2-5
外はすっかり暗かった。しかし父が、ちょっといいところがあるから一緒に行こうよ、としつこく誘うので、私は父についていくことにした。
まだ七時前というのにずいぶん閑散としたオリオン通りを、二人並んで東に歩いた。
「なんだか人、少ないね」
私が聞くと、父ははあはあと酔いで若干苦しそうな息遣いをしながら、
「そりゃそうだよ、浮遊霊しかいないんだから。浮遊霊になる人なんて、死んだ人間の何十人かのうち一人だけだよ。現世よりよっぽど人口密度は低い」
と言う。どうりでさっきから人が少ないわけだ、と私は納得した。
交差点を左に折れて、大通りに入り、そこを北上した。やはり人影は少ない。飲食店の灯りだけが虚しく通りを照らしている。しばらく歩くとまた大きな交差点があり、それを過ぎると、車道の左右に街路樹が並ぶようになった。樹はどれも大きく、緑の葉の繁った枝を澄み渡った夜空に張り出している。時々車道に車が走った。
父が連れていってくれたのは、その街路樹の繁る通りの先にある、栃木県庁だった。街路樹の果てに、芝生の植わった広々とした敷地の中、十数階建ての堂々とした県庁舎がそびえていた。
「死んでからなんだけど」
芝生の脇の歩行者通路を歩きながら、父が言った。
「少しの間、ここで働いてたんだ。まだこの新しい建物ではなかったけど」
「そうなの」
私はあらためて庁舎を見た。大きかった。
「すごいじゃん。霊になっても働くんだね。なんのお仕事?」
「そりゃあ、この世界でも働かないとお金はもらえないからね。金が無くってご飯を食べられなかったり、住む場所が無くて眠らなかったりしても、別に死ぬことはないんだけどね。肉体的には必要無くても、精神的にはおいしい物食べたり良く寝たりっていう豊かな生活を、浮遊霊も求めるんだ」
「ふうん。それで、なんの仕事してたの? お役所の仕事?」
「……掃除のおじさん」
「……」
「本当は生きてた時みたいに医者ができればよかったんだけど、ほら、この世界には死ぬ人も病気になる人もいないからさ。医者が必要ないんだ。それで、僕は医者の他に何にも働いたことないし、なかなか仕事が見つからなくって、仕方なく」
「掃除のおじさん?」
「うん、まあ……。それも何年も前に辞めたけどね、ははは」
「今は何の仕事してるの」
「何もしてない」
「え?」
「働いては、いないんだ。掃除夫を辞めて、一度別の仕事にも就いたんだけど、長続きしなくって。もうずいぶん働いてない」
「……だからさっきお金無かったの?」
「いや、一応お金はもらってるんだよ。生活保護って、分かる? それが適用されてるから……。ただ今日は今月分がもらえる直前だったから、持ち合わせがあんまり、ね。ははは。あ、着いた着いた。じゃあ入ろうか」
父は都合よく話を打ち切って庁舎の入り口の自動ドアを通った。
中に入ると、そこは庁舎の三、四階くらいをぶち抜いた、天井の高いロビーになっていた。正面の壁は石造りになっていて、長方体に切り出された石がジェンガのように天井まで積み重ねられていた。
「大谷石っていう、宇都宮で採れる石を使ってるんだ。すごいでしょ?」
得意げに父は言うのだった。
ロビーの奥にあるエレベーターに乗って、十五階の展望台へ行った。十五階も広々としたロビーになっていて、壁は一面窓になっていた。
ロビーの南側に面する窓のそばに二人並んで立ち、宇都宮の夜景を見下ろした。星空の下、東京ほどは高くないこぢんまりとしたビルたちの灯りが、窓の外いっぱいに灯っている。
「どう? なかなかの眺めじゃない? これで入館料ただっていうんだからいいよね」
父が言った。私は、この当時からおよそ一年前に母に連れていかれた六本木ヒルズの展望台の夜景の方が断然すごかったな、と正直なところ思ったが、父に悪いので喜ぶふりをしてみせた。「きれー。あの赤い鉄の塔みたいのはなに?」はしゃいでみせている私に、父ははじめ相づちを打ったり質問に答えてくれたりしていたが、やがて黙り込んだ。私が隣の父の顔を振り仰ぐと、
「うっ……えぐっ……」
泣いていた。
「ちょっと、どうしたの?」
「いや、なんていうか、こうやって朱里ちゃんに会えて、思い出が作れて、本当にうれしいなって思って」
「……」
顔を真っ赤にして言うのである。
「もう半分、会えるのは諦めてたからさ。十年……待っててよかった。死んですぐに成仏しないでよかったよ。うぷっ」
うぷっ、と言って、なぜか口を閉じ、頬をぷくっと膨らませた。怒ったふぐのような顔になった。
「どうしたの?」
私が不審がって聞いた瞬間、
「おえええっ」
顔を下に向けて、床へ盛大に吐いた。
「いやっ」
私ははねる汚物を避けるためにとっさに後ろに跳んだ。
父は床の上に留まった汚物を見、私の顔を見、さらに周囲をさっと眺めて、私たち以外に誰もいないことを確認すると、
「逃げよう」
私の手を取ってエレベーターへ走りだした。父の手はぞくっとするくらい冷たかった。