聖剣
濁った水の中を王子は漂っていた。
城の堀は深く、王子の身体が底に沈むにつれヘドロが舞った。
月の光では緑色の藻は見えない。
その中で王子は人生を追想した。走馬灯とも言う。
自分に対して興味なさそうに振舞う婚約者。
口うるさい父親。
なにをやらせても中途半端に終わる自分。
すべてから逃げてきた自分。
自分に甘い。周りにずっとそう言われてきた。
自分はだめなやつだってわかっている。
この世で自分を一番嫌いなのは自分だ。
ラインハルト・サーロニアこそが一番自分を憎んでいるのだ!
だがソニアは違った。
金さえあればいいと自分を認めてくれた!
自分の能力や努力を見ないなんて、なんて素晴らしい女性なんだ。
と、美化されすぎた勘違いの極みが王子の脳内を駆け巡った。
そして一つの悩みも。
口うるさい父親。そう、やつの頭髪は……ヅラだ。
巧妙に隠しているがヅラだ。
ある日、王子はその事実に気づいてしまった。
王が! 王が! カツラをぬぐ瞬間を目撃してしまった!
そして理解した。いつか自分もああなるのだと。
同時に始まった前髪の後退。
少しずつ。周りには気づかれず、だが着々と前髪が後退していく。
細くなる髪。抜ける毛。頭を洗うたびに金色の毛の固まりが抜ける恐怖。
少しずつ、真綿で首を絞めるかの如く密度を薄くしていく頭頂部。
この悩みを打ち明けることができるものは周りにいない。
いや知ったものは殺さなければならない。
王子は憎んだ。己の頭髪を。そして世界を。
そう、元婚約者と会うときもバレてしまうのではないかとしきりに前髪を気にしていた。
触るたびに指に絡みつき落ちていく前髪。
ラインハルト・サーロニアの心臓はそのたびに跳ねた。
ソニアは自分を見てくれた。たとえそれが財力であってもだ。
自分に能力以上のことを要求しなかった。
そんなソニアにすら頭髪が不自由になったら見捨てられるのではないだろうか?
王子は疑心暗鬼になっていた。
憎い、己の頭髪が憎い。抜けていく前髪、それと頭頂部が憎い。
すべてが憎い。
自分を認めなかった父親が、この国が、世界が、憎い!
そのとき王子の耳に声が聞こえた。
「力が欲しいか?」
(な、なにやつだ!?)
「我がなんであろうともお前には関係ない。ただ貴様は力を欲すればいい。もう一度言う、力が欲しいか?」
明らかにあやしい声。だがそれは王子には甘美な響きに思えた。
(わ、わたしは……わたしは……力が欲しい!)
「力が欲しいのならくれてやる!!!」
その瞬間、王子の身体に力がみなぎった。
掘から飛び出した王子は塔の屋根に着地した。
王子の身体は変化していた。
デカ過ぎて固定資産税がかかりそうな身体。
血管の浮き出た腕。
セパレーションが多すぎて数えられない腹筋。
小さな馬車が乗りそうな肩。
巨乳。ただし筋肉。
背中には鬼が浮かぶ。
それはマッチョの枯山水。
歩く大胸筋。
人間山脈!
……王子の身体はムキムキだった。
そこにソニアがやって来る。
地味顔の女性だ。
ラインハルトに能力など求めない。
彼女が求めるのは金と権力。
実に欲望に忠実な女性だった。
「ラインハルト様……ぎゃあああああああああああああッ!」
ソニアの野太い声が響いた。
ラインハルトはサイドチェストしていた。
筋肉が唸りを上げる。
「ラインハルト様! な、なにが!?」
モスト・マスキュラーにポーズ変更。
「ポーズを変えろって言ってんじゃねええええええええええッ!」
ラインハルトは首をかしげた。
すでに脳まで筋肉に侵されている。
「そうだ……わたしは……魔王と戦わねばならない……」
アドミナブル・アンド・サイ。
次の瞬間、ラインハルトは空へと飛んだ。
「ジョアッ!」
羽もなにもないのにかかわらず、よくわからない力でラインハルトは飛んでいく。
ソニアはあまりのことに鼻水を垂らしてそれを見ていた。
「なんだ! なにがあった!」
近衛騎士の声が聞こえる。
「いったい……なにが……あったの……」
すべてを目撃したソニアにもなにがなんだかわからなかった。
一方、ラインハルトは海に到着した。
すると急降下。
海に飛び込む。
そのまま海底にまで潜ると、一転魚雷の如く浮上する。
そのまま筋肉のおもむくままバタフライ!
トビウオの如く泳いでいく。
「ぬははははは! ぬはははははははははははははははははははははははは!」
それは、この世界に新たな勇者が生まれた瞬間だった。
「待ってろ! 魔王!」
ラインハルトの身体を乗っ取ったもの。
それは聖剣エクスカリバー。
魔王殺しの聖剣である。
勇者の条件はただ一つ。
筋肉である。
前髪を望んだラインハルトはバルクアップしてしまったのだ。
彼の地に伝わる超絶空前絶後王族格闘術。
その血の流れ的なものがラインハルトを聖剣の勇者にしてしまったのだ。
「WRYYYYYYYYYYYYYY!」
筋肉、圧倒的な筋肉が水をかき分け海を突き進む。
うなる筋肉。
ちぎれる筋繊維。
だが筋肉痛の心配はなかった。
王子の体内に潜む聖剣からは上質のプロテインが補給され続けるのだから。
血中アミノ酸濃度は常にMAX。
EAAパウダーなど必要なかった。
余談……少々蛇足ではあるが、セイラは厚い胸板とヒゲにセクシーさを感じる文化圏の女性であって、頭髪の薄さは気にならない……いや、むしろ男らしさを現すご褒美であることを記しておこう。
ようやく執筆力が戻ってきました。
書くよー!




