第六章 炎が熾るとき
第六章 炎が熾るとき
到着早々レオンは、フィルスの最高責任者に面会を求めた。極秘任務だが、それなりの筋を通しておくためだった。場合によっては言質をとって、調査を有利に進めることもできる。
市議会は閉鎖されていた。不景気の影響で、本業に身を入れなければならなくなったようだった。最高責任者は市長ではなく、警備隊長が兼ねている。
警備隊司令部は、街の中心にあった。灯台の近くにある石造りの三階建ての建物である。司法省からの身分証明書を見せると、丁重に警備隊長室へと案内された。
出迎えた警備隊長はベックラーと名乗る、六十を少し越えたぐらいの老軍人だった。やや股を広げて歩く仕草を見ると、痩身は生来の体型ではないのだろう。頬の肉が削げ落ちているように見えるが、血色はそれなりによく、枯れた印象は感じない。目は鋭いとまではいかないが力がこもっているようであり、武人特有の隙のなさを形づくっていた。
年齢と与えられた役職から比較すると、中央高等文官試験を通過したわけではなく、地道に努力を積んで、この地位を得たのだろう。
「贋金調査ということでしたな、レオンさん」
都市巡察官の突然の訪問にも、嫌なそぶりを見せなかった。椅子を勧めながら話す口調は柔らかく、目を細めて微笑んでいる表情には、孫と話しているかのような優しさが垣間見えた。
来訪の目的はわかっているのだろう。席につくとすぐ、ベックラーは話を切り出した。
「まず、フィルスの現状を説明しましょう。ここの実態を知っていただければ、あなたがたの調査にも役立つと思います」
「と、いいますと?」
「ここフィルスでは、農作物を自作できません。豊かな森があっても、生えているのは材木用の木です。人を養うだけの実りはありません。なんとか自活しようと土地をこつこつと手に入れようとはしているのですが、不景気なうえに、みんな開拓には消極的でして。水は豊富なのですが、土が痩せているとのことでした」
レオンは、エルフ族のことを思い出した。
「焼畑はどうです。試みましたか?」
「いいえ。焼畑ならエルフ族が詳しかろうと、呼んで相談したのですが。どうやらこの一帯には、石炭が泥状の層を成している場所があるので難しいと。いったんそこに火が入ると、森全体に広がるおそれがあると。もっとも彼は材木商人でしたから、巨木を少しでも失いたくないと思っているのかもしれません。ここは木そのものが財産ですからね」
ベックラーは鼻で長い息をした。しばらくして、再び口を開く。
「不景気の影響は、大陸全体に及んでいるそうですね。ここフィルスも例外ではありません。来る途中見ていただけたとは思いますが、工房はほとんど閉鎖されてしまいました。再開の見込みは、まったく立っておりません。商工組合が動かなくなれば、税金が入ってこなくなります。しかも交易は赤字つづきで、いままでの蓄えを取り崩しての生活です」
レオンはうなずいた。フィルスは交易で栄えた都市だが、それが皮肉にも苦しむ原因になっている。しかも、街道は港町に続く一本しかない。だから、言い値で塩や食糧などの必需品を買わざるを得ない事情がある。
同じ消耗品であっても、常に一定量が消費される食料品と、景気に左右されやすい繊維や紙製品とでは打撃の度合いが違う。金銭の流出はなんとしても防ぎたいところだろう。
「わかります。そこにきて洪水騒ぎです。連邦政府の威信を保つためにも、外壁の修理は急務だと思います。予算がいくらあっても足りないところでしょう」
「連邦政府に相談しても返ってくる返事は、自活せよ、との一言だけです。予算がないのはお互いさまでしょうが、困った問題になりました。財務省から査察にくる会計官に訴えるつもりではあるのですが、まだ先の話になるでしょう」
「街を見たかぎり、それなりの対策を施されたようですが?」
「城壁と橋の修復は、商工組合が無償で請け負ってくれることになりました。夜盗を防ぐためだそうです。ここは、木が茂っていて、盗賊どもが隠れる場所には事欠きませんからね。警備隊長のわたしにとって、誠に不名誉な話ですが」
「組合長の名前はなんと?」
「元市議会議長のヨルク氏です。赴任してきたときから、親身にしてもらいました」
下心が透けて見える気がした。不景気だから、盗賊が増えるのもよくわかる。しかし、無償とはやりすぎのような気がする。修復は都市の義務なのだから、無利子の借金で十分のはずだった。
そう指摘すると、ベックラーの顔がゆがんだ。そんな考えなど、思いもよらなかったらしい。
「その手がありましたな。わたしの世間知らずにもほどがある」
「恩を着せられたようにも思えますが、なにか代償を支払われましたか?」
「いいえ、直接的にはなにも」
ベックラーは、水の入った木杯で口を湿らせた。勧められ、レオンも付き合った。冷たいわりに口当たりが良かった。ほのかな甘みさえあった。これなら茶葉もいらないだろう。
「実は、修復が始まってすぐ、贋金が出回り始めました。水が引いたのちに、北東角の市場で取引が再開されてからです」
ついに、本題に入った。言葉を選んで、慎重に訊ねる必要があった。警備隊長の立場では、言えないこともあるに違いない。
「一度にですか?」
「以前から周到に準備されていたのかどうかまでは、よくわかりません。ですが、徐々に広まっていったようです。商品の支払いにほんのわずかづつ紛れ込ませるようにしていったのでは、と思っています」
レオンは、バルラムの机に置いた一枚の銅貨を思い出した。贋金を手に入れるのに苦労していた。つまり、問題になるほどの量は出回ってないことになる。
「そのわりに他の都市まで広がりませんでしたね」
「これは推測ですが、商人には不満が出ないようになっているからでしょう。両替商が真正の貨幣で引き換えてくれているようですので。等価交換とまではいかないでしょうが、取引上の問題にしかならないわけです。ここは辺境の地で、領主たちが鋳た質の悪い貨幣を扱ってきた実績がありますから、それなりの信用を築き上げているのでしょう。商工連盟成立の経緯はご存知ですか?」
「ええ。学校で習いました」
バルラムから聞いた真の事情も知っているが、ここでは必要のない話だった。
「それに、ここフィルスは通商都市ですから。商品を売って別な商品をそのまま購入すれば、貨幣など必要ありませんからね。物々交換なら不満も出ません」
いまにも唾を吐き捨てんばかりに、ベックラーは顔をそむけた。床は細かい模様の絨毯ではなく、刈り取られたばかりのイグサが敷き詰められ、青臭くも清涼な香りを放っている。
なるほど、とレオンは心の中でうなずいた。話を聞く限り、すべて理にかなっている。
「ところで、何の取引から贋金が出回り始めたと思いますか?」
「わかりません。商取引は、専門外ですので」
率直だが何かを避けたがっている、そんな言い方だった。レオンは核心を突いてみた。
「警備隊長どの。贋金造りの犯人は、商工組合ではありませんか。両替商も一味でしょう?」
「私の口からは、決して、言えません」
ベックラーの引き結ばれた口元が、かすかに歪んでいた。青緑色の瞳が、まっすぐこちらに向けられている。レオンも黙って見つめ返した。
しばらく視線を交し合った後、ベックラーは意を決したように立ち上り、隅の金庫に歩いていった。革袋が一つ、机に置かれる。中身は、真正の銀貨だった。連邦政府の刻印が二度、しっかりと打ち込まれている。
「これが、連邦政府から与えられた、警備隊の全財産です。解散してしまった市議会のぶんを含めて、これから費用をまかなっていかなければなりません。査察が入るときに少しでも無くなっていたら、厳しい責任問題となります。会計官は事情を斟酌しませんし、こちらの訴えも変に勘ぐられかねませんからね。予算は少ない。しかし、我らは住民を守りつつ、生活を支えていかねばなりません。歳入がほとんどない、この街で。その意味、おわかりですね」
警備隊は志願選抜制をとっている。つまり、予算がないとどうにもならない。
念を押しているのは、深い事情を察して欲しいとの現われだろう。賄賂。それしか考えられなかった。
商工組合の機嫌を損じれば、橋や城壁の修復は進まない。そうなれば盗賊の跳梁を許すことになりかねないし、連邦政府からの叱責も覚悟しなければならない。気高さと治安を維持するためには、賄賂を受取らねばならない。謹直さが求められる武人にとって、辛い決断だっただろう。
「事情はよくわかります。わたしも政府の役人ですから」
連邦政府には各省ごとに機密費があって、不測の事態に対する柔軟性が保たれている。しかし、辺境の都市にまでは及ばない。地理的には重要な場所にあるが、差し迫った事態がなければできる限り予算を抑え込みたい、というのが首都の本音だろう。
ベックラーは、窓際までゆっくりと歩いた。窓から身を乗り出して、外を眺める。しばらくして、おもむろに口を開いた。背中が、かすかに丸まっていた。
「本当に軍隊とは、世間知らずの集まりですな。わたしは四十年、武人として真面目に働き、今の地位を得ました。ですが、人間には分相応があるようです。世の中はきれいごとでは動いていかないと知ったのは、警備隊長に任命されて、交渉と妥協が主な仕事になってからですよ」
一言一言が、はっきりと聞こえた。何らかの決意が、老警備隊長の背中を押しているようだ。
直接賄賂を認めてはいないが、行政官の立場では仕方がないことだった。腹の内は嫌というほどわかる。
「ずいぶんと正直に話してくれますね」
「あなたが司法省の人間ではない、とわかっているからですよ。これでも警備隊長です。犯罪者の取調べをしていれば、人を見る目は養われます。もっとも書類は、年々見づらくなってきていますけどね」
レオンの背筋に冷たいものが走った。つたない冗談が、かえって凄みを増して聞こえた。
警備隊長室での行動には、何も怪しいところはなかったはずだ。だとすれば、どうしてこちらの正体を見抜けたのだろうか。
ベックラーの横顔に微笑が浮かんだ。
「司法省からの都市巡察官なら、もっと事務的で血の通わない話をします。財務省の会計官も同様です。焼畑がどうだのと、贋金と関係のない話はしないでしょう。取調べだったら、雑談から不意に切り込む手も有効ですが、それでもなさそうだ。事件の全体像をつかもうとするのであれば、どこかの省庁の諜報工作員といったところでしょう」
ベックラーは、はじめからレオンの返答を期待していないようだった。目は、そのまま森を見据えていた。唇が開いたり閉じたりしているのは、どう言ったらいいか考えているようでもあった。やがて唇を軽く舐めた後、話し始めた。
「森の中には、多くの生き物がいます。森そのものが生きているからでしょう。多くの人が住む連邦も同じく生きているはずです。例えは悪いですが、腐った木に生えるキノコやコケ、巣くっている芋虫も生き物ではありませんか。彼らがいるからこそ、森がきれいになり、新しい木が生えてくる。だれかが汚れ役をやらねばならない。それを悪くいう人間は、嫌な仕事を押し付けている卑怯者に過ぎません。そうではないですか、レオンさん」
振り返った顔には、甘さがまったくなかった。視線が痛いぐらいに突き刺さってきている。
「お願いです。贋金を造っているのであれば、近くに銅山があるはずです。それを探してもらえませんか。商売のことはよく知りませんが、銅を精錬して隣のポーミラまで持って行くだけでも高く売れるはず。銅山さえあれば、収入と仕事ができて、フィルスは息を吹き返せます」
「つまり、調査への障害は、排除してもいい、ということですね。責任はとってくださると?」
つとめて冷静さを保ったレオンの問いに、ベックラーはしっかりとうなずいて応じた。しかし、細めた目からは強い光が消えていた。
「老いて、汚れてしまったこの身です。もはや失うものなど、ありますまい。この街は、もっと豊かになるはずです。お願いします、レオンさん」
「最善を尽くします」
レオンははっきりと答えた。しっかりと調査協力の言質をとったが、かえって責任は重くなった。気を引き締めなければならなかった。
「ただ、商工組合を不用意に、刺激することだけは無用に願います。城壁の修復は成し遂げてもらわねばなりませんから」
「不用意に、ですね。わかりました」
商工組合が疑わしいからといって、変に動き回るわけにも行かない。血の管に巻きつく腫れ物のように、下手に切り取ろうとすると大怪我をしかねない。実情を話してくれたベックラーの立場が弱くなる。信頼してくれた相手を裏切るわけにはいかなかった。
勧められた晩餐を固辞し、司令部を後にした。門まで付き従ってきた部下は、行きと同じく機敏で礼儀正しかった。ベックラーの威令が、隅々まで行き渡っているようだった。
嬉しかった。腹の底が熱くなってきた。工作員として動いてきて、初めて持った感情だった。汚れ仕事などではない。人の役に立てる仕事だった。
ともあれ、状況分析が不可欠だった。三人の偵察結果を聞いて、入念に対策を練る。商工組合に気づかれずに動ける、贋金調査の突破口を見つけねばならない。
レオンは表情を引き締めつつ、宿屋に向かった。
マークは小石を蹴ろうとして、かろうじて思いとどまった。
蹴っても、気が晴れるわけではない。前を歩いている母子に、ぶつけるおそれもある。買い物帰りのはずんだ会話を邪魔するのは、下種のやることだ。いくら退屈だといっても、いっぱしの男がやることじゃない。
フィルスは、偵察しやすい街だった。新設された都市によく見られる正方形をした外周を持ち、路は東西と南北を貫く大通りに準じて、整然と格子状に引かれている。歴史のある交易都市によく見られる迷路状ではないのは、今まで外敵の侵入を防ぐ必要がなかったせいだろう。
表通りの道は、外壁修復のために石畳が転用されていて、土がむき出しになっている。荷車は街の隅に集まるので、土ぼこりが立つ心配はなかった。それに、豊かな水量を誇るかのように、水が撒かれている。赤レンガで埋めようとした箇所があるが、まだ全体にまでは行き渡っていない。
地上偵察の常として、主要な建物を頭に入れる必要があった。しかし、製紙や製材工房はほとんど閉鎖されているので、重要なものはそれほどない。警備司令部と市場、それに商工組合直営の商品市場ぐらいのものだった。それも中央、北東角、東南角にあるので、そこに向かう細かい標を見つける必要さえなかった。
森の街だけあって、道具屋が軒を並べている。一軒の店に目をやると、陳列された伐採道具がしまいこまれ、奥から鋸が運ばれてきたところだった。売るためのものではなく、残光を使って歪を探すためだろう、とマークは見定めた。試し切りの丸太も、持ち出されてきた。
武器や防具の目利きも、光の柔らかくなる暮れ方に行う。目線の高さに掲げると、陽光や灯火の下では隠れている歪や傷も、はっきりと見抜ける。具合によっては、どんな使われ方をしたのかまで読める。
鋸を今のうちに直しておくのは、近いうちに再び伐採量が増えるのを見越しているからで、住民はそれほど悲観的に考えていない、と推測できた。武器商人になりすまして得た知識が、こういったところで役に立つ。
そのまま大通りを西に向かって歩いた。
洪水で西側と南側の橋が落ちていたが、修復するつもりはないようだ。おそらく、盗賊団対策に違いなかった。自然の川は、天然の堀になる。優れた盗賊は、侵入より退出を考えて計画を立てるものだ。盗品を搬出しにくい所から襲撃してくる可能性は少ない。
歩き回っているうちに、翼竜での酔いは、少しずつだが収まってきていた。近くの森にいって少し深呼吸をすれば、のどまで出かかった酸っぱいものも腹へと落ちる。あとは川で口をゆすげば、なんでもないことだ。
ただ、気分の悪さは消えなかった。愛用しているセルムの葉っぱを噛めないせいに違いない。流行の幻惑草に間違えられると思い、外では我慢していた。別にやましいことはしていないが、後ろ指を指されるのは不快だったし、蛇のようにしつこい密偵どもに、嗅ぎ回られるのも癪にさわる。
街の空気も、うす気味悪く感じられた。
フィルスは治安が悪いと思っていたが、そうでもなかった。目の前で騒ぎはあったが、すぐに仲裁が入って収まった。大仰に肩をすくめて立ち去ったのは、三角帽の男のきざったらしい言葉に、毒気を抜かれたせいではなさそうだった。護身用の短剣を持っている人間はちらほらといたが、使う素振りはまったくなかった。街そのものに活気があるせいだろう、とマークは思った。
金回りがよくなれば、女と博打が流行る。どれもいさかいのもとだが、金さえあれば問題にはならない。どっちに負けても、よそにいけばいいだけのことだ。
大通りに面したパン屋の主人が角笛を鳴らし、蒸し風呂の用意が整ったことを知らせていた。パンを焼く竈の余熱を二階に引き込んだもので、葡萄の灰を溶かした水で体を洗い、白樺の枝で垢をこすり落とす仕組みになっている。さっぱりとした後は、階下で軽めの食事ができる。
吹き終わるとすぐ、人が集まってきた。みんな、待ちかねたような顔をしている。
不景気なわりに、贅沢といえた。川の水がきれいなら、水浴びですませればいい。それなら金がかかることはない。湯を沸かして、体を拭くだけでもいい。
通り過ぎつつ、さりげなく目を流した。客は新しい銅貨を主人に渡していた。マークはセルムの葉を買ったお釣りを取り出して見た。やはり贋金で新しいものだった。悪びれもせずに渡してきたし、主人もいぶかしがらずに受取ってもいた。贋金が一般に認知されている証拠だった。闇の両替商がいないのも、そのせいだろう。商品取引なら物々交換という便宜があるが、どうやらそれ以上に贋金は受け入れられているようだった。金として使えればそれでいい、といった短絡的な雰囲気が読み取れる。
それにしても警備隊はなにをしてやがる、とマークは口の中で毒づいた。威張るだけ威張っておきながら、肝心なときに役に立たないのはどこも同じだった。
いくら歩き回っても、警備隊を見かけることはなかった。治安の良し悪しにかかわらず、市中を定時巡検するはずなのに、姿がまったく見当たらない。さらに東西南北、それぞれの門にいるはずの当番兵の姿もない。
たるんでいる、というわけでもなさそうだった。街の中心にある警備隊司令部だけは張りつめた空気があり、正門からさりげなくのぞきこむことさえはばかられるほどだった。
怪しまれないうちに、東西に伸びる大通りを西へと歩いて行く。
日が山の頂上にかかっていたが、西側の城門付近では、まだ修復作業が続いていた。日の出から日没まで働くのが決まりらしい。
全体的に活気があった。張り巡らされた板塀の中で、土を根気良くつき固めている姿が目立っている。敷石だった石を張り、石灰を目地として詰めている場所を見ると、修復は順調に進んでいるようだった。火を起こし、なにかの金属を溶かしている部署もある。
大鍋で炊き出しをしている婦人のそばで、日払い賃金を数えている老人がいた。小山と積まれた賃金は、他の都市の相場と同じぐらいだった。贋金かどうか見ようとしたが、よくわからない。新しいものだとわかっただけだった。
腹が鳴った。そういえば、翼竜を降りてから何も食べていなかった。体のほうは、元に戻っているようだ。それならさっさと宿屋に戻って夕食をとろう、とマークは手を打った。それから蒸し風呂にでも繰り出しつつ、夜の偵察に出かければいい。
宿屋に戻る途中、ふと、裏通りに目をやった。
娘が、巨漢につきまとわれていた。手に持っているのは、花篭だった。どうやら、酒場をまわって花を売る娘のようだ。
巨漢は両手で娘を押さえつけるようにして、顔を寄せていた。こちらから表情は読めないが、娘が嫌がっているのであれば、逢引といったわけでもなさそうだ。せいぜい売上を掠め取る小悪党といったところだろう、とマークは見てとった。
背後に忍び寄った。改めて見ると、自分よりもふたまわりぐらい大きい。しかし、別に気にしなかった。死んだ親父も小柄ながら、よくこういった無頼漢どもに説教をしていたものだ。
勢いよく尻を蹴り上げようとして、サンダル履きであるのを思い出した。尻の肉が異常なほど盛り上がっていて、奇襲があまり利きそうにない。鉄のブーツなら効果があるだろうが、履く趣味はなかった。音が出るうえにたった半日で足が臭くなるし、砂と酢とで磨くのも面倒だ。
あらためて巨漢を見てみた。
尻の肉が発達しているのは、兵隊として猛訓練を受け続けてきた証拠といえた。かかとがひび割れているのは、槍隊出身者によく見られる特徴だった。それで巨漢となると、男子皆兵主義政策をとっているオーク族だと見当がつく。勇敢な重装歩兵で鳴らした部族だった。密集陣形での槍遣いには定評がある。
一般の兵士、とくに騎兵を相手にする槍隊の調練は、徹底した走り込みから始まる。戦闘での持久力をつける目的もあるが、対抗兵種である騎兵の動きに応じて隊列を維持しつつ部隊を展開するためだった。要衝を素早く確保するために、坂道を駆け上がる訓練もする。
足の皮が厚くなっているのは、裸足で駆け回らされた名残だろう。途中でサンダルが脱げても大丈夫なようにとの配慮だと聞いたことがあった。少しでも落伍者が出れば、槍の間隙を突くかたちで重騎兵が殺到してくる。
正規兵が領地を離れるはずがない。脱走兵に決まっている。体をよく見ると、腹がふくらんでいた。尻の肉は落ちにくいが、腹は落ちやすい。つまり、訓練を止めてから時間が経っていることがわかる。丸腰でもあり、どのみちたいした相手ではなさそうだった。
さてやるか、とマークはつぶやいた。
両膝を見て、軸足を確認する。左膝を蹴った。鈍い音がして、うめき声があがった。巨漢は片膝をついた。顔がこちらに向く。驚愕の表情があった。すかさず顎を蹴って仰向けに転がし、素早く腹を踏みつけた。体が折れ、頭が上がった。後頭部を打って、気絶されては困る。
「てめえ、彼女に何をしていやがった」
こういったとき、自分でも驚くほど低い声が出る。死んだ親父が言わせているのだろうと、思うことにしていた。たぶん瞳の色も、赤っぽくなっているに違いない。
情報を送り続けたあげくに魔女狩りで死に、味方の脱出を助けるために犠牲になった二人の血の証だった。妹と同じ薄い枯葉色の瞳は、形見の一つであり、己の誇りでもある。
「まだ、何もしてねえよ」
体型とはまったく逆の、弱々しい声だった。
「あたりまえだ。やってやがったら、あばら骨を踏み砕いてやるところぜ。世の中にはな、やっていいことと、悪いことがあるんだぜ。違うかい、豚野郎」
「お、おれたちを侮辱する気か」
オーク族も少数民族の一つだが、そこそこの人口と兵の精強さのおかげで、小さいながらも自分たちの土地を持っている。領地と軍制を維持するために多産が奨励され、粗食に耐える頑健な体を常に求められていた。それゆえか、口の悪い他の少数民族たちからは、やっかみも手伝って、豚と呼ばれている。
マークは巨漢を睨みつけた。
粗衣粗食であっても別に構わない。むしろ美徳であるともいえる。多産だって大したものだ。ただ、オーク族が盗みを奨励している点が気に入らないだけだった。生活のためならまだしも、戦闘における機敏さと狡猾さを磨くためとはなにごとだ。詭弁にもほどがある。
「か弱い花売り娘の上前をムシッて肥え太ろうとする、てめえのような下種が、豚野郎でなくてなんなんだ、ああん?」
巨漢の顔から血の気が引いた。足の裏に、荒い息遣いが伝わってくる。
「確かてめえんところの男は、全員兵隊に入るはずだよな。なんでここにいて、女子供をいびって暮らしてやがるんだ。おおかた脱走して、食うに困って流れ着いたってところだろう。違うか?」
巨漢は、首を激しく振った。
「今は、休暇中なんだよう。それで、ここまで出稼ぎに来ているんだよう。商工組合で働こうとして。コ、コロンブエ山脈にある集落の警備の仕事があるって。それで傭兵を募集していて。あ、あの銀貨をたくさんくれるって言うし」
マークはせせら笑った。つく嘘も嘘だし、聞く話も話だった。世の中にそんな甘い話などあるわけがなかった。それに、いまだ専制が続くオーク族の領主が、威信を失墜させた連中を放っておく訳もない。匿ったとあれば商工組合とて、ただでは済まない。
「何を言ってやがる。地図を見りゃあ嘘だってことぐらいわかるだろうが。あそこは国境が複雑なせいで、たたき出された連中がいるってぐらいなのに、集落なんかあるもんか。おおかた石切人夫かなんかで、一生ただ働きってところだな。なあるほど、ここの欲深連中も考えやがったな。石なんかろくな価値はないから切り出し放題だし、脱走兵なら後腐れもない」
「う、嘘だ」
でっちあげた話だったが、ちょっと脅してみたくなっていた。周りを見ると、花売り娘は逃げ去っていた。謝らせられないのであれば、脅かしたぶんだけの報いは受けさせるべきだった。親父でも、たぶんそうしただろう。
「オーク族は世間知らずで騙されやすいとは聞いていたが、これほどとは思わなかったぜ。たしかに食事はたらふく食わせてくれるし、賃金もいい。ただし、待遇が最悪だ。親方に高利で金を借りないと、きつくて危険な仕事を割り当てられちまう。なにしろ相手は、金を持たせると働かなくなるってことを知ってやがるからな。それでわずかな蓄えも、イカサマ博打につぎ込まされるってわけだ。寝床はわらで、ろくに換えないから虫に食われまくる。病気にでもかかれば、はい、それまでよで叩き出される。待っているのは、おっと、こいつは言うまでもないか」
巨漢の顔が固まっていた。赤かった顔が白くなり、すぐに蒼くなった。
不意に、気がついた。これほど気が弱いのに、花売り娘を脅かす勇気があるわけがない。誰かに酒代でも稼いでこいと命令されて、仕方なくやったのかもしれない。
「まあ、いいか。おれの知ったことじゃねえし。ところで、おい、豚」
「おれは、豚じゃねえ」
答える声が潤んでいた。足をどかしても、そのまま動かなかった。ただ、嗚咽が漏れてくるだけだ。目に涙がたまっていた。よく見ると、顔が若い。
人が泣くのを見ると、心が湿った。年下だとよけいに昔を思い出す。
いつも泣き腫らしていると間違われて、いじめられていた頃があった。気が高ぶるほど瞳が赤っぽく見えるから、ますますいじめがひどくなったものだ。
ある日、妹がいじめられた。思い切って、一番強いものに当たっていった。殴られたら、引っ掻き返した。蹴られたら、噛みつき返した。やられても、やられても、繰り返した。やがて、いじめっ子たちは逃げていった。強さとは何かを、つかんだ気がした。
夜、ベッドの中で怒声を聞いた。今考えれば、いじめっ子は、有力者の子供だったのかもしれない。親父は、確か何も言い返さなかったはずだ。朝、起きたとき、黙って頭を撫でてくれた。ぎこちなく、節くれだった手で、どう生きるべきか教えてくれた。
そして今、何をするべきか、はっきりとわかっている。
「おい、でかっ尻」
「ふざけんなよう。おれにはピグって、れっきとした名前があるんだよう」
「じゃあ、ピグとやら。てめえ、気が弱ええくせに、なんで脱走なんてくわだてやがったんだ。おおかた訓練に嫌気がさしたってところじゃねえのか。それなら古釘でも踏んで、泥水に足でも突っ込めばよかったじゃねえか。足を一本失うだけですむ話だ」
「違うよう。脱走は連帯責任だから、おれだけが隊に残ると、一人で脱走兵狩りに行かなければいけないんだよう。おれたちに勝てるのか、って囲まれて凄まれれば、一緒に逃げるしかないじゃないかよう。みんなに捨てられたら、一人ではすぐに捕まるしよう。もう、どうしたらいいか、わからなくなったよう」
「なあるほどな。要するに、世の中多数決が正しいってわけじゃねえってことだな。ゴンドランド連邦だって、同じこと。正しいとは限らねえ。やっぱり、心の信じるままに生きていくのが一番だってことだな」
うん、うん、とマークはうなずきつつひとりごちた。
運命だの宿命だのと理屈をこねて突き放してやるのはたやすい。しかし、口にはしたくなかった。口にすると、自らの意思で死んでいった両親の決意を穢したような気になる。
マークは歯の隙間から声を出した。
「ところで酒代をカスってこい、と命じた連中がいるだろう。そいつらがたむろする酒場を教えな。なあに心配すんな。名前は出さねえからよ」
「まだなにも言っていないのに、なんで酒場にいるってわかるんだよう」
本当に世間を知らないらしい、とマークは顔をしかめた。人を雇う場合、雇い主は自分の息のかかった酒場に留めおくのは常識だった。すぐに呼びだせるし、支払う酒代で賃金の回収ができる。オーク族は図体がでかいぶんだけ、酒代もかかるに違いなかった。手持ちが少なくなったからこそ、一番弱い立場の人間に調達を命じたのだろう。
そもそも花売り娘に狙いを定めているのが、世間知らずの証拠だった。場合によっては酒場への客引きもする花売り娘は、必然的に街全体を巡り歩く。脅し取られたのが広まれば、警備隊に突き出されるに決まっている。その先で待っているのは、監獄か絞首台だ。
それにしてもいらだたせる態度と言葉遣いだった。
「ごちゃごちゃとうるせえぞ。てめえはただ教えればいいだけだ」
「なんだよう、なにするんだよう」
「決まってる。尻が重てえてめえらのてっぺんと、腰が抜けてる警備隊の連中に、足捌きの大切さを教えてやるのよ」
酒場の場所を訊き出すと、マークはハンカチを放った。柔らかく舞って、ピグの盛り上がった腹に落ちた。
「とりあえず顔を拭け。おい、ピグ。てめえも男なら、女を泣かせるような真似はやめて、胸を張って生きていく算段をしやがれ。はぐれ者に向かい風は強えが、お日さまは暖かいぜ」
ピグと別れてしばらく歩くと、ちゃんと教えられた場所に酒場はあった。
マークは、建物を仰ぎ見た。漆喰の白壁とポポリの木らしい材木が組み合わされた三階建ての建物で、ヨルクの店と彫り込まれた看板が目についた。
庇の下にある小窓は、荷を上げる滑車が置かれていた名残に違いない。商館を改造したものだとすると、一階が酒場、二階が物置、三階が店主の部屋になっているはずだ。
殴り込むには都合が良かった。おそらく用心棒は、三階で悪徳店主の護衛をしているはずだ。下りてくるまでにカタをつけて、さっさと立ち去ればいい。警告ならそれで十分だ。
持っていたなめし革の手袋をはめる。拳を守るだけではない。滑らなくなるので、打撃の威力が増す。
最強の武器は、己の肉体。そう信じていた。武器や兵器に精通したのは、偵察担当として、敵の意図を測るために学んだ成果にすぎない。柔軟で強靭な肉体には、隙も死角も存在しないはずだ。弱くなるための武器など、武器ではない。
もし、魔法が見つかったとしても、使うことはないだろう。頼るものがあれば、己の心も体も弱くなる。そう思うに至ったのであれば、孤児になったのも悪いことばかりではない。
下腹に力を入れた。弟をいじめた連中に仕返しをする気分で、ドアを蹴破る。
暇を潰していたであろうオーク族の視線が、いっせいに集まった。
なにもかも、気に入らなかった。よどんだ空気も、しけた面も、安酒の鼻につく酸っぱい匂いも。おまけに上から聞こえてくる歌も、なんだか辛気臭かった。
「ずいぶんと酒臭え豚小屋だよなあ。飲んでもいないのに反吐が出そうだぜ。しょうがねえ。おい、店員。ミルクだミルク。ミルクをくれよ。井戸で冷やしたヤツをな。断っておくが、ミルクってのは牛の乳のことで、豚じゃないぜ」
「ずいぶんと威勢がいいお子さまじゃねえか」
入口近くのテーブルにいたオーク族の一人が、ゆっくりと立ち上がった。放られたカードは、図柄も数字もばらばらで、役はなさそうだった。闖入者の登場に、掛け金を失わずに済んだ、といった顔をしている。
「おれたちを誰だか知っていて言ってんのか? ずいぶんと安く見られたもんだぜ」
マークは片頬で笑った。たとえ体を鍛えていようとも、頭の先から股間まで、体の中心線に弱点は集中するし、急所に当たれば悶絶する。全ての人間は平等である、とのゴンドランド連邦の基本理念を、わかりやすく叩き込んでやらねばなるまい。
「へええ。てめえらは責任をとれるほどの大物だったのかい。牝豚の価値は乳首の数で決まるらしいが、てめえらは何で決まるのかな?」
「なんだと、この赤目野郎」
店内の気だるい雰囲気が、殺伐としたものに変わりつつあった。暇を持て余しているぶんだけ、気が立ってくると猛然と暴れ出しそうだった。
望むところだった。マークはわざとらしく首を回した。軽く、骨が鳴る。
「よくも赤目とぬかしやがったな。この瞳はな、味方を守りぬいて死んでいった親父の形見なんだ。それを笑う資格は、てめえら脱走兵などにあるものか」
うるせえ、と男がつかみかかってきた。
飛んできた右拳をひねってかわし、膨らんだ腹に肘を入れる。命中した瞬間に手首をひねると威力が増す。亡き父親直伝の必殺技だった。体勢が崩れたところで、右の回し蹴りを入れた。巨体が壁までふっ飛び、完全に動かなくなった。
天井から下げられている燭台が小刻みに揺れ、床に獣脂蝋燭の染みを振り撒いた。
「ただの豚のくせに、いっちょまえに酒飲んで、くだなんか巻いてんじゃねえ。腸詰めに悪いと思わねえのか」
「野郎、ふざけやがって!」
男たちが一斉に立ち上がった。椅子が飛び、テーブルが倒れる。
止めに入ろうとした店員が、邪険に突き飛ばされた。床を踏み鳴らしてくる。突進しているようだが、暴れ馬よりも遅い。
走れば体が宙に浮く。どうか投げ技を教えてください、とすり寄ってくるようなものだ。
「けっ、ウスノロめが」
腕を取った。腰をひねり、巻き込むようにして投げる。壁に背中がめり込んだ。
二人目。腕が太くて長い。体の一歩半後ろを見る。残像がある。とらえた。拳を頭だけでかわし、みぞおちを実像ごと打ち抜く。口から泡を吹き散らし、膝から崩れた。
三人目。やや細身。足蹴りがくる。屈む。髪に風を感じた。跳ね上がる。肩で体当たりをかまし、仰向きに倒した。テーブルが壊れ、酒杯が転がった。
連中が一瞬ひるんだ。隙。逆に飛び込む。
殴って、蹴る。狙いをつける必要もなかった。必ず拳と足に、顔と体が当たった。股間にも入った。五人、六人と打撃を与えて昏倒させた。中には、泡を吹いているのもいた。
まだ十人はいる。あと二、三人倒したら逃げよう、とマークは思った。胸が晴れてきたし、剣でも抜かれるとうるさくなる。
ドアから、声がした。
「何をやってるんだ!」
開け放たれたドアの前に、レオンが立っていた。つっかえ棒を手にしている。立ち向かってくる男二人に速い打撃を与えた。棒が腹に入り、すねを捉えた。
「逃げるぞ!」
あいよ、と答え、二人で宿屋に向かって走った。場所は頭に叩き込んであるが、わざと遠回りして、何度も角を曲がった。動きに幻惑されて、相手はこちらを見失ったようだった。怒声と足音が、近くなったり、遠くなったりしている。
宿屋に飛び込み、ドアを閉めた。足音は、聞こえてこない。
息を整える必要はなかった。軽い散歩を終えた気分だった。えもいわれぬ爽快感もある。
不審がる主人に、銀貨を握らせた。こういった騒ぎは、何度もあるのだろう。主人は愛想良くうなずいて、厨房に消えていった。スープと酢漬けの匂いがこちらに流れてきて、自分が空腹であるのを思い出した。
大きな息を一つ吐いて、レオンが口を開いた。
「お前は、どうしてそう落ち着きがないんだ」
「とんでもない。おれは冷静だったぜ。自分でも驚くぐらいにさ。ちゃあんと把握したじゃないの。こんなかっちりと区切られた迷いにくい土地でも、オーク族はおれたちを捕まえられなかったわけだろう。つまり、土地勘がまだ働いてないってことだぜ」
見据えていた目が、かすかに上にぶれた。オーク族の連中は贋金造りに加担していない、とすぐに理解してくれたようだった。
「それは後知恵だろう。どうして騒ぎを起こすんだ」
「騒いでいたのは、オーク族のほうだ。おれはただ念入りに教えただけだぜ。世の中にはやっていいことと、悪いことがあるってさ」
「それは、おれが言いたいことだ。お前も街を歩いたのならわかるだろう。贋金の一件は、思ったより複雑な事情があるようだ。わざわざ警戒をされるような真似をするな」
突き出された細くしなやかな指の先に、渋くしかめた顔があった。眉間にしわが寄るところは父親似だろう、とマークは思った。卵型の顔つきは、母親似だった。やはり魔法使いである両親の血を引いている。
「アニキは物事を難しく考えすぎるぜ。どんな複雑な図形も単純な三角形の集まりに過ぎない、とバルラムのとっつあんも言ってるじゃないか」
「誰が積分法の講義を聞きたいと言った」
「あのねえ、アニキ。銀貨を握らせているからいいようなものの、一介の商人が積分法はないだろう? 怪しまれたのはお互いさまだぜ」
マークは、わずかに遠のいた黒い瞳を正面から見返した。傍から見れば、尊大な態度とうつったに違いない。背が低いぶんだけ、目を見て話すときに胸が反り、顎が突き出されるかたちになる。
外側から、小生意気なヤツだと思われているのはわかっている。しかし、間違ってもいないのに卑屈な振る舞いをすることもあるまい。
「とっつあんがいつも言っている誠実さとは、自分の心に正直になることだ、とおれは解釈しているぜ。自然に振舞うからこそ、怪しまれずに堂々と敵地に潜入できるんじゃないか。花売り娘さんが困っているのを助けるのも、弱いものいじめをするオーク族の野郎どもを懲らしめるのも、おれにとっては自然な振る舞いなんだぜ」
体が先に動くのは、生まれ持った性に違いない。しかしそれで構わないはずだ。いいものはいい、悪いものは悪い。その点では、銅貨も人間も同じだろう。
レオンは、肩で大きな息をついた。目の光はすこし和らいだが、白い歯をのぞかせた唇に口論の余韻を残している。どうやら振り上げた拳の降ろし場所を考えているようだ、とマークは察した。
「まあまあ、アニキ。過ぎたことはしょうがないじゃないか。歴史学者ならともかくさ、常に前向きに生きていかないと。セラとジェーガンの話を聞いて、これからの対策を考えようぜ」
「それは、おれが言いたいことだったんだがな。それにしても、おれはお前がときどきわからなくなることがある」
「何がさ?」
「性格がだ。短絡的な行動をとるようでいて、意外にしたたかでもある。剛直なようでいて、どことなく柔軟さがある。どうにも不可解だ」
「アニキはね、きっちりかっちりと考えすぎなの。いいかい、こう考えてみなよ。嘘をつかずに真っすぐに振舞っていれば、間違えるのはどうしたって心にやましいところがある相手側だろう。おれは生じた隙を逆手にとって、死線をかいくぐってきたってわけさ。アニキほどの腕力があれば、もう少し頭も回せる余裕ができるんだろうけど」
「ふん、ものは言いようだな」
「それよりさっさと二階に上がろうぜ。おれの機転を利用しない手はないだろう?」
レオンは苦い顔をして、階段に足を乗せた。
「偵察担当だったら、もっと的確な表現をしろ。お前のは、悪知恵だ」
どうやら渋々とはいえ、納得してくれたようだった。当然だろう。こちらの立場に置かれたのなら、同じ行動を取ったに違いない。誇りを持つ人間なら、絶対に譲れないものがあるはずだった。
どうも鼻の中がむずむずした。嫌な空気が流れている気がする。
これほどまでにムキになるのは警備隊長に頼られたからに違いない、とマークは読んだ。誇りを持っている人間は、総じて頼られると弱いものだ。とすると警備隊長とやらは、こちらに本音、もしくは理が通った話を語ったことになる。いくら公式な訪問とはいえ、初対面の人間にそこまで弱みをさらけ出すだろうか。
すべては二人の話を聞いてからだな、と先に行くレオンの背中を見上げつつ、マークも階段を上がった。
グードは、三階の事務室にいた。目の前の机には主人のヨルクが座っていて、蒸留酒をあおるように飲んでは、熟れた果実のような息を吐き出している。
商工組合の組合長が酒場を経営するのは、とりたてて珍しいことではない。旅人や商人の世話を焼くことで、誰も知らない諸国の情勢を、いち早く手にすることができる。採算を度外視しても、商売で十分に元が取れるはずだ。
階下から、用心棒の怒鳴る声が聞こえてきた。弁解するオーク族の連中を叱責しているところをみると、同族に違いなかった。巨漢で膂力に優れたオーク族は、用心棒こそふさわしい。
皆が苛立つ気持ちはよくわかった。街一番の有力者と自負する人間が、自分の経営する酒場に殴り込みを掛けられ、なおかつ逃げられたとあらば、面子が丸つぶれになったと考えて当然だった。
採用試験を邪魔されたが、店主をじっくりと眺める機会が生まれた。観察眼には自信があった。酒場でも取調べでも鍛えられている。
興味深い容姿だった。背が丸まっているのは、室内での仕事が長かったからと思われた。太いながらも、節くれだっていない指が根拠を補強している。寄り目がちで眉間に力を入れているような表情をしているのは、机仕事で細かい数字を追って目を悪くしたからに違いない。唇の端に、いまにも破れそうなかさぶたがあるのは、不摂生のつけが回ってきたといったところだろうか。
グラスを叩きつけるように置いたヨルクに、話しかけてみた。
「もう一度歌いましょうか?」
「いや、いい。そんな辛気臭い歌は一度聴けばたくさんだ。もっと明るい歌は歌えんのか。他の街ならともかく、ここは職工の街なんだぞ。酒場を湿っぽくしてどうする。二階の漬物樽まで腐ってしまいそうな歌ではないか」
「確かにここにはそぐわなかったかもしれませんね」
グードは率直に詫びつつ、にぎやかに飾られた室内を見回した。
白塗りの壁に掛けられている風景画は、どれも素晴らしいものだった。ただ、統一感がまったくない。緑の山々の隣に、雪に覆われた教会があり、さらにその横には枯葉が舞い散る林道の絵が掛けられている。だったらまだ、西向きの窓を作ったほうがよさそうだった。夕陽で赤く染まった山脈をフリーデルが見れば、口笛を吹き鳴らして賞賛することだろう。
四隅に置かれている壺もそうだった。大きさも色合いも装飾の派手さも違っている。まるで、金を持て余した人間が、仕方なく購入したといったような感じだった。
だとすると、少しおかしい。本業に精を出さず、体を壊すほど酒を飲んでいる人間が、なぜこのような高価な品物に囲まれているのだろうか。どれをとっても、辺境の商工組合の組合長が持てる品物ではないはずだ。
少し追求してみる気になった。幸いなことに、邪魔者は一人もいない。
「このようすだと、採用は無理なようですね。でしたら、用心棒などいかがでしょう?」
ヨルクはグラスを干し、再び蒸留酒を注いだ。酒瓶の底で、芋虫が踊っている。蒸留された酒精が上質のものである証拠だった。水で薄めてあれば、膨らんで、腐る。
「いくら紹介状を持っていても、それだけでは雇うわけにはいかん。路銀が尽きたというのなら、城壁修復の人員が不足しているから、そっちに行ってくれ。親方は日の出には西門に来ているし、夜なら建築小屋で打ち合わせをしているはずだからな」
紹介状があっても、得体の知れない人間を雇うつもりはない、と濁った藍玉のような瞳に書いてあった。ひどく酔っていても、そのぐらいの知恵は回るらしい。
内部に潜って証拠を固めていく手は、使えなさそうだ。ならば、この騒動を利用して、一気に片付けたほうが良さそうだった。正攻法で核心をつくほうが、性にも合っている。
「実は、本当は酒場で歌うよりも、幻惑草の取引をしたかった」
「な、なんだと!」
ヨルクは、激しく咳き込んだ。グラスから蒸留酒がこぼれ、絹服に染みを作った。
「値段はいくらだ? 値切るのはあまり好きじゃないから、一度で決めよう」
グードは机の上に両手を乗せて睨みつけた。口調も変えた。動揺しているのであれば機を逃さず、一気に押し込んだほうがいい。丸腰は、相手も同じだった。ならば、気迫で決まる。
「何をぬかすか!」
「隠さなくてもいい。おれは知っているからこそ、最初にこの酒場にやってきたんだ。紹介状でも効果がないなら、直接頼み込むしかないだろう」
ヨルクはいまいましげに口を拭った。使ったハンカチが、叩きつけた拍子に机の上から滑り落ちる。
「何を根拠にそんな戯言を!」
怒声をあげてはいるが、空虚な響きがあった。頼れる人間がいないせいか、顔が蒼ざめている。他人がふるう暴力で、己の力を維持し続けてきた人間が、取調室でよく見せる反応に似ている。
「貴様は幻惑草を取り扱っているんだろう。やましいことがあるから、身元のはっきりとした人間しか信用しない。いや、できない。官憲に追われるから、外にも出られない。ここは、贅沢な牢獄、といったところだな」
赤黒くなった顔が一瞬だけ引きつった。しかしすぐに消え、余裕の笑みが浮かんだ。
「ふん、そうか。内務省の人間だったのか。道理で幻惑草に執心しているわけだ。だが残念だったな。幻惑草の捜査は打ち切られたはずだ。なぜかは知らんがな」
「うちの内部事情に詳しいようだな。知る必要があった、と膨らんだ顔に書いてあるぞ」
「仮にわしが幻惑草を扱っていたとしても、拘束はできないはずだ。内務省から許可をもらって来い」
「あいにくだが、おれは休暇中でな。内務省の命令に、従う理由はない」
机を回り込もうとしたときに、背後から野太い声が掛けられた。
「おい、なにをやっていやがるんだ、てめえ」
戸口に用心棒が立っていた。巨漢で、目が鋭い。腹も引き締まっている。体格もこちらと同じくらいだった。丸腰なのは、自信の現れかもしれない。下の連中とは格が違う、とグードは計った。ただ、鼻のつぶれ具合からして、技巧よりも腕力に敬意を払うたぐいの人間だと思われた。
訓練の一環として、お互いを殴り合わせる訓練がオーク族にはある、と聞いていた。互い違いに殴らせることで、打たれ強さと闘争心を鍛える目的があるようだ。
「代わりの用心棒だ」
「本当かい、ヨルクさん」
疑わしそうな視線を受けたヨルクは、真っ赤になって叫んだ。
「そんなわけあるか! さっさと叩き出せ!」
「了解。賢明な選択だ」
用心棒は身構えつつ迫ってきた。グードも構えて迎え撃った。左が二発きた。体重が乗っていない。牽制か。右にかわして、左を放つ。顔に入った。
しかし、左から腹にくらった。顔は囮らしい。もう一発右からくらう。息が止まった。
崩れそうになるのを懸命にこらえた。手が組まれ、振り下ろされた。後頭部。目がくらんだ。胸倉をつかまれた。右に拳。顔がしびれる。壁際に飛ばされた。
近づいてきた。あたりに目をやる。壺。手にして足元に投げる。澄んだ音がして、砕けた。うなり声が追う。脛に入っていた。前のめりになり、隙ができた。
突進した。左から顔を殴る。もう一度左。唇から歯が飛んだ。体をひねって体重を掛ける。右を打ち込む。巨体が転がった。踵で思いきり腹を蹴った。一回跳ねて、動きが止まった。
勝った。そう思った。長い息を吐いて、呼吸を整えた。
「ヨルクよ。もう守ってくれる人間はいないぞ」
グードは机を回り込み、襟首をつかんで持ち上げた。腕に力を込め、首を締め上げる。赤かった顔から、またたくまに血の気が失せていった。
「さっさと言え」
「わしは、取り扱ってない。なんなら、店じゅう調べてみろ」
「いいや、取り扱っているはずだ。貴様の店から出てくる花売り娘の籠の中に、幻惑草の花が混ざっていたぞ。可憐な花だから売れると思ったんだろうが、その強欲さが仇となったな」
顔がより青白くなったのは、締め上げたからではないはずだった。この男は何か知っている。
「げ、幻惑草の花だけならば、持っていても罪にならない」
「花盗人のようなことを言うな。幻惑草は、どこで栽培されている?」
胸倉を掴んで揺さぶった。グラスが倒れ、酒が机からこぼれ落ちていく。
「知らん。知るものか」
「では、死ね。ここの警備隊には、酔っ払って窓から落ちたと報告しておく。ここは三階だから、頭から落ちれば、貴様の太い首であっても骨は折れるぞ」
「わ、わかった。話す。西門を出て、まっすぐ行ったところだ!」
「西というと、山脈に向かう道だな?」
「そうだ、早く放せ!」
ヨルクを椅子に放った。はずみで腰を打ったらしく、顔が苦悶でゆがんだ。
「今のうちに、助かる算段でもしておくことだな」
部屋を出ようとしたところで、下にいたオーク族の一人が戸口に姿を見せた。用心棒の変わり果てた姿に目をやりながら、口を開けたままで固まっている。
「こいつは丸腰だ、殺せ!」
かすれた叫び声を受けて、目が見開かれた。右手が、剣の柄に伸びる。
グードは、すばやく股間を蹴った。うめき声があり、体が折れ曲がる。逆に柄をつかんで剣を抜く。振り上げ、肩に下ろす。剣の腹が当たった。枝のような感触が伝わる。骨が折れたようだ。さらに体勢が低くなる。顔面を左から蹴る。右に飛んで、頭から壁に当たった。ひび割れた板を見つめるように、ゆっくりとずり落ちていく。
気を失ったのを見届けてから、おもむろに振り返った。震えるヨルクが視界に入る。金箔のように薄い虚勢がはがれ、小心さがむき出しになっているようだった。グードは上層部の人間たちを思い浮かべた。連邦に巣くう木食い虫とは、こういった輩のことだ。
「ま、待て。落ち着け」
「貴様が勝手に取り乱しているだけだ。確かに内務省の内部規定には、被疑者の虐待を禁止する項目がある。だがそれは、あくまでも通常の場合だ。いわれなき攻撃に反撃してはいけない、という規則ではない。意味はわかっているな?」
ヨルクは武器になりそうなものを探しているようだった。無駄な行為だ、とグードは思った。絵画は役に立たないし、磁器製の壺や彫像は重過ぎる。
すぐに、顔をこちらに向けた。とっさに何か妙案を思いついたのだろう。おびえた表情は消え、むしろ逆に厚い唇の端は吊り上ってさえいた。かさぶたが切れ、血がにじんでいる。
「わしを殺すと、お前も困ることになるぞ」
「どういう意味だ?」
「お前は一人でここに来ている。ならば、わしが幻惑草のありかについて嘘を言っていたとしても、裏を取ることは出来まい。どうだ?」
言った意味がわかった。単独で追跡をしていれば、栽培場所の確認をしに人をやるわけにはいかない。またたとえ本当だったとしても、こちらが立ち去った後に、大急ぎで自分たちが関与した証拠の隠滅を図るおそれも考えられた。
グードは足を進めた。気にいらん、と思った。置かれた立場をわきまえず、主導権を奪い取ろうとする小賢しさが鼻につく。
「貴様に人質の価値があるとでも思っているのか?」
「一体、なにを聞いているんだ。わしを殺すと幻惑草のありかがわからなくなると言っているだろうが!」
いいや、とグードは軽く首を振った。
「おれはすでに栽培地のおおよその位置はつかんでいる。女に優しく、口がうまい男が同僚にいてくれたのが大きい」
単独で来ているわけではない、とヨルクは理解したようだった。唇の端から小さな泡が飛んだ。
「花売り娘の言うことなど、あてになるものか!」
「それだけではない。幻惑草は日当たりのいい乾燥した斜面に生えるものだ。だから、おまえの言う西側が一見正しいように思える。しかし、西門から山脈の稜線まで、フィルスの統治権が及ぶ地域だ。そんなところで幻惑草を栽培したら、貴様らの関与が真っ先に疑われるだろう。大掛かりな犯罪を行うのであれば、複雑な領土問題を抱えていて、司法権が及びにくい場所が最適となる。となれば、コロンブエ山脈の中央部近辺に絞り込める。正解は、伐採所に続く北門だ」
「わかっているのならなぜ、わしのもとに来たんだ。そのまま向かえばよかろう!」
「貴様はわかってないな。いや、わかろうとしたくないといったところかな。おれは幻惑草の調査に来ているわけじゃない。犯罪組織の撲滅に来ているのだ。いくら場所をつきとめて焼き払ったとしても、腐りきった人間がいる限り、被害はなくならない」
剣を握りなおしながら、ゆっくりと歩を進めて行く。外では騒動が続いている。人がくることはなさそうだった。
寄り目がちの目が、大きく見開かれていた。こちらのやることを理解したらしい。椅子から立ち上がろうとして、崩れ落ちた。腰に手を当て、顔をしかめている。
「貴様は大罪を犯した。罪深い過去は、絶対に拭い去ることはできない。変えたければ、生まれ変わるしかない。おれに剣を渡したのは、愚挙の結果ではなく、贖罪ゆえと思ってやろう。それなら少しは気が楽になるだろう。もうすぐ、本当に楽になれる」
ヨルクは、のどを鳴らした。慌てた豚がいる。グラスが飛んできた。頭だけでよける。壁に当たって割れた。酒瓶も割れた。ペン立ては、よけるまでもない。
「く、来るな!」
「貴様を見ていると、昔の領主を思い出すよ。やむなく棺を開けようとする父を、馬上から食屍鬼と嘲った男だ。贅沢と酒が好きなところも、肥え太っているところもそっくりだ。やつはそこそこ大物だったから追放だけですんだが、貴様をかばう人間はもうここにはいない」
グードは剣を首筋に当てた。震えが柄を通して伝わってくる。
腹の底が熱くなった。しかし、また一瞬で消えた。感情を殺して任務を遂行し続けてきた見返りだった。いかなるときも冷静でいられるのは、悪いことばかりではない。考えたことを、ためらわずに実行できる。
「ま、待て。やめろ!」
「ふくれにふくれて、腐ったとしても、率直に真実を伝えるぶんだけ芋虫のほうがましだな。今度生まれ変わるときに、よく神さまとやらにお願いをしておけ。おびえることもなく、好きなだけ酒が飲めるぞ」
グードは柄をしっかりと握り直した。
ゆっくりと、剣で挽くために。
レオンたちが部屋に戻ると、すでにセラとジェーガンがテーブルについていた。二人は商人として、別の宿をとっている。商談を装っていれば、第三者に気づかれることなく調査の打ち合わせができる。
ひとまずレオンは、警備隊司令室での会話を三人に話した。
「なるほどなあ、ヨルクってのが黒幕か。それならよくわかるぜ。贋金を流通させるには、それなりの力がいる。警備隊長の弱みを握っているなら、やりたい放題できるだろう。気に入らない連中は灯台下の牢獄に放り込めばいい。脱走兵のオーク族どもが、見張りも立てずに油断しきっていたのもわかるぜ。警備隊がかくまえば、捜索隊も手が出せないだろうし」
マークが噛むセルムの葉の匂いが、隣から漂ってきた。
「もっとも、ベックラーの言葉も引っ掛かるぜ。腹の底で考えているような会話が、気に入らない」
「ああ、言いたいことはよくわかる。しかしな、マーク。現実に合わせて問題に対処しようとしているとは考えられないか?」
調査の基本は、疑うことから始まるといってもいい。しかし信頼してくれて、率直に実情を話してくれた人間を疑うのは気が引けた。こういったときに、諜報部員を志願したのを後悔する。
隊長の言う通りだぜ、とジェーガンが口を挟んだ。
「贋金造りってのは、そこに利があってこそ実行するはずだ。退役近くの老兵がたくらむことじゃねえ」
そうですね、とセラは相づちを打った。
「無事に退役すれば、警備隊長の地位からいって、各地の傭兵組合の組合長にはなれるでしょうから。あるいはその上にも」
レオンはうなずいた。セラの見解が一番妥当な読みだった。さらに、銅山を発見して連邦政府に報告すれば、貢献度大と判断されて、より高い地位にのぼれるかもしれない。失敗してもともと、成功すれば見返りは大きい。ただの俗物だったとしても、こちらをそそのかして調べさせる価値はある。
しかし、考えたくはなかった。考えること自体、信頼に対する裏切りのように思えた。
まず、贋金の真相を解明するのが先決だ、とレオンは頭を切り替えた。
外はまだ、騒がしかった。二階の窓から見ると、体格のいい男たちが走っていくのが見える。顔つき合わせて話し合い、また散って行く。こちらの場所は突き止められていないようだった。
仮に突き止められたとしても、宿屋の主人がうまくあしらってくれるはずだった。荷役夫や酔っ払いには迷惑しているとこぼしていたし、告げ口しても銅貨一枚の儲けにもならない。
「しかし、ずいぶんとしつこい野郎どもだなあ。なあ、マーク」
「おれはオーク族の連中に、痛みを分かち合え、って友愛と平等の精神を教えてやっただけだぜ。そもそも警備隊は何をやってやがるんだ。商工組合の顔色ばかりうかがって、花売り娘一人守れねえとはよお」
「過ぎたことはもういい。ではセラから聞こう。市場と木材取引所の調査だったが」
「はい、隊長。市場では小麦、大麦、バター、乳製品、果物など、不足なく置かれていました。食料品は首都の三倍近い値段になっていました。ですが、東門から荷車が頻繁に入ってきていましたから、いくら値を吊り上げようとしても、これ以上物価が上がるとは思えません」
「銅貨はどうだ。贋金だったか?」
「取引の決済は、ほとんどが贋金でした。ですから、他の都市と比べて一概に物価が高いとはいえません。念のため両替商の店に行ってみましたが、お客はほとんどいないようで閑散としていました。店の中にいた人たちも両替をしているようすではなかったので、正貨との比較ができませんでしたし」
「贋金と真正銅貨との両替はしていないのか?」
セラはしっかりとうなずいた。
「業務は預け入れと引き出しだけでした。わたしが見たかぎりでは」
「工房を閉鎖された職工たちは、やむなく出稼ぎに出ている。こちらの家族に仕送る金銭は、両替商を経由して振り出されているはずだ。すると、やはり両替商が贋金に関与しているのか」
レオンは顎をつまんだ。両替商は、富裕で信用力のある商人しか経営できない。それほど大きくないフィルスの街で、力を持っている人間は限られてくる。商工組合の組合長。それしか考えられなかった。確か、ヨルクとか言う名前だった。
「木材取引所はどうだった?」
「製紙と染料に使う樹皮は山積みになっていましたが、木材そのものの取引は盛んに行われていました」
「支払いは贋金かな?」
「よくわかりませんが、商工組合が犯人だとすれば可能性はあります。筏に積まれた材木のようすから見て、大型帆船の船体用だと思われます。ですから、送り先のポーミラには、官営造船所があるはずです。そこに今回の事件の鍵があるのではないでしょうか?」
全ての大型船は官営造船所で建造されて、それから民間に貸し出される格好になる。国有財産にするのは、造船技術の漏洩を防ぐためと、非常時における船舶の徴発を容易にするためだった。
木材供給地の下流に造船所があるのは理にかなっている。そもそも船乗りたちは、危険の多い海洋での木材運搬をひどく嫌う。隙間に潜り込んでくる蛇やサソリに対する恐怖心もあるが、船が転覆したらまず助からないという絶望感のほうがはるかに強い。大きくうねる波に浮かぶ材木は救命具にならず、むしろ巨人が振り回す棍棒と化して遭難者に襲いかかってくる。
「なるほど。建造計画を中止するわけにはいかない、か。そして枢密院からは、銅板張りにしろとの勧告が出ている。銅材はいくらあっても足りないだろうな」
「官営ですと、木材の納入価格は政府が決めますから、ほとんど利益が出ません。そのぶんを銅で補填しようと考えてもおかしくはないかと」
レオンは得心した。あふれるほどの贋金が出回っているのに、他の都市に流れていかない理由がまた一つわかった。掘り出した銅で贋金を造っているのであれば、いずれ両替商の金庫は満杯になるはずだ。人知れず消費するには、どこかに持ち出さねばならない。
銅であれば何でも、下流の港町であるポーミラで高く売れるに違いない。正貨ならともかく、贋金を溶かして使うぶんには罪にはならない。
しかし、ひとつ疑問が残る。ならばなぜ、銅材そのものではなく、贋金を流通させているのだろうか。
ヨルクの立場ならば、そのまま銅を送り出したほうがいいはずだ。手間がかからないぶんだけ利益になり、貨幣となって戻ってくる。わざわざ贋金を鋳て、フィルスで回らせる意味がわからない。
三人に話すと、皆一様にうなずいた。どうやら贋金には、まだ奥がありそうだった。
レオンはひとまず話題を変えた。
「ジェーガン、お前はどうだ? 商工組合の取引所だったが」
「土台の修復に使うんでしょうが、古釘が値上がりしていましたぜ。それと大量の鉛が持ち込まれてました。大型の桶の中に、製本工房で使われていた鉛版活字が入ってました。不景気で工房が閉鎖されちまったから、売り払ったんじゃねえですかね。あれなら、ここらへんで採れる泥状の石炭でも溶かすことができますからね」
「古釘はわかるが、鉛はなんのために使うんだ?」
「外壁の補修のためでしょうね。石畳を引っぺがして当てれば、石を組み合わせる手間が省けますが、構造的にどうしても弱くなりますからねえ。知ってのとおり石垣の強さってのは、積む石の重さで決まるでしょう。ああ見えても、単純にはいかねえんですから」
石や金属のことになると、ジェーガンは得意げに説明する。
「ここは川に囲まれているでしょう。石畳のように間に隙間があると、上からの重みと下からの湿気のせいで、石垣の裾が妊婦の腹のように膨らんできて、ときには崩れちまうことがあるんでさあ。で、それを防ぐために、隙間に溶かした鉛を流し込んで埋めるってわけで。重さも増して安定するし、いいことづくめです。瀝青を塗りたくれば水にも強くなるんですが、急ごしらえでは仕方がねえかと。まあ、石灰でも詰めとけば、しばらくの間は鉛が溶け出すことはないでしょう。任務が終わったら、ひとつ口を挟んでやりますよ」
ちょっと待て、とレオンは慌ててさえぎった。まともに聞いていると、夜が更けてしまうおそれがある。
「おかしいな。木に囲まれた街なのに、どうして鉛を印刷に使うんだ? ポポリのような固い木もあるし、版木印刷で十分じゃないのか?」
セラがためらいがちに口を挟んだ。
「版木印刷は原版の保存もききますし、宗教書のような大量の需要には応じられる利点はあります。ですが、この地方にそれほどの人口はありません。そうなりますと、大学や図書館に収める書籍を扱っているはずです。僅かずつ用途に応じて刷るのであれば、活字のほうが適しているのではないでしょうか?」
「そういうこってすぜ、隊長。専門書であれば注文を受けてから、いちいち彫っていられねえ。黄蝋で固めた活字のほうが楽ってわけです。少ない部数を刷るだけなら、活字がずれずにすみますからね。鉛は安いし、加工が容易でインクのなじみもいいんです」
「しかし、鉛は柔らかすぎるだろう」
「ですんで、青銅をつくるように錫を混ぜて硬くするんでさあ。それと精製した吐酒石を忘れちゃいけません。こいつは固まると氷のようにふくれますんで、かちっとした活字ができますぜ。――おっと、おれとしたことが口を滑らせちまった。こいつはここだけの秘密にしておいてください。野郎ども、技法を漏らすとうるせえんですよ」
レオンは納得した。ドワーフ族は、仲間内で頻繁に技術交換を行っている。ジェーガンの説明に、なんら不明な点はない。
「なるほどな。それで、贋金はどうだった。流通していたか?」
そうそう、それそれ、とジェーガンは姿勢を正した。
「金属や鉱石は、戦略物資でしょう。不法な投機を防いで、安定した供給量を確保しなければならねえ。だから、流通量の少ない金貨で決済するのが常識だったのをすっかり忘れてましたぜ。こっちに贋金があるわけがねえ」
「なんだよ、ジェーガン。抜けてるなんて、お前らしくもないぜ」
「仕方がねえだろうよ、マーク。おれの専門は工作なんだ。契約したときもきちんと書いたはずだぜ。おれの担当は工作と地形探索だって」
「器用だって言い張るのなら、もう少し融通を利かせろよ」
二人のやり取りを聞きながら、レオンは考えをめぐらせた。
調査は順調に進んでいるはずなのに、実態がまったくつかめなかった。鉱物の決済に金貨が使われているとなると、商工組合が贋金を流通させる理由がわからなくなる。銅貨の価値を故意に下げれば、反動で食料品の値段は上がる。現にそうなっている。金貨の価値も相対的に上がるが、それは街の中だけの話だった。別にポーミラで売りさばいた銅の値段が上がるわけではない。
霧がたちこめた森の中にいるような気分だった。歩いて進んではいるものの、外へか奥なのか、どこに向かっているのか見当がつかない。
「なんだ、なにごとだ?」
マークの声で、レオンは我に返った。
周囲がより、騒がしくなっていた。足音はより慌しいものになり、あちこちで掛け声が聞こえている。
窓から外を見ると、警備兵たちが駆け回っていた。鎖の鳴る音が、波打って聞こえる。
宿屋の軒下に、兵士が入り込んだ。下で主人とやりあう声が聞こえる。激しているようだが、内容まではわからない。
しばらくすると、兵士が出てきた。なにやら首を振って、ここにいないと仲間に伝えているらしかった。やがて、集団で走り去っていった。
「おいマーク。お前、よっぽど相手に好かれているようだぜ」
「まったくだ。今度会ったら唇を奪ってやるぜ。この短剣でな」
「おっ、なんだおめえ。おれが打った短剣には、そのぐらいの価値しかねえってのか。そいつには隊長の剣と同じぐれえの鋼を使っているんだぞ。まったく資材課の連中に嫌味を言われながら打ったってのによお」
「だから使ってるじゃねえか。罠を解除したり、鍵を壊したりしてよ。けど、おれはやっぱり素手のほうがいい。鋏や剃刀よりも重いものは性に合わないな」
「そりゃあそうだ。いい道具は人を選ぶらしいからな」
「最高の道具は、結局自分の身体だと思うけどな。後世の人間はきっとこう言うぜ。偉大なる魔法使いのマーク様は、剣も鎧も身につけず、攻めかかってくる敵を端からなぎ倒しました、とな」
「偵察担当の工作員のくせに、有名になってどうすんだ?」
「だから後世の話だと言ってるだろうが」
「本名じゃねえマークが有名になるってのは、最後は敵に捕らわれるってこったな。それはそれは見事な散り際だろうな」
マークが言い返そうとしたとき、店主に聞きにいったセラが困惑した表情を浮かべて戻ってきた。
「なにが起こったんだ?」
「はい、隊長。どうやら、商工組合の組合長であるヨルク氏が、何者かによって襲撃され、傷つけられたとのことでした」
レオンは息を呑んだ。なにか冷たいものが、背中に滑り落ちてきた。襲撃されたのが組合長とは、あまりにも唐突な出来事といえた。
「ほうれ、見ろ。騒動は、おれのせいじゃなかったじゃねえか。やっぱり、正しいものは正しいんだよ」
ふんぞり返るマークを無視して、レオンは訊ねた。
「殺されたわけではないんだな?」
「はい。ですが、表情に切迫したものがあったと主人は言っていました。まるで、人殺しを追っているような感じだったと」
「もしかすると、暗殺かもしれないな」
ジェーガンが、太い首を鳴らさんばかりに傾けた。
「隊長。そりゃあどういうことですかい?」
「暗殺とは、完全に成し遂げてはじめて成功となる。負傷しただけと言い回れば、死亡を確認しなければならない犯人を足止めする効果が期待できる」
もっともそれは、周到に用意された計画にのみあてはまる。怨恨などの衝動的な原因によるものならば、犯人はすでに逃亡しているかもしれなかった。
「ちいとばかりうるせえことになりそうだぜ、アニキ。組合長が襲撃されたのなら、取引所での調査は難しくなる。用心して守りが固くなるだろうし。もしかすると贋金の証拠も消されるかも知れない」
待てよ、とマークが言葉を添えた。
「もしかすると、ベックラーの仕業じゃねえだろうな。おれたちを銅山の調査に出している隙に、証拠を消そうとしているとかさ」
「物事を穏便に済ませようとしている人間が、そんなことをするとは思えないが」
「でもさあ、警備隊はあいつの手下だろう。いくらでも理屈をつけられるじゃねえか。アニキが会ったそのすぐ後に、ヨルクが襲われたのもおかしい。不意の巡察で、相当焦っているのかもしれないぜ」
レオンは軽く頭を振った。マークの意見は不自然な気もするが、理にかなっているとも思える。疑問が多すぎて、混乱しそうだった。
ふたたび考えをめぐらそうとしたとき、外から大声が上がった。
「酒場で火事だ! 三階から火が出ているぞ!」
はっきりと聞こえた。さっきマークが暴れた酒場の方角からだった。どうやら犯人は、証拠を隠滅しようとしたらしい。そしてそれは、ヨルク殺害を意味した。本人が生きていれば、火が大きくなるまで放置するわけがない。
窓際に寄ったときに、さらなる怒声が重なってきた。
「北門から逃げた奴がいるぞ、追え!」
「いや、東門だ! 味方が倒されているぞ!」
声が同時に上がったのは、複数の犯人がいるからに違いない。だとすると、襲撃は組織的なものなのだろうか。指令の詳細を聞きたかったが、怒号に打ち消されてしまった。
慌しい外の空気に反して、室内は重苦しく感じられた。
雰囲気に抗うように、ジェーガンが切り出した。
「組合長は殺され、犯人はどこかに逃げた。どうやら追っていた糸は切れたようですぜ、隊長。これからどうします?」
「違った角度からフィルスを見てみるとしよう。なにか市街で変わった動きはなかったか?」
そういえば、とセラが手を上げた。切れ長の眼が、微かに丸みを帯びている。
「材木市場に行く途中でしたが、ゴブリン族の皆さんが北門近くの茂みで、樽から袋に牡蠣の貝殻を移しているのを見ました。なんだか慌てたようすでしたので、頭の片隅にとどめておいたのですが、役に立つでしょうか」
「ゴブリン族の皆さんときたか。お前は優しいな、あんなヤツらにさん付けするとはよ」
光のこもった青い瞳が、マークに向けられた。
「その言いかたはひどいと思います。荷役は危険な仕事ですから、どうしても言動は乱暴になりますが、普段は皆さんいい人たちですよ。店番をしていたときに頭を撫でてくれたり、手のひら一杯に干した果物を頂いたりしたこともあります」
育ちの良さのせいか、セラは決して人の悪口や陰口を言わない。赤みが映えた唇から出る言葉には、客観的な視点に立って考えるきっかけを与えてくれることもある。
「おれが枕元で聞いたのとはちょっと違うけどな。まあ、こっちを例外にしておくぜ」
レオンは軽く首を振った。マークが聞いた内容ならば、同じ魔法使いを親に持つ人間なら容易に想像できる。
ゴンドランド連邦軍が長期間遠征を続けられたのは、専門の輜重隊を編成できたためだった。連合して殺到してくる敵の外線作戦に対抗していくためには、行動範囲が制限されてしまう固定倉庫に、物資補給を依存するわけにはいかない事情があった。また、戦果を拡大するための追撃を徹底させるためにも、敵よりも優勢な機動力が求められてもいた。
ゴブリン族が輜重兵にもっとも適していた。農奴出身で読み書きが不自由だったものの、駄獣の扱いに慣れているうえに足腰が強く、さらに安い賃金で雇える点が決め手になった。
連邦政府が、農奴ゆえに専制君主を心底憎悪していたゴブリン族をうまく利用したとも解釈できる。拷問にかけられても敵に情報を漏らす心配がないので、伝令としても重宝したらしい。
ゴブリン族が乱暴者として嫌われたのは、陰で敗残兵狩りをしていたためだった。傷ついて抵抗する気の無い敵兵を集団で攻撃し、戦利品を奪いつくしたのは、真っすぐな気性のマークには許しがたい卑怯な行為と映ったに違いない。
当時の政府は黙許した。敵の戦力回復を防ぎ、迅速に戦役を終結させるための方便といえた。あるいは故意に目こぼしたのかもしれない。いざとなれば罪を蒸し返し、厳正な軍規によって、処断することもできる。そうなれば一般兵士のように、当時は限られていた開拓地を退役時に払い下げてやる必要もない。
戦役が終わると、当然ながら輜重隊は削減された。しかしゴブリン族は困らなかった。兵士としては冷遇されたが、荷役夫としては重宝された。口の堅さが信用となり、高級品や政府の物資を運ぶには欠かせない存在となったからだ。
レオンは再び話題を戻した。
「荷物が貝殻ということは、そのゴブリン族は東のポーミラから来ていたわけだな。わざわざフィルスまで荷物を持ってきながら、市場に一番近い場所でこそこそと移し変えるというのも変な話だ。まるで誰かに追跡でもされているかのようだな」
うんうん、とマークが相づちを打った。
「荷車で運ぶのなら据わりのいい樽が便利だが、担いで運ぶとなると袋のほうが軽いだろうぜ。となるとだ、市場に持っていかずにどこかにこっそりと運ぶという線が浮かんでくるぜ、アニキ。荷車の場所から考えると、北の伐採場になるけどな」
「ありえるな。木々が密生していたから、上からでは見つけられなかったのかもしれない。翼竜の上でセラが言ったように、伐採場に仲買人が行かないとなると、道を使う連中は限られてくるから、隠して運ぶのには好都合だな。しかし貝殻に、隠すほど大事なものがあるとは思えんが。いったい何に使うのだろうか?」
「野ネズミの食害から若い木を守るために、焼いた牡蠣殻を石炭と一緒に使うと聞いていましたが、態度からいってそれはなさそうですね。不正といえば、パンやミルクを水増しするために、貝殻を焼いた石灰を混ぜることぐらいしか思いつきません」
ジェーガンがヒゲで埋もれた顎を振った。
「それはないぜ、セラ。いくら犯罪でも、こそこそとは運ぶほどじゃねえ」
「石灰には、それほど多様な使い道があるのか?」
「ええ、隊長。焼けば乾燥剤にもなるし、土の質も変えられるし、確か染物の色落ちを防ぐのにも使える優れものでさあ。どれもこれもフィルスには必要なものでしょうが、それだけに引っ掛ってきますぜ。さあて、他の使い道は、と」
しばらく物思いにふけっていたジェーガンの顔が、憤怒の形相に一変した。茶褐色の目に、強い光が宿っている。
「おい、みんな。贋金を見せろ。古いのじゃなくて、できるだけ新しいやつだ」
セラが差し出したのをひったくるように奪い、持ってきた古い贋金と比べ始める。
大きさは、どちらも同じだった。しかし、厚さが微妙に違っている。何枚も比べたが、同じだった。新しい贋銅貨のほうに厚みがある。
念のため、借りた天秤で重さを量ってみると、ほぼつり合った。大きさも重さも同じで、厚みに差があるのは、贋金そのものの質が異なっていることになる。
ちくしょう、とジェーガンが咆えた。テーブルを叩き壊さんばかりに、殴りつける。
「いつの間にか銀が抜かれていやがる。てっきり、新しいから質が良く見えただけだと思っていたぜ。焼いた貝殻と鉛とで銅から銀を抜く技術は、ドワーフ族の秘法だぞ。ゴブリン族の野郎どもめ、よくも盗みやがったな!」
「落ち着けよ、ジェーガン」
マークが肩に置いた手を、ジェーガンは邪険に振り払った。
「まだ犯人がゴブリン族とは限らない。舎密開発局が裏で動いている噂があると、局長室でおれの親父が漏らしていた」
「なんですって? あの錬金屋どもが関係してやがるとでも?」
「断言はしていなかったがな。しかし、考えてもみろ。贋金がこの近くで造られていることは、すでにわかっている。ところが周辺の石炭の質は悪く、鉛はともかく、銅を溶かす火力は得られないはずだ。冶金技術に長じたドワーフ族でも不可能なのに、ゴブリン族にできるわけがないだろう、違うか?」
ジェーガンの目から、強い光が失せた。長い吐息の後で、怒らせていた肩がすっと落ちた。体がしぼんだようにも見える。
「隊長。銀が抜かれていたのであれば、逆にその行方から考えてみたらどうでしょうか?」
「どういうことだ、セラ?」
「抜いた銀を良質な炭と交換すれば、わざわざ商工組合を通さなくてもすみます」
「今回の件には隊商が関わっていると言いたいわけだな。そうなると、逆に山脈西側が怪しくなる」
その通りかもしれない、とレオンは思った。準備室でジェーガンが指摘したように、隊商はかさばる荷物を嫌うというのは道理だ。しかし、銀塊を見せれば取引に応ずるかもしれない。なにより支払いが銀塊ならば、大陸中央部以西に贋金が出回らない理由が説明できる。
持ってきた地図をテーブルに広げ、指をフィルスに置いた。
「セラの指摘した線で動いてみよう。北門から逃亡した犯人を追って警備兵が動いているだろうから、いまゴブリン族を追うわけにはいかない。ベックラー警備隊長が犯行に関与しているかどうかに関わらずだ。行けば我々にとって好ましからざる状況に陥るおそれがある」
「警備隊長が贋金造りに関与していれば、口封じのために我々を背後から襲撃してくるおそれがありますし、関与していないとしても見つかれば、襲撃の犯人と間違えられる可能性があります。結果的に警備隊長と私たちの関係が悪くなるだけですね」
「その通りだ、セラ。いまはいらぬ刺激をしたくない。だから、お前の言った策について考えていこう。ひとくちに山脈西側といっても広すぎる。まずどこに向かうかだが」
「そういえばオーク族の一人が、集落の警備がある、ってぽろっと言ってたぜ。コロンブエ山脈の中央部ってことはこのあたりだろう」
マークが勢いよく山脈の中央部を指し示した。連なる山々が砂時計ようにくびれている箇所に、集落らしき地名が書き込まれた跡があった。漏斗のように水が集まるためか、近辺は深い森になっている。ところどころ小さな沼もある。
ジェーガンが、掴みかからんばかりに怒鳴った。
「それを何で早く言わねえんだよ!」
「こんな状況じゃあ、すぐには動けねえだろう。それに、関係ねえ連中の、裏も取れねえヨタ話でもあったことだしな」
レオンは、果てしなく続きそうな二人の口論をさえぎった。
「わかった、もういい。今度は外側から贋金を調べてみようじゃないか。捜索対象は、コロンブエ山脈中央部西側だ。今夜半、街の混乱に乗じて、ひとまずフィルスを抜け出すことにしよう。警備隊長の承諾は取ったが、事態が事態だけに隠密に行動しなければな」
「ここに残りたいが、どのみち外出禁止で人ごみにまぎれて動くわけにもいかないし、しかたねえか。おれたちは直々に依頼されているんだから、堂々と門から出てやればいいさ」
「そうですね。これ以上ここで情報を集められないのであれば、ひとまず離れたほうがいいかと思います。では、わたしたちも宿屋に戻ります」
セラに出発準備を促がされ、ジェーガンは嫌々といったふうに立ち上がった。
「錬金屋どもに、銀が抜けてたまるか」
髭に覆われた口から、ぽつりと言葉が漏れた。
レオンには、出自のドワーフ族を誇っているようにも、犯行を疑っているようにも聞こえた。