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Schwaltzwald/鬱蒼たる迷宮


 西暦20I8年、東京。

 …ん、なんか数字の表記がおかしくないかって?細かいことに気がつくんだね、君は。

 一種の便宜的な表記、方便というやつさ。これは、君の知る2018年ではない。この世界線は少々特殊でね。20世紀までは君の生きる基底世界とほとんど変わらない歴史をたどっているが、その世紀末に致命的な出来事があった。おかげで、21世紀の歴史は滅茶苦茶だ。起きるはずのない戦争が起き、起きるはずだった災害が起きない。そこにいる君も、この世界線には存在しないかもしれないね。

 ああ、少し脱線しちゃった。ごめんごめん。では、再開するとしようか。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 「来ないでッ!私に、それ以上近づかないで!」

 …を突き飛ばし、ドアに一直線に向かう。鍵が空いているのは知っている。

 逃げなきゃ。もう、こんなところにはいられない。

 もううんざりだ。もう耐えられない。みんな頭がおかしいんだ。このままじゃ死んじゃう。こっちまで、気が狂ってしまう!

 部屋を飛び出す。欄干にぶつかり、壁に跳ね飛ばされながら、走り出す。逃げなきゃ。どこか遠くへ。私がまともでいられる場所に。

 …遠くってどこ?

 声が響く。私の声。私の内側にある、昏い虚無が私を嘲笑っている。

 お前は世界に愛されていないんだ。

 お前は何の価値もない塵屑だ。

 だから誰もお前を助けないんだ。

 お前自身すら、お前を見限っているんだ。

 お前の居場所など、この宇宙のどこにもないんだ。

 …煩い。うるさい、うるさい!

 「分かって」るんだ、そんなことぐらい!

 生きていたって仕方がない!でも、死ぬのは怖い。死んだら、消えちゃう。私が、私がなくなっちゃう。

 …今は、逃げることを考えないと。でも、どこへ?友達も、親戚もいないのに?

 夜道を走る。アテもなく、何もわからないまま。

 胸の奥が痛い。目から何かが溢れそうになるのをこらえていると、だんだん息が浅くなってきた。音と光が遠ざかっているように感じる。真冬だっていうのに、全身が汗で濡れる。そのせいでとても寒い。

 空を仰ぐ。真円の輝きが浮かんでいる。最後に、月を綺麗だと思ったのは、いつだっただろうか。

 その時、身体のバランスがガタッと崩れた。そうだ、私、歩道橋の階段を走って降りていたんだ。

 心音の間隔が急に広がる。まるで、世界がスローになったかのようだった。階段の踊り場が、段々と近づいてくる。顔面がぶつかるまで、実時間にしてあと0.3秒ぐらいかな。

 お父さんが、考え事をしながら走るのは危ないって言ってたのはこういうことだったんだな、と私は身を以て実感する。

 …良かったじゃん。これで、この狂った世界とさよならできるよ。

 …本当にそうかな。多分、何かが違うんだと思う。

 何がって、何が?

 …私だって、幸せになりたかった。

 馬鹿だね、私。そんなこと、できるわけがないんだよ。

 …ねえ、誰か。

 誰かッ!

 …私を助けて。


 おかしい。

 いつまでも、衝撃が来ない。

 そこで気づく。時間が止まっている。比喩ではなく、本当に止まっているのだ。

 『全てが嫌になったのね』

 声。私のものではない声。とても優しくて、美しい、心地よい声だ。

 『私には、その感情は理解できないけれど。でも、あなたの願いを叶えてあげることは、できるかもしれないわ』

 …気づく。これは、断じて優しい声などではない。研ぎ澄まされた包丁のように、鋭利で冷たいモノが、その裏に潜んでいる。

 『全てを私に委ねてくれれば、私がなんとかしてあげる。どうかしら、悪くはない提案だと思うけれど』

 「嫌だ」

 『どうして?』

 「お前は、信用できない」

 一瞬の沈黙。その後、堰を切ったように、声は笑い始める。乾ききった砂漠のように、美しく残酷な笑い声だった。

 「何がおかしいの」

 『私を虚仮にした死にたがりのことを思い出したの。懐かしい。あ、安心して?その身の程知らずをズタズタにしたのは反省してる。それに、私にはきちんとした目的があるの。だから、あなたを傷つけたりしない。少なくとも、物理的にはね』

 「…だったら、もう離してくれる?」

 笑みがピタリと止まる。…拙い。何故かは分からないけど、恐怖が、お腹の底からこみ上げてくる。

 『一つ、勘違いしているみたいだから教えてあげようか。…あなたには、最初から拒否権なんてないの』

 スイッチを切られたTVのように、私の意識はそこで暗転した。


 何かが見える。

 とても曖昧で、はっきりとは捉えられないイメージ。

 見なければならない、その衝動に突き動かされて、私は目を凝らす。徐々に、イメージの輪郭が定まっていく。

 場所は、夜のあばら屋。

 「…二人共、すまん。いつも、苦労ばかりかけてしまって」

 男の人の声。その響きには、疲労や後悔、絶望といった様々な感情が交錯しているように感じられた。

 これは…記憶…?

 「言わないで。泣き言はあなたには似合わない。言ってたでしょ、いつか、この国の頂点に立つんだって。…これは、そのための軌跡。そうよね?」

 女性の声。揺れる感情。もう駄目だと悟ってはいるが、それでも、諦めきれていない。とても複雑で、理解しきれない。

 「…そうだ。その通りだ。私は、建国以来、国を背負ってきた名門の血を宿している。ぽっと出の青二才や、粗野な民衆上がりの下に甘んじるなど、あってはならないことだ」

 傲慢な言葉。嫌な奴。でも、その言葉には、同時に、人格を捻じ曲げてしまう程の強い誇りと、諦念を許さない使命感がにじみ出ていた。

 「ちちうえ、ははうえ…げんき、ない?」

 男の子の声。幼さの中に、子供とは思えない鉄の芯が貫かれている。骨を通して伝わってくるこの感じは…内側から?私が言っているの?

 違う。そうじゃない。これは、私じゃない、別の誰かの記憶だ。

 不安と、両親への信頼。…違う、これは私のじゃない!

 「案ずるな。…だが、その心遣いは感謝する。お前は優しいな、私の、私達のかわいい息子」

 私に向けられた言葉ではないのは分かっている。でも、その言葉は、私の奥底に眠っているものに触れる。

 吐き気がする。やめて、お願い。

 「その優しさを失うな。優しく、強く、どこまでも真っ直ぐであれ。お前は、私達の誇りだ。愛しい−−−−−−」

 …お願いだから、私の中に入ってこようとしないで!


 …薄っすらと光が見える。瞼を少し開けてみる。暗い部屋の中に、光が差し込んでいる。

 身体が重くて、頭がちょっと痛い。まだ…寝ていてもいいかな…。

 「寝られる時に寝ておくというのは殊勝な心がけだ。だが、今がその時かどうか、考えてからにするべきだぞ、小娘」

 知らない男の声。一気に目が醒めて、私は飛び起きる。サッと周囲を見渡す。私はベッドの上にいて、壁は石造りで、床は木製で、窓から漏れる薄光に照らされて、大男がこちらを見下ろしているのが見える。

 「…誰、アンタ」

 「礼儀というものを知らないと見えるな。だが、今は状況が状況だ。警戒するのも理解できる」

 「質問に答えて」

 「私は森で倒れていたお前を助けた者だ。倒れていた、というより腐葉土に頭から突き刺さっていた、というのがより正確な表現だがね」

 何、そのシチュエーション。犬神家のナントカの亜種?それとも一種のジョーク?

 「…信用できない」

 「他人の言葉を鵜呑みにしないことは良いことだ。だが、お前は私を信用せざるを得ないし、頼らざるを得ない」

 意味深な言葉を並べる男。じっと目を凝らすと、その顔立ちが日本人離れしていることが分かってくる。ヨーロッパ系みたいだ。年齢は、4、50代だろうか。厳しい顔立ちと体格が組み合わさって独特の威圧感が伝わってくる。

 「もう動けるだろう。ついて来い、お前に現状を教えてやる」

 男はそう言うと、私に背を向けて、窓とは反対の方向に歩を進める。その背中はとても大きくて、まるで…。

 「…どうした。来ないつもりか、それとも、まだ動けないか」

 「ねぇ、アンタ、名前は?」

 「ティベリウス。そう言うお前は?」

 「…え?」

 おかしい。あるはずの情報が、見つからない。

 私、私は…?

 「まさか、名前を忘れたのか?」

 「…そう、みたい…」

 震えが止まらない。私は、誰?何もわからない。一体、なぜここにいるのか。ここが、どこなのか。何も…何も…。

 「記憶喪失か。厄介なことだな。

 小娘、前言撤回だ。お前は、もう少し休め。詳しいことは、後でいい」

 「……………」

 声が出ない。怖い、怖い、涙が出そう。

 泣いても意味なんかない。誰も助けてくれないんだから。誰も、私を見つけてくれないんだから。

 「…震えているな。怖いのか」

 「…分かるわけないよ、アンタなんかに」

 「当然だ。私はお前のことなど知らん。

 だが、私はここにいる。お前の前に、こうして存在する」

 ティベリウス、と名乗った男は私の傍らに膝をつく。鋭い双眸が、まるで私のことを貫くかのように、真っすぐに見つめてくる。

 「…それ以上、近づかないで」

 きっと、この人は…。いや、よくわからない。私は咄嗟に拒絶を態度に表す。

 「…腹が減っているだろう。パンならすぐに焼けるが、欲しいか」

 要らない、と言いそうになったが…人間って不思議だ。こんなときでも、お腹は空くらしい。あんまり、食欲はないけど。

 「…変なもの入れないでよね」

 「当然だ。もっとも、信じるか否かはお前の自由だが」

 …男は部屋を出ていった。ティベリウス。どこかで、どこかで聞いたことのあるような…。頭が痛む。

 なぜ、私は記憶を失ったのか。分からない。…一つだけ、分かるのは、この胸の奥には、不純物まみれの重油みたいな、どうやっても取り除けそうにない、暗い暗い何かが覆いかぶさっている、ということだ。

 なんで、こんなに辛いのだろう。理由も何もかも、全てを忘れているはずなのに。

 「喉が…渇いた…」

 こんなことなら、あのティベリウスって人に水を頼んでおけば良かった。…疑うばかりで、冷たい言葉ばかりかけてしまった。自分が、嫌になる。

 …水をもらえるよう頼みに行こう。そう思って、寝台から出て床に立つ。傷んでいるのか、床板がかすかに軋む。

 ふと、窓の外を見る。先程より少し明るくなっていて、外の景色がはっきりと見える。

 教科書か何かで見た古代の遺跡に似た、石でできた何かの残骸が整然と並んでいる。その向こうに、黒々とした針葉樹林がどこまでも続いている。

 どう考えても、日本じゃない。もっと、訳がわからなくなる。

 一体、ここは何?


〜〜〜〜〜〜〜〜


 「記憶喪失、か」

 予めこねておいたパン生地を窯に入れる。揺れる炎を眺めながら、私はあの少女のことを考えていた。

 「小娘…では呼びづらいな。名前を思い出すまで、仮の名前でもつけるべきか」

 女子の名前は、我が国では氏族名や家名から取ることになっている。だが、容姿や服装、見て分かる情報だけ見ても、私が知っているどの国にも当てはまらないから、どういう名付けが適切か分からない。そもそも、彼女は私の一族というわけでもないし…。

 「ユリア…は駄目だ。アウグスタ…は違う。ならば、クラウディアかドルシッラか?」

 いや、仮の名前をつけることで、記憶の復帰に不具合が出る可能性は?…考えることが多い。

 そもそもだ。私には息子が二人いたが、娘はいなかった。姪の面倒を少し見たことがあったような気がするが、大した関わりがあったわけではない。

 つまるところ、娘…というより孫世代の女児の扱いなど、私にはさっぱり分からんということだ。

 「難しいな。…ん?」

 背後に気配。あの少女か。後ろをちらりと見る。

 「…教えて。ここは…どこ?」

 …声が震えている。記憶喪失だけの混乱ではない。さては、外の景色を見てしまったな。

 「『アブノバ神の山』、ゲルマニアの黒い森…に酷似したどこか、だ」

 「黒い森って、シュヴァルツヴァルト?」

 いきなり知らない名前が出てきた。しゅゔぁ…というのは、現地民の呼び方だろうか。

 「目下、私達は、この森に因われてしまっている。お前を五日前に見つけるまで、二週間近く脱出の方法を探し続けてきたが、収穫はほとんどない」

 「森に囚われている、ってどういうこと?単に、遭難して出られないとかじゃないの?」

 「外に出れば分かるが、この基地は十字路の交差点に位置している。最初は道沿いに歩けば外に出られると思ったが、どの方角に歩いても、必ずこの場所に戻ってきてしまう」

 「ありえない…悪い夢でも見てるのかな…」

 少女の顔は青ざめている。無理もないだろう。記憶喪失に加えて、孤立無援の魔の森にいるなど、普通ならば心が折れて当然だ。

 「その通りだ。現実ではありえない。これは夢だ。

 だが、醒めない夢はない。どんな悪夢であろうと、必ず目覚めの朝が来る」

 …半分は嘘だ。私が目を覚ますことはない。だが、この少女は目覚めることができるかもしれない。目を覚まし、あるべき場所に帰す事ができるかもしれない。

 そう考える根拠はある。経験則だが、夢の内容というのは記憶の中にある何かが元になっているものだ。

 この原則に従い現在の状況を分析していく。この森は、脱出不可能という状況を除けば、私の記憶にある黒い森に酷似している。ほぼ間違いなく、私に由来するものだ。だが、この少女は、どう考えても私の中に対応する原型を見いだせない。つまり、私の外部に由来する要素ということになる。

 もっとも、これだけではこの夢の性質を明らかにするのには十分ではないが、この少女が私の空想ではなく現実の所産である、と分かるだけで当面は十分だ。

 「故に、案ずるな。当分は、心身を落ち着けて記憶を取り戻すのを目標にすればいい。だから、今は休め」

 「…とりあえず、水が飲みたい」

 …思えば、この少女は起きてから一切水を口にしていない。寝ている間は、私が飲ませていたが。真っ先に水を飲むか聞くべきだった。

 「少し待っていろ。ああ、火を見ていてくれると助かるのだが」

 「わかった、待ってる」

 「感謝する」

 急いで井戸に走る。瓶に水をたっぷりと汲んで、走って戻る。

 「その…お代わり、もらっていい?」

 「構わん。にしても、水だけで満腹になりそうな飲みっぷりだな」

 少女は5杯も水を飲んでいた。余程喉が乾いていたのだろう。井戸水が綺麗で助かった。

 「…そうこうしている内に、そろそろパンが焼き上がりそうになってきたぞ」

 少女は寝室には戻らず、ずっと私の傍らで一緒に火を見つめていた。ちらりと横顔を見る。少なくとも、目を覚ました直後ほどの緊張感や警戒は見えない。だが、その瞳には、不安の色が強く現れているように感じられる。

 私には、この娘の不安を解す方法は分からない。私ではなく、あの子なら、あるいは彼女なら、分かるのかもしれないが、もういない人間は頼れない。

 何にせよ、私一人で、この状況を打開しなければならないのだ。これまでと、同じように。

 「よし、頃合いだ」

 焼けたパンを取り出す。きちんと膨らんでいる。我ながら、上手くできた方だ。数学や論理学といった自由であるための技術が重要なのは勿論だが、料理や怪我の手当などの生きるための技術も馬鹿にはできない。

 「このパン、私、見たことないかも」

 少女の言葉に首を傾げる。世のパンというものは、大体こういう、丸く分厚い形をしているものだと思われるが。この少女は一体どんな国で生きているのだ?

 ともかく、焼き上がったパンを短剣で切り分け、食堂に持っていく。パンに付けるオリーブオイルと塩、それからワインを用意して、準備万端だ。

 「とりあえず軽食だ。できれば、雑草…じゃなくてサラダも出したいところだが、ちょうど在庫が切れていてな」

 「今…雑草…って言わなかった…?」

 少女の表情は引きつっている。仕方がなかろう。脱出不可能な森の中にある放棄された基地、そんなところに野菜や魚といった食料があるわけがない。小麦と塩とオリーブが山のように残されているのを見たときは、思わず神々に感謝の祈りを捧げたほどだ。魚は基地に近い川の中に飛び込めば手に入らないこともないが、野菜に関しては、そのへんに生えている雑草で代用するしかないのだ。

 「さて、冷める前に食べるとしよう。パンは出来立てが美味しいと相場が決まっている」

 「じゃあ、いただきます」

 少女はパンに向けて手を合わせる。恐らく、彼女の母国における儀式だろう。それから、パンをオリーブオイルに浸し、それから塩をつけて口に運びはじめた。そのぎこちない所作は、容姿も相まって、幼さを強く感じさせる。

 「…酸っぱい。やっぱり、私の知らない種類だ」

 少女の頬が微かに緩む。様子を見るに、食欲はきちんとあるらしい。人間は食べたものでできている。ものを食べられる内は、生きていける。

 私もパンを食べながら、ワインを一口。

 (不思議なものだな。昨日までと、食べているものは大して変わらないはずだが、少し美味しさが増しているように思える)

 確かにパンは上手く焼けているが、それだけではないように思われる。

 もしや、この少女がいるからか?そんな考えが頭を過る。それとともに、胸の奥が疼きを訴える。

 …無意味な感傷だ。このような弱さとは、私はもう何十年も前に訣別した。今更、振り返るまでもない。

 「ごちそうさまでした」

 少女はあっという間にパンを平らげてしまう。いい食べっぷりだ。そして、再び手を合わせる。その姿は、堕落した貴族共などとは比べ物にならないくらいに、とても尊いものに見える。

 「食べ終わったか。色々と疲れているだろう、昼過ぎまで休んでおけ。私は、お前の記憶や、この森からの脱出方法について、今一度考えてみることにする」

 だが、少女はその場を離れようとしなかった。

 「あのさ、一つ、聞きたいことがあるんだ」

 思い詰めたような声色で、少女は続ける。

 「まだ、アンタのこと信用した訳じゃないけど、その上で尋ねさせて。どうして、私を助けたの?」

 「質問の意図が分からん。何が言いたい」

 何故、助けたのか。助けないという選択肢はないだろう。正直、地面に頭から突き刺さってるのには驚いたし不審に思ったが、その程度で見捨てたりはしない。

 「何か…目的が…下心があるんじゃないの。じゃなきゃ、他人を、見ず知らずの何の価値もない人間を助けるなんて、しないでしょ」

 私には人の感情などよくわからない。興味もない。だが、この言葉を聞いて、この少女の心に一瞬、触れたような気がした。極度の不安と恐怖。その背景にあるのは、他者への不信だろうか。

 「お前が私のことをどう捉えるかなど、心の底からどうでもいいが、一つ言っておこう。

 基本、手が届くならば、助ける。知人であろうが、見知らぬ異邦人であろうが。人間というのは、そういう生き物であるべきだ」

 「…それは理想論だよ。人間なんて、どいつもこいつも…」

 「そうだな。人間は救いようのない愚かな生き物だ。だが、極稀にマシな類もいる。私がそうだとは言わんがね」

 この少女は、どのような環境で生きてきたのだろう。現在の状況で精神が錯乱している、というだけではないように思える。

 「ああ、念の為言っておくが、私はお前に下心なぞ微塵もないぞ。あと一回り歳が近ければまだ何かあったかもしれないが」

 「…サイテー」

 「冗談だ。さっさと休め」

 まだ、信用されていないようだが、別に構わない。この森から脱出するのは、一人では不可能だ。その程度ならきっと、この少女はすぐに理解するだろう。それに、人間のつながりとは積み重ねだ。一日、二日でどうにかなるものでもない。戦いと同じだ、焦らず、かと言って機会は逃さない。

 まだ、時間はあるのだ。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 「…変な人」

 色々と変わっている、と思う。こんな、古代の遺跡みたいな古ぼけたところにいるし(それは私もだけど)、着ている服は上下一体のチュニックだし。それに、私を助けてくれた。

 信じても、いいのかな。

 信じて、裏切られたら…。

 瞼が重くなってくる。やっぱり、まだ疲れているんだ。記憶も全然戻ってこないし、私、大丈夫なのかな…。


 また、夢だ。

 夢の中で夢を見るなんて、奇妙なこともあるものだな、と思う。

 今回も、また誰かの記憶らしい。

 「父上、なりません。これ以上は、御身体に障ります」

 内側から響く声。やや大人びた、けれどまだ幼さを残している、そんな声だ。

 「…父に、生意気なことを言うでない…」

 「生意気でも結構です。今の貴方の姿は、見られたものではない。

 たとえ、国の中枢から外されようとも、父上が栄光ある貴族の末裔であることに変わりはないのです。不遇なときこそ、誇りを失ってはならない」

 「…口が回るようになったな。まだ9歳なのに、実に立派なことだ。大枚はたいていい教師を雇って正解だったな…」

 一方で、父親の声はずいぶんと弱々しく聞こえる。

 「そして、貴方は…僕の…いや、僕たちの父上です。何が、あろうとも」

 少年の声が、想いが、私の中に響き渡る。知らない記憶が、私に語りかけてきた。


 父上は、この国でも有数の、歴史ある家系に生まれ、そのことをとても誇りにしている人だった。きっと、もっと古い時代を生きていたら、幸せに生きる事ができただろう。

 でも、父上が生まれたのは、変わりゆく世界だった。先祖のような重責を担い国のために尽くさなければという焦り。名門としての誇りと自負。それが判断を狂わせたのだろうか。

 内戦で敵方に与した以上、生命を奪われないだけまだ温情があるというべきだろう。だが、父上は情けをかけられたのを、潔く受け入れられるような人ではなかった。無理もない。いまや、この国のおける最高の権力者となりつつある「彼」は、元はといえば無名の青年だった。英雄の遺言状がなければ、表舞台に出てくることなど決してなかっただろう、ぽっと出の青二才に助命され、その上、母上に…最愛の妻に見限られたのだ。酒浸りになってしまうのもある意味当然といえよう。

 もう何年も前に、「彼」が訪れてきたときの事を覚えている。まだ、言葉もまともに話せないほど、僕は幼かったが、それでもなんとなく思い出せるほどに、その日のことは印象的だった。

 「君がリウィアの息子か。良い目をしている。真っ直ぐで、知性に溢れた目だ。どちらかといえば、父親に似ているかな」

 「……………」

 直感的に、僕はこの男を恐れた。そして、同時に信用できないと感じていた。

 果たして、それは当たっていた。彼はこの日、父に対して、母上と離縁してくれるように直談判に来ていたのだ。父上も気づいていた。妻の心がもう自分にはない、ということに。

 その日の夜の父上の顔も、よく覚えている。いつものように厳しい顔をしていたが、とても、とても苦しそうだった。

 母上のことが憎い。あの男のことも。だが、今はそんなことはどうでもいい。

 「父上には長生きして欲しいのです。だから、今は酒を控えてください。そして、いつか、私と弟が大きくなったら、一緒に飲みましょう。きっと、とても楽しい時間になるはずです」

 父上は目を伏せて、曖昧に笑みを浮かべる。それから、杯を手放した。

 「…まさか、40歳も年下の息子に説教される日が来るとはな」

 「申し訳ありません、あまりに生意気でしたね」

 「いや、良いんだ。やはりお前は、とても優しい子だ。きっと、いい大人になる。

 そうだな、いつの日か、共に酒を酌み交わそう。約束だ」

 「はい、父上」

 これが最後の会話になった。翌朝、父上は自室で冷たくなっていた。

 葬式で、参列者の前で涙一つ流さず、弔辞をすらすらと読み上げながら、僕は一つ、考え事をしていた。

 父上について、どうしても理解できなかった事がある。

 何故、父上は母上を諦めたのか?父上は、心の底から母上を愛していた。事実、母上と離縁したあと、父上は他の女性と関係を一度も持っていない。

 なのに、どうして諦めたんだ?

 あの日の、父上の表情が頭から離れない。苦しかったろう、悔しかったろう、惨めだったろう。

 何故、誇り高い父上が、あんな選択をしたのか。自ら、手放すという選択を。

 

 それは、恐らく。

 愛する人の幸せを。

 そのための最善手を。

 たとえ、心を引き裂こうとも。


 「苦い…不味い…」

 まさか本当に雑草のサラダが出てくるとは思ってもみなかった。オリーブオイルと塩で味付けされているが、その程度では全く中和できていない苦みとえぐみ。

 ティベリウスはひょいぱく、とサラダを凄まじいスピードで平らげている。凄いな、と感心しそうになるが、よくよく見ると厳しい顔立ちがもっと険しくなっている。どうやら、彼も相当我慢を強いられているらしい。

 なら、私も我慢するか、とサラダを食べ進める。不味い、いくらなんでも不味すぎる。それでも、なんとか完食することができた。

 「調子はどうだ?」

 「最悪」

 「もう少し休むか?」

 「いや、いい」

 若干吐き気がするけど、体力の方は大分戻ってきている気がする。

 時計がないから分からないけど、今は昼を過ぎて少し経ったぐらいみたいだ。

 「何か、名案は閃いた?」

 「…全くだ。正直なところ、手詰まりの感が否めん」

 「じゃあ、これからどうするの?」

 ティベリウスは右手を上げて指を立てる。

 「一つ。まず、お前は風呂に入れ」

 「この遺跡、お風呂あるの!?」

 「この建物の風呂場は壊れていて使い物にならないが、ここから少し外れたところに公衆浴場の跡地がある。一ヶ月ほどかけて整備して、今は使えるようになっているから、案内してやろう」

 …ツッコミいいかな。一ヶ月って、この人脱出方法探すよりも風呂の修理優先してたってこと?やっぱり変わってる。

 「意識を失っている間は、私が身体を拭いてやっていたが、いい加減、風呂に入った方が良かろう」

 「確かに、ちょっと身体が痒…え、待って。アンタが拭いてた?私の身体を?」

 「ああ」

 「服を脱がして?」

 「服を着たままでは拭けないからな」

 疑問や不安が全て吹き飛んだ。顔が熱い。頭が沸騰しそう。

 「ふっざけんな、このヘンタイ!信じらんない!」

 「ヘンタイとは失礼な。小娘なぞに欲情せんわ」

 いや、それはそれでムカつくわ!というか、女子高生の裸体に興奮しない男なんて世にいないでしょ!

 「嘘つき!一瞬でもアンタを信じようとした私がバカだったわ!」

 「…やれやれ、前途多難であるな」

 心底呆れた、という感じで肩を竦めるティベリウス。

 「邪な目的でしたことではないぞ。ここは黒い森だ。都市のように衛生管理が整った環境ではない。そんな中で身体を不潔にしていては、病に罹る可能性は飛躍的に上昇する。医者も薬も欠けた状況で重病に蝕まれれば、待っているのは冥界行だけだ」

 …分かってはいる。この人、火を眺めていた時も、一緒にご飯を食べているときも、目の奥に見えるのは欲望ではなかった。マジで、性的に興味はないんだと思う。

 「分かるよ……分かってるけど…」

 「…あまり、気にするな。とりあえず、浴場までついて来い」

 ティベリウスの後ろについて、建物を出る。建物の外観は、古い映画で見た古代の神殿に少し似ているような気がした。

 ティベリウスはここを基地だと言っていた。多分、ここは千年以上前の軍事基地なんだろう。ほとんどの建物は崩壊していて、基礎しか残っていないところも多いけれど、規模からして、何百、何千人という兵隊がここで暮らしていたはずだ。

 真っ直ぐに引かれた道は荒れ果て、あちこちに草が生い茂っている。

 たしか、こういう光景に相応しい俳句があったはずだ。そうだ、芭蕉の『夏草や 兵どもが 夢の跡』ってやつ。

 「着いたぞ」

 天井は完全になくなっていて、壁が若干残っているだけの、石造りの廃墟。中を進むと、湯けむりが立っている区画にたどり着く。

 「すごい、露天風呂じゃん!」

 「…おっと、タオルと着替えを持ってくるのを忘れてしまっていた。私としたことが…取ってくるから、入っているといい」

 お言葉に甘えて、私は服を脱ぎ捨ててお風呂にダイブした。少しぬるい、けどとても気持ちがいい。混乱していた思考が少しずつ、クリアになっていくような気がする。

 「私って、どんな名前なんだろう」

 さっきのティベリウスとの会話で、少しだけ自分のことを思い出した。私は、東京に住む女子高生だ。それ以上のことは思い出せていないけれど、でも、一つでも記憶が戻ってくるのなら、他の記憶が戻ってくるという期待が持てる。

 だけど、自分の名前が思い出せないのは、とても、不便で、そして不安だ。

 「リン…は違うかな。サクラ…もしっくり来ない。アスカ…なんだか、少し近づいたかも。アの音から始まるのかな。アイ…違う。アヤカ…違う。難しいな。アカリ…大分近づいた?」

 その時、どこかで聞いたことのある声がした。これは…女性の声?しかも、かなり近い。

 じゃあ、この名前はどうかしら?

 アナ…

 謎の声をかき消すかのように、ティベリウスの足音が近づいてくる。周囲を見渡してみるが、湯の中のいるのは私だけで、女性の姿なんて影も形もない。私の…思い違いだろうか。

 「タオルと着替え、持ってきたぞ。着替えは拾い物だが、いくつか種類がある。自分に合うものを着てくれ」

 湯けむりの向こうに、長身のがっしりした人影が見える。彼は地面にタオルといくつかの着替えを並べると、外の方へと遠ざかっていく。その背中に私は問いかける。

 「ティベリウスは入らないの?」

 「お前に仮眠を取らせている間に入っておいたのでな」

 なるほど。だけど、聞きたいことはそれだけじゃない。

 「もう一つ!私の名前、何だと思う?」

 「思い出したのか?」

 「いいや、でも、呼び方がないのは不便だな、って思ってさ」

 湯気に映る影は少しの沈黙の後。

 「同意する。そうだな…ドルシッラ、はどうだ?」

 聞き慣れない名前だ。どこの国の名前だろう?

 「うーん、なんか違う」

 「そうか…ならば、お前の案を教えてくれ」

 「…アナ、とかどうかな」

 「分かった。では、アナ、と」

 こう、人に呼ばれてみると、むず痒いようで、けれども悪くはないように思えた。本当の名前が分かるまでは、私は「アナ」として過ごすことにしよう。


 「アナ、では、今日の仕事の2つ目を伝えよう」

 そう言って、お風呂から上がった私にティベリウスは木でできた剣のレプリカと盾を渡してきた。

 「すっごく重いんだけど、何をすればいいの?」

 あっという間に腕が疲労困憊だ。せっかくお風呂でスッキリしたというのに、この人は何を考えているのだろう。

 「脱出の手段は未だ不明だが、この基地の外にいずれ打って出ることになるのは間違いない。この森には危険な獣や、人型の影のような怪物が徘徊している。

 私一人ならば対処は容易だが、お前を、アナを守りながら戦うのはかなり困難だ。

 故に、実に心苦しいのだが…お前には、最低限、自分の身だけでも守れるようになってもらう」

 「…無理だよ、剣の振り方なんて分からないし、重すぎて持てないし」

 「それはそうだ。最初から戦い方を知っている人間はいない。いたとすればソイツはヘラクレス並みの大英雄になるだろう。

 故に、この私が直々に指導をつけてやる。安心するがいい。二週間で、新兵に産毛が生えたぐらいまでは引き上げてやる」

 全く予想もしていなかった展開。この日から、ティベリウスによる二週間のスーパー・スパルタ・トレーニングが幕を上げてしまったのだ。


 二日目。

 まずは朝起きてすぐに、鎖帷子をはじめ装備の身につけ方講座。

 帯に固定した鞘から短剣を抜いてみる。鉄の鈍いきらめきと、その形状の鋭さが、それが紛うことなき真剣だと告げている。刃渡りは包丁よりは遥かに長いけれど、中世の騎士が使っていそうなロングソードのようには長くない。

 「ティベリウスは長剣なんだ」

 「集団での接近戦を主とする歩兵は大盾で身を守りながら短剣(グラディウス)による刺突で戦う。だが、騎士は刃渡りが短い短剣では戦えない。そこで、この長剣(スパタ)の出番というわけだ。

 もっとも、我々の仮想敵は森の猛獣や人型の怪物であって、軍勢ではない。短剣を選んだのは、長剣よりはまだ扱いが簡便だと思ったからだ。初心者が長物を振り回したら危なかろう」

 次に、装備一式をつけたまま基地の周りを二百周歩く。五十周ほどで限界が来ていたが、ティベリウスは立ち止まる事を許さなかった。

 「膝をつくな、立ち上がれ。敵はこちらの事情など考えてはくれんのだからな」

 「分かって…るよ…!」

 結果、二百周が終わった時には私はもうボロボロになっていた。

 「よく頑張ったな。ひとまず、これで休憩だ」

 食事と入浴を済ませて、しばらく休んだあとにまた装備をつけ直す。今度は、木剣を用いた打ち込みだ。

 「刺突も、斬撃も、大振りではならん。萎縮するのも良くない。最短距離を、最速で結べ。そして攻撃が終わると同時に元の体勢に戻り、また最初からだ」

 「要求が…多い!」

 この木剣は実物の真剣よりも若干重い。息を切らしながら、私は必死に木の杭へ攻撃を叩き込む。

 回数を数えるのも忘れた頃に、脚の力がガクッと抜けた。もう、何も出来ない。動けない。

 「…ここまでか。もし私が上官であれば、即刻除隊させるであろうな」

 「…でしょうね」

 「だが、思ったより根性がある。動きの質も悪くない。兵士にはなれんとしても、鍛錬を積めば、優れた戦士になれよう」

 ティベリウスは私の前に膝をつき、肩をポンポンと叩く。多分、激励のつもりだろう。

 「そりゃ…どうも…」

 あまりの疲れから、私はそのまま気を失ってしまった。

 三日目も、四日目も、同じような展開が続いた。五日目になると、意識を保ったまま訓練を終えられるようになった。

 「試しに、一撃受けさせろ」

 「分かったよ」

 「一切の情け容赦は要らん。全力で斬りかかれ」

 私はティベリウスの言葉に従い、全霊を込めて、彼に向けて剣を振りかぶる。彼は、長剣を抜いて私の一撃を軽々と受け止めた。

 「筋力のない娘が、一週間でこの重さを出すとは、想像以上だ。これなら、パンクラチオンの訓練を入れても良いかもしれぬな」

 八日目からは、徒手格闘の訓練も始まった。

 「パンクラチオンというのはギリシアの格闘競技だ。もっとも、競技と実際の戦闘は異なる。故に、これから教えるのは、厳密に言えばパンクラチオンではない。敵を効率的に殺傷するための技術だ」

 首や眼球といった急所への当身をはじめとして、投技や関節技も教わった。こんな野蛮なもの、と最初は思ったけれど、十日目ぐらいから、剣を降ったり、想像上の敵を倒したりするのを、楽しんでいる自分に気付いた。

 意外だった。私、これでも自分を平和主義者だと思ってたんだけど。

 そして、十四日目。

 基地の周りを何百周と歩いても、剣を振り回しても、投げ飛ばされても、息が切れない。

 その様子を見て、ティベリウスはフッと笑った。

 「下手な新兵よりもずっと出来が良くなってしまったな」

 言い方にトゲを感じるが、褒めてくれているらしい。それと、多分、ティベリウスが笑っているのを見るのはこれが初めてだ。私も、つられて笑ってしまう。

 そして明日は、ティベリウスと共に南方面の街道に打って出る。


 10キロは下らないだろう装備を全身に纏った状態で歩く。背の高いティベリウスの歩幅に合わせるのは、訓練を経たあとでもなかなか骨が折れる。

 「これで脱出できればよいのだがな」

 ティベリウスの声には一抹の期待と、諦めが滲んでいる。彼は、二度にわたって南方面からの脱出を試みたらしいけれど、二回とも結局元いた拠点に戻ってきてしまったとのことだ。

 もう数時間は歩いている。日が傾き始める。少しずつ、疲れが溜まってきている。

 「少し休むか、アナ」

 「うん」

 オリーブの塩漬けと堅いパンをかじり、革袋に汲んできた水で流し込む。こうしていると、自分がまるで古代人になったような感じがして面白い。

 …古代、といえば。あの拠点は、古代の軍事基地みたいだし、私やティベリウスが身にまとっている服や鎧、剣もかなり古い物に思える。

 私は現代日本を生きる高校生…結局のところ、それ以上のことは思い出せてないんだけど…だし、シュヴァルツヴァルトにも、古代文明にも縁が無い。

 となると。

 もしかして、この森はティベリウスととても深く関係しているものなのかもしれない。ひょっとすると、ティベリウスは私の時代を生きている人間ではなくて、ずっと昔、何千年も前の古代人…だったりして。

 …なワケないよね、と私は自分にツッコミを入れる。ティベリウスは、眼の前にいる。きっと、私と同じ世界のどこかで、生きている人間だ。趣味が古典的なだけ、多分。

 「ティベリウスは、夢から醒めたら、どうしたい?」

 行軍を再開してから、ふと、気になって問いかけてみた。

 「…考えたこともなかったな。アナ、そう言うお前は何をしたい?」

 「記憶が戻らないとなんとも言えないけど、うーん…美味しいご飯が食べたいなぁ」

 「…悪かったな、小麦粉と雑草しかなくて」

 「雑草は嫌いだけど、ティベリウスが焼いてくれるパンは美味しいよ。あの…いつも、ありがとう」

 今まで、ちゃんと感謝を伝えられていなかった。言ってみると、少しだけ、心の底に溜まっている靄が薄くなった気がする。最初は信用しきれなかったけど、今はティベリウスのことを頼れる大人だと思っている。自分でも、不思議なくらいに信頼している。

 「…礼には及ばん」

 ほとんど笑わないし、冷たいように感じられるけど、きっと、この人はいい人だ。その立派な、鍛え抜かれた背中を見ていると、まるで、お父さんみたいだな、と思

う。

 お父さんみたい…?おとう、さん…?

 ズキン、と頭が痛む。何かが、濃霧の向こうから出てこようとしているかのような、そんな感覚に襲われる。

 「どうした、調子が悪いのか?」

 「ちょっと、頭が痛んだだけ。大丈夫…だから…」

 前を見る。道の真ん中に、何かが落ちているのが見える。

 近づいて見る。リュックサックだ。見覚えがある。

 これは、私のものだ。一体、どうしてこんなところに?

 「アナ、構えろ。敵だ」

 ティベリウスの声に緊張感が走る。周りを見ると、黒い霧が人型をなしたかのような、異様な姿のナニカが、三体、こちらににじり寄って来ている。

 「前方の二体は私が殺る。後ろは任せた」

 「うん、分かった」

 初めての実戦。背中を冷たい汗が流れる。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 アナが実際どれだけ戦えるようになっているのかはまだ未知数だ。しかし、少なくとも死ぬことはあるまい。

 故に、前方の敵に集中し、先手を取る。

 膝の脱力。倒れ込む身体の勢いを推進力に転換し、一瞬で怪物に肉薄する。

 長剣を、横に一閃。敵は黒い粒になって消え去っていく。…まずは一匹。

 二匹目は、腕を槍状に変形させて距離を詰めてきた。器用なものだが、その程度の小細工では、私には掠りもしない。

 頭を狙った刺突を外すと同時に、敵の身体が長剣に深々と突き刺さる。何の考えもなしに突っ込むと、こういう風に死ぬことになる。

 アナの方を見る。肩が上下して息が上がっているが、敵の姿は見えない。どうやら、上手くやったようだ。

 「怪我はないか、アナ?」

 そう問いかけると、アナは振り返って、満面の笑みで告げる。

 「『大丈夫よ、ティベリウス』。」

 即座に長剣を少女に向ける。虚ろな目と、貼り付いたような笑みが告げている。

 「貴様、何者だ!?」

 …アナの瞳に光が戻る。剣を向ける私を見て、彼女は驚き後退りする。

 「え、何、何があったの?」

 状況が飲み込めていない様子の彼女を見て、私は剣を鞘に納める。

 「敵は一掃した。この鞄を回収して、先に進むぞ」

 …明らかに、先程のアナはおかしかった。まるで何者かに、自我を乗っ取られているかのようだった。もしかすると、アナの記憶喪失は、単純に記憶を失っているというだけではないのやもしれない。

 思考を深めるにはあまりにも材料が足りない。先に進んだほうがいいだろう。

 日がかなり傾いてきている。道の先を見て、私はため息をつく。

 「…やはり、こうなるか…」

 「本当に、ループしてるんだ、この森…」

 見慣れた拠点が目の前にある。アナを連れて進めば脱出できるのではないか、と踏んでいたが、どうやら外れだったようだ。おそらく、他の方角に進んでも結果は同じだろう。

 その上、アナの記憶喪失についての謎という問題が増えてしまった。収穫は、例の背嚢だけ。

 「…アナ、今日はもう休むとしよう」

 万策尽きた。どうすればいいのか、まるで分からん。

 …こんなとき、お前たちがいてくれたら。

 「その前に、このカバン、見ていいかな。これ…多分、私のだと思うんだ」

 アナの言葉に、私はハッとする。私の発想では、この森を抜け出すことは不可能。ならば、この少女の、アナの発想であればどうだ?

 アナは背嚢の中を探り、薄い板上の物体を取り出す。

 「そうだ、やっぱり、このカバンは私のだ。これも、見覚えがある!私のスマホだ…!」

 板の側面にある突起をアナが押すと、板の片面が光を放つ。

 「良かった、顔認証だ!」

 「その板は…なんだ?」

 「スマホだけど、それが何?スマホを知らない人間なんて、この2018年にいるわけないでしょ?」

 どうやら、光る板の名称はスマホというらしい。アナは光る面を指でなぞったり叩いたりしている。一体何をしているのだろうか。

 「ねぇ、ティベリウス…この文章、読める?」

 アナは私を手招きして、光る板を私に見せる。そこには、ラテン・アルファベットの羅列が記されていた。

 「意味をなさない文字の連なり…もしや、カエサル式暗号か?」

 神君ユリウス・カエサルが開発した暗号。DをAに、EをBに、といった具合に文字をずらして置き換えたものだ。

 頭の中で、文字列と格闘しながら、文字をどのようにずらしているのかを解読していく。意味不明な文章が、ラテン語へと変換されていく。

 「…読めたぞ」

 「ホント?」

 「ティベリウスとアカネへ

 死者の枕の方角に向かえ

 MLKT」

 内容を伝えると、アナは顎に手を当てて目を閉じ、じっと考え始めた。

 「アカネ…あかね…暁音!」

 少女の瞳がキラリと輝く。アカネ…それが、この少女の本来の名なのだろう。…アナ、という仮の名前とはここでおさらばだ。

 「…名を思い出したようだな」

 それにしても、光で文字を描く板とは、面白いものもあったものだ。80年生きて、色々なものを見、聞いてきたが、そのようなものは想像だにしなかった。世界とはどうやら、私が知るよりも遥かに広いものらしい。

 …いや、もしくは。

 「死者の枕の方角、とは一体何であろうか?」

 「多分、北枕のことだと思う。私の国では、北に頭を向けて寝ることは、とても縁起が悪いことなんだ。

 仏陀…仏教の開祖が亡くなったときが、北枕だったとかで」

 仏教というとペルシアよりもさらに東、バクトリアやインドで栄えている教えだったはずだ。昔、紅海帰りの船乗りから聞いたことがある。

 「なるほど、つまりは北へ向かえ、ということか。

 でかしたぞアナ…いや、アカネよ」

 北方面も、私一人では脱出に失敗したが、アカネが一緒なら話は変わるだろう。「二人で北へ向かうこと」が脱出の条件という可能性は大いにある。

 「でも、MLKTって文字列はどういう意味?この暗号を残した誰かの名前かな」

 「恐らくはそうであろう。しかし、MLKT…この並び…どこかで…?」

 確か、何かの本で見かけた文字列だったはず。少なくとも、ラテン語ではない。ギリシア語でもない。

 だが、確かに見覚えがあるのだ。

 「…思い出せん、これは後回しだな。

 今回の行軍はかなりの消耗を強いられた。明日は終日、休息にあてることとする。そして、明後日になったら、北へ向かうとしよう。異論はないか、暁音」

 「問題ないよ。じゃ、おやすみ、ティベリウス」

 「良い夢を」

 ようやく、光明が見えてきた。森からの脱出が叶えば、アカネは夢から目覚めることができるやもしれん。記憶喪失が夢の性質によるものと仮定すれば、目を覚ませば自然と記憶も戻るだろう。

 …ただ、小さな懸念がある。

 アカネが目を覚まし、この夢から去るということは、私にとって何を意味するのか。

 私は、あの春の日に、既に…。

 …考えても分からないことに時間をかけるのは無駄だ。さっさと目を閉じて、明後日に向けて英気を養うとしよう。


 夢…か。

 見るのは久しぶりだ。いや、夢の中で夢を見る、などという珍事は初めてか。

 「兄様、前から疑問に思っていたことがあるのですが」

 地中海を思わせるような、美しい青い海が広がっている。海沿いの街の、古い神殿の屋上。一組の男女が並んで座っている。兄様、という女の発言からして、兄妹関係にあるのだろう。

 「なんだい?」

 「何故、彼らに肩入れするのですか。彼らは、我々の所有物…言い方を変えれば、奴隷です。必要以上に、恩恵を与えることはないと思うのですが」

 なかなかの美声だが、鋭利な刃物のような鋭さがある。それと、この女の声、どこかで。

 「ああ、そんなことか」

 男の方も、穏やかなようで、非人間的な冷たさが感じられる。

 「理由は単純、求められているからさ。豊かな生活、家族との幸せ、他者を支配する力…。

 彼らは可哀想だ。そんなちっぽけなもののために、巨大な運命の渦の中で足掻いている。せめて、何か手助けをしてあげたいと思ってね」

 「…甘すぎます。貴方にも、見えているはずです。将来、彼らが何をするか」

 女の声には激情が乗っている。この感情は知っている。憤りだ。

 「君はそんな事を気にしていたのかい?

 いいんだよ。彼らはそういう動物だから。だけど、それだけじゃない。じっと、目を凝らせば見えてくるはずだ。彼らにも、私達と同じ輝きがある、ということに」

 視界が暗転する。

 おそらく、この夢には何か意味があるはずだ。

 覚えて、おかなければ…。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 十六日目。

 二週間もスパルタ生活を送っていたせいか、身体が勝手に訓練を始めてしまっていた。ティベリウスは呆れ顔をして、食糧を調達しに少し外に出ていった。

 …感動する。私って、こんなに動けるんだ。想像する。剣を振り抜く。血飛沫が舞い上がる。ああ、なんて、なんて。

 楽しいんだろう。

 嫌なヤツの苦しむ顔。

 私を苦しめてきたヤツらが命乞いをする姿。

 全部、全部踏みにじって、いたぶって、殺してしまえたら。

 きっと、とても愉しい!

 …違う。

 違う、違う、違う!

 楽しくなんかない!

 こんなの、私じゃない!そんなこと、私は望んでない!

 『どうして、そう言い切れるの?』

 私は、他人を傷つけたい訳じゃないんだ!

 『他人のことが嫌いなのに?』

 他人は嫌い。それはそうだよ…だけど、私が欲しいのは、そういうことじゃないんだ!

 『分かるの?何も覚えていないクセに?』

 分かるよッ!だって、この胸に渦巻く暗闇は、この5年間、ずっと抱えてきたものだから!

 私は、私は、ただ…誰かに…!

 …遠くから、足音が聞こえる。

 彼が、帰ってきたんだ。

 お風呂で、汗を流しておかないと。


 「今日は少しばかり贅沢だぞ」

 川魚の塩焼きが、香ばしい香りを漂わせている。

 「今日は、落ち着いて食べるとしよう」

 ティベリウスは長椅子に寝転がって、パンをつまみワインを口に運ぶ。どうやら、それが彼のスタイルらしい。

 「私は慣れないから、座ったまま食べるね」

 きらきらと輝く白身を口に入れる。

 「…美味しい!」

 こんなに魚って美味しかったっけ。止まらない。パンとの相性もいい。ここに来てから、一番美味しくて、楽しい食事かもしれない。

 なのに、なのに。

 気がついたら、目から涙が溢れてきていた。

 「ど…した、ア…ネ?」

 目と耳がバグを起こしたかのようだ。視界にノイズがまじる。

 脳を雷霆が走り抜ける。激痛とともに、かつてあった現実が、目の前に、鮮明に蘇ってきた。


 「おとうさん、今日はどこに行くの?」

 細身で、背の低い、穏やかな顔立ちの男性が、優しく微笑み返してくる。

 「今日は海で釣りだよ!」

 「暁音は初めてだったわね。お父さんとお母さんが一から教えてあげるから」

 「わーい、やったぁ!」

 …これは、私の記憶だ。まだ、幼い日の私。世界の残酷さを知らなかった、幸せな日々の断片。


 2000年6月1日。

 南極に隕石が衝突し、氷床の90%が一夜にして消失した。「大災厄」の始まりだ。

 その日を境に、世界中で未曾有の大災害が続いた。困窮した人々は武器を取り、戦争が起こった。大災厄と、それに続く世界同時多発紛争による死者数の合計は28億人ともいわれる。たったの2年半で、人類はそのおよそ半分を失ってしまった。

 そして、人類史上最悪の危機に際して世界は、おそらく最初で最後になるであろう団結を示した。

 2002年12月24日、クリスマス・イブ平和条約。

 二十一世紀にとって最初の節目になったその日、私、御崎暁音は生まれた。


 三人の車内。お父さんと、お母さんと、私。

 歌を歌ったり、お仕事や勉強の話をしたり、私は途中で寝ちゃったり。

 ちょっとした非日常と、なんてことはない穏やかな時間。

 それが、何よりも尊く、金銀財宝なんかより、ずっと価値あるもので。

 「なかなか釣れないねェ」

 困ったように笑うお父さんの横顔。

 「…来たっ!」

 「すごい、よく釣れたね!」

 頭を撫でる、温かなお母さんの手。

 結局二匹しか釣れなくて、三人で分け合うことにして。

 その、魚の塩焼きがとっても美味しくって…。


 暁音、という名前は、ニュースの速報を見て、お父さんが思いついたんだそうだ。

 クリスマス・イブ平和条約は、悲嘆と憎悪に狂った世界に差した、一筋の光明だった。対立していたはずの超大国が手を取り合い、三大企業も条約の成立に合わせて、天文学的な額を注ぎ込んだ復興支援策を打ち出した。

 そんな日に生まれた私を、両親はまるで、夜明けを告げる知らせ、新しい世界の希望のようだと、そう考えたらしい。

 だから、暁音。暁の音。

 名前だけではなく、両親は多くのものを与えてくれた。決して、裕福などではなかったけれど。それでも、色々なところに行って、一緒に遊んで、誕生日には一切れのケーキと美味しい夜ご飯。傷だらけの世界で、それでも二人は笑顔を、愛を、希望を私にくれたのだ。

 ずっと、一緒にいたいと思った。そして、その願いは叶い続けると思っていた。

 …あの夜までは。十一歳の、誕生日までは。


 「…ねえ、どうして!どうして、いなくなっちゃったの?お父さん!」

 涙が止まらない。情けない声が溢れてくる。

 そうだ。忘れてはいけない、大切なものがあったんだ。

 でも、それはもう、この世のどこにもない。失われてしまったんだ。

 「うう…ぐっ、うぐ、ううううぅ…!」

 背中に触れる、大きな手。硬い、でも暖かい。

 それが、余計に辛くて、悲しくて。

 声を上げて泣いた。何か、感情を堰き止めていたものが突然砕けたみたいに。

 泣き続けた。隣に誰かがいることも忘れて。

 泣き続けて、泣き続けて………

 「目が覚めたか」

 「…あ、ティベ、リウス?」

 「まるで、大きな赤子だな、お前は。泣くだけ泣いて、そのまま寝てしまうとは」

 ティベリウスは、私の顔を真上から覗き込んでいる。いつもは厳格に見える瞳が、とても優しい光を宿しているように思えた。

 …この体勢は、膝枕かな。つまり、この人は、私が目を覚ますまで、ずっと、側で待ってくれていた、ということだ。

 見ず知らずの相手に。一体、どうしてそこまで。

 「…きっと、良い父親であったのだろう。それに、きっと幸せ者だ」

 「…え?」

 「力尽きるほどの涙で、自らの死を悼まれているのだ。子にそこまで思われて、幸せでないはずがない」

 「…そんな事言われたら、せっかく泣き止んだのに、また、泣いちゃうじゃん…」

 「…誰だって、泣きたい日はある。お前はあまり泣かない人間のように見えるが、ここは夢の中ということを思い出せ。現実で所構わず泣き叫ぶようでは狂気を疑われようが、夢の中ぐらいは、好きに泣けばいいと、私は思う。

 とはいえ、水は飲むべきだ。泣きすぎて干物になってもらわれても困るのでな」

 二人で厨房に向かい、水を飲む。少し、心が落ち着いた。今は、泣かなくても大丈夫そうかも。

 「…泣いているお前を見て、思い出したことがある」

 「どんなこと?」

 「父が死んだ日のことだ。私は、確か九つぐらいで、弟は五つぐらいだったか」

 ティベリウスも、お父さんを子供の頃に亡くしていたなんて。それに、弟がいたなんて初耳だ。

 「私は、泣けなかった。悲しかったのに、涙が出なかったのだ。代わりに、弟はわんわん泣いていたな。私を含め、誰も宥めることができずに、さっきのお前みたいに最後は寝てしまった」

 「…ティベリウスのお父さんは、どんな人だったの?」

 「悪い人ではなかった。少し、不器用だったがね。今となっては、声も、顔も、何を話したのかも思い出せないが」

 「じゃあ、弟さんは?」

 「笑顔が明るくて、すぐに誰とでも打ち解けて、誰からも愛される。そんな、私とは正反対の男だったよ。私の誇りだった。あれほど出来た弟は、この世界のどこを探しても存在しないだろう」

 だった、ってことはもう…。どういう言葉を紡げばいいのか、分からなくなる。

 「アカネは、兄弟姉妹はいるか?」

 「いないみたい。まだ、全ての記憶を取り戻したわけじゃないから、断言はできないけど」

 「私の長男と同じだな」

 「子供いるの!?」

 驚きだ。この人が家庭を持ってるとか、ちょっと信じらんないんだけど。

 「なんだ、私に子がいることが意外か?」

 いや、でも、この人厳しいけど、別にそこまで冷たいってわけじゃないし、意外と上手くいってるのかも?

 「だって、あんまりモテるように見えないしぃ?」

 ちょっと弄ってみる。これぐらいなら許してくれるでしょ。

 「確かに女性受けはお世辞にもいいとは言えなかったが、結婚には多くの愛など不要だ。ただ一人と想いが通じ合っていれば、それが全てだ」

 「ん゙ん゙っ!」

 そんなロマンチックなセリフがこの人から飛び出してくるなんて思わなかったものだから、心臓がバクバクしてしまう。この人が同年代だったら、私、恋しちゃったかも。

 でも、ここまで年が離れてると、イケオジみたいな感じが強い。それに、私みたいな小娘が入り込める隙間はどこにもなさそうだ。奥様、どうか末永くお幸せに、と心から祈る。

 …さて、気持ちを切り替えていこう。明日は、いよいよ脱出に向けて出発だ。ゆっくり、身体を休めなきゃね。


 十七日目。

 「お世話になりました」

 拠点の玄関で、小さく頭を下げて、背を向ける。もう、戻ってくることはないように願う。

 「察するに、空間に対する感謝、のようなものか?」

 「ああ、今の?そうだね。二週間以上、過ごした場所だし。今まで私たちを守ってくれてありがとう、って」

 「それは、お前の国の考え方か?」

 そういえば、ここまで一緒に暮らしてたのに、ティベリウスがどこ出身なのかは聞いていなかった気がする。

 「そうかもね。私の国は、古い多神教と仏教が強い国でさ。いろんなものに、心が、魂が宿っているって考えちゃうんだ」

 「食事のたびに手を合わせているのも、その考え方に基づいて、か?」

 「そうだね。食べ物と、それを作ってくれた人に感謝するんだ」

 「実に面白い考え方だな。お前の国、名はなんと言う?」

 「日本。知ってるよね?」

 「初耳だ。やはり、世界は広いな」

 いまどき日本を知らない人なんているんだ、と思う。WRO…世界復興機構の本部だって東京にあるし、アニメやマンガだって今じゃ世界的に有名なのに。

 「ティベリウスはどこ出身?」

 「ローマだ」

 ローマかぁ、いいなぁ。ローマって聞いても、私はあまり詳しくない。咄嗟に思いつくのはコロッセオとパンテオンくらいだ。でも、ローマ。ロマンスとか、浪漫とか、そういう言葉に通じている、きっと美しいところだ。

 「きっと…素敵な街だろうなぁ…」

 「やめておけ。今あの街に行っても、面白いことなど一つもありはしない」

 その期待をこの男は容赦なくへし折りに来た。人のロマンを壊さないでよ、人の心はどこに置いてきたの?

 「…何か嫌な思い出でもある感じ?」

 「掃いて捨てるほどにな。行くなら島に行け。特に、ロードス島は最高だ。二度と外に出たくなくなるくらいに心地よいぞ」

 ロードス島は確かギリシャの島だったはず。ギリシャも、青い海に白い神殿みたいな、きっと最高にきれいな場所だ。

 雑談をポツポツとしながら、先に進んでいく。黒い森の林冠は太陽の光を阻み、道はかなり暗い。けれど、あまり悪い気分はしない。

 かなり順調に歩けているつもりだったけど、時間が進むのが想像以上に早い。どんどん道は暗くなって、数メートル先を見通すのも難しくなってくる。

 「やむを得ん、私が寝ずの番で野宿を…ん、あれは…」

 だから、物見櫓の残骸を見つけた時は、心の底から助かった、と思った。と同時に、一日歩き通してもあの基地に戻っていないということは、ほぼ間違いなく、この道が正解であるということ。

 側に落ちていた朽ちかけの梯子を立てかけて、2階部分へと登る。埃っぽいが、二段ベッドがある。安心感と疲労から、私はその下段にダイブすると、そのまま深い眠りへと落ちてしまった。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 この森の脱出は近い。それは間違いない。

 だが、よくよく考えれば、懸念すべき点がまだ、山のように残っている。これで終わりとは思えない。

 「MLKT…」

 それから、ようやく、この文字列の意味を思い出した。

 ポエニ語で、女王。

 「このことから咄嗟に思いつくのは、女王ディードーの存在だが…」

 ディードー。古い伝説だ。

 地中海東岸のフェニキア人都市テュロスの王女で、権力争いから身を守るためアフリカに逃亡、そして現地で新たな都市国家を建設した。それが、かの有名なカルタゴだ。

 ディードーの最期は焼身自殺だったと言われているが、何故そのようなことになったかについては色々な物語が伝わっている。

 その内の一つは、『アエネーイス』で語られるものだ。

 亡国トロイアの王子、アイネイアス。逃避行の中で建国からまだ日の浅いカルタゴを訪れた彼は、ディードーに暖かく歓迎される。

 だが、アイネイアスの母たる美の女神ウェヌスは、息子の身の安全を確保するため、愛の矢を用いてディードーにアイネイアスを愛させる。ディードーのことを憎からず思っていたアイネイアスはこれを受け入れ、二人は結ばれる。

 しかし、アイネイアスは神託を、イタリア半島へ向かえという神々の命令を執行しなければならない。それは絶対だ。アイネイアスはディードーを捨ててカルタゴを発つ。愛してしまった人の裏切りに絶望したディードーは、自らの命を…という筋書きだ。

 …いずれにせよ、ディードーはもう何百年も前に死んだ人間だ。この夢に関わってくるとは考えづらい。

 しかし、私とこの故人の間には、若干のつながりが存在しているような、そんな気がしないでもない。

 アイネイアスの物語には続きがある。イタリアにたどり着いた彼は紆余曲折の末、ラティニウムという街を作る。また、彼の息子はもう一つ、アルバ・ロンガという別の街を建てた。

 そして、十世代ほど経ち、アルバ・ロンガの王家に双子が生まれる。巫女として、男との関わりを絶っていた母から生まれた双子。その存在を警戒した王位の簒奪者は、生後間もない双子を殺そうとした。

 だが、それはできなかった。双子の父親は人間にあらず。女神ミネルウァと並び称される戦いの神、マルス。

 その加護のもと、双子はその境遇を憐れんだ兵の手で川に流されるが、精霊の導きにより狼に守られ、そして羊飼いの夫婦に助け出される。二人はロムルスとレムス、と名付けられ、やがて簒奪者を弑し、そして新たな国を…ローマを作ることになる。

 ローマの建国へと歴史を導いた神々の意志。ディードーなら、きっとそれを憎むだろう。

 かなり突飛な解釈だが、もしかすると、この夢にはそうした負の感情が関わっているのかもしれない。

 「…もっとも、この説明ではアカネの存在が説明できんのが難点…むうっ!?」

 背中に悪寒が走る。戦場の勘が告げている。何かが、来る。

 考えるより先に身体が動いた。間に合わせろ、ティベリウス!

 轟音。音を立てて物見櫓が崩れていく。アカネの身体をなんとか抱きかかえ、瓦礫の奔流に巻き込ませまいとした。

 衝撃に告ぐ衝撃。朦朧とする意識に鞭を飛ばすようにして、瓦礫を跳ね除け、私はアカネを抱えて外に這い出る。

 「ティベリウス、頭から…血が…!」

 視界が半ば塞がっている。それから、肩も痛む。だが、動けない程ではない。

 「お前は…大した怪我はなさそうだな…」

 空を仰ぐ。腕が鋭利な爪を伴う翼になった人間。そんな姿の化け物が、こちらを見下ろしている。

 …どうやら、私の死地はここらしい。

 アカネを地面に下ろし、長剣を構える。

 「待って、その怪我じゃ!」

 「この程度の負傷が何だ。なすべきことがある限り、私は倒れないのだ!」

 怪物が急降下してくる。翼爪を用いた超高速の刺突。だが、予備動作が見える。どれだけ速くとも、初動さえ分かれば躱すのは容易だ。

 そして、突き終わりの隙は大きい。私は長剣を振り抜いて、敵の右翼腕に一撃を叩き込んだ。

 「もうこれで飛べぬだろう、鳥人間」

 翼を奪うには至らなかったが、相当に深い傷を負わせた。これで、真っ当な斬り合いに持ち込める。

 「さあ、死ぬとしようか」

 大口を叩いてはみたものの、かなり厳しい相手だ。異形から繰り出される攻撃は慣れない上、普通の兵士よりも遥かに速い。

 だが、問題はない。こちらが削りきられる前に、致命傷を負わせればいい。

 (やはり、直線的で単調な攻撃ばかりだな。

 速いから捌ききれないだけだ。…見つけたぞ、隙を!)

 長剣を振りかぶる。脇腹を貫かれたが、構うものか。一気に振り下ろす!

 左肩から肋骨をざっくりと切り裂いて、腰まで達する。返り血で身体が濡れる。致命傷だ。

 致命傷の…はずだ。

 怪物はまだ動いて、次の一手を放ってくる。

 まさか、コイツは不死身か!?


〜〜〜〜〜〜〜〜


 この瞳が、はっきりと捉えている。

 人間と鳥が滅茶苦茶に溶け合ったようなあの怪物は、袈裟斬りを受けても、全く動きが鈍っていない。

 それに比べて、ティベリウスの太刀筋は、少しずつ、けれど確かに、スピードを落とし始めている。

 たくさんの切り傷に、私を建物の崩壊から庇ったときの打撲傷。それに加えて、腹部からの出血。

 本当なら、立っているのも難しいはずだ。

 妙に頭が冷静に回る。負けてしまう。決して倒れないと豪語した彼が負ける、それが意味するのは、自らの死だ。

 死んじゃう。

 このままじゃ、この人、死んじゃうんだ。

 記憶が再生される。

 色々ズレていて、変な人。

 顔も体格も厳つくて、怖いと思った。口調も冷たいし、今だってちょっと怖い。

 でも。

 私を、見つけてくれたんだ。

 私を、助けてくれたんだ。

 嫌だ。死んでほしくない。

 死なせちゃだめだ。

 私が。

 私が!

 貴方を、守るんだ!

 何か、スイッチがガチっと切り替わったような感覚。

 見える。この化け物、胴体を幾ら切り刻んでも意味がない。血が出ているのはただの演出。たぶん、どこかから力を供給されて動いてるんだ。

 「アカネ、何を!?」

 まずは、首。防御する左前腕ごと斬り飛ばしたが、まだ動く。脳の指令も関係ないのか。

 なら、構造的に動けなくすればいい。

 次は、肩を切り落とす。分離された一部がまだ蠢いている。じゃあ、関節を全部きれいに解体しよう。

 それで、気がついたら、怪物はバラバラ死体になって辺りに散らばっていた。

 我に返って、後ろにいるであろうティベリウスを見る。

 「…よく…やった。アカネ…まるで、女神アテナの寵愛を受けているかのような…天晴な戦い、だった…」

 足元に、血溜まりが、できて、いる。

 力が抜けて倒れそうになるティベリウスを慌てて支える。

 「…これだけ強ければ…もう、私は必要ないだろう」

 「何を言ってるの、ティベル!」

 焦りからか、思わず名前を略してしまった。

 「ティベル…か。最後にそう呼ばれたのは…もう、40年以上前か…」

 刹那、ティベリウスの表情が、深い皺の刻まれた老人に見えた。全てに絶望して、ただ、死を待つばかりの、そんな私の知らない顔が見えた気がした。

 「…行け、アカネ。私は…もう助からん」

 「そんなの、やってみなくちゃ分からない!」

 両手で腹部の傷を抑える。止血のやり方なんか知らない。ただ、祈る。

 お願い、止まって。

 嫌なんだ。ただ強いだけじゃなくて、確かな優しさを持っている、お父さんみたいなこの人が、死んじゃうなんて。

 嫌なんだ。もう、私は、二度と失いたくないんだ。

 だから、止まって。お願い、お願いだから。

 「…最初は、生意気で、手に負えない小娘だと思ったがね」

 「喋らないで、血が、血が止まらない!」

 「だが、お前は…本当は強くて、優しい子だ。真っ直ぐ生きろ。誰が何と言おうと、自分を曲げるな。

 それと、アカネ。その、名前…聞き慣れないものではあるが、良い響きだ…と思うぞ…いい名前を、もらったものだな…」

 力が感じられなくなっていく。

 神様、お願いです。夢から覚めなくていい、現実に帰れなくたっていい。そんなの、もうどうでもいいから。

 私から、もう何も奪わないで。

 「いなく…ならないでよ、ティベル…お父さん…!」

 『案外しぶといわね、二匹とも。嫌いじゃないわ』

 声が聞こえた。顔を上げる。人影が、こちらを見て笑みを浮かべている。

 あれは…私?

 『もう少し、続けようかしら、ね』

 ブツン。光と音が聞こえなくなった。

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