MEMENTO MORI/彼方の学舎
…いやぁ、随分と時間がかかっちゃった。
大丈夫かい、君?まだ、時間はある?
それは良かった。この夢はまだまだ続く。過去と現在が交錯しながら、様々な過去が溶け合いながら。
ああ、いくつか補足しておくべき点があるかもしれない。蛇足だったら適当に聞き流してくれていいよ〜。
・ポエニ語について
ポエニ語というのは、フェニキア語の方言だ。アルファベットの原型になったと言われるフェニキア文字で筆記される、セム系の言語。君の時代だと、もう絶滅して久しくなる。近縁の言語は、アラビア語やヘブライ語あたりが有名かな。
昔、カルタゴ研究に使えるかなって、ちょっと勉強しようとしたら、文字と文法構造がヨーロッパ系の言語と違うから難しくって、結局諦めたんだよね。今は習得してるけど。
・アエネーイスについて
「トロイの木馬」は知っているよね?
神話時代、ギリシアを二分する大きな戦争があった。ヘクトール、アキレウス、オデュッセウス…名だたる英雄たちの殺し合いの末、トロイアは敗北、灰燼に帰した。『イーリアス』で描かれているのは、このトロイア戦争の物語。その後日譚としては『オデュッセイア』が有名だね。
で、『アエネーイス』は、トロイアの王家の生き残り、アイネイアスの物語だ。紀元前1世紀の詩人、ウェルギリウスによる、ラテン語文学の最高峰。時間があれば、読んでみると良いと思うよ〜。
・ハンニバルって誰?
うええええええ!?
超々有名人!絶対、歴史の教科書にも載ってる!
古代世界において5本の指に入る天才的な武将!第二次ポエニ戦争において、ローマを滅亡寸前に追いやった最強の将軍、雷光のハンニバル!
ローマじゃ、子供を叱る時の決まり文句は「悪い子でいると怖い怖いハンニバルが来ますよー」だったくらいなんだぞ!
ええと、まあ、こんなところかな。
ん?「プエル様、どうか話の続きをお聞かせください」だって?
もう、しょうがないなぁ、そんなに気になるのかい?
え、言ってない?「さっさとしろこのクソガキ」?
あー、あー、聞こえない、聞こえなーい!
まあ、何でもいいや、続きを話すとしよう!
〜〜〜〜〜〜〜〜
住み慣れた家を離れ、街道をゆく。小さな手を放さないようにして、歩を進めていく。
「ティベルお兄様、これからどうするの?」
幼い瞳が僕を見上げている。不安を和らげようと、僕は笑顔を作って問いに応える。
「母上のところに行くんだ」
「お母様!お母様に会えるの?」
「ああ。楽しみか?」
「うん!ぼく、お母様のこと大好き!」
「…そうか。僕もだよ、ネロ」
…母上のことは、今もまだ信じられない。あの男、僕たちの新しい父親となる彼のことも。
誰にも心を許すつもりはない。だが…。
弟だけは、ネロだけは、必ず守ってみせる。僕にとって、唯一人の、大切な家族。
随分と立派な屋敷だ。流石は時の権力者。新参者のクセに、随分と羽振りが良いようだ。
「母上、お久しぶりでございます。貴女の息子、ティベリウス・クラウディウス・ネロが参りました」
玄関先で呼びかけたが…しーんとしている。母上、いらっしゃらないのか?
あるいは聞こえていないのか。ならば、もう一度。
「母上、私、ティベリウスが…」
「どーん!」
「どーん!?」
後ろからどーん、と小さな手が私の背を押す。何が何だか分からず、僕も叫んでしまった。
「な、な、なんだ!?」
「お兄ちゃんたち、誰?」
一回り、年下の女の子。分かる、分かるぞ。下手に関わると、こちらが力尽きるまで振り回してくる類だ。
「どうしたんだ、いきなり駆け出したりして。
おや、君たちは、葬式の時の…。そうか、リウィアの子供たちか」
落ち着いた声の男性。かなり鍛えられている。おそらく軍属か。いや、というより、この顔、見たことがある。
「ティベリウス君に、ネロ君だったね。はじめまして。私の名前は…」
「アグリッパ様、ですよね」
あの男の懐刀と言われる、叩き上げの軍人だ。その知略を前に、父上も散々苦しめられたと聞く。
「そうだ。葬式の弔辞、実に立派だった。亡きお父上も、きっと誇りに思っているだろう」
「父上の自慢の息子であれるよう、これからも精進して参る所存です」
お前に何が分かる、と心の中で毒づきながら、僕は形式的な笑顔で応答する。
「…立派なことだな。ああ、さっきは娘が失礼をしたようですまない」
「別に気にしてなどおりません。元気いっぱいなお嬢さんでいらっしゃいますね」
女児の方を見る。満面の笑み。ムカつくなこのクソガキ。
「あはは…。ああ、リウィアは急用で外している。しばらくすれば帰って来るだろう」
「分かりました」
「それで…もし、よければなんだが…」
…何か流れが変わったな。途轍もなく、嫌な予感がする。
「娘と、遊んであげてくれないか?私も、これから用があるのだ」
ははは、嫌です、なんて言えるわけがない。かと言って、年下の女の子の扱いなど僕は知らん。どうしたものか。
「分かりました!何して遊ぶ?」
(ネロぉおおおおお!?)
この弟、ノリノリである。そういえば、此奴も体力無限大だったな!
退路が完全に塞がった。やれやれ。もういい、なるようになるがいい。
「おまかせあれ」
「ありがとう。娘を頼んだ、ティベリウス君に、ネロ君」
アグリッパは去っていった。まあ…まあ…なんとかなるだろう。
「じゃ、行こう、お兄ちゃんたち!」
「分かったから、そう焦るな。で、お前のことは、何と呼べばいい?」
歯を見せて、目を細めて笑う少女。きっと、何も知らぬのだろう。だから、そんな風に笑えるんだ。
「−−−−−−!それが、私の名前!」
腹が立つ。なのに、どうして、こんなに眩しいんだ。
…記憶に欠損がある。いや、私は覚えているはずだ、その名前を。
決して忘れてはならない響き。何故、形にできない?
「ハッ!?」
目に映るのは、暗闇。視力が死んでいるわけではない。光源がない空間に、私はいるのだろう。
「…最低の目覚めだな」
立ち上がり、辺りを探る。壁に手が触れる。注意深く、一歩ずつ進む。
壁に沿って歩いていると、突起に手が触れた。その出っ張りがズレ、カチッと音がしたかと思うと、世界が光に包まれた。
真夜中に太陽が現れたかのような、あまりに急激な光度の変化に、私は目を焼かれる。
それでも、少しずつ目が慣れてきた。恐る恐る、瞼を上げる。
「ここは…何だ…?」
濃緑色の板を向いて、整然と並ぶ机と椅子。
「…少なくとも、あの森ではなさそうだな」
反対側の壁に近づいてみる。透明な、大きな板が嵌っている。その向こう、つまりこの建物の外には、真っ暗な霧が満ちている。
「この板もしや、ガラスか?」
ガラス製品はよく見るが、完全に透明なガラスは見たことがない。そんなものが作れる職人が、この世に存在するとは。透明なだけではなく、表面は滑らかで、厚みも均一。これを作り上げるには極めて高い技術と集中力が求められるはずだ。
「机と椅子も、木材と金属を組み合わせて作ったもののようだが…どれも、寸分違わず同じ形状をしている」
今度は、部屋の前方、濃緑色の板に触れてみる。下部に設置された、金属製の小さな引き出しに、白い棒が入っている。少々粉っぽい。
「なるほどな」
どうやら、この白い棒で文字を書くことができるらしい。しかも、備え付けられた布で出来た箱でこすれば、簡単に消すことができる。数十人を前に、一斉に情報を伝達する、そのような使い方が想像できる。
「演説に使うには椅子の数が足りんな。軍の作戦室…というわけでもなかろう。血や鉄の匂いがしない。
だとすると、ここは…学校か?」
一人の教師が、教授せんとする内容を板に書き留め、多くの学徒たちに示していく、という形式か。
そして、何よりも驚異なのは、この「光」。
天井に細長い棒が数本。それらが眩い光を放っている。壁の突起を押すと、暗闇が戻る。もう一度押すと、また光った。
「これは、魔術か?…いや、魔術にあらず。どのような絡繰かは知らぬが、これは才能など関係なく、しかも訓練なしに、誰であれ使えるもの。道や、水道と同じだ」
この光があれば、夜闇も恐るるに足らぬだろう。その上、人類の活動可能時間は飛躍的に拡大する。神々の御業のごとき、凄まじい発明だ。
…いかん。年甲斐もなく、興奮してしまった。なすべきことを忘れるなよ、私。
状況を整理する。
鳥と人間が混じったような悍ましい怪物。力量は私の方が上だったが、戦い方を間違えた。
その時、アカネが加勢した。そして、斬撃の嵐が、化け物を肉片に変えていった。
だが、私の方はもう限界だった。逃げるように促したのだが、あの小娘、死にそうな顔で止血を始めたのだ。
「…全く、困ったものだ」
そして、その後、女の声が聞こえて、気を失った。そして、今に至る。
身体の具合は…絶好調だ。傷一つない。負傷した事自体が無かったことになっているかのように。
服も変わっている。ゲルマニアの服飾に似た、黒の外套とズボン。剣は…ないか。少しばかり、心許ない。
「実に、奇妙な夢であるな」
まずは、アカネを探さなければ。もっとも、怪物の類がまた現れるやもしれぬ。十分に気をつけなければ。
暗い廊下を進む。人の気配は…今のところ感じられない。
「これは…何と…!?」
廊下の両側には、先程と同じような部屋がいくつも続いている。それぞれの部屋の上には、見たことのない記号とアルファベットが併記されている。アルファベットは、おそらく番号の役割を果たしているのだろう。
最初の階層だけでも、収容できる人数は300人を超える。しかも、階段を降りた先にも、同じような空間が広がっていた。
ここは、本当に学校なのだろうか。
これほどまでに多くの人間を収容できる、大規模な施設。教育というものは、限られた人間のみが必要とするものだ。それに、普通は家庭で教師を雇って学ぶのであって、集団で学ぶのは一部の求道者や物好きだけだ。
…いや。
発想を転換しろ。この建造物が学校であるとして、どのような教育が念頭に置かれているのか。
一つの仮説が浮かび上がってくる。
「…ある程度の知識を持った人間を大量に育成、いや、生産するための学校。
何故?社会がそれを求めるからだ。多くの人間、下手をすれば、万人が知識を有さなければ成り立たない世界。…私の想像では追いつかん。まるで、夢物語のようだ」
いくつかの部屋は構造が異なるようだが、灯が点いていない以上、アカネがいる可能性は低いだろう。探索は後回しにしていい。
さらに下の階層に移る。階段を降りていくと、人影が前をサッと横切っていった。
「…アカネ?」
答える声はない。右手にある部屋の扉が開けっ放しになっている。中は暗い。例の突起を探し、光を灯す。
「これは、図書館か!」
大規模、とまではいかないが、多くの本が棚に収まっている。しかも、全て冊子体の本だ。巻物は一つも見つからない。
パピルスに記された巻物は嵩張るが、羊皮紙を用いた冊子は両面に文字を書ける上に、頁をめくることで読み進められる簡便さがある。私は巻物の重厚さが好きではあるが、世の人というものは楽をしたがるものだ。いずれは冊子体が普及するだろうと踏んでいた。
「ここは時代の先を行っているわけだ。
…この文字の感じは、手書きではなく、押印されたかのような趣がある。なるほど、そのような方法もあるのか。
しかし、絵のような文字だな。複雑に過ぎる…エジプト(アエギュプトゥス)の神聖文字でもここまでではないぞ」
アカネの姿を探しつつ、本を物色する。珍妙な線画のような文字で書かれた本がほとんどだが、ラテン文字による本も少しばかりあった。といっても、見慣れない字体に、知らない言語を筆記したものだが、一部の単語には見覚えがある。
「German Language…これは、ゲルマン語か。
Capital: Critique of Political Economy…頭、批評、政治、経済…政治経済に対する重要な批評、といった程度の意味だろうか?
そしてこちらは…ほう」
…興味をそそられる題名だ。手にとって、頁をパラパラとめくっていく。
途中まで来て、ピタリ、と指が止まる。次の瞬間、頁をめくる手が加速していく。
内容の九割九分は理解できない。だが。主題が何か、そして、それが何を意味するかは分かる。
信じがたい。まさか、そんなことがあり得るのか?
しかし、そう考えれば、謎のいくつかは説明がつく。
「気づいて…しまわれたのですね」
…その時、声が聞こえた。とても懐かしい声だ。
「…どこにいる」
声は聞こえるが、姿は見えない。
「ここで言えるのは三つ。一、MLKTはその女王ではありません。二、七つの怪異にお気をつけを。三、もうしばらく耐えてくだされば、僕が『鍵』を仕込みます」
「…何故、お前が」
この息遣いの必死さは、物真似ではありえない。
「…この続きは、また別の機会に」
「待て、プエル!」
声が途切れる。間違いない。この声はあの小僧だ。
だが…随分と歯切れが悪かった。気を張っている時のヤツは優れた弁論屋だった。もっとも、少しでも気を抜くと一瞬でボロが出るのだが。
なにか、重要なことを話せないような制約を負っているかのように感じられる。
「あの小僧がいるなら助かる。知識量ならば、ヤツは誰にも負けん」
もっとも、戦闘では足手まといにしかならんが。
…図書室にアカネはいない。本を机の上に置き、図書室から出ようとした、その時。
「ちゃんと…本は本棚に…」
寒気がする声だ。この世のものとは思えん。
振り返ってみると、異様に手足と髪の長い化け物が私を見下ろしていた。
「戻して、くださいネエエエ!」
これが「七つの怪異に気をつけろ」の意味か!分かるかこんなもん!
「反省、して下さいイイイイ!」
膝蹴りをまともに食らってしまい、私は図書室の外まで吹っ飛ばされてしまった。
「…くッ、意識…が…」
内臓がひっくり返ったのかと思うほど痛い。今の化け物は、図書室の管理者か何かだろうか。恐るべし。
そんなことを思いながら、私の意識は闇に沈んでいった。
〜〜〜〜〜〜〜〜
流石に、初撃を防ぐのは無理かぁ。
でも、次は警戒を高めるはず。残り6つのうち3つは、下手なことをしなければ対処可能、きっと大丈夫だ。
問題は残りの三つ。一階を彷徨いている落武者の霊、アレは武器がないと対抗するのは難しい。体育館倉庫の口裂け女は、対処法を知らないと即死。致命的なのはこの二つだ。
そして、最後の一つは、この手の怪異のあるあるだ。
学校の七不思議、その七つ目を知る者は誰もいない!もし知ってしまったら、災いが襲う!つまり、そもそも内容が決定されてないってこと。夢の女王が追加で何か仕掛けてくるとしたら、この七番目を使うはずだ。
なら、賭けにはなるけど、先手を打って仕込んでしまえば…って、あれ?
もしかして、君…僕を見てる…?
拙い。このままでは、僕の干渉を察知されてしまう!同じ土俵に立たされたら、僕に勝ち目なんて…!
いや、落ち着け、落ち着くんだ僕!
…そう、これは、逆に好機と捉えるべきだ。
悪いけど、ここで見たこと、聞いたことは忘れてもらう。記憶になければ、そう簡単には気づくことはできないだろうからね。
ついでに、君の思考の影にいくつか、仕掛けを書き込ませてくれ。大丈夫、害はないから。
…よし。偽装も完璧。じゃ、そろそろ夢に戻る時間だ。
きっと、この先で待ち受けるものは、君の闇を悉く暴き、傷口を開いたうえで塩を塗り込む、そんな性質のものだ。
それでも、君が目覚めへと向かえることを祈る。…彼のためにもね。
〜〜〜〜〜〜〜〜
今、誰かの声が聞こえたような。…気のせいか。
あたりは真っ暗だ。そして、なんとなくだけど、ここがまだ、あの夢の続きだって事はわかる。
手探りで周りを物色すること数分。スイッチに手が触れた。二週間以上ご無沙汰だった、電灯の光が煌々とあたりを照らす。
「ここ、うちの学校の保健室!?」
廊下からチラリと見ただけで、お世話になったことはまだないけど。どうして、私の高校?
「…ティベルは?」
そうだ、大怪我をしたティベリウスを、助けようとしたんだ。彼は…今どこに?
まさか、死んでなんかいないよね。お願い、無事でいて。
いつの間にか制服姿に着替えているけど、そんなことはどうだっていい。私は急いで廊下に飛び出す。
廊下は不気味なくらいに真っ暗だ。この高校、都立武蔵野第三高校は、駅から徒歩十数分の、住宅街の近くに位置している。だから、真夜中だって、こんなに暗くなるなんてあり得ないはず。
廊下の電気をつけながら、大階段へと向かう。ここの校舎は、三大企業の一つにして日本一の巨大財閥、秋津島グループが建設の際に多額の支援をしたそうで、近代的で綺麗な建物に仕上がっている。
問題なのは、ここがいわくつきの土地だってこと。なんでも大きな合戦があっただの、江戸時代の遊女の霊が出るだの、色々な噂があったところだ。
難民の流入による急激な人口増加、そしてそれに起因する土地不足で仕方がなかったとはいえ、お役所は元々あった古戦場の記念碑をぶっ壊して、その上に学校を建ててしまったのだ。
そのせいか、この学校はできて十五年しか経ってないのに、七不思議のバリエーションが十個ぐらいある、知る人ぞ知る心霊スポットと化してしまった。まあ、私は幽霊とか信じてないから関係ないけど。
大階段の下まで来たとき、足音が聞こえた。事務室の方面からだ。よく見ると、薄暗闇の中を人影が進んでいる。
「ティベル!良かった、無事だった、んだ、ね…?」
人違いだと気づいたときには遅かった。
(えーっと、確か七不思議の一つに、真夜中の校舎を徘徊する落武者ってのがあったような…見つかったら殺されるとかいうオマケ付き…)
夜勤の警備員が痴情のもつれで刺殺されたとかいう話と、古戦場の落武者伝説がドッキングした結果爆誕した話だったとか聞くけど、あはは。
冗談だよね、と思ったけど、刀を上段に構えて全力疾走してくる鎧を見て考えを改める。
袈裟斬りをバックステップで避ける。どうして?私、恨まれるようなこと何もしてないんですけど!?
ポン刀相手に素手で勝てるわけがない。クルリとターン、全力疾走。戦国時代の侍とデス鬼ごっこ、それってどんな悪夢だよ!いや、夢だったわ、これ!
いつまでも追ってくる落武者を巻くために、廊下を二周、三周。なんとか視線を切れたけど、しばらくは息を潜めたほうがいい、ということで、近くの教室に逃げ込む。
「遅刻DEATH☆ネ!」
…はい?
教師役と思しい人体模型と、生徒役と思われる姫や海賊のコスチュームを着たマネキンたち。
あー、あったね。誰もいないはずの教室で、幽霊が授業をしてて、迷い込むと仲間にされて二度と帰ってこない、ってやつ。
「嫌だなぁ、私、今のところ無遅刻!無欠席!体育以外は!」
「☆死刑☆」
「んな刑法あるわけないでしょー!」
人体模型とマネキンに追いかけられるという地獄。しかも、多分触れられたら即死だよね、これ!
「ぎゃあああああ!挟まれたああああ!」
前方から迫ってくる落武者。お願いだから勘弁してよ!
私の胴体を上下分割しようと、落武者の刀が一閃する。一か八か、私は横にズレながらスライディングする。後ろをチラッと確認すると、人体模型の上半身が宙を舞っていた。
そのまま落武者はマネキンとぶつかり始めた。ちょっと面白そうだけどそんなことは言ってらんない、私は急いでその場を離れた。
とりあえず、絶対に見つからない場所に一旦隠れて、作戦を立てよう。
というわけで、体育館倉庫。一人、マットの上に寝っ転がる。体操競技は競争要素がないから、お母さんに参加するのを許してほしい、とお願いしたのを思い出す。…あれ、それって、どういうこと…?
まだ、何か、忘れていることがある気がする。
「ねぇ」
赤いコートが目を引く、マスクをつけた女の人が私を上から覗き込む。これは一発で分かる。口裂け女だ。で、何で体育館倉庫に口裂け女がいるんですかね。
「ワタシ、キレイ?」
「そうですねー、綺麗ですよー」
女はマスクを取る。裂けた口は確かに不気味だが、型通りに綺麗だって答えれば問題ない。
…あれ?普通に、この人美人じゃない?ちょっと顔色が悪いのと、口が裂けているのが致命的だけど。
「コレデモ、キレイ?」
「はい、綺麗だと思います」
今度は、確信を持ってそう答える。
カチッ、という音がどこかで聞こえた気がした。
(君の……の…にい……か、仕…けを…)
電気が明滅する。口裂け女が、頭を抱えてうずくまっている。
「…大丈夫ですか?」
「ワタシ…私は…」
フラフラと立ち上がる彼女の顔を見て気づく。さっきと違って、口が裂けていない。至って普通の人間に見える。
「…ユリア」
「え?」
「…怖がらせてごめんね。あ!そうだ!もし良かったら、お姉さんとお話しない?」
夢の中で出会った、ティベリウス以外の、初めての人間だ。しかも、同性!
積み上げられたマットに並んで腰かける。シチュエーションは変だけど、友達ができたみたいで、ちょっと楽しい。
「改めて、自己紹介。私はユリア。ユリア・カエサリス」
「御崎…暁音です」
自分の美しさを理解している、といった感じの胸の張り方。その自信は見習いたいものだなぁ、と思う。
「ミサキちゃん?それとも、アカネちゃん?」
「アカネちゃん…で」
「じゃ、アカネちゃん。気分はどう?」
「あまり良くはないです」
こういう時は、気を利かせて元気です、っていうのが正解だったかな、と言ってみて後悔。
「ま、そんなこともあるよ。状況が状況だしね」
「もしかして、ユリアさんも、この夢に巻き込まれた…?」
「いいえ、私…」
曖昧な笑顔で、ユリアさんは否定する。
「…私のことはいいから、アカネちゃんの話を聞いてみたいな!」
「え、ええっ?」
この、私の?これはまた物好きな。それに、何か誤魔化されたような気もするし。
「まずは、好きな食べ物!」
「…カレーですね」
「それはどんな食べ物?」
あと、この夢で出会う人は皆、私と知識のズレがあるらしい。
「スパイスを沢山使った、茶色のペースト、みたいな料理です。お米と一緒に食べると美味しいですよ」
「何それ、いいな!食べてみたい!」
…家庭科室に、レトルトのカレーとかないかな。
「じゃ、次は…」
こんな下らない話を他人とするのは何年ぶりだろうか。内容はスッカスカなのに、話が弾んでいく。
ああ、そっか。私、友達いないんだ。
「じゃあさ、好きな人はいる?」
だいぶ踏み込んでくるな、と思いながら、考えてみる。
「好きな人…色恋とか、あまり興味なくて。人として好きな人はいるんですけど。
そういうユリアさんは、どうですか?美人さんだから、モテるでしょ、きっと」
「そりゃあ、もちろん!私にかかれば、どんな男でもちょちょいのちょい…だと、思ってたんだけどね」
ユリアさんの声のトーンが、少し落ちる。
「一人、いたんだ。何をしても、私に見向きもしない、大馬鹿野郎が一人だけ」
確かにいそうではある。ユリアさんは綺麗な人だけど、火遊びが好きそうというか、軽薄というか、少なくとも、誰からも好かれるタイプではなさそうだ。
「どんな人ですか?」
「パパの再婚相手が連れてきた子で、私の義兄にあたる人。クソ真面目で、人を馬鹿にしてて、疑り深くて。でも、凛々しくて、鋼の芯が通ってて、誰よりも責任感が強くて…初恋、だったのになぁ」
義兄への、叶わない初恋だなんて、恋愛小説が一冊書けそうな話だ。当人としては辛い失恋なんだろうけど、傍観者としては気になってしまう。
「じゃ、その人の名前は?」
「ティベリウス」
え?
「えっと、ティベリウスって…?」
「あれ、もしかして彼と知り合い?でも、ティベリウスって名前、ガイウスとかルキウス並みにありふれた名前だから…」
「まさかと思うけど、こう、ごつくて、いかつい人…だったり?」
あまりの驚きに、語彙力が死んでいる。ユリアさんは、手を叩いて目を輝かせる。
「そう、その人だよ!もしかして、ここにいるの?」
「え、あ、はい」
「そうなんだ…!ねえ、私を連れてって!彼に、伝えたいことがあるの」
そう来たか。しかし、外は危険だ。少なくとも、まだ落武者は健在だろうし、七不思議が具現化していると仮定して、残り五つがどういう怪異なのか分かったものじゃない。私一人なら、なんとかできるとしても、この、荒事とは無縁そうな女性を守りながら行動できる自信は全く無い。
「ここで、隠れていた方がいいですよ。見つけたら、どうにか言って私が連れて来ますから」
「…あの人が、自分から私のところに来るなんてあり得ない」
確信を持って、そして悲しげにユリアさんは言う。その瞳は、決死の覚悟を帯びている。
「お願い!きっと、こんな機会はもう二度と来ない!
だから、私を連れて行って!絶対に足手まといにはならないから!それに、七不思議のうち六つは、私知ってるし!」
魂も命も、全て投げ出してしまおう。そのような熱が伝わってくる。…ティベルなら、多分、頑として聞き入れないんだろうけど、私は甘ちゃんだ。その願いを、聞き届けることにした。
〜〜〜〜〜〜〜〜
「君がうちに来て、何年になる?」
「3、4年です」
昨日は、内戦の終わりを祝す凱旋式だった。乗馬が他人より上手にできた俺は、若輩ながら凱旋車を曵く騎手の一人を任された。
「これで、君も市民に名が売れた。本格的に表で活躍する日が待ち遠しいよ」
目の前には、最大の好敵手を抹殺し、唯一人の最高権力者になった、俺の義父がワインを傾けている。ようやく一つ仕事が片付いたからか、随分と機嫌がよいと見える。
「はっ、もったいないお言葉、恐悦至極でございます」
男は乾いた笑いを浮かべる。今の言葉に、何か怒らせる要素でもあったか?
「…堅いな。別に、公の場でもない。マルケッルスを見てみろ、飲めるだけ飲んで、そこで伸びている」
「彼はもう少し飲み方を考えるべきだと思いますが…」
隣に視線をやると、同い年の少年が死んだようにぐったりしている。この少年、マルケッルスは義理の従兄で、義父にとっては数少ない男性の親族だ。ある程度の無礼は、親愛の表れとして見過ごされるのだろう。
だが、いくら連れ子だとは言っても、俺は所詮、この男とは一切の血縁関係がない外様だ。下手なことを言えば、政界への道から外されかねない。弟にとっても不利益になる。
それに、俺はこの男にまだ心を許してはいない。これからも、許す気はない。この男は怪物のような人間だ。目的のためであれば恩人を平然と切り捨て、乳飲み子であろうと容赦なく殺す。
私と弟を引き取り、養ってくれていることには、心の底から感謝している。でも、それ以上の情をこの男に抱くことは決してない。
「そう言うな、トゥリヌス。君はもう、十五年前とは違う。気楽な小貴族ではなく、この国の頭なんだよ。
言動にはもっと注意深くあるべきだぜ。変な噂が流れたら面倒なことになるからな」
「お前まで堅いことを言わないでくれよ、マエケナス。それじゃ、いつまでも気が休まらない。私だって人間だ、たまには皆で羽目を外したい」
トゥリヌス、というのは義父の古いあだ名で、他人にそう呼ばれると大抵乾いた笑いとともにキレるのだが、マエケナス様の場合は暖かく笑って流す。
マエケナス様はこの国屈指の資産家で、人生をかけて若い芸術家の支援をしている方だ。そして、義父にとっては十数年来の盟友で、真っ向から反対意見を言ってくれる数少ない人間の一人でもある。そういう人間は、片手で数えられるくらいしかいない。俺が知る限りは、マエケナス様とアグリッパ様と、そして俺の母上だけだ。
「死ぬほど疲れた…」
一昨日の凱旋式では胸を張り、後に続く祝祭では有力者共に愛想笑いを振りまく羽目になり、昨日は表に引っ張り出されこそしなかったが、義父が親族と友人を招いた宴会に巻き込まれ、まったく疲れ果てた。
…そんな俺の状況も知ったこっちゃない、とでも言わんばかりに、嵐が二つ、近づいてくる。
「どーん!」
「どどーん!」
「…ははっ、元気でいいな、お前たちは。見習いたいよ」
弟のネロと、アグリッパ様の娘の−−−−−−。人前では両方とも良家の坊っちゃん嬢ちゃん風の澄ました顔をしているのに、俺たちだけになったと見るや、すぐさま暴風雨へと変貌して俺で遊び倒し、精神力と体力を限界を超えるまで削ってくる。そろそろ二人共良い年齢なのだから、いい加減落ち着いてほしいものだ。
「一昨日のティベル兄さん、とっても格好良かったよ!」
「本当に格好良かった!まるで、昔話の英雄みたい!」
二人は情の欠片もなく俺を長椅子から引きずり上げる。褒めちぎられても別に活力が湧いてくるわけではないんだが。
「こら、ちび共!お前たちの兄上はお疲れなのだ。少しは休ませてやらんか!」
嵐がキャー、と悲鳴を上げて逃げ去っていく。困ったように笑いながら近づいてきたのは、がっしりとした体格の、軍装に身を包んだ男性。
「…助かりました、アグリッパ様」
「様付けはよせ。俺の前ぐらい、楽にして欲しい」
「…そうできない性質なんです。まったく、あの方といい、貴方といい、無茶を言う」
口ではこう言わざるを得ないが、アグリッパ様の前では、少しばかり警戒心が弛んでしまう。
冷酷な義父に、薄情な母。でも、アグリッパ様は違う。実直で、包容力がある。ああ、そう、まるで父親のような…。
…俺にとって、父上は一人だけだ。だが、アグリッパ様のことは、父上の次に尊敬しているし、もし俺が父親になる日が来るのであれば、かくありたいと心から願う。
「一昨日の君は、実に立派だったよ。君の父上が生きていれば、泣いて喜んだだろうほどにね。私も君みたいな息子がほしいものだ。というより、いっそのこと娘と結婚して、私の息子になってはくれないか?」
「…私たちの結婚について決めるのは、あの方でしょう。それに、ああいう明るい娘は、ネロみたいな誰からも好かれる子の方が相応しい」
二人はいつも連れ立って私を弄りに来る。きっと、仲が良いのだろう。俺は男女のことなどよくわからないが、二人がくっつけばきっと上手くいくはずだ。
「ネロ君も将来、いい男になるだろうが、君には君の良さがある」
「そう言っていただけると、励みになります…」
「…とりあえず、少し休むべきだな」
「…はい」
その言葉に甘えて、寝室に戻る。その途中、声をかけられた。
「ティベリウス様!これから一緒に、二人でお出かけしませんか?」
あの二人が慈雨を伴う嵐なら、コイツは砂漠の砂嵐だ。ただ削れるだけで何も楽しくない。
「見てわからないか?俺は疲れているんだ。放っておいてくれ。
それよりマルケッルス殿を見ていてやったらどうだ。将来の夫だろう?」
昨日の宴会での様子から見るに、今頃彼は頭痛に苛まれているだろう。そういう気遣いは、この小娘には無縁のもののようだ。
「ううっ、冷たい…。そんな態度だと、パパに言いつけちゃうよ?あることないこと、色々!」
ため息が出る。あの男は友人には恵まれたようだが、子供には色んな意味で恵まれていない。
「あの方はお前のつまらん冗談に乗せられるような愚か者ではないぞ。一人娘ならば、その程度は理解した方がいい」
下手に関わると、義父に悪い意味で目をつけられる可能性もある。相性がいいなら兎も角、そうではないならわざわざ付き合ってやる必要もない。
「…そこまで、そこまで言うことないじゃない…」
なにかブツブツと言っているのを振り切って、寝室に向かう。どうやら、自分で思っていたよりも消耗していたらしい。寝台に倒れ込んだ時には、俺はもう意識を失ってしまっていた。
………。
腹が痛む。だが、臓器に達するほどの損傷ではない。
「やれやれ、恨まれたものだな」
どれくらい時間が経ったのか。図書室を見ると、私を蹴り飛ばした司書気取りの女怪が変わらず私を睨みつけている。入ったら殺す、という目をしている。
…一刻も早く、アカネを探し出さなければ。
プエルの警告を信じるなら、似たような怪異があと六種、この空間には存在していることになる。気を付けて行動した方がいいだろうな。
そう思った矢先のことだった。
「いや、わ、私、いやあああああ!!!」
悲鳴、というより断末魔に近い。階下からだ。すぐに駆け出す。
どうか、間に合ってくれ!
〜〜〜〜〜〜〜〜
怯えきった表情の、返り血を浴びた女の子が、霞む視界に映る。
たしか…名前は…ミサキ・アカネ。そう、アカネちゃん。ちょっと暗い目をした、素敵な子。
「いや、わ、私、いやあああああ!!!」
真っ赤に染まった自分の右手を見て、アカネちゃんは叫んでいる。ああ、そんな表情をしたら、可愛いお顔が台無しだよ…。
脚に力が入らない。音が遠ざかっていく。
口から何か、錆びた鉄みたいな臭いのものが溢れてくる。…これは、血だ。
世界がぐらっと揺れる。地面に倒れたみたい。痛くは…ないけど…なんだか、寒いなぁ。暗くて、冷たい。
そういえば、あの時も…そうだったっけ…。
…なんでだろ?なんで、こんなことになってるんだっけ?
「…行ったみたいね」
武人の幽霊の動き方は、おおよそ把握している。口裂け女としての役割を負わされていた私と同じ、設定された行動しか取れないただの人形だ。
どうして、自我を取り戻せたのかは、よくわからない。あの女王様がヘマをするとは思えないけど、多分、誰かが隙を伺って私を解放してくれたのだろう。
「慣れてるんですね、息を潜めるの」
「夫達に隠れて、よく家を抜け出して恋人に会いに行っていたからね。まさか、こんな形で役に立つとは思ってなかったけど」
「倫理観はどこに行ったんですか?」
アカネちゃんの視線の中に若干軽蔑が混じったような気がする。お子様にはちょっと刺激が強すぎたかもしれない。
「だって、私可哀想なんだよ?パパは私を道具扱い、別に好きでもない人と結婚させて、彼が死んだらまた別の人の妻!
嫌になっちゃうよ。私だって、好きに恋をしたい。好きな人と一緒にいたい。そう思ったって、別にいいじゃない…」
「政略結婚…いつの時代の人間なんですか、ユリアさん?」
困惑した表情を浮かべるアカネちゃんを見ながら、私は娘たちのことを思い出す。ユリッラに、アグリッピーナ。二人がもしこの娘に会えたら、仲良くなれるかな。頭いいみたいだし、アグリッピーナとは話が合いそう。想像してみて、ちょっと楽しくなる。
でも、それはあり得ない夢物語だ。だって、この娘が住んでいる世界は、きっと私たちとは決定的に離れたところだから。
…暗い考えはナシ!
「ねえ、アカネちゃん」
廊下を静かに進みながら、小声で話を続ける。
「何ですか?」
「アカネちゃんの目から見て、あの人、ティベリウスはどんな人?」
気になっていた。ずっと、ずっと遠い空の下を生きる女の子の考え方を。
「…お父さんみたいだな、って思います。いや、私のお父さんとは、全然似てないんですけど」
…そう来たかぁ。確かに、そうだ。あの人は、きっと良い父親になれたはず。
でも、そうはならなかった。神々が私たちに与えた運命は、悪意を感じられる程に、一つ一つが噛み合わず、狂い、捻じれ、全てに暗い影を落として。
「じゃ、私はどう見える?」
「悪女一歩寸前の遊び人」
「えー、辛辣!」
冗談めかして笑う。いけない、あの人のことを考えると、どうにも気分が参っちゃう。
「でも、多分、悪い人じゃない。きっと、いつか運命に出会えるはずです。それが恋なのか、趣味なのか、仕事なのかは、わからないですけど」
「…優しいね。アカネちゃんみたいな妹がいたら、うん、きっと楽しい!」
もし、そんな可能性がありえたのなら。どれだけ、良かっただろう。
「ところで、さっき聞いたことですけど」
「何、アカネちゃん?」
「ユリアさんも、この夢に囚われている、ってことで合ってますか?」
…夢?
ああ、そうなんだ。この娘は、この状況を夢だと捉えているんだ。
その勘違いは良くない。これは、決して夢なんかじゃない。夢は、眠っている時に見るもの。
私は、ついさっきまでこの空間の仕掛けに組み込まれていた。だから分かる。アカネちゃんは今、現実から、肉体から引きずり出されて、この箱庭に押し込められている。
女王様の意図は分からない。でも、この状況を正しく理解しないと、この娘は帰れなくなる。
「アカネちゃん、それは違うよ。ここは夢なんかじゃなくて…」
「『ユリア・カエサリス…だったかしら?』」
身体を衝撃が突き抜けた。息が詰まる。
何が起きたのか理解できない。下を見ると、左胸から、真っ赤な手が生えている。
「『話に聞く通り、頭の出来が悪いようね。そんなだから、貴女は誰も幸せにできないのよ』」
あ…それは、そうだ。運命を書き換えられて黙っているほど、この箱庭の作り手は寛容じゃないよね。
胸から凶手が引き抜かれる。振り返って、ソレを見る。姿は、幼い顔立ちの女の子のまま。でも、声も、言葉も、表情も、目も…あの娘じゃない。
ヒトではない何かだ。
暴力の化身。鮮血に咲く華。残虐な美の女神。
確かに、それはそれで綺麗かもしれない。でも、この優しい女の子に、そんなモノは似合わない。
「…馬鹿にしないで。私は…墜ちたとはいえ…パパの、アウグストゥスの娘なの…。
女王様…いえ、古い女神様…アカネちゃんを放して」
「………え?」
目に光が戻ってきた。良かった、この娘、まだ手遅れじゃない。
でも、この状況は…いけない…。
「ユリアさん、ユリアさんッ!
私じゃない、私じゃないの!体が、口が、勝手に動いて!」
狂ったように泣き叫んでいる。きっと、血と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら。ああ、最後に見るのは、笑顔が良かったのになぁ。
まだ、終われない。…意識を張り詰める。あの人には、たどり着けなさそうだ。無念だけど、元々無理だし、意味なんてなかったんだ。すっぱり諦めよう。
それよりも、死ぬ前に言うべきことがある。この娘のために。
どれだけ残酷であろうと、向き合わなければならない。この…真実に。
「…気に病まないで。私は…分かってるよ」
「ああ…、ああああああああ!」
こんな私を傷つけたぐらいでこんなに泣いちゃうなんて、やっぱり良い子だ。絶対に、幸せになってね。
「それに…聞いて?誰も、ここでは死んでいない。死ぬわけがない。だって、私はもう死んでいるから」
「…え?」
うん。言ってみて実感する。一度目の終点、その瞬間を覚えている。
死因は栄養失調。イタリアのつま先にある牢で、誰も食べ物を持ってこなくなって。雨漏りで喉を潤して、あの人がもしかしたら許して、助けてくれるんじゃないか、なんて、そう期待してたけど、そんなに現実、甘くはなかった。
「私だけじゃないよ。多分、ティベリウスも、私と同じ」
「し、死ん…え?死…ティベル、も…ユリアさ…え、何で?」
ああ、もう少し、いい言葉を思いつけたら良かったんだけど。何も、思いつかないや。
足音が近づいてくる。お迎えが来たのかな、と思ったけど、ちょっと違った。
「アカネ…なんだ、これは。その女は…一体、何があった!?」
やっぱり、良いお父さんじゃないなぁ。子供が泣いている時は、真っ先に抱きしめてあげないと。
「だめ、近寄らないでッ!」
「…なるほど、そういうことか。アカネ、大丈夫だ。知っているだろう、私の強さを。お前が身体を乗っ取られたとしても、アッサリ殺されるようなヘマはせん」
それって、私がヘマをしたってこと?そういう陰湿なところ、本当に大っ嫌い。
「私、おかしいの!私が、私じゃなくなって!」
「案ずるな。アカネはアカネだ。他の何者でもない。お前の中にいる悪意は、私がなんとかする」
「…ティベル、そこにいるんだよね。今だって、生きてるよね!私と同じ、2018年に!」
「………少し、休もう。お前は今、疲れているんだ。今見ているのは、ただの悪夢。目を閉じて、深呼吸。そのまま眠ってしまおう。私が隣にいる。次に目が覚めた時には、何も心配はない」
誤魔化すのも下手くそ。ああ、なんで、こんな人を好きになったんだろう。
「いやだ…もう、いやだ…」
「アカネ、聞け。これは命令だ」
「…助けて、助けてよ!ここから出して!お父さん、お母さん、ティベル、ユリアさん!」
「…話ができる状態ではないな。悪いが、眠ってもらう」
打撃音と、それに続く重い音。最低、女の子に手を出すなんて。
身体が鉛のようになって、海の底へ沈んでいく。それに反比例して、かつてあった誰かの記憶が浮かび上がってくる。
私は誰?
ユリア・カエサリス。きっと、本人ではないんだろうけど、でも、少なくともその記憶は持っている。
父はガイウス・ユリウス・カエサル・"オクタウィアヌス"、またの名をアウグストゥス。母はスクリボニア。
父が母と結婚したのは、愛があってのことじゃなかった。
…発端は、私が生まれる前のこと。
一人の英雄がいた。保守的な既得権益層が牛耳る帝国の未来を憂い、その改革を志した孤高の天才。
名を、ガイウス・ユリウス・カエサル。
彼はドルイドと部族社会が栄えたガリア(フランス)を征し名を挙げ、後に既得権益層と本格的に敵対してルビコンを渡り、多くを失いながらも元老院派との苛烈な内戦を制した。
そして、彼は、「終身独裁官」という絶対的な権力を得て、国家体制の抜本的な改革を進めようとした。
元老院や民会による共和政は、貴族や民衆、様々な勢力の利益を調整し、合意を形成することを目指す、素晴らしい仕組みだった。
だが、この体制は、ローマという一都市の意志を代表するに過ぎない。都市国家ならば十全に稼働するであろう寡頭制共和主義は、しかし、地中海世界全域へ拡大し、数多の同盟諸国を抱え込む大国では、帝都の、ほんの一握りの上流階級だけが得をする、著しく均衡を欠いた無秩序へと容易に転換した。
英雄が目指したのは、次善の策。
帝都のお偉方だけで全てを決める、そんな不公平では国は瓦解する。けれど、みんなの意見を平等に汲み上げて話し合うなんて、技術的に不可能だ。
だから、ただ一人の代表者が、貴族、市民、軍、属州民…帝国を生きる様々な人々の声を集約し、強権を振るって問題を解決する。それが、英雄がとった解決策。
「帝政」の原型となる考え方だった。
だが、致命的な誤算が一つ。英雄の無邪気な期待に反して、彼の真意を、ただ一人を除いて、誰も理解できなかった、ということ。
腹心達でさえ、英雄の目指すところを誤解した。王による国家の私物化という、歴史に刻まれた悪夢の再来を恐れた彼らは、最悪の決断を下す。
「………ブルートゥス…お前も、か…?」
ある春の日。ユリウス・カエサルは血の海に沈んだ。心から信頼していた部下たちに滅多刺しにされて。救国の英雄には似つかわしくない…無惨な最期だったと聞く。
憎悪と悲嘆が帝都を満たす。
「カエサル様が殺された!」
「首謀者はブルートゥスとカシウスだ!許せん…恩人を弑するなど…!」
「あの人は、私たちの英雄だったのに…私たちが、仇を取るんだ!」
復讐を。血の贖いを。帝都は一夜にして騒然となった。そして、英雄の死と共に、潜伏していた旧時代の残滓が再び息を吹き返す。同族が殺し合う、悲惨な内戦が再び始まろうとしていた。
少し経った頃。
ギリシア、アポロニア市。
「カエサル様…あれほど優しく、才知に溢れた方が、何故、何故そんな死に方をしなければならない!」
「きっと、死ぬ覚悟はできていただろう。多くの敵を作ってきた人だ。でも…まさか、こんな形で亡くなるとは」
二人の、将官の卵。留学中に英雄の死を知った彼らは、喪失感と憤りに震えていた。
「殺してやる…薄汚い、裏切り者共め…!」
「気持ちは分かるが、今は落ち着くんだ。連中には武力がある。それに、ローマにはアントニウス殿やレピドゥス殿がいるんだ。僕らの出る幕はないよ。
でも…お別れぐらいは言いに行きたい。僕は今すぐ発つつもりだが、当然君も来るよな、アグリッパ」
「無論そうする気だが…体調は大丈夫か、オクタウィウス」
「いつも通り、腹が痛いな。でも、ここで根性を見せずしてどうする」
宣言通り、二人はその日のうちに船に乗り込み、アドリア海を西に行く。
そして、南イタリアの海岸にたどり着いた二人を待っていたのは、誰も予想していなかった知らせだった。
「…オクタウィウス様は、カエサル様の家督ならびに財産の相続人に指定されています」
使者の言葉に、アグリッパは完全に凍りついた。
とりたてた功績もなければ、血の繋がりもそれほど近くない。何故、こいつが、とアグリッパは隣に立つ青年を見る。
「…なるほど。やはりあの方は天才だ。
その話、お受けしよう。それは、僕にしかできない仕事だ」
その瞳には狂気が宿っていた。オクタウィウスは、自らの人生を変える選択を、一切の迷いなく決断してしまった。
「…いいのか、オクタウィウス。下手をすれば、お前も死ぬぞ」
「アグリッパ、君は一つ間違えている。オクタウィウスは、もうこの世にはいない。
…カエサル・オクタウィアヌス(オクタウィウスだった者)。今日から、僕がカエサルだ」
オクタウィウス改め、オクタウィアヌス。無名の小貴族だった青年は、その日、突如として歴史の表舞台に躍り出た。
しかし、その敵は反逆者だけではない。元老院派の残党や古参の有力政治家、そして英雄の子飼い達と、あまりにも多かった。
オクタウィアヌスは凄まじい精神力の持ち主だったが、兵法の才はまるで無かった。アグリッパがそれを補っていたが、それでも、あらゆる面で天才のカエサルには遠く及ばない。
「…厳しいね。でも、やりようはある。
甘さはいらない。利用できるものは全て使う。そして、邪魔者は誰であれ、消えてもらうことにしよう。
アグリッパ、引き返せない戦いになる。それでも…」
「…お前は頼りないからな。一人だと呆気なく逝きそうだ。安心しろ、最後まで付き合ってやる」
「…ありがとう、心の友よ。君は、僕より長生きしろよ」
オクタウィアヌスは、その宣言通りに、甘さを捨てた。
老いた古参政治家の親心を巧みにくすぐり、取り入った。そして、徹底的にその弁論の才を利用した後で、政敵の警戒を解くための生贄として粛清した。
内戦を有利に進めるために、時代遅れの賊軍の残党と手を結ぶ事もあった。協力関係の証として、スクリボニアという女性と結婚した。もっとも、共闘は一時的なものに終わり、娘が生まれると同時に離婚した。
その娘が私、ユリアだ。だから、私は本当のお母さんの顔を見たことがない。
オクタウィアヌスは…父は家族の人生も利用した。姉オクタウィアと政敵のアントニウスを結婚させて友好関係を演出した。そして、アントニウスがクレオパトラに惚れ込んでオクタウィアを捨てると、「異国の女王に魂を売った裏切り者」「ローマ人ですらなくなった売国奴に死を」と市民たちを扇動して自身への支持を確固たるものにした。
そして、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラの連合艦隊を撃破し、両者を自害に追い込み、更に後顧の憂いを断つため、父にとっては義弟に当たるまだ幼いプトレマイオス朝の王子、カエサリオンを抹殺した。
無名の青年は、非情な謀略に徹し、親愛も友情も敵意も全て利用し尽くし、十五年で内戦を終結させた。そして、同時に、巧妙な偽装を幾重にも重ねながら、政治、軍事、宗教…国家権力の全てを、誰にも気づかれないような形で完全に掌握してしまった。
終戦から数年後。元老院は、もはや誰も逆らえない史上最強の権力者となった私の父に、一つの称号を贈った。
アウグストゥス。その名は、帝政の時代の始まりを告げる音となった。
「…リア、ユリア」
寒さも、苦しさも消えた。光の中にいるみたい。誰かの声が聞こえる。
「何かあれば言え。知らん仲でもない、話ぐらい聞いてやる」
「ティ…ベリウ…ス…」
そうだ、言いたいことがあったんだ。あなたに。
「…あな、たのこと…愛してるって…言った…のは、嘘なんかじゃ…ない」
「分かっている。だから、俺も応えようとした。
だが…無理だった。お前では、いや、誰も代わりにはなれない」
この人も、この人なりに頑張ってたんだな、ということに今更気づく。ああ、そうか、私は…
思い出した。この人のこと、好きだった理由。
誰か、私を連れて行って。知らない世界へ。ここではないどこかへ。…それが、小さな頃の夢だった。
まだ、内戦が続いていたある日のこと。
「母上、お久しぶりでございます。貴女の息子、ティベリウス・クラウディウス・ネロが参りました」
年上の少年が、小さな弟を連れて、私の家にやってきた。父親を亡くしたばかりの男の子。お母様の実の子供だったはず。
少し気になって、後で様子を見に行った。
「ネロ、それに、えーと…ウィプサニア、だったな。
そろそろ、母上が帰ってくる頃だと思う。だから、そろそろ引き上げ…」
「あー!お兄ちゃん、また私の名前忘れかけてた!
許してほしかったら、私を肩車して!」
「ずるい!僕も肩車!」
「…やれやれ、まったく、仕方がないな」
広場で年下の子供たちに滅茶苦茶に遊ばれている少年。疲労困憊、といった感じだけど、それでも笑っている。
遠巻きに見ていると、一瞬、目が合った。
直感的に、親近感を覚えた。
この男の子は、私と一緒。同じ苦しみを、抱えて生きてるんだ。
パパは、私のことをとても大切にしてくれていた。でも、それは娘への愛、というより、将来の政治的な価値への期待、という側面が強かったように感じられた。
お母様も、私に対して、表面的には優しく接してくれた。でも、血の繋がりのない私に対する視線は、いつも冷たかった。
…誰も信じられなかった。パパも、お母様も。友達に、こんな重い話できないし。ずっと、一人だと思っていた。
でも。
一人じゃなかった!私は、一人じゃなかったんだ!
同じ痛みを抱えた男の子が、すぐ側に来てくれた!
「ティベリウスお兄様!今日は遊んでくださる?」
「何度も言うように、僕はお前の兄さんではないのだが。…仕方がないな、少しだけだぞ」
だから、何度も話しかけた。
「靴を隠したのは君か?」
「ご明察!さすがお兄さ…」
「早く返せ。手癖が悪いのは感心せん」
悪戯をしてみたり。
「ティベリウス様、今夜、時間ありますか?」
「無い。お前はマルケッルス殿の許嫁だろう、彼を悲しませるな」
色々手練手管を尽くした。
でも、私たちは致命的に相性が悪かった。
結局、私は別の人、マルケッルス様と結婚することになった。
冷たいあの人と違って、マルケッルス様はとても素敵な人だった。好きになった。でも、たったの2年で死んじゃった。
次の結婚相手は、アグリッパ様。二十歳以上年上の人だったけど、優しくて、まるでお父さんみたいで…彼との生活は幸せなものだった。可愛い子供たちもできたし、欠けた心が満たされたと思い込んだ。
でも…何かが足りない。アグリッパ様は素晴らしい人、それは理解できる。けど、そうじゃない。
苦しい。アグリッパ様に隠れて、恋人を何人も作っては別れ、そんな生活を繰り返して、それでも満たされなかった。
ティベリウスにも駄目元で声をかけてみた。返ってきたのは殺意混じりの、汚物を見るような目線だけだったけど。まあ、仕方ない。不倫を楽しめるような性格じゃないことはよく知ってるし、この人にはもう、愛する人がいる。その、結婚相手があの元気いっぱいウィプサニアちゃんだと知った時は、ひっくり返るほど驚いたけど。
不思議なことに、ティベリウスとウィプサニアちゃんの仲はとても順調だった。ウィプサニアちゃんが落ち着いた大人の女性になってたのも驚きだったけど、何よりも驚いたのは、彼女と一緒にいる時の彼の表情だった。
…心の底から笑っていた。本当に、幸せそうで。
なんで、私だけが、こんな。
でも、同時に嬉しかった。この世に一人だけの、私の同類が、救いを得られたことが。
だから、アグリッパ様が亡くなって少し経った後。
パパの言葉に、私は初めて楯突いた。
「…離縁させた?嘘、あんな、お似合いの二人を?」
「そうだ。同時に、ティベリウスは正式に私の養子となる。そして、お前にはアイツの妻をやってもらう」
「…私は嫌。そのご決断、どうか再考を」
冗談じゃない。パパ…貴方は、ヒトを一体何だと思っているの。
「…異論は認めない。これは決定事項だ」
「そこを、どうかッ!」
「我儘を言うな。私がやれ、と言っているのだ。逆らうならば、死んでもらう」
…パパを止められる人間は三人だけ。アグリッパ様は、もうこの世にはいない。マエケナス様は、政治の一線から退かれて久しい。お母様、リウィア様が、私のお願いを聞いてくれるわけがない。
最悪、最悪、最悪!
…だけど。
初恋の彼と、もし、好き合うことができたら。
この胸の虚を、どうにかできるんじゃないか。
自分が嫌になるような、そんな期待を胸に、彼に会いに行った。
雨が降り始めている。濡れないように、先を急ぐ。
ティベリウスの屋敷は、しん、と静まり返っていた。まるで葬式の後のように、使用人たちは目を伏せて、一言も話さずに作業をしている。ただ、雨粒の激しくなっていく音がイヤに強調されている。
「どなたですか」
暗闇から声をかけられる。足音が近づいてくる。
「…失礼。ユリア様ですね。存じております」
「ドゥルースス…君?」
「…父にご用があるのでしたら、少しお待ちいただくことになります。先程、お出かけになったところですので」
この子と話すのは初めてだ。私の息子たちよりずっと年下で、まだ、五つにもなっていないハズなのに、異様に大人びている。ティベリウスが性格そのままに小さくなったのかと錯覚させられるほどに。
「お父様は、どちらに?」
「…分かりません。風に、当たりに行くと」
少年は、真っ直ぐに私の瞳を見て、それから苦しげにそう言った。
「この、大雨の中を…?」
…まさか。
クソ真面目ほど、思い詰めた時が怖い。
誰もいない街道を走る。向かう先は、テヴェレ。
「…いない!」
ならば、ティベリーナ島、中洲にある医神殿の方は?
神域から少し離れた、南の岸に、男が一人棒立ちになっている。ずぶ濡れになりながら、濁流へと変化しつつある川を眺めている。
「…いつになったら満足だ」
掠れた声。力なく肩が落ちている。
「あとどれだけ、俺から奪えば気が済むんだ…?
アグリッパ様が…亡くなって………」
弱音を吐いているところを見るのは、初めてだ。
「…ウィプサニアも…いなくなってしまった。まだ、父親の死の喪失も…癒えていないというのに…!俺は…俺は………!
…まだだ。俺は、父上の誇りなんだ。弟、ネロだってついてる。だから、倒れちゃ駄目なんだ。それに、ドゥルーススに、父親として…背中を見せてやらなきゃ…ならない…」
その言葉は、心の軋みのようだった。なんて声をかければいいか分からなくて、私はその場から逃げ出してしまった。
少し日を置いて、私はティベリウスと式を挙げた。その、夜のこと。
「言っておく。お前とは一応、夫婦ということになるらしいが、それは形の上での事実だ。
だから、好きにしろ。どれだけ派手に遊んでも、俺や義父上に迷惑をかけない限りは、目を瞑っていてやる」
相変わらず、汚物を見るように私を見る。でも、好きにしろって言うなら、私にも考えがある。
「分かった。そんなに言うなら、好きにやらせてもらう」
「そうだな、それがいい」
「…形の上だけじゃない、本物にしてみせる」
ティベリウスは私をギリッと睨みつける。憎しみが籠もった、凍りつきそうな冷たい視線だ。
「何のつもりだ」
「貴方に、私を愛させてみせる!」
「ハッ、面白いことを言うじゃないか。お前、喜劇作家になれるぞ」
陰湿な言い方。こういうところは本当に大キライだ。でも、そんな口、聞けなくさせてやるんだから。
「…私、本気だから。覚悟していてよ」
「フン、久しぶりに笑える話を聞かせてもらったことには感謝してやる。まあ、好きにしろと言った手前、こう詰るのも野暮だな。お前の愛とやらに、期待してやろう」
次の日から、私は全身全霊をかけてティベリウスに、私なりの愛をぶつけはじめた。けど、やっぱりこの男は手強い。しかも…前線でネロ君…ティベリウスの実弟が亡くなってからは…彼はより一層、心を閉ざすようになってしまった。手をこまねいている間に、季節は回っていく。
「懲りないですね、ユリア様は」
二年後、ドゥルースス君は、私にそう言って笑いかけてきた。
「何、その言い方!私、これでもあなたの母親なのよ?」
「ご冗談を。僕の母上は一人だけです。貴女は違う」
容赦のない拒絶の言葉。ウィプサニアちゃんは、この家の男達にとって、太陽のような存在だったのだろう。だからこそ、残された影は夜よりも濃い。
心が、折れそうになる。
「…ですが、貴女が頑張っているのは分かります」
「え?」
「まさか、母上以外に、父上を愛せる女性がいるとは思いませんでしたよ」
そんな言葉が続くとは予想もしなかった。この子は、私がアグリッパ様と夫婦だったときに、沢山の愛人を作っていたことも耳にしているはず。
「貴女の目は澄んでいる。嘘はついていないということです。
正直、貴女がどれだけ苦しもうと構いませんが、今の父上は…見るに堪えない」
この子、下手をすればティベリウスよりも頭がキレるのかも。将来は、きっと大きなことを成し遂げられる。
「だから、協力して差し上げます。母上は再婚した先でうまくやっているようなので、遠慮する必要はありませんしね」
「ドゥルースス君…うん、大好き!」
私はこの、小さい賢者をギュッと抱きしめた。一見すると冷たく見えるけど、お父さん想いで、とっても優しい子!
「はは、苦しいですよユリア様…あ、父上。今日も、お勤めご苦労さまです」
「これはまた…面白い組み合わせだな」
ティベリウスは苦笑している。それにしても、随分と疲れた顔だ。
「何かあったの?」
「…戦略に関する、意見の相違だ」
パパとティベリウスの関係は、日に日に険悪になっていっている。その原因は、ウィプサニアちゃんのことだけじゃない。
ゲルマニア戦線はずっと膠着状態にあるらしい。パパは、ゲルマニアを征服し尽くして、エルベ川を北方防衛の最前線にするつもりだけど、ティベリウスは拡張政策に反対の立場をとっている。前なら、軍事に関してはアグリッパ様を通せば考えを改めてくれることもあったけど、もう、あの人は死んでしまって久しい。
「とりあえず、今日はもう休んだら?」
「心配は無用だ。明日こそは義父上を説得してみせ…」
「どーん!」
突然、ドゥルースス君が父親のおしりに掌打を加えたのを見て、唖然とする。え、一体どゆこと?
「…何のつもりだ、ドゥルースス」
何の脈絡もない行動に、ティベリウスも目に見えて戸惑っている。
「僕が後ろに立っているのに、気づきませんでしたね」
「…そうだな?」
「ユリア様は、父上が思っている以上に、父上のことを見ておられます。
どうか、お休みになられてください。僕はまだ小さいですが、父上が抱えておられる問題は、一朝一夕で解決するものではないことぐらいは分かります。なので、今は、明日のために」
ティベリウスは目を丸くして息子の目を見て、それから大爆笑した。…こんな柔らかな顔を見るのは久しぶりだ。
「言うようになったな、ドゥルースス!さすがは俺の息子だ!
ああ、こんな時はワインを飲みたくなるが、お前たちの顔を立てて、今日はやめておこう。お前たちも、早めに休めよ!」
そのままティベリウスは楽しげな足取りで寝室へと向かっていった。ドゥルースス君と目を見合わせる。私たちも、声を立てて笑った。
「おしり、おしりを叩くなんて!」
「いやぁ、まさか上手くいくとは僕も思わなかった!」
この日から、少し風向きが変わったような気がする。
皮肉が減って、まともな会話が増えてきた。たまに、笑ってくれるようになった。
「名前、決めてくれた?」
「俺の名前はどうだ?」
「それは名案ですね、父上!
聞こえるかい?そう、お前の兄さん!早く、会いたいなぁ…!」
…随分と時間がかかったし、逃げたくなるほど辛い時もあった。でも、これから全てが報われる。私たち四人で、きっと、幸せに…!
〜〜〜〜〜〜〜〜
…血の海の中に、女が倒れている。
ユリア・カエサリス。私の、二番目の妻だった人だ。
「…羨ましいよ、ウィプサニアちゃん…一体、私と君で、何が…」
ウィプサニア、そうだ。私…俺が唯一、愛した女の名。…何故、今まで忘れていたのか。あれほど、あれほど一緒だったのに…。
「許さ…ない、から。私とドゥルースス君を置いて逃げたこと…。私の可愛い末っ子を…殺して…、私を、一人で死なせたことも…」
…最後の二つは、俺の本意ではない。母上が、俺の地位を盤石ならしめんと、勝手に巡らせた謀略だった。だが、それに気づけず、止められなかった時点で、それは俺の責任だ。
「許す必要はない。永遠に、呪い続けてくれ」
そう言いながら、冷たい、力の篭っていない手を取る。自分でも、何故そのようにしているのか理解できない。
次男は、死産だった。
…一時は、良くなるかと思った。だが、それはあまりに甘い見通しだった。
義父上は無意味な拡張政策に固執し、前線の兵士を犠牲にし続けている。…この男は、あんなに可愛がっていたネロが前線で犬死にした時、何も学ばなかったのか?
ウィプサニアは、元老院議員のガッルスと再婚した。噂によれば、とても仲睦まじい夫婦だそうで。確か、二人目だか三人目だかの子供が生まれたのだったか。…ああ、分かっているさ。こんな感傷には糞程も意味がないことぐらい。…あの娘は、俺の愛する人は…俺のことを忘れてしまったんだろうか?俺は忘れたことなど無い。君のことが脳裏を過ぎらなかった日は、この五年間に一度もなかった!
…ユリアとは、最初、まともな夫婦生活をする気は無かった。だが、別れた女にいつまでも未練を引きずり、妻を冷遇するようでは、息子に父親としての背中を見せていることにはならない。それに、驚いたことに、ユリアが俺に向けている愛情は本物らしかった。あのドゥルーススも彼女を信頼している。だから、応えようとした。私も、お前のことを愛したかった。
だが、できなかった!どれだけ時間を重ねても、心に浮かぶのはウィプサニアとの日々ばかり!
…出産の後、ユリアは精神的に不安定になってしまった。元々埋めきれてはいなかった亀裂が再び開いていく。
ある日の些細な口論。
「いつまで、あの子のことを、ウィプサニアちゃんのことを引きずってるの?もっと、私のことを見てよッ!」
その言葉を聞いて、生まれて初めての感覚が身体を支配した。
心が、折れたのだ。
もう無理だ。全部無意味で、無価値なんだ。
「…そうだな。お前では、ウィプサニアの代わりにはならない!」
「何を言っているのですか父上!あまりに、あんまりだ!」
ドゥルーススの怒号。思わず、怒鳴り返してしまった。
「子供は黙っていろ!」
「黙りませぬ!父上は我が誇り!故に、どれだけ傷を負おうとも、倒れられては困るのです!」
…それも、もう無理だ。もう、立っていることさえ難しい。
それから、何を話したのか、俺は覚えていない。
気がつくと、俺は年下の友人の家に担ぎ込まれていた。
「ネルウァ、俺は一体…?」
「酷く青ざめていらしたもので、思わず」
その日は、彼の家で夜を明かした。もう何も考えたくなかった。
翌日、俺は決めた。アウグストゥスの養子、良き夫、父親。もう全てどうでもいい。
「ギリシアに行く」
「は?ギリシア…ってどこですか?」
「ギリシアはギリシアだ。その年でボケたのか?」
二回り年下の若きネルウァは正気ですか?と言う顔をして聞き返してきた。正気ではないのは間違いない。だが、狂わなければやっていられなかった。
「…実に疲れた顔をしていらっしゃる。確かに、少し、休まれた方が良い。
ギリシアで療養、というのは良い考えやもしれません。ロードスはいかがですか?彼の地は未だ、我が国の属州ではなく同盟国ですし、無理やり連れ戻される危険性は少ないかと」
ロードスか。そういえば、一度哲学をきちんと学びたいと思っていた。いい機会だ。
「貴方がここに来たことは黙っておきます。少しは時間が稼げるでしょう。その間に、イタリアを離れて下さい」
「すまないな、こんなことに巻き込んでしまって」
「友人が苦しい時、手を差し伸べるのは当然のことです。あ、向こうについたら手紙をくださいね」
人目を避けて、密かにローマを去った。
父親として、夫として、そして人間として、俺は最低の失格者だ、と自分を責めながら。
「…ああ、でも」
女の痕跡が、光の粒になって消えていく。
「一人っきりの暗い洞窟じゃなくて…ティベリウス兄様の視界の中で逝ける…なら…まだマシ、かな…」
血痕も、先程まで握っていた手も、もう、跡形もない。
「…すまなかったな」
俺は案外、彼女のことを悪くは思っていなかったらしい。倫理観の欠如や古傷を抉るような真似は大嫌いだったが。…このようなことを考えても、後の祭りだ。意味はない。
そして、今…最悪な状況が展開されている。
湾曲した長剣を構えた鎧武者が突撃してくる。天井には、皮を剥がれた人間の上半身を模した化け物が張り付いていた。
邪魔者には今度こそ死んでもらうという意志を感じる。これは…報いかもしれんな。
だが。まだ、やるべきことが残っている。
「プエル、お前の言う鍵とやら…それでこの状況、どうにかなるか?」
姿を見せようとしない出不精な小僧に問いかけてみる。すぐに答えが帰ってきた。
「勝算は五分五分です。あと、その場は自力で切り抜けてください」
無茶を言う。徒手で化け物相手にどうしろと。
…いや。その手があったか。
ズボンから帯を引き抜く。端に金具が取り付けられた革製のものだ。これは鞭として使える。
そして、殺意の流れは私だけに向いている。好都合だ。アカネに危害が及ぶ可能性を考えずに済む。
「俺はティベリウス・ユリウス・カエサルだ。ただで死んでやるつもりはサラサラ無い。
さて、殺されたい愚者から来るが良い。いくらでも相手してやる」
そうだ。俺は倒れない。ロードスに逃げたあの頃とは違うのだ。
死の気配が迫る。精神を極限まで研ぎ澄ましながら、最初の一撃に合わせて地面を蹴った。