誰でも書ける小説と書くのが難しい小説
小説というものは誰でも書ける、というのは一つの考えとしてあるだろう。実際、新人賞には千本くらい小説が送られてくる。タレントが出版社に頼まれて小説を書く。さほど、その道に熟達しているとは思われない人間が小説を書く。これは普通の事態としてある。だとしたら、「小説」は誰でも書けるのではないか。
誰でも書けるのが小説だと考えると、その中でたまたま残ったもの、売れたものが、「才能」ある作家が書いたものという事になる。誰でも書けるものを多くの人が書いて、残ったものがいいとされる。今はそんな感じだろう。
では、小説はどうして誰でも書けるのだろうか? 答えは簡単で、言葉は誰でも普段、使っているからだ。またその対象である人生・生活も、我々みんなが知っているものだからだ。母国語は誰でも知っている。生活も誰でも遂行している。だからその二つを利用して書く小説は誰でも書ける。後はそこにいかに特異性をもたせるか、「文学性」をもたせるか、いかに大衆の欲求を具現化して売れるものを書くか。そうした事をみんなで競っている。
しかし、一方では「夏目漱石」が書く小説もある。いくらなんでも、誰でも書けるものの中にたまたま夏目漱石の小説が紛れていると考えるのは無茶というものだろう。もしかしたらそんな妄想をしている人も多いのかもしれないが、漱石について多少でも知っていればそれは間違いとわかる。漱石がイギリスで狂気に陥るほどに猛勉強したのはよく知られている。彼は文学の根幹を掴むのに命を費やした。
ここまで来て何が言いたいかと言うと、「誰でも書ける小説」と「書くのが難しい小説(=文豪クラスの小説)」との間には大きな隔たりがあるという事だ。この隔たりは明確化されていないのではないか。
それでは、誰でも書ける小説と書くのが難しい小説(文豪レベルの小説)は、何が違うのだろうか。
私が思い出すのは小林秀雄の言葉だ。小林は「文学とは思想である」とはっきり語っている。そこの言葉だけを抜き出すとこうなる。
「人生は二度読めない。二度読めるのは思想です。そうではないだろうか。」
小林は「思想」という言葉で何を語ろうとしているのか。小林の言葉を自分の言葉に置き直すと次のようになる。
人生→誰でも書ける小説 思想→書くのが難しい小説
というようになる。
問題は小林秀雄が「思想」という言葉で何を言わんとしているか、だ。私はそれは人生の「抽象」であろうと思う。
生の人生は誰でも知っている。よって人生は誰でも書ける。しかしそんなものいくら集めてみた所で、他人の人生を覗き見したいという野次馬精神を満足させる事しかできないだろう。タレントの暴露本に文学性はない。それは野次馬精神を満足させるものでしかない。生の人生をそのまま綴る事は文学ではない。小林はそれを「人生は二度読めない」と言っている。人生は一度読めば十分だ。他人のも、自分のも。
では文学はどこから始まるのだろうか。それは人生を素材とし、そこから、芸術家(作家)がある加工物を作り出す所から始まる。画家や彫刻家をイメージしよう。彼らは自然を素材とし、そこから芸術を生み出す。作家もまた、人生を素材にし、そこから作品を作り上げていく。
小説というものの議論が混乱するのは、素材と作品が混同される為だ。作品そのものには人生が描かれているから、わからない読者は(そんな人生を作者も体験したのだろう)と無邪気に考える。実際には作者は、人生という「素材」しか体験していない。素材なら全員体験している。我々が、画家が描く光景をどこかで眺めた事があるように。だが、我々は絵筆を取らなかった。作品にしなかったし、そんな能力を持たなかった。ゴッホが素材としたアルルの風景をその後、どれだけの人が眺めただろうか。
偉大な作家ほど、人生と作品の間に乖離がある。それは画家にとって、自然と作品の間に差があるのと同じだ。その間を埋めるのが技術や修養である。そうした構造が、文学の特性上、あまり理解されていない。
「人生は二度読めない、読めるのは思想だ」というのは、思想は、人生の抽象だという事だ。科学者が尊敬されるのは、自然という状態から一般理論を抜き出すからである。あらゆる森羅万象の、細部を果てなく描いた所で彼が森羅万象を理解したとは誰も言わないだろう。
今の作家の作品を読むと、何だかそんな印象を受ける。彼らの多くは人生から何も抜出さない。抽象しない。結論を引き出さない。ただ生の人生をそのまま描けばいいと思っている。それをストーリー仕立てにすればいいと思っている。物語性も抽象の一つだが、それだけではあまりに弱い。
人生とは何かを解する事と、人生をただぼんやり経験する事は違う事だ。後者は小説を書くだろうが、文学に触れる事はない。前者は文学作品を作る。彼には作る事が可能だからだ。彼は人生を素材にして思想、即ち、作品を生み出す。
人生を経験するのは誰でもやっている。言葉も誰でも知っている。だから誰でも小説が書ける。小説を書いてみる。すると何が現れるか。素直かつ幼稚な欲求の発露か、ただ自分の経験した事実の羅列か。多くの小説家志望はこの二つの領域を行き来するのではないか。つまり、若年期においては経験が不足しているので、主観的な願望を作品の中にみなぎらせる。老年になると経験はたんまりあるので、それを順番に書いていく。
重要な事は、人生を素材とし(自分の願望も素材となる)、加工を施し、作品を生み出す事だ。「花を咲かせるのが自然。花輪にするのが芸術」とゲーテはわかりやすく説明している。ただ、花輪を編むのと違って、人生を素材とし、意味づけをしていくのは難しい作業となる。そこに教養や修練が必要となってくる。教養や修練に関しては、こと文学に関してはわかりやすいものではない。しかしそういうものがなければ作品は、自然の中に解消されてしまう。
今、もてはやされている多くの作品はそのまま歴史の中に、つまり自然の中にたやすく消えていってしまうだろう。我々は今を生きている。我々の生そのものが自然である。その自然性から、自然をただ写し取った作品にも興味が出てくる。例えば「コロナ」とか「大震災」とか、そういうものだ。そういうものは我々が生きている生の現実と連関しているので、非常に興味深い。
現在はメディアが発達しているのでそうしたものを同時的に共有できる。文学作品とされるものが、そうした事象を追いかける。事象を精錬せず、抽象化せず、素材を素材のまま盛り込んでしまう。推しがどうしたとか、仮想通貨がどうしたとか。それらの作品は、生の現実と繋がっている間は面白く見える。しかし現実が過ぎ去ればつまらないものになる。
メディアの同時性は、生の現実を加工する事を忘れさせる。抽象化し、思想にし、意味ある形象にする技術を蔑ろにしていく。同時的に拡散されるものが消費され、売れるので、そうしたものだけが宣伝される。そうして生の現実は刻々と変化する。社会そのものが、経験をただ消費していく。経験から何一つ学ばない。ただ存在するだけだ。生きているだけだ。
「人生は二度読めない。読めるのは思想です」と小林ははっきり言っている。一度読めば十分なもので盛り上がっている人々も、一度存在するだけで消えていってしまうのではないか?と私はぼんやり考える。文学作品も今や、一度読めば十分なものになってしまっている。同時共有の得意なメディアのおかげで、一度読めばそれでいいものが、瞬間的に消費され、話題になるので、それだけになってしまう。今の世の中の虚しさはこの瞬間性にある。瞬間性を批判するものはメディアから締め出されるので、そうした人は傍流に位置づけられてしまう。
小説は思想である。書くのが難しいものである。というのは、今生きている我々の現実をただ享受し、それを写し出すのではなく、そこから何かを抽出し、意味あるものにしていくのが難しいからだ。そこに思想が現れる。作品が現れる。そういうものが意味ある作品、良い作品であろうと思う。
この事実は、リアルタイム性に浸っている社会があまりにも忘れている事柄だと、私には思われる。小説を書くのは難しいと思ったほうが良い考えだと私には思われる。最も、こうした考えの発露も、リアルタイム的なメディアにしか投稿できない。そういう自分の立場を捨て去るわけにはいかない。瞬間的な同時性は、普遍性とは全く違うものだという事を肝に銘じて、作品を作っていくしかないと思う。そういう意味では、優れた表現者が孤立と孤独を強いられるのもそれほど悪い事ではないのだろう。