復讐の対象としての被告人、或いは無罪の犯人
刑法第39条
1.心神喪失者の行為は、罰しない。
2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
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「無罪です。無罪の判決が出ました――」
裁判所の前から中継された映像には、興奮気味の男性アナウンサーが、マイクに向かって叫んでいる姿が映し出されている。それから映像はスタジオに切り替わり、「速報です。G市母子殺人事件の郡山弘毅被告に、無罪の判決が言い渡されました。犯行時、郡山被告は心神喪失と認定され、無罪となりました――」と女性アナウンサーが伝える。その後コメンテーターに話が振られ、益体もない話がなされ、「それでは、事件を振り返ってみましょう」という女性アナウンサーの声と共に、画面はVTRに切り替わる。
「事件は、閑静な住宅街の昼間に起こった――。郡山被告は、猪口健也さん宅に押し入り、健也さんの妻の恵子さん(28)、息子の達也くん(1)を殺害。遺体をバラバラにして逃走した」
「すごいもんでしたよ」
近所の人というテロップと共に男性の胴が映し出され、遺体発見時の第一発見者となった夫の叫び声がいかに悲痛だったかを伝える。
「帰宅した健也さんが目にしたのは、一面血だらけになった自宅と、変わり果てた妻子だった。血まみれの姿で街中を徘徊していたところを逮捕・起訴された郡山被告だったが、意味不明な言動が見られることから精神鑑定にかけられることになった」
つまり、この国で凶悪事件が起こったときのテンプレートをなぞったまでであった。弁護士は、郡山被告に責任能力がない事を主張、刑法39条を持ち出し、無罪を主張する。
テレビは裁判の経過を説明した後、街の声をいくつか取り上げ、郡山がいかに冷酷で恐ろしい殺人鬼であるかを強調するような流れだった。実際、傍若無人なネット界隈では、「なんで死刑にならないんだ」という憤りがいたるところでまき散らされていた。
こういったパターン化された怒りの中で、唯一違ったのは、遺族となった猪口達也だった。ワイドショーは、こぞって彼の怒りと涙をお茶の間に提供しようとしたが、いくらインタビューしてもいつもと変わらない対応で、郡山が無罪になろうと死刑になろうと関心がないといったふうだった。そんな猪口を、ネット界隈では冷酷人間などと非難する者もいた。
検察は高裁への上告を断念し、郡山の無罪が確定した。既にワイドショーの興味は有名芸能人の不倫疑惑に耳目を向けており、そのニュースは注目されなかった。
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「おはよう」
郡山のぼんやりとした意識に、何者かが語り掛けた。確か、無罪が確定し、強制入院のために精神科病院へ移送されているときだった。何者かに拉致されたのは――
郡山の視界に、打ち捨てられて幾年も経った廃墟と裁判所で何度か目にした顔が映る。猪口達也だ。
「復讐のつもりか」
感情的に「こいつを死刑にしてください」と叫ぶかと思いきや、郡山への憎悪などないかの如く振る舞っていた猪口が、このようなことをするとは、郡山も信じられなかった。猪口は、何も答えない。その眼は既に人間のものとは思えないほど鋭く、暗かった。
おもむろに金づちを振り上げると、縛り付けられた郡山の指先に落とした。
「――!」
郡山は声にならない声を上げる。
「お前は、刑罰が何のためにあるか分かるか?」
猪口の問いかけに、郡山は答えられない。痛みが思考を妨げる。もう一度、金づちが郡山の指先に振り下ろされた。
「被害者の代わりに加害者を虐めるためかな」
今のお前みたいに、というセリフはすんでの所で飲み込んだ。それは単に火に油を注ぐだけだ。
「違うな」
猪口はその辺に落ちていた汚い布切れを拾うと、郡山の眼を隠した。
「あれから拷問の類の書籍を読み漁ったんだが、指を切るときは見えるところで行われるより、見えないところで行われた方が恐怖を感じるそうだ」
淡々とした猪口の口調に本気を感じ、無駄と分かっていても、暴れて、あらん限りの力で叫んだ。
突如、ガッ、という鈍い音が郡山の脳天を揺らした。先ほどの金づちが郡山の顔を打った音だった。
「僕はうるさいのがあまり好きではないんだ」
裁判のときの、虫も殺せないような優男という印象とはまるで違った。人間を殺しても何とも思わないような冷酷さを、郡山は感じ取った。
「刑罰はね、してはいけない事をした者に悔い改めさせ、真人間に戻すためにあるんだ」
郡山の右手親指に、太い枝を切るための剪定鋏が当てられる。郡山には、何か冷たいものが指に当てられているとしか分からないが、恐怖心はそれを死神の大鎌と錯覚する。郡山の恐怖が増大したことに達成感を感じた猪口は、一気に鋏に力を入れる。あっけない程簡単に親指が切れた。
「うわああーー」
郡山の悲鳴が響く。郡山の確認できることではなかったが、予め腕を縛っていたため出血はさほどない。
「つまりだね。被害者やその遺族の処罰感情というものは、考慮されないし、してはならない。目には目を歯には歯を、という応報的な考えは、現代においては通用しないのだよ」
次に人差し指に鋏が当てられる。郡山が懇願の声を上げ終わる前に、あっさりと人差し指が切られる。指先の灼けるような痛みが、郡山から現実感を失わせる。
「自分の意志で犯罪を行っていないなら、真人間に『戻す』必要もない。刑法第39条が言っているのはね、そういうことだよ」
次は中指が切られた。
「そういう法の理屈だからね。国家が犯罪者に行うのは、矯正であって復讐じゃないんだ。お前が無罪になろうと死刑になろうと、僕には興味がなかった」
薬指が落ちる。
「お前に死刑を求めない僕を、世間は色々中傷したがね、もうちょっと勉強してからにして欲しいね」
小指が切られる。これで右手の五指はすべて失った。猪口はここで一息入れて、郡山の目隠しを取ってやった。
郡山は、先ほどまで右手に存在していたはずの指がないことと、床にはまるで作り物のようにしか見えない指が五本あることを確認し、気を失った。
「あーあ、こんなことなら医師になるべきだった。なるべく殺さず、痛みを与え続けるのは難しいなあ」
猪口は、効果があるのかは知らないが、冷水を郡山にぶっかけてみた。
郡山は意識を取り戻し、「なら、こんなこと止めろ。裁判所は俺を無罪にしたんだぞ」と叫んだ。
郡山の言葉に、猪口はきょとんとした顔をする。続いて笑い出し、その笑いが一向に止まらない。
「僕はね、復讐を法に任せることはお門違いだと言ったんだ。人を殺す動機として、金のため、怨恨のため、まあ色々考えられるだろうけど、別にそこに復讐があって悪いわけじゃない。金と性欲のために僕の妻子を殺したお前と、復讐のためにお前を殺す僕と、そこに違いなんてあるわけないじゃないか」
「く、狂ってる……」
「そうだね、もしかしたら僕にも39条が適用されるかもしれないね……。さて、お前にはこれから古今東西の様々な拷問メニューが用意されている。左手は、爪と肉の間に針を刺そう。最後は腸を引き出して観賞しようじゃないか。だから最後まで死なないでくれよ」
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「次のニュースです。護送中に何者かにより拉致された郡山弘毅被告ですが、先日T山の山中で発見された遺体が、郡山被告であったことが確認されました。遺体は損傷が激しく、本人の確認が困難でしたが、歯型などから郡山被告本人の遺体であると断定。警察は、G市母子殺人事件の遺族、猪口健也容疑者を指名手配し、足取りを追っています――」




