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The Man who Lost All/プロローグ


 たぶん、はじめまして。あるいは、お久しぶりです。

 早速ですが、一つ質問をさせていただきたい。

 古代ギリシアの神秘主義、オルフェウス教曰く。

 人間は死後、忘却の川の水を飲み、全てを忘れ、再び偽りの世界へと生まれ落ちる。

 ですが、もし、記憶の川の水を飲むことができれば、真実の世界で永遠の幸福を得られるのだとか。こちらがトゥルーエンドだと、彼らは考えていたらしいです。

 つまり、何が言いたいか、ですか?簡単なことです。

 死んだ後、生まれ変わりか、天国か、好きな方を選べるなら、どちらがお好みですか。

 私は、あなたがいつか死ぬなんて、考えたくもありませんがね。

 ところで、あなたは今どこにいらっしゃるのですか?

 学校の休み時間、職場からの帰路、ご自宅のベッドの中…そういったところでしょうか。

 …ああ、失礼。冗談ですよ、冗談。

 この瞬間、あなたがいるのは、図書館だ。

 そこの司書は私にとっては同好の士でしてね。といっても、熱意は彼のほうが遥かに上だ。小さい頃から歴史が好きで好きで仕方ない。自分でも本を何冊か書いているぐらいです。

 好きが高じて、貴重な史料を集めて、積み上げて、一つの図書館を作り上げてしまった。この世界のどこにもない場所。失われた本が眠る夢。…いつか、私も訪れてみたいものだ。

 …おや、声が聞こえますね。ああ、さてはノックもせずに彼の部屋に入ってしまいましたね?

 では、私はここで失礼。また後で、お会いしましょう。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 う、うわあ!?な、な、なんなんだい、君は!

 なんでって、そ、そりゃ驚くだろう!ひ、他人の部屋、に入るときは、し、失礼しまーす、とか、お邪魔しまーす、とか先に言うのが筋ってものじゃないのかい!?

 え、失礼しました?ま、待て!待つんだ、別に帰れと言ってるわけじゃない。そもそも、そっちは出口じゃないぞー!


 んんっ、あー、あー。よし。

 さっきは取り乱してすまなかったね。なにぶん、ここに生きた人間が迷い込むなんて、久しぶり…いや、多分初めてだから。

 えーと、何か飲むかな?あ、安心して欲しい。君の国ではヨモツヘグイっていうんだっけ、冥界で何かを食べると帰れなくなるって規則。ここは冥界じゃないし、そんなものないから。

 え、なら、ここはどこかって?見ての通り、図書館だよ。すごいだろう。実に長い年月がかかったが、今や蔵書数88万冊!ラテン語にギリシャ語はもちろん、さらにはポエニ語、エトルリア語、それから今の世界言語たる英語まで、これほどまでに充実した空間は、世界を見てもそうない…違うかい?

 折角の来客だ。できることなら一冊ぐらいお土産として持たせたいが、残念なことにこの図書館から本を持ち出すことはできなくてね。あ、でも、どうしてもって言うなら、君の脳味噌に直接情報を書き込んでもいいよ。たとえば、そう、この子なんてどうかな。かの名将、カルタゴのハンニバル・バルカが弟に宛てた書簡!きっと、歴史学のさらなる発展の役に…要らない?…そっか……、残念………。

 ……………。

 …え、えっと、何の話だったっけ。ああ、そうだ、飲み物だったね。な、何がいい?ワインもジュースも、大体何でも揃ってる。

 …うん、分かった。え、僕は何を飲むか?うーん、コーラかな。美味しいよね、アレ。


 お待たせ!

 それじゃ、このあり得ざる出会いを神々に感謝して、乾杯!

 くぅ〜!この糖分と刺激が最高だ!

 しかし、こんなところに迷い込むなんて、小石に躓いて頭を打ったとか、それとも毒キノコを食べさせられたとかかい?

 そんなんじゃない?気がついたらここにいた?へえ…じゃあ、もしかしたら君には素質があるのかもね。現実とは違う世界とつながる、物語を通して異なる自我を生きる、そういう素質が。

 そうだ、そんな特別でありふれた君に、少し昔話をしよう。このお話が、君の役に立つか、面白いと思ってくれるか、僕には分からない。でも、ここで出会えたのもきっと何かの縁だし、折角の機会だ。是非、聞いていってくれ。

 え?その前に僕が誰なのか知りたい?…君、今まで僕が誰なのか、知らなかったんだ。だよね…僕、そんな知名度ないもんね…。いや、ある意味では好都合か。僕は、君にとっては何者でもなく、君もまた、僕にとっては何者でもない。先入観が入らない、ある意味では純粋な空間だ。

 でも、仮の名前がある方が何かと便利だよね。じゃあ、とりあえず、僕のことは少年(プエル)って呼んでくれるかな。


 初めに、一つ質問をしよう。

 人生って、何だと思う?

 ある人は旅、と答えるだろう。戦いと答える人もいる。天国目指して善行に励む修行期間、なんて人もいるかもね。東洋の考え方だと、この世は幻のようで儚いもの、人生もまた然り、みたいなのもあるかな。まあ、僕はそっちはあまり詳しくないけど。

 そして、別の人はこう答える。喪失の連続こそが、人生だと。

 人間も、世界も。生きていれば、時間が一秒進むたびに、何か行動を起こす、あるいは起こさないたびに、何かを失っているんだ。

 たとえば、僕はさっきここでコーラを飲むという選択をした。それは、ここで。別の飲み物を飲むという可能性を失ったということでもある。選択は、選んだ可能性を現実とすると同時に、選ばなかったものを失うことでもある。いわゆる、機会損失の考え方に近いかな。

 そういう、取るに足らない喪失を人間は毎分毎秒経験している。それだけなら別にいいんだけど、重大な喪失にも直面してしまうのが人生の辛いところだ。

 大人になり、子供であることを失う。

 職を得て、自由な時間を失う。

 話し合いを避けた結果、理解する機会を失う。

 真摯に向き合わなかったがために、苦い失恋を味わう。

 …友の忠告を無視し、自分自身も、我が子さえも…。

 …いや、最後のは忘れてくれ。あまり一般的とはいえない事例だからね。

 今、僕の目の前にいる君も、もしかしたら、大切な何かを失った経験があるのかもしれない。そうじゃないことを祈るし、もし大きな喪失を経験してるなら、なんとかして乗り越えられるよう、心から願う。

 …さて、本題に移ろうか。

 この昔話の主人公は三人…「人」という数え方が正しいかは保留させてもらって…とにかく、三人の主人公がいる物語だ。

 舞台は夢の世界。コンマ一秒の短い夢であり、同時に15年と4000年と80年の、とても長い夢だ。

 主人公についても、少し紹介しておこう。

 一人は、君とは異なる今を生きる女の子。あまりの苦痛に耐えかねて、消えてしまいたいと願いながら、見えない光に必死に手を伸ばしている女の子だ。

 そして、二人目。彼女について下手なことを言うと、ちょっと…どころじゃなく死ぬほど怖いから…後回しにさせてもらおう。一つ言えるのは、彼女はとても強く、激しい愛の持ち主ということだ。

 そして、三人目。

 彼は………すまない。彼を一言で語るのは難しい。

 ここで話しすぎるのも考えものだから、できるだけ短くまとめたいんだが、そうだな、一番印象に残っているのは、後ろ姿だった。背が高くて、肩幅が広くて、鍛えられた騎士の背中だった。剣を抜いたことのない僕でも、一目見ただけで、頑強で何者にも屈しない、とんでもなく強い人だって分かる背中だった。

 だからかな…誰も気付けなかったんだ。

 誰にも弱さを見せず、心を許すこともなかった。冷たい鎧に身を包んで、無慈悲に、冷酷な機構となって、あの人は…

 愛も。

 誇りも。

 名誉も。

 友情も。

 幸福も。

 全てを…文字通り、全てを失ってしまったんだ。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 ついに来たか、と思った。

 ここ数日、すこぶる調子が悪かった。目は霞むし、人の声をきちんと認識できなくなっていた。粥すらほとんど喉を通らない。それに、記憶もかなり混乱している。昼と夜が何回交代したか、もっと言えば自分の名前が何であったかさえよく思い出せなくなっていた。

 そして、今。

 何も見えない真っ暗闇に、俺は突っ立っている。つい先刻まで、焦燥と安堵が混じった誰かの嘆息が聞こえていた気がしたが、それももはや分からない。いや、自分が突っ立っているのか、座っているのか、寝そべっているのか、実のところ定かではない。手と足、胴体から顔に至るまで感覚が全く無い。そのクセ、真冬の森より寒いと感じるのだから不思議なものだ。

 そうか、これが死か。しかも、恐らく、驚いたことに、自然死だ。そうでなければ、思考をここまで保持するのは不可能だろう。皮肉なことに、俺は天命を全うしたのだ。

 「笑えるな。てっきり殺されるものだと思っていたが」

 なぜそう思っていたのかも、もう思い出せない。きっと、他人に憎まれるようなことを沢山したのだろう。恐らく、この俺という人間はそういうヤツだ。

 「寒いな…もう、そう感じる器官はないというのに、どうしてこんなに寒いんだ…」

 こういうときは、運動をするに限る。失った肉体を想像する。剣を振るい、野を駆け、そして一人で道を歩いた、その残滓が戻って来る。

 「ぐっ!?」

 虚な暗闇に痛みが走る。なんだ、この感覚は。

 息ができない。その苦しみが告げる…いつか、誰かが、隣りにいた?

 いてもいられなくなって、走る。

 一歩踏み出すたびに、自分が削れていくのが分かる。

 何かが崩壊する音がした。そして、俺は一線を超えた。決してやってはならないことをした。

 右腕のごとく想っていた存在を失った。それでも、倒れてはならないのだ。

 消えていく。憎悪と恐怖、醜い欲望に塗れた罵声と吐き気を催すへつらいの数々が、剣で切り刻まれるようにして、崩れていく。

 託されたものを失った。約束を守れなかった。泣き崩れる「あの子」の姿に、俺はかつての自分を重ねた。

 この生き方を選べば、俺は何も得ることはできない。すべてを失う。悪人として、梟雄として、他人は俺を蔑み、忘れ去るだろう。だが、これは、誰かがやらなければならないことだ。

 忘れていく。戦いの記憶、他の誰にもできない、できなかった何かを成した。その記録が、矢の雨に流されるように失われていく。

 逃げた。残酷な現実から。勝者の栄冠も、積み重ねた功績も 何の意味も見出せない。

 なぜだ お前は 俺なんかより ずっと 好かれて まだまだ これから なのに!

 彼方から飛んできた投槍が、再構築した脚を吹き飛ばす。もう一度立ち上がろうとするが、できない。

 脚 の概念が 消失している。這う ことも 叶わ ない

 「うで」関節構造 「ゆビ」の本すう それスラも…

 「いや、まだだ!」

 まだ、コトバが残っている。繰り返される不確かな思考が自我の消滅を遅延させる。あと、一歩。崩壊しかけの論理を暴走させ、屍を押し出していく。この先に、なにかがある。

 今の俺は、風に吹かれて崩れ去った砂の城のようなものだ。なにもない。全て忘れた。だが、最後に残った意識の残り香がレンズとなり、像を結ぶ。

 「…あ」

 見えた。聞こえた。失ったものは、すぐそこにある。

 「馬鹿みたいだ。最期に…こんな、何の意味もない」

 …を伸ばせば、触れられるかもしれない。

 ◯していた。☒から。□のことを。

 その感情も、もはや分からない。

 だから、その名前を再生しないという選択を取る。

 喪失は、これで最後だ。




 俺は、お前たちのところには行けない。




 『それは間違っています』

 誰だ?

 『こんな結末で良いはずがない』

 超越者が定命の生を語るか。ふざけるな。一体、俺の、俺達の何が解る!

 『そうですね。私には解らない。ですが、貴方の歩んだ道、その苦しみは、確かに意味があるもの。私はそのように評価します』

 何かが見えた。血の海に咲く、悍ましくも美しい花。

 ようやく終われたと思ったのに。かつてあった誰かの残骸が、再び稼働できるまでに修復されていく。

 『だから、その意志を利用させてもらうことにしました。この世界の礎となりし英雄よ。

 せいぜい足掻きなさい。期待していますよ』

 待て、質問に答え−−−


 「がっ…はあ!?」

 心臓が暴れている。機能を取り戻した視界に目が焼かれる。世界が騒がしい。風がまるで嵐であるかのように感じる。

 「なんだ、コレは」

 人工物…いや、それとも神々の御業か。四角い木が無数に並び立っている。この世のものとは思えない光景が、眼下に広がっている。

 (…待て、眼下?)

 そうだ。眼下に広がっている。つまるところ、私は空の上から地面に叩きつけられる途中だということだ。

 「早速殺すつもりか!?」

 思わず怒声が口から飛び出す。冷たい暴風が服を剥ぎ取り、全身の皮を引き裂こうとしている。この状況を考えたヤツは冗談という言葉の意味をもう少し勉強すべきだろう。

 なにせ、全く意味が分からん。そして、どう考えても死ぬ。オリュンポス山のてっぺんで鳥にでも捕まって投げられたのか、と考える。そういえば私も冗談を言うのは苦手だった。駄目だ、勝ち筋が見えん。詰みだ。

 「これは夢か。夢に相違ない。現に、突然穴が空いて…」

 空間が真っ黒な口を開く。私は何も知らないまま、手を伸ばす。このまま落ちれば良くても軟体動物、最悪真っ赤なジュースの完成だ。それよりはいささかマシな結末を迎えられるだろう。

 結果から言えば、私の予想は当たっていた。暗闇に飛び込んだ瞬間、ガクンと身体が揺れる。粘度の高い液体を通り抜けたかのように減速した身体は、そのまま柔らかい腐葉土の中にざっくりと突き刺さった。

 「…やれやれだ。だが、生きてはいるらしい」

 這々の体で土の中から抜け出す。細い枝が腕と脚にいくつか生えている。久しぶりの負傷だ。

 「動けない程ではないが、早く洗わないと死ぬかもしれんな」

 周囲を見渡しながら、私はそんなことを考える。戦場では、微かな傷が致命傷になりうる。表面上は生命に届かない傷であっても、病魔がそこから入り込み、負傷者を確実に殺そうと迫ってくるからだ。

 しかし、この風景は…覚えがある。

 「まさか、戻ってくることになるとは」

 所狭しと並ぶ針葉樹が、天の光を遮り薄暗闇を作っている。葉の隙間から見える日の高さからして、おそらくはまだ昼過ぎだ。にも関わらず、早朝か夕暮れかと見紛う程に暗い。

 「懐かしい、などと感傷に浸る時間はないか」

 …まずは汚染されていない水源を、それから基地を探す。ここが私の知っているあの森なら、見つかる可能性は無ではない。見つからない可能性のほうが高いが。

 「死因、木の枝…か。墓碑銘に刻むにはあまりに悲惨であるな」

 唐突に現れた、謎の世界。幸運にも、失うものは何もない。

 勘で方向を決める。痛みはどうということはない。私は、そのまま一歩目を踏み出した。

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