第一章 光と闇の挟間
一般に認知されているファンタジーの世界を、リアルに表現してみたいと思って書きました。
第一章 光と闇の挟間
断られるのを承知のうえで、レオンは、通りすがりの酔客に施しを乞うた。
救民院にでも行け、と言い放たれた。当然だった。男はまだ、飲み足りない顔をしている。手に爪竿を持ち、籠を背負っているところをみると、ゴミ拾い屋に違いない。
酒場の灯が落ちるには、まだすこし時間があった。あつかましい物乞いに金をやるぐらいなら、とどめの寝酒を飲むのに使うだろう。
夜気で酔いがさめる前に共同小屋に戻り、きつく張られたロープを枕がわりにして、つかの間の仮眠をとりたいと考えているはずだ。明け方には、まっとうな縄張りを持つ顔役が来て、価値のありそうなゴミのすべてを荷馬車に積んでいってしまう。
それでも、食い下がった。金が目的ではない。横向きになれば、自然なかたちで後ろをうかがえる。罵声を聞き流しながら横目を使うと、伸びていた影が視界をよぎった気がした。
用は済んだ。丁寧に頭をさげて詫び、再び杖にすがるようにして歩き始める。
二度、右に曲がった。大通りから路地裏に入る。硫黄と薪の照明も、まばらになった。
正反対へと進む方向を変えても、後ろの気配は消えない。
曲がるときに確認してみたが、影を見つけることは出来なかった。どうやら相手は、建物の陰や無造作に置かれた空き樽をうまく使って、見つからず見失うことがない、ほどよい間隔を開けてきているらしい。
雲を柔らかくまとった月が、先ほどまで降っていた雨とともに、石造りの街並みに鈍色の艶を与えている。軒下の魔獣をかたどった吐水口から落ちてきた水滴が、土に汚れた右手首を穿った。
ふいに、水溜りで滑ったふりをしてみる。胸までの高さがある杖に体を預け、歩調を乱した。足の悪い物乞いならではの所作だった。いま歩いている路地裏はゆるやかな下りになっていて、大通りのように滑り止めの木灰が撒かれていない。
ほんのわずかだけ、足音がずれて聞こえた。やはり追跡者はいた、とレオンは確信した。こちらの足元を見たうえで、歩調をあわせてきている。
全身を見るのは素人のすることだ。簡単には替えられない革のサンダルとは違って、頭から全身を覆うローブは、ただ脱ぐだけで追跡の手がかりを容易に消せる。
たとえ後姿を見られたとしても、心配する必要はなかった。黒髪は特に珍しくもないし、背丈も人並みよりはやや高いぐらいだ。下に着込んでいる麻の服も、色はかすれ、薄汚れてはいるがごく普通のものだった。革鎧でも、鎖鎧でもない。
レオンは咳き込むふりをして、徐々に呼吸を整えた。冷たい夜気が体に入ると、心が落ち着き、頭が冴えてくるような気がする。もっとも、ただの気のせいかもしれない。路地裏独特のすえた空気があたりには漂っていて、新鮮とはとても言いがたい。
相手は、基本を忠実に踏まえながら追跡してきている。いくら物騒な世の中でも、物乞いを追う酔狂な盗賊などいない。こちらの正体をあるていど値踏みしたうえでの行動だろう。
再び引きずるように歩き始めた。足音が、少し大きくなったように聞こえた。
三人の男たちが、行き先を遮っていた。両脇の人間が、意味ありげにうなずきあっている。
蓋のない排水溝からあふれ出した水が、流木を寄せ集めて作った建物が並ぶ通路へと流れ込んでいた。奥には照明が全くなく、量感のありそうな暗闇が張られている。
貧民窟の手前だった。中に入られると、面倒なことになる。だから仕方なく出てきたのだろう、とレオンは察した。
足が悪いと思わせているので、観察する余裕があった。雨水で流されてきた残飯と、拾い屋が選り捨てたボロ布とを避け、足をいたわるようによそおって前へと進んだ。
中央の大男を固めるように、両脇に二人の男が立っていた。顔は逆光となっていて判然としないが、少し前に訪れた酒場にいた吟遊詩人たちに違いなかった。
くるぶしまで覆う外套を着ている大男に、吟遊詩人らしからぬ特徴があった。短く刈った金髪と角ばった輪郭に、獲物を狙う猛禽類のような鋭い目と、高くて鼻梁の張った鼻に幅のある唇が重なる。肩幅が広く、胸板が厚い。軍人か傭兵といった印象を受けていた。
比べて両脇の二人は、赤と黄色の服が派手だと感じたぐらいで、大した特徴は見出せなかった。意図的に個性を消していたような気もした。齢は、大男と同じ三〇代半ばぐらいか。確か左が笛を、右が弦楽器を奏でていたぐらいしか覚えていない。
相手は四人、と聞いていた。これで全員が揃ったことになる。後ろの人間は、何者かわからない。おそらく、客の一人としてまぎれ込んでいたのだろう。
少し離れて、立ち止まった。無理をして、薄く笑ってみる。心が硬く締まると、動きが鈍くなる。どこかに遊びが必要だった。
「それだ、その笑いだ」
左側の男が咎めるように言った。笛を吹き続けてきたらしく、ひそめた声もよく通った。きっと口笛もうまいに違いない。
「お前、酒場でおれたちが歌っている時に笑ったな。なぜだ。ぜひとも理由を聞きたい」
敵意は感じられなかった。多勢を頼んだ優越感か、声に非難より、好奇の響きがある。
「隅に目立たないようにいたはずなのに、どうしてわかる」
「この稼業を長く続けていると、お客さまの表情には敏感になるのさ」
お客さま、という言葉に、男は力を込めていた。
「さて、正直に答えてもらおうか。おれたちは笑われるほど、明るく楽しい歌を演じたはずはないが」
右側の男が、レオンの背後をのぞき込むようにしながら言葉を継いだ。音楽院を及第できなかった去勢声楽家を思わせる、上に外れた声だった。濁りもある。
指摘されるまでもなく、聴いたのは悲しい歌だった。課された重税のせいで愛する妻を失った一家が、それをきっかけにしてばらばらに散っていく内容だった。しっかりと韻を踏んでいて、古典詩を思わせる格調の高さが感じられたが、内容ゆえに宮廷や迎賓館では決して歌われることはないものだ。
「罪のない歌で笑うほど、おれは無粋な人間じゃない」
「つまり、こちら側に問題があると言いたいわけだな」
中央に立つ大男の声は、酒場での歌そのままの、重量感のあるものだった。
酒場で悲しい歌を歌う。それはいい。ゴンドランド連邦政府に対して、不当な扱いを訴えるのもまた罪にはならない。今は、専制君主の時代ではない。領主や行政官に不満があれば、元老院が受け付けてくれる。
問題は、彼らのやり方にあった。
内務省国家保衛局の仕事は、街に潜入して、反乱などの組織犯罪者を摘発することにある。流しの吟遊詩人になりすまして酒場に入り込むのは、酔いのせいで口が軽くなった人々から情報を集めるためであって、手柄欲しさに歌で悲憤慷慨した酔客を、反乱予備軍に仕立て上げて処断するものではない。
後ろから近づく足音で、レオンは返事をしそびれた。
「おい、グード。さっさと引っ張って、それからじっくりと事情を聞けよ。貧民窟で連絡員と接触しようとした反政府勢力の構成員。これなら充分、取調べる理由になる」
グードと呼ばれた大男は、鋭い舌打ちで応えただけだった。しかし、両脇にいた男たちは呼応するかのように、前に出てきた。
「そうだな。こいつは生意気で責めがいがありそうだ。足が悪いようだから、そこを責めよう。塩を擦りこんだ鞭で足の甲を打って、冷水につける。歌のように、緩急をつけてな」
「あるいは、足の裏を棍棒で打ってもいい。衝撃が頭の先まで届いて苦しむし、なにより尋問の跡が残らない」
レオンは二人の言葉を聞きつつ、杖の感触を確かめた。長さにも重さにも、頼もしさを感じる。それに、硬い。突くだけではなく、撃ち払うこともできる。きれいに入れば、首の骨も折れる。
杖は刃物と違って、いくら使っても折られない限り攻撃力は落ちない。多人数を相手にするには手ごろの得物だった。なによりも相手を油断させることができる。足が悪いと思わせておけば、なおさらだった。
さりげなく、手首を回してほぐした。囲まれているだけに、手首の返しが必要になってきそうだった。
「みんな、ずいぶんと商売熱心なんだな」
「いいや、尋問なんて所詮遊びさ。ただ真面目にやらなけりゃあ、面白くないだけだ。もっともおれは前の二人と違って笑われていないから、そこにいるジジイでもいいんだがな」
レオンは、左の小路に目をやった。ふさぐかたちで酔いつぶれている小男の服には、見覚えがある。先ほどいた酒場で、夜盗に襲われて足を悪くしたと説明すると、しわだらけの顔に悲しみの色を浮かべながら、なけなしの銅貨を握らせてくれた老人だった。訊けば、歌のように重税のせいで生き別れになった孫に似ているらしい。
拳を包んだ指は鶏の足のように痩せていたが、熱いぐらいに力がこもっていた。手にした酒盃が震えていたのは、酒毒のせいだけではなさそうだった。
憐れまれることは、物乞いを演じるぐらい嫌だった。しかし任務とあれば、できるかぎり自分を殺し、淡々と遂行するだけだった。向こうも、同じ考えだろう。
不意に踏み出す足音がした。後ろ。振り返らず、そのまま杖で突く。重い手ごたえがあり、うめき声がした。一瞬遅れて、怒気を含んだうなり声が重なる。二人が一斉に間合いを詰めてきた。手首を返して杖を振り、上段に構えなおす。風を切る音が牽制となり、静寂が戻った。
「ほう、杖術を使うか。ならば、隙を作らせて取り押さえようとするのは無駄だったな」
グードは、感心したふうに背を反らせた。まわりを見下しているようにも感じた。
二人の男は視線を交し合って、無言で動きだした。それぞれがこちらの死角を求めるように、すり足で左右に回り込もうとする。
右手で杖の先端を握り、左手を腹に添えた。杖を差し上げ、石突きをグードのみぞおちに重なるように構える。これなら、正面と左右からの襲撃をさばける。後ろには一拍遅れるが、先ほどの手ごたえからして、さほど心配することはないように思えた。
後ろから、唾を吐いて立ち上がる気配がした。
「杖術って、てめえ、魔法使いか!」
「さあてな。それこそ尋問して訊いてみたらどうだ」
「ふん、笑わせる。魔法使いと物乞いと、どこが違うんだ。現にボロ布を身にまとって、杖を片手に街中を徘徊しているだろうが」
レオンは唇を噛んだ。腹立ちまぎれの言葉だろうが、侮辱には違いない。
「お前、兵部省の人間だな。こういった荒っぽい仕事をする魔法使いは、内務省にはいないはずだ。もっとも薄汚いネズミは、どこにでも入り込むだろうが」
「省の縄張りを越えてやってきたってことは、我々が国益を損なうと判断されたのかもな。こいつは困ったことになった」
ささやき交わす言葉とは裏腹に、前の二人は落ち着いたようすで、懐から楽器を取り出した。それぞれほどき始める。
左の男は笛から小刀を抜いた。鼻の下でこする仕草は、塗った薬の加減を確かめているからだろう。毒か、しびれ薬かまではわからない。
右の男は手琴の弦を両手に握った。張ると高い音がした。一瞬だけ輝いて、闇に消える。細くて丈夫な弦は、首を絞めるだけでなく、挽き切ることもできそうだった。
再び杖の握りを確かめた。指と手のひらに吸い付く滑らかさが心地よい。
後ろからも殺気が這い寄ってくる。砂を噛む靴音と木の音がした。得物はやはり暗器のようだ。間合いを詰めてくるところをみると、飛び道具ではなさそうだ。少し、気が楽になる。
耳は後方に、目は前方に意識を集中させる。正面にいるグードは、動かなかった。両腕を外套の中で組み、見物の構えを示している。ひとまず助かった、とレオンは思った。
杖を構えなおそうとしたとき、重い衝撃があった。左手の親指に疼痛が走る。目を凝らすと杖の先端近くに、鈎が食い込んでいるのがわかった。細い鎖が左から伸びている。目をやると、老いた小男の姿があった。腰を落とし、両手で鎖をしっかりと握りしめている。
「なんだ、ジジイ。余計な手出しをするな!」
「もたついていると、警備隊がやってくるぞえ。いくら役目とて、痛くもない腹を探られるのは嫌じゃろう」
「あんた、こいつらの仲間だったのか?」
レオンの問いに、小男はしゃっくりを混ぜたような乾いた笑いで応えた。抜け落ちた歯の隙間からよだれが流れ、だらしなく開いた唇を濡らしている。路地から出て、月明かりに照らされた顔の半面は、待ちに待った出番を心底喜んでいるふうに見受けられた。
「この齢になって動くことはどうも辛いのじゃが、こいつらではちと持て余すようじゃったからな。やれ、やれ。最近の若い者は、満足に人を絡めとることもできん。嘆かわしいことじゃて。ま、だからこそわしのようなコボルト族にも、出世の機会ができるわけじゃがな」
意外にも、若い声だった。力もある。レオンは杖を引いたが、鎖が軽く鳴っただけで自由にならなかった。腕は細いが、芯が入っていそうだった。
「物乞いに化けているだけだと、すでに酒場で見抜いておったよ。変装は見事じゃったが、爪の中まで汚しておかなかったのが痛いところじゃわい。ケチな工作員など、ここの四人にまかせておけばいいとはじめは思ったのじゃがな。こうもあからさまに物乞い稼業を侮られると、さすがに目の前で小言のひとつも言ってやりたくなってのう」
「爪以外にも、違うところがあるのか?」
「その目じゃよ」
酔いとは無縁の冷たい口調だった。力は込められたままだ。
「人の情けにすがって、猫の反吐なみの粥をすすって生きてくると、どろんとした痰のような目になってくるものじゃ。ところがお主は違う。黒い瞳が語っておるわ。おれは人間だ、おれは人間だ、おれはお前たちとは違う、とな。わしのやっかみかもしれんが、まあその点は後でとくと語り合うとしよう。夜は長いからのう」
言葉の端からにじみ出てくる優越感は、劣等感の反動だろう、とレオンは読んだ。
コボルト族は、連邦議会である元老院に議員を送れないほどの少数民族である。満足に自分たちの主張を訴える術を持てず、ゆえに旅芸人や物乞いとして生計を立てざるをえない存在だった。国家保衛局にいる理由もなんとなくだがわかった。いじめられ続けた人間が、さらに弱い立場で抵抗できない人間をいたぶる、ねじれた報復心理といったところだろう。
にじり寄る二人を視界に入れつつ、レオンは訊ねた。こういう手合いは、自尊心をくすぐってやるに限る。張りつめた空気からは隙が生じることはない。
「どうやって老人になりおおせたのか、ぜひとも後学のために聞いておきたい」
「思い切り太ってから、痩せ、皮をたるませる。次に髪と歯を抜く。最後に砂漠で血の小便が出るまで水気を抜けば、枯れた老人の出来上がりというわけじゃよ。本当は馬糞を塗って酒毒におかされているように装いたかったんじゃが、酒場に入れなくなるからのう。それにしても、簡単じゃろう。じゃが、不思議なことになぜか見習う連中がいないのじゃ」
自分自身をいじめたものだけが他人をなぶる資格がある。そう言っているように聞こえた。血色が悪く、よだれにまみれてうごめく唇は、腹を空かせたヒルそのものだ。
「それでどうするね、お若いの。杖を使えなければこの窮地を切り抜けられまい。それとも得意の魔法とやらを使うかね。少しぐらいなら、待ってやってもいいがのう」
たしかに窮地だった。逃げ道はなく、鎖で杖が封じられている。杖を使うには、左の小男を倒さねばならなかった。しかし、笛男がこちらの動きを読んでいるようだった。すでに、間に割り込める位置に寄ってきている。いきなり左に飛んだら、小刀で間違いなく刺される。
打つ手はあったが、少し間が欲しかった。小男の好意に甘える必要がある。
レオンは黙って、懐から革袋を取り出した。右手で二度、三度と空中に放り、大量の貨幣が入っていることを知らせる。固く張りつめていたはずの空気が、緩んだように思えた。
「おいおい、お若いの。なにも芸も見せぬうちから、金を返すことはなかろうに」
「そう言うな。ただの物乞いなら、工作費などいらないだろう。それが自然だ」
「その通り。金を渡しておいて、大声で警備隊を呼ぶわけでもあるまい。物乞いの戯言と思われるだけだからな。だから大人しく杖を捨てな。優しく言っているうちに」
懐を探る手間が省ける、といったようすで、前の二人は笑った。金銭に媚びを売る調子ではなく、冷酷な決断を下し続けてきた人間によく見られる、低く轟く、遠雷のような笑声だった。間に拷問が入るだけで、こちらを生かしておくつもりはない、とレオンは悟った。
闇に潜りたがる人間と、光で照らし出そうとする人間との間合いは、必然的に血なまぐさくなる。
グードが、組んだ手をほどいた。軽く後ろを見て、向き直った。
「みんな、袋を見ていろ。後ろが貧民窟だということを忘れるな。ばら撒かれたら、逃げ出す隙が出来るぞ」
「余計な心配をするなよ、グード。それならそれで楽しみが増えるだけだ。なあ、ジジイ」
「ああ、このあいだの尋問は楽しかったわい。これが痛みを分かち合う喜び、というものなのかのう。人助けでもあったわけじゃ。固焼きのパンさえも買えないのなら、余計な歯などはいらんじゃろうからの。ここらで大量の食糧を買い込む人間は、誰かを匿っていると疑われても仕方がなかろうて」
レオンは嘆息した。もはや救いようがなかった。ここで悔い改めよとは、死ねと宣告するに等しい。金銭や快楽のために、多くの罪無き人を謀反人に仕立て上げて処断してきている。たとえ正気に戻ったとしても、犯した罪の重さに耐えかねて自ら死を選ぶか、もしくは再びどす黒い狂気の世界に沈んでいくしかない。
互いに、もう戻れないところにいる。
「もう、そのぐらいでよかろう。いくぞ!」
奥で、グードが外套を払った。裾から長剣がのぞく。柄に手をやる前に、レオンは、革袋を前に放った。大きな弧を描いて、身構える二人の頭の上を抜ける。視線が、上に集まった。
隙ができた。
逆手で抜く。剣がきらめく。後ろに飛び、剣先を突き立てる。手ごたえ。歯を食いしばる。左腕に力を込めて引き、驚く小男の体勢を崩した。脇の下から左へ剣を刺しこむ。鋭く短い悲鳴。鎖が緩んだ。前に飛び、剣をすくい上げる。首筋。右に飛び、手首を返して再び首筋。
短い間のあと、四人は崩れ落ちた。月を孕んだ水溜りが、軽く揺れた。
顔を上げると、グードはまだそこに立っていた。あっけにとられたようすではない。放った革袋をもてあそんでいるところに、見世物を見たといった余裕さえうかがえた。
「最近の魔法使いは、麦や豆だけでなく、刃物まで杖に仕込んでくるらしい。けなされたときの表情からして、この仕事に誇りを持っているようだが、暗器に頼るとはあまり褒められた振る舞いではないな」
レオンは再び剣を構えなおし、新たな標的に狙いを定めた。
「冗談にしか聞こえないのは、あんたの不徳だな」
「むろん、冗談だ。そう怒るな。魔法が使えないのであれば、ああするより仕方がなかろう」
魔法使いが魔法を使えなくなって、すでに長い年月が経っていた。失った原因は、いくら調べてもわからない。歴史書を見ても、手がかりはつかめなかった。欠損した巻物は、連邦が成立するまでの長い戦乱のせいで、焼失したものとされている。
魔法を失う以前の地位がどういったものかはわからないが、相当高い地位を占めていたように思われた。古代での杖は、背もたれのある椅子とともに、権力の象徴だったはずだ。杖を持ち、玉座に座る王の姿が、壁画にも描かれている。
ひとついえることは、今の魔法使いが、こういった悪徳役人相手の汚れ仕事を引き受けざるを得なくなっているという事実だけだった。
「なるほど、すべてにおいて理にかなった行動ではある。標的は変装しているから、挑発しておびき出さねばならなかった。爪を汚さなかったのも故意だろう。人目につかず、飛び道具の使いにくい路地裏に誘い出して囲ませる。そして四人を一瞬で屠り去った」
国家保衛局の人間であれば、正体を知られては困るはずだ。しかし、革袋を弄ぶ手には、闘志が感じられなかった。刺客を返り討ちにする気がないのか、それとも四人と同じように、優越感を抱えての会話を楽しみたいのか。まったく見当がつかなかった。
目の前にいるはずなのに、遠く感じた。石畳に落ちる建物の陰が、間合いに断崖を作っているかのようだ。
「計算どおりに進んでいたはずなのに、誤算が生じた。余計な一人がいて、その構えで立ち向かわざるを得なくなったことだ。違うか?」
問われるまでもなかった。右手の剣は杖に仕込むために打たれたもので、速く振れるが細くて折れやすい。柔らかい腹と首筋を斬ったのは、できるかぎり刃こぼれを防ぐためだが、骨まで断ち割る威力が期待できなかったからでもある。もしそのまま立ち合った場合、剣ごと真っ二つにされるかもしれない。グードの剣と体には、その迫力がある。
また、剣先が肘に向かう逆手の構えでもあった。後ろを片付けるためにやむなく抜いたが、本来は守りの型だった。半分となった杖を鞘の代わりにして、右手の剣と体全体で卵のように構え、敵が踏み込んでくるのを待つのが定法だった。こちらから斬り込むには素早い足捌きが必要になるが、足場が悪い。石畳の上に、広がりつつある水溜りと、障害物がある。
算段がないわけではない。確かに身にまとったローブは敏捷性をそぐだろうが、グードも得物を覆い隠すだけの長い外套を羽織っている。条件はほぼ互角といえた。さらに斬りかかってくるには、邪魔な革袋を捨てる必要があった。隙は、柄に手をかけた瞬間に生まれる。先に手首を狙い、振り抜きつつすくい上げるように首筋を狙えば、勝てるに違いない。
外套を左肘でまくっている。長剣の柄を切った痕跡が認められた。元々は両手剣だったのかもしれない。柄が長ければ斬り合いには有利だが、片手で使うのであれば、少しでも短いほうが振り抜きやすくなる。抜き打ちに自信があるらしいが、速さではこちらが勝る。
柄の位置に意識を集めながら、相手の全身をとらえる。視界の広さには自信があった。くもの巣の中心を日々見つめ続けて得た技だった。
視野を広げたぶんだけ、闇もまた広がった。外套が溶け込んでいく気がする。
覚悟を決めた。左足を滑らせて、間合いを詰める。グードは合わせるように右足を引いた。誘ったか、とレオンは思った。しかし、違った。手にしていた革袋をしまいこみ、身を翻すそぶりを見せた。外套が膨らみ、ゆっくりと萎んだ。
「何の真似だ、グードとやら。闘わずに逃げる気か」
「小用を思い出した。これは歌の代金として貰っていく。物乞いではないのなら、ただで歌を聞かせる理由はない」
一瞬だが、気が抜けた。革袋のように、弄ばれている。ふざけるな、とレオンは怒鳴りたい気持ちを、かろうじてこらえた。騒げば、人が集まってくる。
グードは置かれた立場の変化を、巧妙に利用してきている。警備隊の巡回の時間が迫ってきていた。ローブについたはずの染みが、警備隊を敵側に追いやった。
「仲間がやられたのに、見捨てて逃げる気か」
言いつつ、踏み込む。右へ飛んだ。
外套が視界を覆った。風がきて晴れた。青白い輝きがあった。右。首に向かってくる。両手剣のはずなのに、速い。回避できない。受けても折られる。
斬られた。そう思って、目を閉じる。しかし、痛みはない。目を開けると、首筋に刃が当てられていた。冷たいはずなのに、感じなかった。なのに、歯が震えた。
格が違いすぎる、とレオンははっきりとわかった。速く抜くだけならまだしも、寸前で止めるには相当な膂力が必要になる。
「相手に攻撃の意図を悟らせないのは、剣術の基本だ。視線を固定すれば、狙いを読まれ、逆につけ込まれる。よく覚えておけ」
グードはゆっくりと向き直った。闇に、全身が覆われている。剣の根元だけが、青白い光を放っていた。喉が鳴った。
「杖に戻して、地面に置け」
応じると、足で払われた。杖は軽やかな音を立てて、壁際まで滑っていった。
「黙って消えようと思ったが、気が変わった。せっかく剣を抜いたことだし、いくつか質問させてもらおうか」
驚くほど冷たい声だった。好奇心の響きが消え、この場の支配者が持ちうる酷薄さがにじみ出ていた。首筋に、床屋とは違う刃の感触が走る。剣の腹が肩に押し付けられた。促されるままに、ひざまずいた。口が渇く。
剣先でローブの覆いを、剥ぎ取られた。耳に布が触れ、肩に落ちた。
「いい面構えだが、女のような甘さがあるな。齢は二十二、三といったところか」
吟遊詩人として多くの酒場を回っているのだろう。人を鑑別する目はあるようだった。
名前は正直に答えた。もっともレオンは本名ではない。諜報に携わる人間は、退役するまで本名は実家に置いてくるのがふつうだった。こちらが死んでも実体を明かさないことは、内務省の人間なら当然知っているはずだ。いわば軽い挨拶のようなものだろう。
「なぜ、こんな汚れ仕事をしている?」
「魔法使いだからだ」
「答えになってない。訊きたいのは、志願した動機だ。多くの魔法使いのように、市井の民として平穏に暮らすことも出来たろうに、よりによって兵部省に所属して飛び回っているのはなぜだ?」
レオンは、正直に話すことにした。抵抗ができないのなら、隙ができるのを待つしかない。時間は欲しいが、限られている。
そこそこ揃った足音が、聞こえてきた。周囲が石だらけなので、距離はよくわからない。
「本当は、歴史学者を目指していた。純粋に、魔法が使えなくなった理由が知りたかったからだ。だが、無駄だった。本はおろか巻物にも粘土板にも、魔法使いの記述はなかった。諜報部員に志願したのは、全世界を知るためだ。見る世界を広げて人と交わっていけば、あるいはいつか、失われた魔法を取り戻せるかもしれない」
ふん、とグードは鼻を鳴らした。四人組とは違う意味で、軽蔑しているようだった。
「好奇心で魔法を探すとは、またずいぶんと利己的な言いぶんだな。魔法が失われ、魔法使いの権威が地に堕ちているのは、人が必要としなくなったからじゃないのか。あるいはあまりの威力の強大さゆえに、このままだと世界を滅ぼしかねない、と魔法使い自身が封印したとも考えられる。どのみち、魔法を見つけても、人間の得にはならん。余計なことをするな」
「魔法使いが魔法使いとして生きていって、なにが悪い」
「悪くはない。ただ、過去にしがみついている人間には、未来を語る資格はないと言っているだけだ。この四人組とて、専制君主の時代ならば能吏と評価されたはずだ。しかし、栄光を取り戻そうとして滅びるはめになった。おれはそう思っている」
背中がしびれてきた。全身の血が、波のように押し寄せ、引いていくのが肌でわかる。
頼みの杖は、はるか遠くにあった。しかし、戦うしかない。こちらの正体を知ったグードを逃がすわけにはいかない。
いま踏み込めば死ぬ。かといって踏み込まねば、警備隊がくるかもしれない。
首に麻縄をかけられた気持ちだった。心も体も、完全に縛られていた。
落ち着け、とレオンは自分に言い聞かせた。息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐いた。体が少し楽になった。
ふと、気がついた。杖がなくても、暗器がある。幸いなことに、笛から抜かれた小刀は、左側に落ちている。隙を見て転がれば、投げつけられる位置にある。
覚悟を決めたとき、押さえつけていた力が緩んだ。グードは剣を収め、半身を翻していた。薄い目と精力的でたくましい鼻が、一瞬だけ闇にひらめいた。
「なぜ、斬らない」
「金をもらった以上、貴様は客だ、レオン。危害を加える理由はない」
反論を言う間を、グードは与えてくれなかった。
「逃げ道を教えてやろう。川沿いをゆっくりと歩いていけ。調べたところ警備は手薄だし、匂いもいくぶんかはごまかせる。あくまでもゆっくりだぞ。目撃者を無用に作るな」
自分の命は、革袋の銅貨よりも軽いらしい。大きく息をつくと、全身の気が抜けた。しかし、助かって嬉しいわけではない。
「おれには殺す価値さえない、ということか」
「すこし違う。今はまだ死ぬ価値はない、といったところだ。貴様はどうやら、頭と努力で問題を克服しようとするたぐいの人間らしい。もう少し苦しめ。甘さがあって辛辣さが足りないようでは、過去は見られても、未来を探し当てることなどとても無理だぞ」
グードは身を翻して左の小路に消えていった。風が抜けるようだった。
レオンはもう一つ大きな息をついた。逃げられた、と思った。追うのは無駄だった。わざわざ逃げ道を教えるのは、周到な準備をしていたからだろう。こうなったらもはや、警備隊が来る前に黙って歩き去るほかにない。
奥で人の影がゆらめいた。むき出しになった土の上に置かれている、代書屋が机代わりにしていた木箱のあたりだった。目をやると、おびえた感じで頭を沈めた。足音が増えてきたが、襲ってくるようすはない。こちらが逃げるのを待っているかのようだ。目当ては、四人組の持ち物に違いない。少し安心した。警備隊に通報される心配はなさそうだった。後片付けの心配もしなくてすむ。
ローブを脱ぎ捨てて杖を拾い、グードが消えた小路へと歩き出した。追ったわけではなく、川への近道だからだ。教えられなくても、初めから川沿いに逃げるつもりでいた。
いらぬ恩を着せられた。
闇に翻弄されているように、レオンは感じた。
大してうまくもないが捨てるには惜しい、いわゆる「鶏肋小説」ですが、暇があったら読んでみてください。