1-3
駄菓子屋から駅へ歩いているうちに、汗っかきの私は、春の午後の陽気でじんわり背中に汗をかいた。
(なんだか怪しい話)
駅近くの住宅街を早足で歩きながら、子供ながらにそう思った。しかし一方で私はまだまだ子供っぽいところがあり、半信半疑ながら、もらった切符が本当に「会いたい人に会える切符」だということを信じたくなる気持ちもあった。
私以外に乗客の姿の見えない、寂れた小さな駅に着いた。私は二つだけ並んでいる改札機の、片方に青い切符を通した。
ピンポン
見事に音が鳴って、改札機についている小さなドアが閉まった。
(やっぱり! おばあさん、私のことだましたんだ)
私はカッと身体が熱くなるのを感じた。改札機の切符放出部に、青い切符が半身を出している。
「君、切符見せてくれる?」
改札脇の窓口から若い駅員が声をかけてきた。私は、別に悪いことをしていないのに、まずいまずい、こんな切符もらうんじゃなかった、と思いながら切符を取り、しょんぼりして窓口へ向かった。
駅員に青い切符を渡すと、
「……?」
いぶかしげに切符を見つめている。そうして、「駅長」
と言いながら奥に引っ込んでいってしまった。
「駅長」という言葉を聞き、私はますます焦った。大ごとになるんじゃないか。場合によったら警察を呼ばれたりして。子供っぽい想像は膨らむばかりだった。
誰も出てこないうちに逃げてしまおうか、と私が思った時、短く刈り込んだ白髪が制帽の下から見えている、渋く齢を取った駅員が窓口に現れた。駅長だろう。
「あなたのですね?」
駅長は左手に持った青い切符を私に示して言った。私は黙ってうなずいた。駅長は少し微笑んで、続けた。
「珍しいものですから、若いのには分からなかったようで、失礼しました。注意点ですが、終点の東部宇都宮に着くまで、絶対に途中で降りないでください。帰りの、赤い切符はお持ちですか? 帰りは必ずその切符をお使いになるように。普通の肌色の切符をお求めになって、それを使ったりなど、決してしないでください」
私が、こく、こく、とうなずくと、駅長は右手に持った鈍く光る鉄の改札鋏で、パチリ、と切符に鋏を入れた。
「もうすぐ電車が参ります。二番線です。お気をつけて」
そう言って、青い切符を私に渡し、自動改札と窓口の間にある出入り口から、私をホームに通してくれた。
(怒られなくてよかった)そんなことを思いながらホームの中ほどのベンチに座っていると、駅長の言った通りすぐに各駅電車が来た。私はそれに乗った。
平日の午後だからだろうか、電車はひどく空いていた。私はシートの端に座って、「千と千尋の神隠し」の千のように、顔を横に向けて窓の外を眺めた。一人で電車に乗るのは生まれて初めてだった。多少の高揚と、(何か不思議なことが起きている)ということに対する緊張感があった。ただ、そんな中にも母に対する怒りというか恨みというか、そういう感情がじくじくと残って、いまだに疼いていた。
窓の外に広がるのは、当時住んでいた栃木県南部の田舎の風景だ。山も海も、高いビルも無く、ただ延々と田畑と低い住宅が続く、味気ない景色。ところどころに点在する草木は新緑に染まって、春のもわんとした陽射しに包まれていた。
栃木駅で電車を乗り継ぎ、更に北へ進んだ。壬生、おもちゃの町、西川田……車窓の外には相変わらず平坦な土地が続いている。太陽が西の空へ傾いていく。南宇都宮駅を過ぎた辺りで高いビルがちらほら現れるようになり、やがて「次はー、東部宇都宮、東部宇都宮、終点です」という間の抜けた車内アナウンスが響いた。
(会いたい人に会えるって、もしかしたら)その頃になると私はおばあさんが言ったそのことばかりが気になっていた。いや、そんなこと、ありえない。だってあの人はもうとっくに……。そんなことを繰り返し考えているうち、電車が減速して東部宇都宮駅に着いた。
その駅を利用するのは久しぶりだった。私は幼稚園に通っていた頃まで母と宇都宮に住んでいて、何回かそこから電車に乗ったことがある。ターミナル駅のため、線路は駅のホームの途中で終わっており、その先が改札口になっている。地下鉄の駅構内を思わせるような、建物の壁と天井で三方を密閉された駅。天井につけられた照明が明るい。
ちらほら電車から降りてきた他の客と共にホームを歩いて、改札口へ行き、自動改札機に切符を入れると、
ぴんぽん
また鳴ってしまった。今度は焦らずに窓口の駅員に切符を見せると、切符を回収されてすんなり通された。
改札口を出たのはいいものの、駅はいつになく閑散として「会いたい人」らしき人は一向にいない。私は不安になりながら、とりあえず駅を出ることにした。
特に理由もなく、西口と東口があるうち東口を選び、外に向かった。出口の階段を降りて、宇都宮の雑踏に出た。辺りを見回してみる。特にこれといった人は見えない。ただ、私が降り立った通りの歩道の、手すりに寄りかかっている若はげのおじさんが、こちらを見ていた。
私はふっとおじさんを見た。おじさんは私から四、五メートル離れたところにいる。青いスーツを着て、ノーネクタイ、ちょっとお腹が出て、黒髪の頭頂部は見事にはげあがっている。四十歳くらいだろうか。眼は小さめながらパッチリとし、鼻筋も通っていて顔立ちが整っていないわけではないのだが、疲れた肌と、髭の剃りあとの濃い青々とした顎と、なんといってもはげた頭が、一目見て「汚いおじさん」という印象だった。
私が仰天してしまったのは、そのおじさんが私の方をじっと見て、意を決したように、ツカツカ安っぽい革靴を鳴らしてこちらへやってきたことだった。
「椎宮さん? 椎宮朱里さんだよね」
おじさんは私に近づきながら、そう私の名前を呼んだ。なんだか興奮している。
(うわ、キモい。なんで名前知ってるの?)
私はそう思いながら、変なおじさんに絡まれた自分の運の無さが恨めしかった。
「違います」
とりあえず嘘をつき、おじさんから逃げるように歩きだした。おじさんはその横についてきた。
「僕、僕だよ。分からない? 達哉、滝井達哉です」
おじさんにそう言われて、私ははっとして足を止めた。すぐ横にいるおじさんの顔を見上げた。つぶらな瞳。スッと通った鼻筋。そして、左頬に大きなホクロ。それらを除くと全然顔は変わってしまっていたけど、何百回も写真で見た面影が、微かに残っていた。――私がまだ母のお腹にいた時に死んだはずの、父だった。
「お父さんだよ」
父は、顔を真っ赤にしてそう言い、うれしそうに笑みを浮べてみせた。