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第七章 鎖と絆と

   第七章 鎖と絆と


 血の匂いを、消す必要があった。

 セラは肉塊に刺していた串を抜き、先端を下唇に当てた。熱を帯びていれば、中まで火が通っている証拠だった。しっかりと煮込まれたのを確認してから、翼竜に与える。

 翼竜使いを志願したときに、初めて教わったことだった。

 大草原に住む野生の翼竜は、狩猟を行う。肉食獣が取った獲物を横から奪うこともあるし、腐肉をあさることもある。孵化したときから、よく火を通した肉を与えることで、食べ物は血の味がしないことを覚えさせる。今では、生肉など見向きもしない。

 肉を持ち、翼竜がいる場所までゆっくりと歩いた。たどり着くまでには、食べごろの温かさになるはずだった。震えるほどではないが、夜気は冷たい。

 月明かりせいで、木々や草が、ぼんやりと見えている。つまずいて転ぶ心配はない。

 夜目がまったく利かないわけではなかった。ただ四分の一とはいえ、エルフ族の血が混ざっている人間の視界ではない、と思えた。暗闇でも楽に移動できる純血のエルフ族と比べられると困る。一般人と同じぐらい見えるはずだと思いたいが、普通とはどういうものなのかがわからない。

 着任したときにそう説明すると、室長はひとしきり頭を揺らした後で、しっかりとうなずいてくれた。

 むしろ見えないように振舞え、と言われた。偵察担当の人間はすでにいるから、見えなくても不自由はない。こちら側の世界では、全体の利益を守るために、あえて味方を欺かねばならないときもある、と諭された。

 心苦しかったが、言われたとおりにした。眼光に押し切られたわけではなく、真意がわかったからだった。隠しておくことで、味方が窮地に陥ったときの切り札になるかもしれない。

 やがて、開けた場所に出た。もともとは畑を造ろうとしたのだろう。ところどころ木の根を掘り返したような穴があり、腰の丈ほどの草が生えている。

 巨鳥と同じく、翼竜が飛ぶためには、滑空するための断崖か、長い滑走路が必要になる。集落からは遠からず、近からずといったところに、ほどよく広い場所があるのはありがたかった。

 切り株が並ぶ畑の隅で、じっと翼竜は待っていた。名前がないので、労わる声を掛けられない。道具に名前がないのと同じだ、と教わっていた。便宜的に番号が振られているが、そんなもので呼ぶ気にはとてもなれない。

 ただ黙って、首を叩いた。ゆっくりとうなずき返してくれるのが、嬉しかった。

 肉を与えた。丸呑みはせず、ゆっくりと味わうように、翼竜は肉を噛み続けた。少量で満腹感を得るためだった。体重を減らして浮力を得るために、任務中は食事を極端に減らす。習慣づけるために、まだ小さいときに、わざと硬いすじ肉を与えたこともあった。のどを詰まらせたので、背中を叩いたこともある。

 口を動かしているうちに、下から全身を見ていく。翼竜の爪は鋭いが、乾燥に弱い。乾燥すると、馬の蹄のようにひびが入り、巨体を支えきれなくなる。そういったときは、爪に油を塗って水分が逃げるのを防ぐ。ここは空気が湿っているので、その心配はなかった。

 それでも、足元に視線が行った。足首を巻くように、古い擦り傷がある。足かせの痕だった。何度も飛び立って逃げようとするときに、ついたものだ。

 曲芸を仕込む蚤の上に板を当てるのと同じく、自分の力では飛び立てないことを頑丈な鎖によって辛抱強く教え込まねばならなかったからだ。甲高く悲しげな鳴き声が、まだ耳に残っている。

 教官は、縛り付けられたほうが幸せだ、と断言した。痛いほどわかる。親に間引かれるはずだった命だった。たとえ戻ったとしても、生きていけるだけの縄張りはない。

 それでも、自由に大空を飛べたはずの生き様を思わずにはいられない。

 鞍ずれがないか確かめたあと、全身を手のひらで撫でていく。翼の付け根の鱗を優しくめくり、中にいた虫をつまんで捨てた。

 何をされているのかわかっているらしく、翼竜は目を細めていた。のどの周囲など、急所に触られることを嫌がった時もあったが、今では大人しくされるがままになっている。

 心を通わせれば、命令に逆らわずそのまま死地に飛び込んでいく。そういう信頼関係を築いていくよう、教官に厳しく教えられた。

 与えられた愛情に、懸命に応えようとする翼竜が、正直うらやましかった。応えようと務めるだけでも、自分には到底達することができない境地だと思えた。

 翼竜がのどを鳴らした。食事が終わった合図だった。

 セラは毛布を取り出し、翼竜に掛けた。鱗が冷たかったので、温めなくてはならなかった。体温が下がり過ぎると、動けなくなる。とっさに飛び立てないと、遅れを取り、場合によっては隊員の全滅につながりかねない。

 毛布が全身を覆うまで、翼竜は身動き一つしなかった。まるで邪魔をしないことが、翼竜自身にできる唯一の信頼の証であるかのようだった。掛け終えると、翼竜は首を地面につけて目を閉じた。ここに居なくていいよ、と言われているように思えた。

 思わず、ごめんね、と言いそうになった。なぜそう言おうとしたのかはわからない。

 鍋のあったところに戻ると、罠の点検を終えたレオンが座っていた。肉を取り出したスープの中に乾燥野菜と塩を加えて、丁寧にかき混ぜている。宮廷料理人さながらの険しい目つきをしているのは、周囲からの気配を読み取ろうとしているせいだと思われた。

「量も質も、母さんの煮込み料理には到底及ばないが、体を温めるぐらいなら、これで十分だろう」

 レオンはひそめた声で語りかけてきた。警戒線が張られている可能性があり、大きな物音を立てるわけにはいかない。小枝の爆ぜる音でさえ気にしなければならないほど、周囲は静まり返っている。

「そうですね。食べ過ぎると動きが鈍くなりますし、お腹に打撃を受けると危険ですから」

 差し出された木の椀を、セラは礼を言って受取った。言われたとおり具材は少ないが、気になるほどの量でもない。むしろ自分には、多いぐらいだった。

「虫がいないな、セラ。寒さのせいかな。それとも、鉱山から出る毒水だろうか。とにかく、獣脂に草の汁を混ぜたものを塗らずにすんでよかった。虫除けになって、体が温まるかもしれないが、あの家畜小屋のような匂いはいただけない」

「湿気があまりないのも助かります。合成弓には大敵ですから」

「ところで、髪を黒く染めたな」

「はい。月明かりの下では、灰色の髪が浮き上がるおそれがありますから。市場で黒葡萄酒が売られていましたので、持っていたニワトコの種を漬け込みました」

 仲間は皆、夜目が利かないと思い込んでいる。今できることといえば、せいぜい敵に見つからないように振舞うぐらいだった。消極的にしか動けない自分が、恥ずかしくもある。

「マークのやり方とは違うようだが」

「占い師として動いていたときに、お客さまから教わりました。隣が娼館でしたので」

「傭兵の動きを探っていたときだな」

「はい。肌の色を白くする方法の後で教わりました。鉛を使うと体には良くないですよ、との忠告を、気に入ってもらえたようでした。余計なお世話だ、と怒られるのかと思ったのですが」

「どうやら神秘的な容姿ではなく、その優しさで彼女たちの心を開かせたようだな。欺瞞と打算の世界に住んでいる人間にとって、正直で率直な言葉が新鮮に思えるのだろう」

 その後、関係ないことを延々と語りかけてきた。軽口も混ざったが、どこか上滑りしていた。話題に脈絡がないのは、気を紛らわせるためだろう、とセラは察した。

 偵察と地理の専門家であるマークとジェーガンについては、それほど心配する必要はなかった。ただ、二人がもたらす情報によって、今後の対策を決めなければならない。ただ待つだけでも、少なからぬ努力がいる。

 沈黙の間を埋めるように、木の椀に口をつけた。肉の旨味と、野菜の甘さが出ている。ただ、もう少し塩気が欲しかった。薄味には慣らされてきた舌でも、もの足りなさを感じるのは疲れているせいかもしれない、とセラは思った。

 口に出すつもりはなかった。皆も同じ条件だし、翼竜はもっと疲れている。

 水筒の水を一口含んだ。甘みのあるつる草の葉を漬け込んでおいたものに、漿果の絞り汁を混ぜたものだった。フィルスでは染料として使われているが、強い酸味のある汁は、わずかながら体を癒す働きもあった。染料となる植物には、薬になるものが多い。

 かすかに遠吠えが聞こえた。何の動物かはわからなかった。純血のエルフ族だった祖母なら聞き分けられたに違いない。獣の種類によっては、身を守らねばならない。鳥であれば、おおよその時間が読める。暗い森で暮らしている人間にとって、聴覚は視覚と同じくらい大事なものだった。エルフ族は、耳でも見る。

 ふいに、小枝を踏み折る音が聞こえた。耳をそばだててみる。何やら小声で言い争っているようだった。仕掛けた罠が作動していないのなら、偵察に出ている二人かもしれない。しかし、不用心すぎた。立ち去る動きを悟られて、逆に襲撃を受けかねない。

「どうした、セラ?」

 不審そうな顔をしたレオンが訊ねた。誰かが迫っている、と説明すると、顔がより引き締まった。杖を持って立ち上がり、指さしたほうに向き直る。

「火はどうします?」

「そのままでいい。少人数ならば、偵察だろう。だとすれば、相手はまずこちらの正体を知ろうとするはずだ。逆手に取ってやろう」

 セラはうなずき、短弓を手に取った。吹き矢もあったが、置き捨てた。奇襲攻撃には向いていても、反撃には不向きだった。連射が利かないので、敵に接近を許してしまう。護身用の短剣も、身につけた。

 レオンとともに、音がした反対側の茂みに隠れる。向かってくる相手から一番遠い位置で、速やかに反撃に移れる場所でもあった。荷物はそのまま焚き火の前に置いてある。調べようと敵が茂みから出てきたときが、奇襲の好機になりえた。

 何回か茂みをかき分ける音がして、ささやき声がはっきりと聞こえ始めた。低いうなり声は、間違いなくジェーガンの声色だった。間を挟むように、マークの声がする。鋭くて短い声だったが、必死になってなだめているように聞こえた。

 性格が逆転したようだった。いきり立ったマークをジェーガンが止めるのが日常だった。となれば、二人にとって異常な、望ましからぬ事態が起こっていることは容易に想像がつく。

 やがて、草むらから二人の姿が現れた。セラたちも姿を見せた。

「なにをやってるんだ、お前たちは」

 短く鋭いレオンの詰問に、マークは赤髪を無造作に掻いて応じた。張りつめていた気持ちが緩んだのか、大きくて長い吐息をつく。

「むしろ褒めてもらいたいぐらいだぜ、アニキ。こいつが今にも飛び込んでいきそうなのを必死で止めて連れ戻したんだからさ」

「いったいどうしたというんだ、ジェーガン?」

「理由は、マークから聞いてくだせえよ。こいつが偵察担当なんですから」

 ジェーガンは、頭についた木の葉を乱暴に払いながら答えた。食いしばった歯から漏れ出る言い方には、なんらかの当惑があるように思えた。

「隊長。罠の点検をしに、ちょっとそこらを見回りに行ってきまさあ。とても聞けたもんじゃねえ」

 斧槌を手にしたジェーガンが茂みに消えると、それぞれ焚き火を囲むように座った。柔らかい泡を立てている鍋から、香気をまとった湯気がのぼっている。

「なんだい、アニキ。これはどこの泥水だい?」

「このあいだお前が作った、野ネズミのスープよりはましだと思うがな」

「文句は香辛料を目潰しに使わせた、聞き分けの無い門番にいってくれよ。ネズミ以下の連中に使うのは、たしかにもったいなかったけどさ」

「肉の削ぎ落としだけで投げ出さずに、もっと料理を学べばよかったんだ。効率のいい手順の立て方も、習慣となって身につくぞ」

「骨格さえ頭に入ればいいよ。そっちは素早さで補うさ」

 木の椀を受取ったマークが軽口を叩いた。しかし、目線はスープの中身ではなく、中空に向けられていた。おそらく何から話していいか整理しているのだろう。

 二口ほどすすったのを見て、レオンが訊ねた。

「お前が言いよどむとはよほどの出来事があったんだろうな。とにかく、順序だてて話せ」

「おれたちは集落跡地に向かった。地図で見当をつけていた場所だ。苦労したぜ。木に張り巡らたロープをくぐるのに少し手間取っちまってさ。暗くてどこにつながっているかわからなくて、危なかったからな」

「なにか罠でも仕掛けられていたのか?」

 マークはうなずいた。炎のせいか、瞳が赤く見える。

「古釘が一面に撒かれていた。尖った部分が必ず先端に向くように、組み合わせてあったぜ。なにが塗ってあるかわからないから、短剣で地面をほじくりながら慎重に進んだんだ。見回りが歩いていたからな。上半身裸で墨が入っていたから、おそらくゴブリン族だろう」

「見回るゴブリン族たちの視線は、内側と外側のどちらに向かっていた?」

「外側。おれたちのほうだ。だから、気配を消すのに苦労したぜ」

 セラにも、レオンの問いかけた意味が理解できた。もしも、内側を警戒していたとしたら、ゴブリン族に対して非協力的な人間が住んでいるといえた。逆に外側ならば、集落にいるのは同族か協力的な人間であり、警戒する必要がないからだと容易に推察できる。

「士気はどうだった?」

「正直言って、高いとも低いとも言えなかったぜ。暗くて表情はいま一つわからなかったが、歩き方はしっかりとしていた。ただ、なんだか草を噛んでいたようだった。こっちが懸命にセルムの葉を我慢しているってのにさ。しかもときたま唾まで吐き捨てていやがった。汚ねえったらありゃあしねえ」

 セラがおずおずと口を挟んだ。

「もしかすると、幻惑草かもしれません。疲労や空腹感を忘れさせるだけでなく、覚醒効果もありますから。もっともどちらも一時的なものですので、常習性が問題になっていますが」

「なあるほど、あれが噂の幻惑草ってヤツか。しかし、やけに詳しいな」

 マークが感心したふうに言った。

「義母が、教えてくれたんです。あなたもエルフ族の一員なら、植物の知識が必要だって」

「へえ、そりゃあ珍しいことじゃないのか? エルフ族は強固な母系社会だから、後妻が財産欲しさに前妻の子供を追い出すって話はよく聞くぜ。お前がここに入隊してきたのも、そのたぐいだろうと思っていたんだがな」

 エルフ族は狩猟民族だけに、集団で森の中を常に移動している。当然、他部族の縄張りに入るときもあるし、焼畑の適地や獲物の配分でいさかいが起こることもある。流血を回避できたのは、相手側に嫁いでいた血縁女性の働きによるところが大きく、時代を経るにつれて発言力を増していく要因になった。

 女性が獲物なみの扱いを受けていたのは、乏しい食料の代わりに身体で来客をもてなしたのと同じぐらい、はるか昔の話に過ぎない。

 二分の一でも、四分の一でも、エルフ族の娘はエルフ族だった。血を繋げ、広げていくことで、部族全体の安全を保障してきたともいえる。当時はよそ者だった魔法使いも、友軍として闘ってくれた。ドワーフ族と違って、故郷の森を追い出されずにすんでもいる。

 セラは思いっきり首を振った。

「とんでもありません。義母はとても優しくしてくださいました」

 しかし、その優しさが、家を出た原因でもあった。

 義母は純血のエルフ族だった。動植物の知識だけでなく、弓術にも秀でていた。出自に誇りをもっていたが、尖ったところがなく優しかった。だからこそ、父は母を迎え入れたのだと、いまでも思っている。決して材木商を営むエルフ族の人脈欲しさに一緒になったわけではないはずだ。再婚者どうしの結婚でも、家庭には温かさがあった。

 ただ、義母の親戚とは合わなかった。何をしても、疎外されているように思えた。エルフ族なら、当然身につけられるはずの技能が、親戚の子供より劣っていたからに違いない。家の中が温かいぶんだけ、外の冷たさが逆に堪えた。幼ない心だからこそ感じ取れたのかもしれない。

 流れている血のせいにはしたくなかった。努力が足りないに違いない、と懸命に頑張った。しかし、植物の知識と弓術は身につけたが、その他の技能はどうしても及ばなかった。夜目ははっきりと劣っていたし、耳はよく聞こえても動物の鳴き声までは聞き分けられない。

 ある日、庭の片隅で義母が口論しているのが見えた。やっぱり、とだけ聞こえてきた。声の調子で親戚の一人だとわかった。熱気を帯びた声で言い返す義母の声が、空しく聞こえた。

 優しさが、苦しかった。いま思えば、報われない努力に対する苦しさだったかもしれない。

 仕事一筋だった父が死んだとき、家を出る決心をした。財産に未練はなかった。だから、身の回りの品だけを持って出た。親戚に対するあてつけではなく、一からやり直したいと思ったからだった。

 魔法特機隊を志願したのは、魔法使いの血が入っていたからではない。ここなら自分の技能が役に立つと思ったからだった。弓術と植物の知識があれば、特殊な任務にもつくことができる。与えられたセラという名前も気に入った。

 とくに翼竜使いは、適職に思えた。静寂に覆われた上空では、それほど耳を使わずにすむ。

 たとえ汚れた仕事であったとしても、生きていると実感できた。豪華な食事やきれいな着物よりも、喜びを感じられた。今の生活には、不満はない。

「ん? どうした、セラ」

 マークの戸惑ったような表情が目に入った。

「言いたいことがあるなら、遠慮するなよ。おれたちは同僚である前に、仲間なんだからよ。嫌なことをいつまでも心にとどめておくと、沼の水みたいに腐っちまうぜ。なあ、アニキ」

「お前は逆にもう少し自重することを覚えろ。口も慎め。誰だって家庭の悩みぐらいはあるだろうが」

「無口な床屋なんて、客が来ないぜ」

「お前はしゃべりながら煙突掃除をするのか?」

 マークをたしなめた後で、レオンは視線をセラに向けた。穏やかそうな黒目の奥に、焚き火を孕んだ光が宿っている。どことなく、義母の目に似ていた。

「相談に乗る用意はあるが、今は任務を優先したい。わかってくれ」

「もちろんです。すみません」

 口数が少ないせいなのだろうか。どうしても心配を掛けてしまう。それがまた心苦しかった。

 食事をそこそこに切り上げ、セラは矢の手入れを始めた。焼き固めて貫通力を高めた矢柄を、鮫皮でこすって滑らかにし、狐の皮で一本ずつ丹念に仕上げていく。

 毒草も見つけたし、練り固めるためのイチジクの樹液も持っている。しかし、毒矢は使えない。暗闇では同士討ちの危険がある。敵をひるませ、お互いの犠牲を抑えるには、どうしても弓そのものの威力に頼るしかない。

 幸いにも、使っているのは合成弓だった。内側に翼竜の骨の薄片、外側に腱をそれぞれ膠で張り合わせたつくりになっている。翼竜の胸と翼をつなぐ腱は、細くても強い腰があり、飛距離を稼ぐのに適しているが、一頭でわずか二本しか取れない。使えるのは、翼竜使いのささやかな特権だった。

 翼竜は死んでも人の役に立つ。自分はどうなのか、セラは自問した。

 役に立ちたい、と考えるのは傲慢だと思っている。必要とされたい、と願うのは甘えかもしれない。どちらも自分には似つかわしい生き方ではないような気がした。

 自分がいてくれて良かった、と思われること。これが理想的な関係に違いない。そよ風のように吹き抜けて、余韻を残さないような存在がいい。

 詰め終えた矢筒を脇に置いて二人を見ると、無言のままで視線を地面に向けていた。小枝を持ったマークが地面に集落の見取り図を描いている。

 山脈を取り囲むような半円状の警戒線があり、その円周上に見張り台が四ヶ所置かれている。警戒線の中には、大きさの違う建物がいくつか並んでいた。中心にほど近い一番大きな長方形の中に、集会所の文字があった。

「集会所の鐘楼に見張りがいたから、ジェーガンを茂みの中に置いて、おれだけが集落に接近した。ひとまず一番手前の建物に壁伝いに忍んで、木窓をそっと開けてのぞいたわけだ」

 マークはいったん言葉を切って、スープをすすった。顔をしかめたのは、熱さのせいに違いない。体を温めるより口を湿らせたかったらしい。

「まさかというか、やっぱりというか。建物の中にいたのは、ドワーフ族だったよ。ジェーガンのような小さいながらも肉がついた体格に、ひげを生やしていたんだから見間違いようがない。上半身裸だったが、墨が入ってなかったし」

 聞いていたレオンの目が鋭くなった。

「裸でいるのは暑いからだな。つまり、強い火を使っていた」

「その通りだぜ、アニキ。木窓の隙間から、何かを溶かしたものを鋳型に注いでいるのが見えた。中身はよくわからないが、とにかくガンガンと石炭を燃やしていたぜ。ああも溶けるとなると、やはり良質の石炭なんだろうな」

「昼間採鉱して、夜は贋金造りというわけか」

 たぶん、とマークはうなずいた。

 セラは弦をしごきながら、二人のやり取りを聞いていた。話を総合すると、ゴブリン族とドワーフ族が共謀して贋金造りに手を染めていることになる。それなら出自を誇るジェーガンが腹を立てる理由も説明がつく。

「さて、本当の問題はここからだ。少しして、見回りの人間が建物に入ってきた。そこでおれは見た。中でドワーフ族と親しげに話している相手の姿をさ。小柄で革鎧の上からでもわかるほど肉がついていて斧を持っていた。つまり、ドワーフ族がいた建物を見回っているのは、やはりドワーフ族だったってわけさ。まったく、おれにはなにがなにやらさっぱりわからないぜ」

 セラは手を止め、考えをめぐらせた。意外な事実だった。この集落には、三通りの役割を果たす人間がいることになる。外側を見回るゴブリン族と、内側を見回るドワーフ族。それに贋金を作っているもう一つのドワーフ族。

 仲の悪いはずのドワーフ族とゴブリン族が同居しているのも不思議だが、ドワーフ族を同族のドワーフ族が監視するのも妙な話だった。

「どうしてドワーフ族が、内側を見張るのだろうか? ゴブリン族を内側に置いて、ドワーフ族を外側に配置するほうが自然だと思うがな」

 黒い眉をひそめるレオンに、セラは自分の見解を述べた。

「同感です、隊長。ゴブリン族の人たちが犯罪者で、ドワーフ族の人たちに犯罪を強要しているとしますと、いつでも人質に取れる小屋の近くに味方を配置するはずです。ですが今の位置関係から考えますと、お互いに信頼しあっているということになるのでは?」

「いやあ、仲がいいとは考えられないぜ。聞けば、ドワーフ族は荷役の仕事を野郎どもに奪われているそうじゃないか。食えなくなったから、贋金造りをしていると考えるのが当然だろう。ドワーフ族にとって、ゴブリン族はいわゆる仇だぜ」

「マークの言うとおりだが、そうなるとわからなくなるぞ。ドワーフ族の見張りが、親しげに話しかけていたのであれば、味方の安全が確保されているからだろう。だとすると共犯という線しかない。なるほど、ジェーガンが惑乱するのも無理はない、か」

 くべていた小枝が爆ぜた。湯の沸き立つ音があたりに広がっていく。

 マークが沈黙を破った。

「まあ、とにかく続きを聞いてくれ。再び警戒線を越えて茂みに戻ろうとしたとき、ゴブリン族たちが騒がしくなったようなので、引き返して見にいった。すると、馬が一頭、集落から出てきた。西に向かっていたから、おそらく隊商だと思うぜ」

「荷車はあったか?」

「いや。でも轍はあったから、何かかさばるものを運び込んでいるのは確かだぜ。空馬だが、鞍のところに袋がつけられていた。それほどの重さがない何かを運び出しているのはわかるんだが、正体は全くわからない。セラの言ったとおり、考えられるとすれば銀塊だが、確証は得られなかった」

 マークは申しわけなさそうに肩をすくめた。

「ひとまず偵察を終えて、茂みに戻って待ちわびていたジェーガンに教えたってわけさ。おれだってここに戻るまで教えたくなかったんだが、なにしろヤツはいきり立っていて、今にも飛び出していきかねない状況だったからな。で、結局半ば強引に連れ戻してきたのさ。本当に疲れたぜ」

 セラは、耳をそばだてた。遠くで、何かの音がした。葉が触れ合うような音だった。気のせいではない。ささやき声も聞こえた。

 敵だった。単独行動のジェーガンが話すはずがない。

「どうした、セラ? また考えごとか?」

「いえ、隊長。敵です。しかも複数」

 二人は素早く立ち上がり、セラの指差す方向を向いた。それぞれ得物を手にしている。

 木に何かを打ち込んだ音がした。鋭く、よく響いた。ジェーガンの斧槌に違いない。枝と岩とで作られた罠が落ちる音がして、ざわめく声が悲鳴に変わった。

「てめえら、許せねえ!」

 ジェーガンの声だった。はっきりと聞こえた。二人も聞こえたようだった。

「人を斬るのは本意じゃないが、攻められたのでは応戦するしかない」

「わかってるぜ、アニキ。さっさと助けに行こうぜ!」

 マークはスープの残りで火を消した。石の焼ける音がして、灰と煙が舞った。

 セラは、一瞬目をつむって開けた。ぼんやりとだが、見える。たとえ見えなかったとしても、翼竜の場所は覚えていた。ぶつからずに走り抜けるぐらいはできる。ここで足手まといになるわけにはいかない。

「セラ、脱出する準備をしてくれ」

「頼むぜ」

 セラの返事を聞く前に、二人は茂みに消えていった。

 荷物をまとめ、焚き火の始末にかかった。痕跡を消すのが、最初の役目だった。敵に手がかりを与えてはならない。河原なら石の煤まで洗い流さねばならないが、ここは全てを埋めるだけで終わる。

 土をかけようとしたとき、ふいに戸惑いを覚えた。

 ――焚き火をしたときは、すぐに土をかけてはだめ。完全に火が消えたのを確認してからにすること。さもないと余熱が木の根を痛めて、土を殺すことになるからね。

 優しかった義母が教えてくれた、エルフ族の掟だった。

 教えは守りたいが、急がねばならない。仲間の危機が迫っている。セラは慌てて頭を振り、記憶を追い払った。

 ごめんなさい、とつぶやいて土をかけ、落ち葉を撒いた。

 ためらったのは、ほんの半瞬のことだったろう。二人の足音が近い。

 長短二本の合成弓を持って、地面を蹴った。

 足を止めた。まとめた荷物を忘れるところだった。急いで戻った。

 自分は何をしているのだろう、とセラは思った。頑張ろうとすればするほど、結果的に足を引っ張っている。情けなくなった。

 二人の足音が消えた。何があったのか。立ち止まって、耳を澄ませた。

「セラ。足元に気をつけろ。目が慣れるまでの辛抱だ」

「なあに、ゆっくりでいいぞ。どうせあいつは鈍足だ、手探り歩きでもいいぐらいだぜ」

 はい、と小声で返事をしながら、懸命に駆けた。暗闇で戸惑っていると思われたようだった。

 胸に、堪えた。

 優しくしてくれるだけに、かえって胸に、堪えた。




 木々の間から、いくつかの人影が見えた。月の光で、淡く浮かび上がっている。

 地面はほとんど草で覆われているが、平坦で開けていた。おそらく畑として切り拓いた跡なのだろう。

 聞き慣れた雄たけびだった。レオンは中央に、ジェーガンの姿を認めた。足に傷を負っている。手負いのぶんだけ、気合を込めて斧槌を振り回しているが、当たったようすはない。重い風切り音だけが、空しく伝わってくる。

 敵は気圧されているように見えるが、実際は遠巻きにして、疲れるのを待っているようだった。重い斧槌はあくまでも工作用で、戦闘には不向きだった。

 茂みに身を伏せたまま、息を殺して数をかぞえる。二十人と見当をつけた。

 目を凝らして、相手を見た。敵の背は低く、がっしりとした体格だった。ドワーフ族の同士討ち、と一瞬思ったが違うようだ。上半身裸で、墨を入れているのはゴブリン族に違いない。囲んでいる連中は、手に剣を持っていて、青白い光を放っている。

 レオンは少し安堵した。こちらは共に革鎧を着込んでいるし、刃は鞘に納まっている。茂みならいざ知らず、広い場所での夜間戦闘では、光を反射するものは全て仇となる。味方の同士討ちを考慮する必要は全くない。細長く光るものは、全て敵だと判断していけばよかった。

 手で右に回りこむように、指示を出す。うなずいたマークが音もなく闇に消えると、レオンは改めて前方を見やった。同時に、杖の感触を確かめておく。

 視界の右端にひときわ大きい男が立っているのが見えた。胸のところに、なにかの模様が見える。

「焦ることはねえ。そのまま足を狙っていけ。血が流れ出していけば、じきに大人しくなる。蹴転がして生け捕りにして、それからじっくりと問いただしてやろうぜ。おれたちのやり方でな」

「てめえ、ふざけんじゃねえ!」

 塩からい声が途切れると同時に、マークが男の背後から飛び出した。そのまま短剣を首筋に差し込む。絶叫があり、男が倒れこんだ。

 結果的に奇襲となった。どよめきが起こり、囲んだ輪が弾ける。

 レオンも杖から剣を抜き、茂みを飛び出した。ゴブリン族を背後から斬る。首筋を狙って薙いだ。軽い。紙を切る感触がある。切れ味もいい。脇から悲鳴が上がった。

 左に振り向く気配があった。即座に横撃がくる。飛びのいてかわし、のどに剣先を突きこむ。下手な口笛のような音が聞こえた。胸を蹴飛ばして剣を抜き取る。反動をつけて右。斬り込む。首はわずかにかわされた。しかし、肩に刃が入る。敵はひるみ、さらに輪が崩れていく。

 ゴブリン族が二人、剣先を向けてきた。レオンは牽制しつつ、素早く視線を右に走らせる。

視界の端にマークが見えた。巧みに敵の斬撃をかわしつつ、ジェーガンに迫った。

「おい、助けに来てやったぜ」

「けっ、お前の俊足とやらもあてにならねえな」

 恩着せがましい言葉のせいか、ジェーガンはぞんざいに答えた。

「茂みを越えるのに手間どってな。まったく、可愛くないのは格好だけにしておけよ」

 マークの軽口が効いたのか、肉厚の肩が少しだけ落ちた。斧槌の振りも静まった。

 二人は背中を合わせて構え、死角を消そうとしていた。しかし、斧槌と短剣では均衡が取れない。逆に好機と見たか、敵が一斉に詰め寄ってきた。枯れ草を踏む音が、陰気に響く。

 輪が、二人に殺到してきた。鎧がないだけ、軽快な動きとなる。

「危ない!」

 レオンは前に跳んだ。二人向かってくる。挟撃だった。右に焦点を合わせ、剣を払う。首。一人倒れた。迫る左もまだ、視界に入っている。振り向きざまにすくい上げる。あばら骨で止まった。腕に手ごたえがある。締めつけるような声がして、また一人倒れた。

 声が効いたのか、敵が後方に飛びのいた。まだ多勢だが、ひとまず孔が開いた。殺到してくる前に、脱出するべきだった。

「二人ともこっちだ!」

 レオンの呼びかけに、ジェーガンの悲痛な返事が返ってきた。

「おれは、足をやられて走れねえ。ここに置いていってくれ」

 うるせえ、とマークは怒鳴った。体型に合わない、低い声になっている。

「てめえがくたばるには五十年は早ええ。アニキ、肩を貸してやってくれ。おれが背中を引き受けるぜ」

「お前の武器は短剣だぞ。囲まれたらどうするんだ」

「足で稼ぐ。それに、最後を守るのは、先祖代々おれの家の仕事だ。たった今決めたぜ」

 迷っている余裕はなかった。レオンはジェーガンの左肩をとった。

「マーク、必ず戻ってこいよ」

「まかせて、まかされるぜ、アニキ」

 追いすがろうとする敵をマークがさえぎる。斬撃を短剣で受け流し、膝に蹴りを飛ばした。不快な音がして、活きのいい肉が倒れた。敵はまた後ろに退いた。回り込む動きを見せる。

 とにかく隙ができた。翼竜がいる方向へ足を速める。

苦しい。場所は頭に入っているが、走れない。敵との距離が近すぎて、罠に誘い込むことさえできない。敵は迷わず、こちらの背中を追ってくるだけでいい。

 背後では、まだ戦いが続いているようだった。ときおり悲鳴が上がり、倒れこむ音がする。 それでも、追ってくる足音がある。敵は、二手に分かれているに違いなかった。

「ジェーガン、大丈夫か」

「浅手でさあ。気にしないでくださいよ」

「もうすぐセラのところだ。頑張れ」

 広場に出た。一番奥のところに、翼竜らしき姿があった。

「伏せて!」

 セラの鋭い声があがった。意味がわかった。ジェーガンともども、転ぶように身を伏せる。胸と膝に衝撃が走った。土ぼこりが口に入った。地面は夜露でかすかに湿っている。

 弦がかすかに鳴った。鏃が尾を引いて、頭上を越えていった。速い。長い悲鳴が起こり、茂みが割れる音がした。二度三度と続くと、敵は大人しくなった。飛び出してきたら、即座に射抜かれるとわかったようだった。

 レオンたちも、まったく動けなかった。動くと、夜目の利かないセラに射抜かれるおそれがある。かといって、火矢は使わせられない。居場所を特定され、迂回攻撃を受けるおそれがある。囲まれて滑走できなくなれば、翼竜での脱出は難しくなる。

 やむなく、ゆっくりと地面を這うように進んだ。ジェーガンも続いた。足の傷が痛むのか、ときおり短く切ったうめき声が上がる。ようやく、中間あたりにまでたどり着いた。これなら、同士討ちとなることはない。レオンは大きく息をついた。草と土の匂いがした。

 静寂が戻っていた。戦いは終わったらしい。

 レオンは思い切って、大声を出してみた。

「マーク、無事か!」

 大丈夫、とすぐさま返事があった。

「セラ、気にするな。おれは木の陰に隠れている。飛び出してくるのがいたら遠慮なく射抜け」

「はいっ!」

 機転が利いていた。これでゴブリン族はうかつに出てこられない。完全な足止めとなった。

「いくぞ、ジェーガン」

 肩を貸しながら走った。大きく左に回りこむ。弓手側と違って右脇が引き締まる体勢は、セラの得意とする構えだった。距離からしてわずかの差だろうが、セラには助けになるはずだ。

 茂みがざわついたが、敵が飛び出すようすはない。急いで翼竜の背中に乗り、二人で鞍にまたがった。視線を左右に走らせたが、マークも敵もどこにいるのかよくわからない。

「マーク、あとはお前だけだ!」

「了解。じゃあ、行くぜ」

 続けて二回、石が広場に投げ込まれた。一拍待て、の合図だった。セラは軽くうなずき、長弓を構えた。出てきたゴブリン族に向かって、矢を放つ。悲痛な余韻を残して、男は倒れた。

 ひるんだ空気を切り裂くように、右側から飛び出してくる人影があった。マークに違いなかった。緩やかに曲がりながら、翼竜の正面に向かってくる。

 ゴブリン族たちも出てきた。雄叫びをあげ、殺到してくる。

 セラの背中に叩きつけるように、レオンが叫んだ。

「出せ!」

 半瞬の後、翼竜は滑走を始めた。大きく翼が羽ばたき、強い風がレオンにかかる。傾いていた体が水平になり、速度が上がった。振動がなくなり、宙に浮く感じがした。

 正面にいたマークの姿が大きくなった。一瞬でセラの肩に消える。押し付けられる感触があり、再び体が上方に傾いた。木立が林になり、森へと変わっていった。右手の山脈が、青白く輝いていた。

 翼竜は滑空を始めた。気流を捉えたのか、体勢は安定し、全身を荒々しく揉んでいた風も消えた。ゴブリン族が地上であげているであろう憎悪の叫びは、全く聞こえない。セラの鋭い掛け声だけが耳に入ってくる。

「危ないところだったな。しかし、得るものも大きかった」

 渇いた口に、湿った夜気が心地よい。レオンは一息ついて、考えをまとめ始めた。

 マークとジェーガンの偵察によって、贋金造りには、ドワーフ族とゴブリン族が絡んでいるのがわかった。仲の良し悪しはひとまず置いて考えてみると、協力は理にかなっている。

 荷役を担うゴブリン族と、冶金技術に秀でたドワーフ族とが組めば、贋金を流通させることはたやすい。生活に必要な物資も、ゴブリン族が運び込んでくれる。ゴブリン族は、銅から銀を抜き、石炭を購入したぶんの残りを懐に入れる。信頼しあっていない状況でも、お互いに共通の利益があれば、手を握ることは十分にありえた。枢密院と元老院の関係を見ればわかる。

 わざわざ質の悪い贋金を造る理由は、なんとなくだがわかった。銅鉱石や銅材なら、出所を疑われる。コロンブエ山脈一帯は領土がいりくんでいるから、新たな紛争の火種になりかねない。状況いかんでは、破却された集落のように、せっかく見つけた銅山を失うおそれがある。贋金として市場に出回るなら、たとえ存在が明らかになったとしても連邦政府の介入を誘えるから、領主たちもうかつに手出しができないわけだ。

 現に財務省の代わりに、司法省が動いている。

 問題は、連中の背後に何らかの人物がいるどうかだった。考えられるのは、やはり商工組合だろう。城壁の外の自由市場がないのであれば、フィルスの市場を通して取引をするしかない。手を汚さずに手数料を取れるのであれば、美味しい役回りだ。直接ではなくても何らかのかたちでヨルクが関与していてもおかしくはない。

 しかし、組合長は何者かによって殺害され、店を焼かれている。贋金造りの口封じのために消された、との仮定が真実味を帯びてきた。

 必然的に犯人は警備隊長のベックラーになるが、どうしても解せない。わざわざ自らの立場を不利にする必要があるのだろうか。定年後の身の振り方を考えねばならない齢であるのに、それを蹴ってまで、破滅につながる行為に手を染める利があるのだろうか。

 誰が黒幕なのか、更なる調査が必要になった。

 いまさらフィルスには戻れない。体勢を立て直す場所を探さねばならなかった。

「おおい、いい加減に降ろしてくれよ。あまり揺れないから、気持ちは悪くはねえが、気分が悪いぜ。高いところにぶら下がっているのは、あまり愉快なものじゃねえからさ」

 下を見ると、革鎧の両肩部分に、翼竜の爪が引っ掛かっているだけの不安定な姿勢だった。深く食い込んではいるものの、強風でもあれば落ちる危険もある。

 レオンは、しおれているようすのマークに、つとめて明るい声を掛けた。

「マーク、翼竜に感謝しろよ。命の恩人なんだからな」

「ついでにセラにも感謝しておくぜ。そうすれば、世の中上には上がいる、ってことでオチまでついて丸く収まるってわけだ」

「なにを寸劇みたいなことを言ってるんだ。おれたちが見るはずの大団円には、まだまだ遠いぞ。セラ、どこか適当な空地を見つけて降りてくれ。マークを拾いなおすから」

 はい、と返事があった。翼竜の体勢が傾き、旋回を始める。

 心なしか、セラの掛け声が潤んでいるように、レオンには思えた。


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