寂しいです。もっと、ウィプサニアさんたちと話したかった」

 「…私もだ。…プエルめ、話が違うではないか。美女とのワンナイトはどこ行った?」

 この爺さん、最後の最後で全てを台無しにするつもりなの?男って、こうすべからく馬鹿なもんなの?

 咳払いをして、皇帝陛下は何事もなかったかのように話を続ける。

 「…目を閉じて、念じれば、お前は次の場所へ飛ぶ。私とプエルで選定した、残り二人の協力者のうちの一人が待っている。名はゲルマニクス。ネロとアントニアの息子だ」

 「ゲルマニクス…ゲルマニアを制しし者」

 「…状況設定は、西暦19年のアンティオキア。アレクサンドロス大王のディアドコイの一人が建てた、セレウコス朝シリアのかつての首都であり、ローマ帝国第三の都市でもあった街だ。

 …それでは行ってらっしゃい、と言う前にもう一つ」

 月を背景に、くるっと回ってわざとらしくポーズを決める。まるで、舞台上の俳優のように。

 「よく聞け。人生は喜劇だ!…三流のな。

 脚本は意味不明。役者は全員ズブの素人。人様に見せられるようなものでは決してない。…だが、それが良いんだ。

 御崎暁音。これからでいい。地球という名の、建付けの悪い場末の劇場で、お前は自分が、心の底から笑える演技をしろ。観客なんて気にするな。好き勝手、大暴れしてこい」

 「…はいっ!みなさん、ありがとうございました!」

 月明かりに浮かぶ影を目に焼き付けて、視界を閉じる。イメージする。この先の物語を。

 …いざ、アンティオキアへ!

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