第二章 明日を見抜くもの
第二章 明日を見抜くもの
ゴンドランド連邦の首都フォルトファーガは、南大陸の中心部よりやや北に位置する大都市である。街の中央を縦断するかたちで大河が流れ、二つの旧市街を結ぶ大橋を基点とする街道が東西に伸びている交通の要衝でもあった。放射状に街道が伸びていないのは、連合した敵が殺到してこないように工夫されていた動乱時代の名残といえる。
南大陸統一によって、不要になった防壁は取り壊され、水制に偽装した対水軍防御陣地は埋め立てられて倉庫街となっていた。下流には沃野が広がっているが、水運が発達しているぶんだけ道が少なく、街は横長に発展している。もっとも街の東南に寄っている兵部省の周辺がいまだ閑散としていて、乗合馬車の路線から外れているのは、建物が持つ由来のせいでもあった。
任務を終えて帰還したレオンは、裏門を守る衛視にさりげなく自分の番号を告げ、七宝焼きの首飾りを受け取った。飾り部分の模様が、諜報部員の身分と階級を示している。
これで出入りの料理人の身なりで歩き回っても、余計な誰何を受けずに済んだ。取り囲む外壁は高く、一度入れば外部の人間に正体を見破られるおそれはなかった。
まだ朝方だけあって、演習場から聞こえてくる儀杖兵の点呼の声には張りがあった。薬草園からは、湿っぽく青臭い匂いが漂ってきている。
兵部省本館は、焼きレンガ造りの堅牢な建物である。王政時代の監獄を改造したものだったが、地上部分は貴族が収監されていただけあって、部分的には瀟洒な雰囲気すら漂っていた。
行き先の資料部統計調査室は、表玄関から見て一番奥の部屋に置かれている。言い換えれば、裏門にもっとも近い場所にあたる。同じような活動をしている戦略情報部や情報分析部は表玄関近くの二階に置かれているので、間借りをしているような錯覚にとらわれることもあった。
「ノックぐらいしたらどうなんだ、レオン?」
ドアを開けるとすぐ、統計調査室長のバルラムから叱責された。近づく足音で判断しているようだった。杖を持っていなくても、足をかすかに引きずってしまう癖がついている。
「誰が来るのかわかっているならいいじゃないか。知らぬ仲でもあるまいし」
レオンは大股で執務机の前まで歩み寄った。部屋は模範囚の独房だったところで、採光は悪くないが、それほど広くはない。もっとも使っているのは一人だし、客をもてなす必要がない部署だから、余計な調度品など邪魔なだけだろう。気難しい陶工が叩き割った皿を思わせる世界地図だけが、くすぶった色合いの壁に貼られている。
「ところで内務省の仕事はどうだった?」
「たぶん成功したぞ、親父」
本当はバルラム室長、と呼ばねばならないことになっている。しかし、部外者がいないのに実の父親を仮の名前で呼ぶのも変な気持ちがした。だからあだ名にもなる親父と呼ぶようにしていた。
頭を剃りあげているので、書類に目を落としていても、眉間にしわが寄るのがわかった。黒い毛虫が動いているようでもある。
「確率で成果を報告するとは、お前らしくないな。いったいどんな賽の投げ方をした?」
バルラムはようやく走らせていた葦のペンを止めた。反応が一呼吸遅れたのは、親父と呼ばれたからではないはずだった。おそらく息子へのねぎらいよりも、職務を優先させようとしたのだろう、とレオンは見てとった。
丸みをおびた顔が上げられた。底光りのする黒い瞳が、詳しい説明を促している。普段は陽気で柔和そうな顔をしているぶんだけ、ふとした拍子に見せる眼光の鋭さがきわだつともいえた。統計資料を探してかび臭い地下を歩く姿は、炎と心の具合によって、酒場の亭主にも悪霊にも見えることだろう。
仕方なく、これまでのいきさつを話した。最後のグードとのやり取りだけは、省いた。とりたてて重要なことでなかったし、気恥ずかしくもあった。
聞き終えると、バルラムは目をつむった。太い腕を組んで、頭を前後に振るのは、熟考のしるしだった。しばしの沈黙ののち、厚みのある唇を開く。
「お前が相手を処断するのを監視していたとしか考えられんがな」
「四人と一線を引いていたようだし、それも考えた。しかし、監視するだけなら、陰に隠れて見ていれば済むことだ。わざわざおれの前に出てくることはないだろう。正体を知られて得をすることはないはずだ」
「内務省がわざわざこちらに任務を依頼してきたのは、どうしても自分たちで処断できない微妙な事情があったからだろうな。もしお前が失敗してことが公になれば、内務省だって困るに違いない」
「つまり、こういうことか。おれが失敗したとしても、後ろから四人をまとめて斬り捨てることができる。だから流しの吟遊詩人の一味として加わっていたということか。こっちの能力を疑われているのは、はっきりいって心外だが」
レオンは軽く首を振った。確かに納得できる点はある。全てに余裕ぶった態度もそうだし、四人を倒したときに感心したのも、手間が省けたからと考えれば変ではない。
グードが新参者だったから、いきなり名前を明かされたのかもしれない。陰で動く内務省の人間にしては、愚劣きわまりない行動だったが、悪事に加担させるための狡猾な策略だと考えれば理にかなう。鋭い舌打ちも、逃がさぬとの意図を見抜いてのことかもしれない。
長い外套を着ていたのは、剣を隠すためだと思っていたが、もしかすると返り血を防ぐためだったとも考えられた。
ただ、違和感があった。杖術を使ったときに初めて魔法使いだと見抜いたところだ。監視するのであれば、刺客の正体ぐらい事前に把握していなければなるまい。
絶対的に優位な体勢にありながら殺して口を封じようとしなかったのは、処断したら自分の不利になると判断したのかもしれなかった。興味もなさそうな魔法の話題で時間を稼いだのも、警備隊の巡回時間を測り、追跡を断念させるためだったとしか思えない。
グード自身が、何か複雑な事情でも抱えているのだろうか。とにかく、こちらと同じくあまり愉快な立場にいるわけではなさそうだった。
「物乞いとして歩き回っていれば、世の中は水車のようにきれいごとだけでは回っていかない、とは嫌でもわかるんだが、それにしても内務省の連中のやりかたはきついな。情のかけらもない」
「人口の半分の道義心は、平均以下に決まっている。役人とて例外ではない。それに内務省の方針は、体制の堅持にある。そうだろう?」
レオンは渋々うなずいた。ゴンドランド連邦は、多くの国が統合されて誕生したものだった。ゆえに、政府の方針は全民族の総意に沿ったものでなければならない。効果が薄い最大公約数的な政策であったとしても、決定は常に最善で正しい。少なくても表向きはそうなっている。間違いがあれば問題ごと消し去り、初めからなかったことにもする。暗殺や粛清も、政治手段の一つと考えているふしがある。
「まあ、この件に関してはひとまず置こう。今度依頼者と会食するときに、それとなく問いただしてみるさ」
バルラムはマルマロの葉巻を手に取り、ゆったりした動作で火をつけた。二、三度ふかすと、甘ったるい香りがあたりに漂う。芳香とは言いがたいが、地下で灯される獣脂蝋燭の匂いよりはましだった。
諜報工作員として密林で作戦行動していた時代に、ヒルを焼き落としたり、虫を追い払うために吸っていた習慣が常習化したわけだ。水出しした葉の汁は、匂いがきついだけに蛇除けにも使える。
「さて、より大切なもう一つの任務について、報告を聞こうか」
問われたレオンは、一枚の銅貨を机の上に投げた。軽やかな音を立てて統計書類の上を踊り、月桂樹の葉がある面を見せて止まった。眠たげな初代執政官ヴェルデーの横顔が中央にある。
贋金だった。
ゴンドランド連邦の硬貨は、偽造を防ぐために重ね打ち、すなわち二度打刻されている。一枚の金型だけでは決して出せない、独特の文様が浮き上がる貨幣は、良質なうえに信用が高いので、北の大陸でも通用するほどである。
机の上の銅貨は、全体的にぼやけた印象があった。使い込まれているせいだろうか、すでに銅本来の輝きはなく、表面はくすんだ色をしている。しかし、月桂樹の葉と茎をつなぐ線が切れていたり、執政官の瞳が消えかかったりするほど、腐食や磨耗による劣化は起こらないはずだった。
縁には削った痕跡があった。悪徳商人が利ざやを抜くためにするごくありふれた手口だが、金貨や銀貨ならともかく、価値の劣る銅貨で重罪をこうむるような危険を冒すとは思えない。何らかの理由でいびつになり、便宜的に丸く形を整えたためと考えるのが自然だろう。
つまり、打刻ではなく程度の低い鋳造によって偽造されたものだと、専門家ではないレオンにもすぐに見抜けた。
「大陸東側の街で手に入れてきた。ようやく一枚だけだけど」
物乞いに成りきったもう一つの理由が、贋金の収集だった。贋金を使うことにためらいがある人間でも、物乞いになら与えられる。これほど密かに収集するのに適した職業はない。
「物乞いでもなかなか手に入らないとなれば、正貨に比べてそれほど市場に出回ってないと考えられるな。それならまだ、手は打てるというわけだ」
「しかし贋金の調査は、財務省の贋金対策課の領分だろう。上層部の指示を受けずに僭越な行動をとると、あとで不利な立場に立たされるんじゃないか」
「贋金対策課の出番はない。財務省が黙認すると決めたからだ。変だと思って、私が独自に統計を念入りに調べてみたところ、おかしな点が見つかった」
「こっちは命を掛けているのに、ずいぶんと暇で、結構なことだ」
「嫌味を言うな。いくら欺瞞のためとはいえ、統計調査室長は決して閑職などではないぞ。統計表の数字は、いわば占星術師の水晶やカードであり、医者にとっての脈と同じだ。金銭の流れを見れば、連邦全体が抱えている問題がわかる。これを見てみろ」
バルラムは引き出しから出した書類を机の上に撒いた。一番上の書類には、商工連盟が発行している商品市場相場が書かれていた。上昇している銅材の値が目に入った。
「そういえば、中央海に出没する海賊を完全に掃討するまで、海域を航行する軍艦と商船の船体を銅板張りとする枢密院勧告が出たばかりだったな。価格の上昇は、元老院で可決されるのを見越しての駆け込み需要の影響だろう。それがどうしたんだ?」
思えば、妙な決定ではあった。船体に銅板を用いるのは、火矢による延焼と、体当たりによる破損を防ぐためだ。しかし、北方大陸では軍事的な緊張が続いていて、どの国も私掠船を差し向けてくる余裕はない。襲撃してくるのは純粋な海賊だけだ。
海賊は、積荷を狙う。粗暴な襲撃をして船を沈めても、利益にならない。
銅板張りにすれば船足が遅くなり、かえって連中に捕捉されやすくなる。火矢を防ぐだけなら、水で濡らした厚手の布や、獣皮で船体を覆えばすむ。
それに商品の回転が悪くなって経費がかさむ。櫂を使って進むガレー船は軍艦に用いられるほど速度が出るが、船底が浅くて大量の荷物を運べない。
人件費の問題もある。漕ぎ手は最下層の船員といえども、奴隷のように口にコルクを詰めたうえに、鞭打たせてオールを漕がせるわけにはいかない。といって、軽くてかさばらず値段が高い染料、香料、香味料、毛皮に絹織物のような商品に特化はできない。食料や生活必需品の安定供給は、統治の絶対条件でもある。
枢密院の勧告に従うと、北の大陸の商船には対抗できなくなる。商戦で負ければ税収も落ち込み、不景気を拡大させるだけだった。
どう解釈しても不利は否めない決定を、よくも下したものだと憤りを感じていた。
「歴史の年表ばかりでなく、もう少し数字に敬意を払え、レオン。先物市場の相場を見てみろ」
「敬意はともかく、注意は払っているつもりだよ。諜報活動の九割は、公開されている情報の収集だろうし」
歴史も統計も、過去の蓄積に他ならない。過去を知ることにより未来を予測でき、今日から明日への道のりが見えてくる。極論かもしれないが、占星術も統計の一形態に違いない。
あらためて下にあった先物相場表に目を通した。短期決済ものは急騰していたが、長期ものは値を戻していた。需要と供給の関係で決まる商品相場と違い、先物市場は思惑で動くこともある。市場は冷徹に、世間知らずの元王族や自治領主たちの社交場である枢密院の無能ぶりを非難していた。
「わかったよ。つまり、元老院で否決される公算が大きいと判断して、先物を売っている人間が多いわけだな」
「そうだ。しかし真の問題は、工芸省が出している鉱山統計と民政省の逓信運輸費消予算書、それに商工連盟が発行した地域別の食肉価格表にある。一見すると全然関係ないように見える。だが、二十二年もわたしの息子として生きていれば、なにを言いたいかぐらいはわかるだろう?」
レオンは赤線が引かれている部分にさっと目を通し、軽くうなずいた。逓信運輸費消予算書に書かれた飼料の数量は、どう解釈しても鉱山局が保有している牛が消費する量より少ない。 さらに、農村近くの都市の食肉価格は平均値を明らかに下回っていた。
去勢牛は馬よりも歩みが遅いが、さほど手間がかからないうえに、一度に大量の貨物を運べる。武器や兵糧、それに鉱石などの運搬には欠かせない生き物だった。本来なら躍起になって農村から調達しなければならないはずの去勢牛が、食肉用に回されていると数字が示していた。
銅の産出量が水増しされているようだった。銅山の廃坑が続いているとは聞いていた。いくら私有化を認めて鉱業を育成する方針を打ち出そうとしても、鉱脈そのものが枯れていたのでは意味がない。銅は戦略物資でもある。割拠する国家が火花を散らしあっている北方大陸からの輸入は、無理な相談だった。
鉱脈が枯れてしまえば、鉱山局の必要はなくなる。だからあらゆる手を使って産出量を保っているかのように見せたかったのだろう。一定量の穀物が必要な馬車馬と違い、牛であれば街道の草を食べさせて経費を削減したと言い逃れられる。産出量の減少を突かれれば、銅鉱石の質の低下が原因と主張すると容易に予想できた。
民間の商工連盟はともかくとして、政府統計を作成する役人たちは、保身のために数字の整合性と連続性を重視する傾向にある。誤謬に対する抗弁が容易になるからだった。だいいち鉱山局の連中が、自分の部署の予算が削減されるような数値を進んで公表するわけがない。
部分を見ると誤る。だから全体的な視野で物事を判断しろ、と見据えてくる瞳は語っていた。
「わかったよ、親父。いずれ銅は供給不足とわかって、価格が暴騰するわけだな。そのとき、先に安値で売っていて、高値で買い戻さなければならない投機家たちは大損というわけか」
「数字を軽蔑するような人間が、首に何を巻きつけようとも知ったことではない、と断言できれば、少しは気が晴れるのだがな。投機家たちが、大なり小なり市場の安定化に貢献しているのは動かしがたい事実だ。彼らがいなくなれば、思惑によって相場が動かされかねん。そうなると潤うのは、利益のためなら敵と手を結ぶことを厭わない人間どもだけだ」
紫色のたゆたう煙の向こうに、バルラムの苦々しげな顔があった。どうやら、元老院と枢密院の間に、暗黙の了解があると言いたいようだった。大勢の資産家が手を組めば、相場を操作できる。
「不愉快な話はこれぐらいにして、贋金に話を戻そう」
「財務省が反対するのはこういうことかい。銅材が供給不足で高騰すると、銅貨は造れば造るほど赤字になる。それなら、市中から贋金を強制的に没収して銅貨を造り直したほうが財政的には助かる。掘り出す手間が省ければ、少なくても赤字にはならない」
論点がずれているような気がしたが、それ以上財務省が捜査に反対する理由が思いつかない。
葉巻が灰皿に置かれた。見上げる眼光が、少し和らいだように思えた。
「思惑があるのは、財務省だけではなさそうだ。工芸省が影で動いているとの噂がある」
「工芸省? すると舎密(化学)開発局の連中かな。どうして、錬金術師の連中がでしゃばってくるんだ。鉛から金を生み出せないからって、贋金に手を染めるわけでもないだろうに。まあ、魚くさい人造バターをつくったぐらいの功績では、財務省の機嫌はとれないだろうが」
「黒幕と呼ばれるとは、錬金術師たちもかわいそうなことだ。しかしまあ、工芸省といえば商工組合を統括する立場でもある。そこらへんに問題の本質が潜んでいるのかもしれないな。とにかく不介入は、執政官府での最高行政会議で正式に決定したことだ。われらに異論を挟む余地はない」
連邦行政の最高責任者は、元老院議員から選出される執政官である。地位は安定しているものの、大昔の皇帝や国王と違って、絶対的なものではなかった。
建国の祖ヴェルデーの時代は、すでに歴史の領分になっていた。選出する元老院の掣肘を受ける立場に置かれているうえに、連邦国家ゆえに枢密院の顔色をうかがわねばならない事情もあって、政策はどうしても妥協の産物となりやすかった。連邦議会を構成する両者が牽制しあっているために、柔軟性に欠けるのも問題だ。
それでも暴政よりはましだ、とレオンは思っている。
「しかしな、親父。どうしておれたちが動かなければならないんだ。ただでさえ人員不足で忙しいんだぞ。おれとしては財務省と工芸省さまのご好意に甘えたいぐらいだね。対外活動は若いうちにしかつとまらないとは、よくも言ったものだ」
魔法特別機動捜査隊、通称魔法特機隊には、現在三十名ほどの隊員がいる。しかし全員が揃うことはまずない。
ゴンドランド連邦は寄合国家ゆえの複雑な政治事情によって、通常の軍事行動は制限されることが多い。そこで諜報と特殊工作に長じた魔法特機隊が活躍する余地が生まれていたわけだった。場合によっては、北大陸の動静を調べる任務も受けるかもしれない。並の兵士たちとは違い、紛争中でも平和時でも酷使される。おまけに誰にも感謝をされず、腕のいいこそ泥なみの評判しか得られない。選良とは名ばかりの待遇だった。
名利を求めているわけではないから、別に苦にはならない。しかし、諜報工作員ならではの特徴で、成功した任務は決して表面に出ず、逆に失敗した任務は過大に評価されてしまう。欲を言えば、もう少し認めてもらいたいという気持ちが常にあった。
バルラムは皮肉そうに唇をゆがめてから、あらためて口を開いた。
「実は司法省が極秘裏に接触してきたのだ」
「なるほどね。贋金を造るまでは財務省の管轄だが、使用するとなると司法省の領分に入るってわけか。団結した行動がとれないのは、縦割り行政の弊害ってところかな。だからといって、持ちまえの正義感とやらではないだろう?」
「政治力学の世界は、平行四辺形では測れないものだ。この間の財政改革で、連邦司法院の予算が大幅に削減されたことを根に持ってのことかもしれん。連邦の地域司法権は各自治領に与えられているが、贋金造りの実態がわかれば、重大な犯罪として中央政府が堂々と介入できる。財政的な事情があるとはいえ、犯罪を黙認しようとした財務省の失点が自分たち司法省の得点になる、と信じている可能性は否定できまい。ともあれ、わたしは引き受けることにした。われわれに大いなる利益が生まれたわけだからな」
バルラムは、厚みのあるあごを撫でていた。指にはこれでもか、というように金の指輪がはめ込まれている。金の価値は永遠に不変であり、いつまでたっても鉛を金に変えられない錬金術師の無能ぶりを示しているのだ、と悪態をつくためのものだ。
幼稚さを演ずる気持ちはよくわかる。低く見られている立場ゆえに、汚れ仕事を受けざるを得ないわけだが、依頼者には逆に弱みを握られているとも思われている。極秘任務を成功させていくたびに、魔法使いの立場が強まっていくが、それと同時に警戒される原因にもなりえる。
たとえ表面上だけであっても、作らなくてもよい敵をわざわざ作るのは、軍の実権を握るつもりがないことを、単純で嫉妬深い軍や政府上層部に理解させるためだった。
「司法省に貸しを作るのは、確かに大きな利点になるな。それで、兵部省の上層部はどう言っているんだ。勝手に動くのはさすがにまずいだろう」
「やはり黙認だ。手柄を立てれば兵部省の発言力が増す。それに、失敗でもすればこちらを排斥する絶好の機会となるとの思惑があるのだろうな」
兵部省の上層部は、諜報部員全体に対して冷淡だった。ゴンドランド連邦は、南大陸唯一の超大国になっている。小賢しい工作活動などしなくても、実力でねじ伏せられる自信があるからに違いない。連邦政府が掲げる正義には、小細工など似合わないと考えているふしもあった。たとえ助けられたとしても逆に屈辱と受けとる小人は、どこの世界にもいる。
保守的になりがちな軍人たちは、魔法使いに悪意を抱いてさえいた。新しい兵器や戦術を導入した場合、改革者に主導権をとられてしまうのを恐れているせいもあるだろう。発見された魔法が、軍事的に有用であるとなれば、軍の抜本的な再編成をする必要に迫られる。
ゴンドランド連邦は数多くの兵士の犠牲によって建国された。だから自分たちだけが平和を維持する資格がある。上層部はそう確信しているらしかった。誇りを持つのは悪いことではないと思うが、別の誇りを抱いている人間もいることぐらいはわかってもらいたい気持ちがレオンにはある。
「お互いがお互いを必要としているくせに、用済みになれば切り捨てる。実に麗しい人間関係じゃないか。親父も大変だな。いっそのこと、全てを捨てて修道士にでもなったらどうだい。頭髪に未練がないようにさ」
バルラムは、もう一度だけふかしてから、葉巻をもみ消した。紫色の煙が一筋、まっすぐ天井にのびていく。
「わたしは先祖の活躍を寝物語にして育った。断じて、魔法使いの血をわたしの代で終わらせるわけにはいかん」
黒い瞳に、先ほどよりも強い光が宿っていた。
ゴンドランド大陸が政治的に統一されるまでの魔法使いの行動は、レオンもよく聞かされていた。何度も繰り返されたので、細部に至るまで覚えている。枕元で聞くにはふさわしくない、諜報と謀略にまみれた話が多かった。
護身用の杖や水晶玉を手に、物乞いや占い師として情報を集めていた男たちはまだいい。
権勢を誇る貴族の館に召使として潜入した女の魔法使いたちは悲惨だった。ホウキを持って広大な庭を掃除したり、大鍋でまかない料理を作ったりして信用を積み重ねていく。政府からのさまざまな指令を遂行するために、何年でもじっと機をうかがい続けることになる。
ときおり「魔女狩り」と称した防諜作戦が行われ、もとより逃げ場のない彼女たちは、凄惨な拷問の末に命を落としていったこともあった、と繰り返し聞かされた。死ぬまで生き続け、情報を収集しなければならない諜報部員特有の悲劇といえた。
先祖たちの苦しみは、しっかりと刻み込まれている。せっかく築き上げた地位と信用を手放したくない気持ちは痛いほどわかった。だからといって、髪の毛が抜けるほど苦しまなければならないことはないはずだ。
親父は業も責務も、なんでもかんでも背負い込みすぎる、とレオンは思った。
もう一つ懸念があった。諜報部員としての魔法使いは、宣教師たちとともに連邦政府が成立する以前から、この政治体制を全力で支えてきた。しかし、連邦政府が完全に正しいという確証はない。いかなる支配制度も必ず腐敗する。歴史は一貫して証明していた。
「なあ、親父。時々思うんだが、おれたちは怪物を創りだそうとしているんじゃないのか」
レオンは、国立古文書図書館で復元された粘土板を読んでいたときのことを思い出していた。怪物は頭、胴、尻尾とも違う動物であり、人を襲うと書かれていた。名前の個所が丹念に削り取られていて判読不可能だったのは、よほど忌まわしい生き物だったのではないか、と推察したのを覚えている。絶対権力に対する暗喩とも解釈できる。
軍人、役人、そして枢密院に元老院などの議会。それらは執政官府の下でお互い牽制しあってこそ、均衡が保たれる。それが一つになって絶大な権力を得たとき、世の人々に対してどう振舞うか。絶対的な権威が下す判断が、常に正しいと証明できる手段はない。
自分たちがやろうとしているのは、異なる勢力をつなげ、連邦政府を肥大化させることではないのか。土台の強度も考えずに、重い石を積み上げているだけではないのか。負荷がかかりすぎれば、無残に崩壊するだけだ。
バルラムは、厚い唇の端をかすかに持ち上げた。続いて眉間にしわを寄せ、目頭を押さえる。
「かもしれんが、気にすることはない。その怪物とやらが力を得ないように、せいぜい血を吸ってやろうじゃないか。寄生虫なりにな」
レオンは小さくため息をついた。どうやら、辞める気はまったくないらしい。
やはり、魔法を探し出す必要があった。魔法の力を得れば、肉体的にはさらに激務になるだろうが、威信の回復によって心は楽になるに違いない。
それに、いずれ腐敗するであろう権力を牽制できる、唯一の存在になるかもしれない。
「ところでレオン。現在動員できる隊員は何人いる?」
「今は、おれと偵察担当のマーク、工作担当のジェーガンの三人かな。あと、翼竜使いのセラが機密文書を運び終えて戻ってくる予定だが」
バルラムは満足げにうなずいた。書類をまとめ、引き出しに納めはじめる。
「ちょうどいい。活動的なマークと、金属の専門家でもあるジェーガン。それに、機動力のあるセラなら、今回の任務にうってつけだろう。それから、念を押さなくてもわかっているだろうが」
「ああ。独自の判断で動くよ。オヤジには迷惑を掛けない」
――自分のせいで、諜報部員全体の立場が不利になる場合があったら、容赦なく切り捨ててくれ。
歴史学者を目指すことをやめ、隊員として志願してきたときにはっきりと宣言した。痛いほどの鋭い視線が返ってきたのは、必ず生還しなければならない諜報活動への軽視と見たのか、あるいは公職のけじめとして宣告する前に、実の息子に言われてしまった不快感のどちらなのか、それとも両方なのか、いまでもよくわからない。
「じきに司法省から、都市巡察官の身分証明書がくる。うまい具合に使え」
「では、レオン特機隊長以下三名。任務を拝命し、早急に行動に移ります」
踵を返しかけたレオンは、ドアの前で呼び止められた。
「任務が終わったら、母さんと三人で食事でもどうだ。会合に使っているいい店がある。落ち着いた雰囲気で、店員の応対もいい。それに、お前の料理の参考にもなるだろうし」
諜報部員は、最低二つの顔を持つ。職人や商人、それに旅芸人や遊牧民など、街と街とをさりげなく移動できる職業か、あるいは学者や占い師など、人と異なる価値観を持っていても怪しまれない職業などから特技に応じて選択する。レオンは、遊学中の歴史学者と修行中の料理人とを状況の応じて使い分けていた。
「肝心の味はどうなんだい?」
「わからん。だからあらためて確かめに行くのだ」
レオンは、うすら寒い会食の内容を思った。心を許さない相手が正面にいるのなら、例え豪華な食事であっても、砂を噛むようなものに決まっている。
「そうしよう。母さんの煮込み料理は絶品だけど、大鍋で作るくせが抜けないからな。大量に作るからこそ美味しいんだろうけど、親父だけじゃあ持て余すよな」
軽口を言ったつもりだったが、笑いは返ってこなかった。