7-2
ワゴンRに乗って、私の住む藤岡町まで帰った。助手席に乗りながら、私はむっつり黙っていた。父が何度か私に話しかけてきたが、私は気の無い相づちをするばかりで、会話はすぐ途切れた。このまま帰され、二度と父に会えなくなるのがそれほど嫌だった。
機嫌を悪くしていれば父が下手に出てくるかと思ったが、父も私を帰すことには断固とした決意あったようで、私がつれない態度を取り続けていると、そのうち何も話してこなくなった。嫌な沈黙が車内を覆い、その状態がたっぷり小一時間続いた。
どこが東部宇都宮と現世との境目だったのか、それはよく分からなかった。宇都宮から出ている、新四号国道という国道に乗って南下するうち、いつのまにか行き交う車が増えていて、どうやら気づかないうちに現世へ帰っていたようだった。
国道を降りて藤岡町に入り、町の中を流れる渡良瀬川の橋に差し掛かったところで、父が声をあげた。
「ああ、菜の花。綺麗だ」
父の声に反応して、窓の外を見てみると、川の土手に菜の花が咲いているのだった。
「ちょっと見て行こうか。ナビもあと二、三分で着くって言ってるし、ここまでくれば大丈夫だろう。それに、最後だからね」
父はそう言うと、橋を渡ってから左に曲がり、土手の上の道路に入った。そのまま渡良瀬川に沿って少し走ると、「他に車も走ってないし、停めちゃっていいだろ」と呟いて路上駐車をした。
車を出て、二人、土手の上に並んで立った。
「へー、なかなかいいじゃん」
父が言った。向こう側の土手と、こちら側の土手と、中洲に、終わりかけの菜の花が一面咲いて、川を金色に染め上げていた。青空の下、春の太陽に照らされたその一面の菜の花は、暖かい空気にむっと独特の匂いを漂わせていた。その蜜を吸うため、モンシロチョウとミツバチが飛び交っている。
私たちはそのまま黙って金色の川を眺めた。数分経った後、父が、
「じゃあ、行こうか」
と言った。
「……嫌」
私は低い声を出した。
「嫌って、なんで?」
「嫌なものは嫌なの」
「なに怒ってるの」
父は優しく微笑みながら、私の目の前にやってきて中腰になり、私と目線の高さを合わせて、私の目を見つめてきた。
「ん?」
「帰りたくない。帰っても、全然良いことないし。お父さんと東部宇都宮に帰る」
「なんでそんなこと言うの? 智子さんだって心配するし、お友達にも会えなくなるよ」
「お母さん、さっき、私に『あなたなんて産まなければ良かった』って言った」
「……」
「私、本当は学校に仲の良い友達もいないし、こないだ、先生には変なことされたし、生きてても全然良いことなんてない。お母さんは私にいつもご飯作れっていうばっかで、最近全然ご飯作ってくれない。たまに作ってくれても、クックドゥとかで済ますんだよ。本当、お母さん、クックドゥばっかりっ……」
変なところで涙が出てきた。うそ泣きでない、本当の涙だった。私はしゃくりあげながら、続けた。
「なんでお父さん、死んじゃったの!? お父さんが生きててくれたらよかったのに。私が産まれてくるの、そんなに嫌だった?」
「そんなわけないでしょ。何でそんなこと言うの」
じっと聞いていた父がそこで反論した。
「だって、お父さん電車に飛び込んで自殺したんでしょ? きっとそうだって、綾子おばさんが言ってた」
「え? 綾子さんが? それは違うよ、単なる事故だよ」
「嘘!」
「嘘じゃないよ。……僕が死んだのは冬の夜更けで、その時僕はひどく酔っ払ってて、宇都宮線の踏み切りを渡ろうとしたら、線路に太った猫がいたんだ。危ないと思って助けようとして、猫に近づいたら、思いっきりこけて、その瞬間脚がつっちゃって。線路に倒れて、動けなくなった。そこに電車が来て轢かれた。目撃者もいなかっただろうから、飛び込み自殺って思われたのかも知れないけど」
「……」
父らしいといえば父らしい死に方だな、と私は思った。しかしそれでも涙は止まらない。
「私も死にたい」
「なに言ってるの」
「死んで、浮遊霊になってお父さんと東部宇都宮で暮らす。あのアパートで一緒に暮らしたい。まだ働けないけど、お掃除とか洗濯とか、料理とかするから。お願い、置いてよ……。こんなに、誰にも好きになってもらえなくって生きていくなら、どうせこの後もそんな感じで生きていかなきゃならないなら、死んだほうがいい」
「朱里」
父は私を抱き寄せた。私を包んだその腕や胸は、相変わらずひんやり冷たかった。父の腕が私の背に回り、顔は私の顔の右側に寄せられ、父は私の耳元で、
「そんなことないよ。朱里は、これから生きていくうちに朱里を好きでいてくれる人にきっと出会うから。大丈夫だよ。もしそういう人が現れなくても」
父の左手が私の頭を撫でた。
「僕が好きでいる。一生、朱里が死ぬまで忘れない。いつも朱里のことを応援してるよ。だから大丈夫だよ」
私は泣きじゃくりながら、
「一生って、お父さんもう死んでるから無理じゃん」
「死んでても、忘れない。朱里がおばあちゃんになって死ぬまで」
「なんか言ってることめちゃくちゃ」
そう言いながらも、私は胸のあたりが、ぼうっと温かくなるのを感じた。ずっと胸につかえていた何かが、じんわり溶け出していった。
「ははは。……あ」
父は私の体を離し、立ち上がった。そうして物珍しそうに自分の右手を見、左手を見た。私もそんな父を不審に思って彼を見た。すると父の体はわずかに白く発光し、両手の指が透けてきていた。
私が驚きながら父を眺めていると、時間を追うごとにどんどん父の体は透けていく。最初は指だけだったのに腕全体が透けはじめ、ついには体全体が服ごと半透明になりだした。
「どうも、成仏できるみたいだ」
父が呟いた。
「え?」
「死んで、浮遊霊になった時、僕が成仏するための条件――要するに、未練なんだけど――にしたのが『産まれてくる子供に会って、その時その子が何か困っていたなら、それを解決してあげること』だったんだ。ははは、やった、成仏できる」
そう言っている間にも父はどんどん薄くなっていく。ふと振り向くと、私の背後にあるワゴンRも半透明になってきていた。
「お父さん! 行かないで」
私は叫んだ。父はにっこり笑った。
「大丈夫だよ。成仏しても、生まれ変わっても、ずっと朱里のこと、忘れないでいるから」
そこで、もうほとんど透明になっていた父は大きく息を吸い込んで、
「フレーッ、フレーッ、ア・カ・リ!」
両腕をぴっと斜め上に広げ、応援団がするようなエールの振りをしながら、そう叫び始めたのである。
「ちょっと」
私は悲しさも忘れ恥ずかしくなった。そばを通りかかった、犬の散歩をしているおばさんが、迷惑そうにこちらをちらりと見た。半透明の父がどう見えたのか分からないが、そのまま通り過ぎていった。父はそんなことお構いなしに、がんばれ、がんばれ、ア・カ・リ! フレーッ、フレーッ、と、二回目に入ったところで完全に透明になって消滅し、声も消えていった。私が振り向くと、ワゴンRも消えていた。
「……」
おとずれた静寂の中、私は、
(成仏しても忘れない、とか。本当、言ってることめちゃくちゃ)
と心の中で呟いた。そうして、なんとなしにもう一度川を見た。川は相変わらず菜の花でいっぱいで、綺麗だった。私はしばらくそれを眺めた。やがて涙も乾いて、
(家に帰ろうかな。お母さん、いるかな)
と思った。




