【中編】提出物に厳しすぎる漢文教師
8時半から続く一コマ50分怒涛の授業ラッシュをなんとか耐え切って、終業のチャイムが鳴り止むのと同時に高校の廊下はたちまち人で溢れ出した。
「いやーマジで、野村茂子先生授業中何言ってるかわかんねーよなぁ〜」
私が高校に入学してから初めて作った友人である吉村大河(字面だけ見るとごく普通の日本人名のようだがその実、吉村大河と書いてラックレギオン·ダイリヴァーと発音するリンユム人である。なので肌が黒い。彼の出生地であるリンユム共和国は植民地の独立が世界的な大ブームになり始めた当時こそ南アフリカの土地面積の7割を占める大国だったものの、首相の独善な政治や一般市民に突然課せられる不条理な処刑に若者が反発し、リンユムは2004年にとうとう、大規模なクーデターにより崩壊した)が、流暢な日本語で話しかけてきた。
私は、「うーん、ほんとにそれ」といった、デフォルトで設定されていそうな返事を彼に預けておいた。
今このふたりの間で話題に上がっている野村茂子先生というのは、我らが母校私立ちんちん丸出し中学高等学校高等部で教鞭を執っている漢文教師である。ほぼ毎回授業の合間に、飼っているツチブタの話や野村自身が持つややイカレかけた政治思想、ついには自分の性的嗜好などについて本来なら知る由もないうえ生徒のうち誰に対する需要もなかろう小話を挟んでくるので、真面目な講義に割かれる時間が少ないという点でテストもろくに解けず提出物も出さずの高校の肥やしになりたいだけのバカチン生徒層には大人気だが私や吉村のように常に定期考査の上位を飾るような優秀な生徒からはかなり激しめに嫌われている。そこまで優等生の恨みを買う所以は小話の多さだけでなく、単に漢文の授業がヘタクソなこともまた貢献している。それに加え、授業テクニックの低さに釣り合わないほど提出物の採点が厳しいのである。我々が漢文のワークを提出する際、一度問題を解いて自分で丸つけをしてから提出用ロッカーに突っ込んでおくというのが一連の流れになっているが、この野村茂子は、我々の添削の添削までしてくるのである。少しでも私が丸つけのフェーズでミスをすると、あの野村茂子は「再提出」と書いた付箋をワークの該当ページに貼付して返却するのである。
ある日返却された漢文のワークを眺めながら吉村は苦虫を噛み潰すような顔をして
「あのくそばばあ.. 」
と恨めしげに呟いた。この時点で私は、あの野村茂子が彼の漢文ワークの上で付箋を媒介にして暴れ回っているのだろうと推察していた。彼女が提出物の出来について厳しすぎるというのも十分に理解共感はできるが、そこまで再提出が嫌ならば君たちが野村茂子のお眼鏡に叶うように最高のクオリティで漢文ワークを提出すれば良いのでは無いかという、とても理にかなっている思考が過ぎらないこともなかった。
恐ろしい顔をして漢文ワークを睨みつける吉村の横から、配布係の大弓さんが野村先生より遣わされた私の漢文ワークを机の上に素っ気なくplaceした。
「ありがとうございます」と私が一応の礼を言い切るのも待たずに、大弓さんは次の漢文ワーク配達先に向けて歩き出した。私の横を通り過ぎる時、めちゃめちゃいい匂いがした。
「吉村見てろよ、俺のワークには付箋なんか貼られてねえからな」
だって3回くらい丸つけを見直したからな。そう嘯きながら漢文ワークを開く私の目は、多分クリスマスプレゼントを開ける時のように煌めいていたと思う。しかしながらそのハイなバイブスは、何か書かれてる付箋を視界に入れた時に小休止をむかえた。
なぜかこの付箋は、ページを開かないと確認できないように半分に折られて貼付されていた。
『放課後、第二応接室までくるように』
そう書かれた黄色の付箋が、半分に折りたたまれた状態で私の、私のワークにはりつけられていた。
「うわっお前、これやばくね」
私がこんな形で招集を食らったのは初めてだったので、この時かなりテンパった。
「えっなんでな」んでおれ何か喧嘩売るようなことしたっけ
「あれ、よく見たら付箋2枚重なってない?」
言われて気づいた。よくみると、召集令状にピッタリ重なるようにして2枚目の付箋が隠れていた。おそるおそる、そっちの方も確認してみる…
『吉村くんも』
「えええええええええええええehhhhhhh」
突然私に課せられた召集が突然他人事でなくなった吉村の叫びは、かなりアフリカっぽくなっていた。
「What's the fucking kidding ..まじかよ…」
それにしても、俺の提出物を介して俺を招集するのはわかるが、なぜこのワークとは無関係の吉村の名前までここに載っているのか分からない。腐っても高校教師がここまで意味不明な真似をするだろうか?これは、直接野村茂子の元に赴いて諮問する必要があるだろう。そう思った。昼休憩が終わってからの3コマは、やけに長く感じた。これは、吉村も同じだっただろう。
午後の3コマはとてもいつもの様に平常心で受けられるものではなかった。無理やり心を落ち着けようとしても、浜辺に波がうっては引きうっては引きするように、野村茂子の顔が、まるでホットミルクに出来る膜のような奴の顔がちらちらと思い出された。
終礼が終わると同時に、教室に訪れていた束の間の静寂も終わりを迎え、たちまち賑わい出した。秋の終わりの、冬を待っている憂鬱な灰色の空が、私たちを眺めていた。
第二応接室は、現在立ち入りが基本許されていない「南棟」のどこかにある。ちんちん丸出し中学高等学校は1度大規模なリペイント+耐震補強工事が行われほとんどの建物が無機質な白色に変わったが、予算の都合か何かの曰くか、南棟だけなぜか手付かずのまま、焼け焦げた上にほこりをかぶったような茶色を纏って残っている。
「そもそもさ、第二応接室って南棟じゃんか?俺ら入れねえんじゃねえの?」
「入れるか入れないかじゃなくて、俺らはいまから南棟に進入するんだよ。隠密にな」
高等部の教室がある北棟から南棟へ伸びる渡り廊下を歩きながらこんな会話をした。南棟は、我々が思っていたよりも大きな体をして立ちはだかっていた。それにしても、野村茂子がまさか立ち入り禁止の校舎に高等部の生徒2人、それも学年の中でとりわけ優秀な私と吉村を呼び出すような女だったとは。俺と吉村はすっかりお見逸れしていた。こんなこと、普通の先生がすることではない。そして、俺が抱いていた野村茂子への漠然とした不安は、南棟に近づくにつれて徐々に立体を持ち始めていた。
とうとう、我々は南棟の入口、くすんだガラスの周りを木のフレームで覆った両開きのドアの前に立ち止まった。ドアの向こうからなにか異常な気配がしたが、この際野村茂子をクビにできるチャンスと捉えて意気揚々と扉を開いた。普段は施錠されていて入れないが、今日は鍵が開かれていた。
「うわっ、酷いにおいだな、bad smell…」
吉村はそう言って、南棟へ1歩踏み出すなり後ずさりした。たしかに、古い時代に取り残されたような、廃墟と化した曾祖母の家で嗅いだような寂しいにおいを更に50年発酵させたような感じ。ただ、俺はそんなことには意識を向けず、この校舎のどこかにある第二応接室を見つけ出すことに集中…するまでもなく、入って右手にすぐ「第二応接室」と筆で書かれた木の札が、これまた朽ちかけた引き戸の上に取り付けられていた。吉村もなんとか俺についてきていた。もし50後半の容貌を呈するババア漢文教師がどう暴動を起こしたとしても、男子高校生2人でどうにかできないことは無いだろうと言い聞かせて、また勢いよく引き戸を左へスライドした。
「いらっしゃい、鞭麿君、よしむらくん」
この時、俺と吉村は唖然とした。野村先生は応接室の真ん中に用意された対談用の机の奥側に両腕を寝かせて、こちらを向いて座っていた。が明らかに、今までの野村茂子とは顔がちがっている。私たちが知っている野村茂子は、もっとホットミルクの膜のような顔をしていたのに、今目の前にいる彼女は、安い言葉で言えば超可愛いのである…
言い遅れたが私は、鞭麿忠という名前である
「よしむらじゃなくて、ラックレギオンです」
吉村も驚きを隠せていない様な顔をしながらも、野村への苛立ちを少し出力して名前の読み間違えを是正した。
「あらあら、失礼したわね。だってあなた、全然授業で発表したりしないじゃない。先生だって、名簿に目をさささーっと通すだけで子供たちみんなの名前を覚えられるわけじゃないのよ」
「野村先生、俺は野村先生の漢文の授業で発表しなかったことはありませんよ…?」
吉村のこの発言に、一つも間違いはない。彼は授業でよく発表するタイプだし、その正答率はとても高い。そのことを授業を担当していた野村茂子が知らない道理はない。野村への疑問とこれから起こる事態への不安が、私たち2人の心に靄をかけ始めていた。
「あら、また間違えちゃった。そんな名前だから、てっきりクラスの中で浮いてるのかと思ったわ。私が担任を受け持ってるクラスにもね、二郎丸とかいう意味わかんないちんちくりんな名前の子がいるのよ..」
「…まあ、ここまできて嘘で誤魔化す訳にもいかないわよね」
しばし沈黙の後に野村先生がそう言い終わると、お化け屋敷のアメニティのそれのように、応接室の右奥にある鉄製の掃除用具入れがガタンと揺れた。 これには、最大限平常を保っていた俺と吉村も腰が抜けそうになった。
「おい、まだだ!その中で、じっとしていろ!」
野村先生は突然声色を変えて、今までよりもずっと低い声で目線はこちらに向けたまま掃除用具入れの中にいる何かに叫んだ。すると掃除用具入れはもう動かなくなってしまった。
「そういえば1度、先生がツチブタを飼っているって話をしたわよね?」
声が元に戻っていた。私と吉村はもう、野村先生と奥の掃除用具入れから目を離さないまま黙っていることしかできなかった。
「そのツチブタ、今あの掃除用具入れの中にいるのよ」
野村茂子がツチブタをたしなめてから、第二応接室の空気はより静かに、より張り詰めていった。
「私はツチブタを2匹飼っててね、今後ろに隠れてるのが、大きい方の隠鋸。」
「小さい方は凜々軽、南棟全体を使って放し飼いしてるわ。飼い殺しに近いけどね。」
「ただ2匹とも、あなたたちの首を噛みちぎるくらいわけないのよ」
張り詰めた空気にゆっくりと切り込むように、野村茂子は私達を牽制する様なことを言う。教育者はいつもこうだ。常に俺たちのことを見下した物言いをしやがる。よっぽど私生活が貧しいのだろうか?
「さて、ちょっと怖い話をしたところで、本題に入るわね」
「本題の方が、あなた達にとっては怖いかもしれないけど」
我々は息を飲んだ。豚2匹にもみくちゃにされるよりも怖いことがあるというのが、想像しづらかった。豚は何かと太った人を指す蔑称として使われるが、その実豚は筋肉の塊だからだ…
「あなたたち、裏でコソコソ私の悪口言ってるんでしょ。許せないわ」
野村先生は凄んでこう言ったものの、発言の内容自体はなんか小学生みたいっていうか校舎全体から感じる気迫と比べるとなんか拍子抜けみたいな感じで正直脱力した。裏でコソコソって、俺らはガンガン表で言ってたつもりだったけどな。
俺らは少し自信をつけ直し、これを皮切りに饒舌に話し始めた。水を得た魚とはこういうことだろう。
「それ、誰から聞いたんですかー?」
「大弓さんよ。あなたたちのクラスにいる根暗な眼鏡っ娘ね」
あいつ、こんな所で私たちとの軋轢を生んでいたとは。
「だって、彼女から急に言ってきたのよ?『うちのクラスに2人、先生の悪口言ってた奴がいましたー』ってね。別に仲良くしてた覚えもないのに、どうしてかしら?」
「とにかく、これであなたたちの犯行(陰口)がはっきりしたわね。あなたたち2人には、ちょっとお仕置にあってもらって、それで、死んでもらうわ!来い!隠鋸ッ!」
今度こそ掃除用具入れの扉がドゴヌと重々しく開いたと思えば、中からは人型のツチブタ、隠鋸がいらっしゃった。、、、鬼滅の刃に出てくる伊之助のように頭だけ獣で後は人間..なんてことはなく、ツチブタの体をそのまま人体のフォーマットに適応させたような、今まで目にした事の無い超キモイフォルムをこちらに呈してきた。しかもこれが超屈強ときたものだ。これは流石に太刀打ちできないかも知れない。
野村茂子は、椅子の横に置いていた革のカバンから、何やら黒光りする蛇のようなものを取り出した。
「あ、あれ、鞭じゃね?」
吉村がそう漏らした。
次の瞬間、隠鋸は野村茂子から鞭を腕ごと奪い取り、鞭を一振り。
野村茂子の腕からとめどなく血飛沫が飛んでいた。「ぎゃあああああああああははははは」野村茂子の断末魔の叫びの中、隠鋸の振る鞭が空気を裂く音が聞こえた。それに少し遅れて、鞭の先端は野村茂子先生の頬骨を捉え、粉砕した。椅子から崩れ落ちる血まみれの漢文教師、野村茂子!
「ツギハ、オマエタチダ」
僕たちは今からこのブタと追いかけっこするのか?冗談じゃない!吉村を生贄に召喚して俺だけ逃げるよーん
「Sorry鞭麿!俺のために死んでくれ!!」
俺よりも一足先にドアの方へ近づいていた吉村は、こう言いながら俺を、あの鞭持ちの豚に向けてドロップキックした。前によろける俺の視界には、真っ直ぐ飛んでくる、黒く光る鞭が___。
鞭が僕の尊顔を粉々にする直前に、俺は北棟にある保健室に瞬間移動していた。時計は5:30分を示していた。すると、保健室にすんでいることで学内では有名な中学二年の女子が、こちらに気がつくなり向かってきた。
「大丈夫ですか?とんでもない汗だけど…」
「はぇ...?」
「また、漢文の先生ですか?」
保健室住みます女子が言うには、これまで何度も俺のような奴がここに転送されてきたらしい。なんか気持ち悪いのでそれ以上の詮索はしなかったし、俺の命を意味わからん豚に売ったカス吉村の安否をいまから確認しにいくのも怖いし癪なので、そのまま帰った。
次の日からの漢文の授業は、今までも古文でお世話になっていた文乃先生が担当することになった。そしてなぜか、吉村大河と野村茂子という2人の名前を覚えているのは、学年の中で俺だけだった…
まだ、私の中では何も解決していない。野村茂子の顔が突然変わった理由、彼女やツチブタたちの素性、吉村の行方、記憶操作 ….
その日は学校での生活がなにも手につかず、二限後に早退した。カバンを背負って靴箱に降りると、大弓さんが、立っていて、私の側まで歩み寄ってくるなり、耳元で
「吉村くんは、ざんねんながら、つちぶたになっちゃいましたよ、つちぶた、ざんねんながら、つちぶた、ざんねんながら、つちぶた」
と、言った。咄嗟に俺は大弓さんから体を引き離して、彼女の顔を見た。大弓さんの頭には、鞭がめりこんでいて、血が吹き出ていて、目は両端を向いていて、靴箱の影から、血まみれの野村先生と、血まみれの吉村が、こちらを見て、血まみれの歯をむきだしにして、ケタケタ笑っていた。大弓さんも、こちらを見ていないのに、こちらを見ていて、ニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタニタ