第一章 黒白の世界
滞った空気は景色を白濁させ、流れを止めた川は黒藻が浮き底も見えない。
川原の草は生え放題枯れ放題で、水との境の泥地には虫が湧いている。
いくら自然を好む人でも、わざわざ汚川を眺めにくる者などいない。いくら土曜日でも、こんなところに散歩に来る酔狂な家族などいないだろう。街の人と顔を合わせることはまずないはずだ。
川縁の朽ちたベンチに腰掛けたリョウは、いつものようにスケッチを始めた。
この場所を選んだのは、荒れ果てた河川を描くためではない。座るところさえあれば、どこでもよかった。一人で絵を描いたり眺めたりできれば、どんなに汚くてもかまわない。
どうせこの街に、きれいな場所なんてない。
それに、リョウの描くスケッチは、すべて空想の風景だった。
想像で描いているのではない。それでは意味がない。記憶にあるイメージを、そのまま紙に写さなければいけない。
それは、夢の中で見た景色だった。
昨晩。正確には今朝。
夢で見た、あの美しい場所。
春の野原、小高い丘。穏やかな風が、草木をそっと揺らす。
緑の隙間に、薄紅色の花が咲き、甘い香りを漂わせる。
澄んだ空気に解けてしまいそうなほど、
とても小さな香り。
「なーにしてんの?」
リョウはとっさにスケッチブックを閉じた。
目前には、腐った現実の景色が広がっている。
後ろを振り返ると、川沿いの遊歩道に一人の女の子が立っていた。
フリルで飾られた暗色のワンピース。頭には同様のフリルで縁取られたリボンをのせている。霞んだ空気に吸い込まれてしまいそうな、暗い灰色だった。そんな中でも、彼女の黒髪は鮮明に輝いていた。
「ねえキミ、リョウくんでしょ。そうでしょ。駄目じゃん学校来なきゃ」
膝丈まで伸びた草を踏み分け、女の子はこちらに向かってくる。 リョウは顔を前に戻し、必死で風景を頭に描いた。
春の野原…穏やかな風…薄紅色の…花…。
ふと、甘い香りがした。
ほんの微かな香りは、汚川の臭いをすり抜けるようにリョウの鼻腔に流れてきた。
夢じゃない。空想じゃない。現実の、甘い香りだった。
「へーこんな場所あったんだ。結構いい所じゃん」
すぐ隣から聞こえてきた女の子の声に驚き、リョウはスケッチブックを抱き抱えた。
「あれ?絵、描いてたの?ねえねえ、ちょっと見せてよ」
リョウは両手に力を込めた。昨夜、というか今朝の夢、春の野原を思いだそうとした。さっきまで当たり前のようにイメージできたのに、あの風景は記憶のどこを探しても見当たらない。焦れば焦るほど、隣の女の子の存在が脳内に侵食してくる。
「無視ですか。あーあ。せっかく友達になってあげようと思ったのにな」
甘い香りが遠ざかり、そして汚川の空気に解けてしまった。
隣には、もう誰もいなかった。
現実の香りは微かだったが、確かにそこに存在していた。
街の灰色天井は黒味を増し、夜陰の近づきを知らせていた。
女の子がいなくなってからずっと、リョウはただぼんやり座っていた。まるで眠っていた様な気分だった。こんなことは初めてだった。
リョウは描きかけのスケッチを破り、ベンチを立った。
汚川から自宅まではそう遠くない。そのわずか数分の間も、幽暗な街の情景が容赦なく視界に入り込んでくる。行き交う人も、建ち並ぶ家々の壁も、灰色天井の落とす陰色に染まっていた。
リョウの眼が悪いのか。
それともこの街が異常なのか。
リョウの眼に映るこの街のすべてのものには、色がついていない。
明度、彩度の違いこそあるものの、すべて灰色に見えてしまう。
熟したリンゴは、黒に近い灰色。
若いリンゴは、白に近い灰色。
リョウの眼に映る街は、黒白の世界だった。
リョウは自分の異常さを自覚している。
灰色のリンゴは、他の人には違う色に見えるらしい。そんなことはわかっている。人と違うということをどんなに理解しようとしても、結局、他人の目線に立つことはできなかった。普通がどんな視界なのかわからない以上、自分がどれほど異質なのかもわかるはずがない。
リョウの眼には、灰色のリンゴが、見えているのである。間違いでも気のせいでもなく、リンゴは灰色に見えるのだ。
「お前の眼がおかしいだけで、リンゴは赤い色なんだ」
そう言われたところで、赤い色というのがそもそもわからない。想像はできるけれど、確かめることはできない。赤いリンゴを見せてくれる人は、誰もいない。リンゴはいつまでも灰色のままだった。
もしかしたら、皆も自分と同じように、灰色に見えているのではないか。
灰色を、赤い色だと思い込んでいるだけなのではないか。
自分の眼がおかしいのか。
リンゴがおかしいのか。
他人がおかしいのか。
生まれたときから陰影の中で育ったリョウには、もうどうでもよかった。
皆が赤いと言うなら、それでいい。
どんな色に見えようが、リンゴは赤い。これは紛うことなき事実なのだ、と言うなら、それは別に構わない。そういうものだと、無理やり納得することもできる。
ただ、どのリンゴも、美味しそうな色はしていない。
灰色のリンゴを見て、美味しそうだと思う者などいるだろうか。
そんなのは、この街の連中くらいだ。
リンゴの色を、赤と呼ぶか灰色と呼ぶかなど、どうでもいい。
リョウはそんな色のリンゴが、嫌いだ。
いや、リンゴだけじゃない。
花も、草も、木も、鳥も、山も、川も。
どんな景色をみても、到底美しいとは思えない。
むしろ暗く醜いもの、沈鬱とした気分にさせるものでしかなかった。
リョウはこの街が、嫌いだ。
これもまた、事実である。
灰色天井の下。眼に見えるすべてに絶望したリョウは、夢の中に一縷の望みを託した。夢の世界は色彩豊かで、不浄なものを映し続けたリョウの眼に、光を与えてくれた。
夢で見るものは、皆一様に美しかった。
目覚めた後も、夢で見た景色を思い浮かべ、虚構の色相を愛し続けた。
しかし、一度忘れてしまえばそれまでである。
長い昼の時間を、地獄の亡者の面持ちで過ごさなければならない。
色つきの風景をいつでも見られるよう、スケッチすることを思い付いた。
思い付いたはいいが、そう簡単にはいかなかった。
夢というおぼろげなものを描くのはなんとも難しく、描いているうちに現実の視界が混ざり込んでくる。夢がどこかへいってしまわないよう、見張っているのにもコツがいる。ある程度、夢描きに慣れた今でも、ちょっと眼を話した隙に逃がしてしまうことはある。そんなときは過去に描いたスケッチを眺め、眼の保養とした。
純粋なスケッチには、色がついている。
夢でも空想でもない。リンゴが灰色に見えるのと同様に、夢のスケッチはフルカラーに見えるのだ。正確な描写が鍵となり、忘れていた風景を無意識に浮かべ、紙上に投射しているのだろう。
これはあくまで眼の錯覚だ。それでも無色の世に暮らすリョウにとっては、掛け替えのない恋人だった。
リョウは夜も昼も、夢の中でしか生きられなくなっていた。




